今回も信次先生当時の月刊誌の内容からです。
林 正 氏が月刊誌に投稿された手記をご紹介いたします。
「心に雷光が走る」
――神の前には一片の偽証も許されないことを思い知る―― 林 正
このたび高橋信次先生、関西本部長 [※当時の本部長は中谷義雄氏] のお計(はから)いによって、特別研修に参加させて戴く事が出来ました。
高橋先生を始めとし、東京本部より、三橋珍雄、佐藤要、村上宥快の諸先生に大田君、関西本部より中谷本部長、園頭先生、中村事務局長、中谷孝平君、等と共に六日間に亘り、自己の犯した現在迄の過失(あやまち)、欠点の修正、各自の霊性の練磨を厳しく修行させて戴き、私にとって生涯に残る体験をさせて頂きました。
関西の私達は木曽路を経て、信州長野への道程、約五百キロの車の長旅をする事に成りました。
その途中木曽路に入ると急に懐しさをおぼえ、木曽路や尾州(びしゅう)檜の名産地の此の地は、二十五年前木材の取引に来た処で、昔と変わらぬ風景に、かつて此の木曽路に来た其の日が丁度私達夫婦の結納を交わす日であった事を思い起こし、将来に多幸であれと旅の木曽路での一夜を祈った此の地を、今再び二十五年振りに踏みしめ、現在迄知り得る事の出来なかった生命(魂)の永遠不滅と、自己の魂の過去世を知り、現在の姿、未来世の転生輪廻の秘境を教えて戴いた現在、再び此の地で今後の多幸を祈りましたが、二十五年前は一個人の小さい幸を願い、二十五年後には素晴らしい境地を知り、願う心の相違に感謝が湧き出でて、この世に出合せた喜び、良くぞ知り得た神理の教えにひとしほ感激も深く此の地を通り過ぎました。
八月三十一日午後五時三十分頃、無事志賀竜王高原に到着致しました。
八月の末日とは言え高原の夕暮れは少し肌寒い程でした。
白い霧が吹き上げて、すすきの穂は一面に白く広がり、関西で味わう九月末頃の感じで、秋の訪づれが一足早く来ている様でした。又、スキー用のリフトが人待ち顔で、スキー客でにぎわうのもそう遠くで無い様な感じでした。
夜更けて、真黒な急斜面の野辺に立ち、此の一週間、此の場所で高橋先生の教えを受け、又、神の光を受けられる様、心の一切のあかを落とし、自ら犯せし一切の罪を詫び、自己の霊性を厳しく磨かせて戴ける様、又、参加された方も同じ様であって戴くと共に、六日間の共同生活を通して己の修行に意義ある様にと誓わさせて戴きました。
到着の夜は、先づ部屋での禅定を致しました。
先生からの注意として「反省も素通りする様な通り一篇の反省は駄目です。何故犯したか、起きた最な原因追及をする事です。己に最も厳しく、なした行為の因を深く深く掘り下げて、反省をし二度とくり返す事のない実践への道を求めてください」
「わたしも皆さん以上に己の欠点の自覚と修正をするため、皆さん同様この山に来る計画をしたのです」と、申されました。
翌日は再び先生より、「反省は思う丈でなく明細に、おのおの(生まれてから)一才毎に記帖して下さい。己の犯した罪の自覚、犯した過失(あやまち)、その動機等もらさず書き、書くからと言って省略しては己の心の曇りは取れません。隠そうとする其の心が既に心の曇りを作る事になるのです」と申されました。
私自身も心に問い、正直に思いを起して書く事にしました。
各自が反省記載する便箋を受取り、書き初めました。
目を閉じて反省の道をたどるのですが、書き初めのペンが進みません。
どんどんと書きなさる他の先生方が、心を裸にして書いて居られる様です。
如何に自分の記した過去の行為にせよ、一つ一つ細かく反省を追及して記入する事が、余りにも自分がみじめな姿に落とされるようで恥ずかしさが先に立ってペンが走らないのです。
これが自己保存心だと知っていても仲々書けません。
私の罪においては、反省は自分の思いの中では出来るが、書けると言う様な事柄では無いからです。
再度先生より「皆さんの書き終えた反省文は提出して下さい。一度目を通します」と申され、「如何に内容を省略しても、違った事を書かれても皆さんの守護霊に確認すると、すぐばれますから駄目です」とのお言葉を思い出すと益々書けません。この時こそ、本当に自己保存が強いと感じました。
「(この研修にて、)修正の一つを掴み、私達の身辺に諸現象の生じた時、其の人の一番欠点とするものがあらわれる」と云う事を知り、尚反省への記載を続けましたが一枚分が終わらぬ頃より、急に後頭部耳後ろが重く、痛く、ずしんずしんの感じが出て来ました。
初めは憑依現象かなと、変な心が動いたが、暫らくして「自分は今正しく自己の行為を反省しているのだ、憑依する原因は何一つ無いのだ」と自問自答しながら、先生はいつも「諸現象の起った際は正しいフィルター(ものさし)を掛ける事を忘れてはいけない」と申されますが本当に「一つ一つフィルターを使わねば大変だ」と考えていました。
然し頭が重く痛く、反省記載は困難でした。
暫くして先生が部屋に入って来られた。
先生は私達に「皆さんの守護霊さんが私のもとに報告に来られました。今皆さんの中で後頭部の耳後ろに、重み、痛みを感じる方が居られる筈です。いますね」と申された時、私自身都合が悪くて言い遅れた様です。
先生は言葉を続けられ、「其の方は反省を徹底的に深く掘り下げて細かく反省し、犯した罪をわびるのです。何故犯したか、起すその時の自己の心のひづみを掴みなさい。対人では其の方の相手の守護霊にも詫びなければなりません」と申されました。
又、暫くして先生は「林さん、後頭部が痛いですね」と少し笑われ乍ら「林さんには便箋一冊位の反省文では駄目ですね。いろいろ、又、エロ、エロと有ったので、七冊位は充分要るのじゃないですか。特に簡単な反省では、林さんの守護霊さんは許さないと言っています。頭の重い、痛い原因が判りましたね」と話されました。
それは本当に其の話をして戴いた高橋先生の言葉と云うより、頭の先より、足の先までその光に打たれた様な心地がしました。
私の守護霊が全部一切話しされたのだ、ああ恥ずかしい、ああ如何にしようと思った。
暫くして、とても防げぬ、駄目だ、一切を覚悟し一切を委(まか)そう。神は許して下さるだろう、と思うと先程来の後頭部の痛さの原因は守護霊の磨きで有ったのだと、やっと解らせて頂きました。
もう私自身は自分では無いのだ、もう一人の自分が、肉体を持った自分のなした善悪行為を全て私達の記憶以上によく知って居る事を深く知りました。
先生の説かれる、人にうそをついても、自分にうそのつけぬ現象化を私にじっくりと体験させて下さった事だと痛感し、深く深く罪状を詫び、神よ守護霊よ、私の過去犯した罪をお許しください、私は一切隠す事なく二度と犯してはならぬ過失(あやまち)を致しません、と正しく生き直す事を約束し、神に守護霊に報いることを誓いました。
やがて先程の頭の重みも段々と書いている内に取れ、平常通りになりました。
先程の体験は、善なる誓いを立てて反省した時に、あれ程痛かった重さも取れる、これは私達の心の一念三千の世界を教えて下さっているのだと思います。
自己の体の不調和、頭の痛くなる原因も、すべて自己保存心、良く見せる、隠そう、恥をかきたくないという心の動きが起す現象と思い、吾が心の深さを知り、瞬間に起きる一念三千、善なる想念は善なる結果として、悪なる想念は悪い結果となって出る一念三千の因果は、私にとって想念の善悪の結果を教えて戴いたのだと思います。
夜の十二時、野外での禅定が始まる。全員が剣道衣に身を包み、寝袋、雨衣を持って海抜六〇〇米位の山腹の草原に腰を卸す。
寝袋を地に敷き雨衣を身につけて夜露の降るのを防ぐのです。
高原の真夜中の空は美しく、其の夜は星が輝き秋虫の音(ね)だけ耳底に残る絶好の禅定場所でした。
個々に反省が始まる。咳一つする人なく心の中まで泌み通る程の禅定である。
私は昼の反省に続いて、掴み得た最大の欠点三つを掘り下げて犯した罪を詫びていました。
恰度(ちょうど)先生より「禅定止めなさい」と云われた時は、すでに一時間三〇分を経過していました。
先生は私達に「反省中に、皆さんの意識に見えた方、感じた方は言って下さい」とおっしゃって各人各人に聞きに廻られましたが、先生からの意識での問に正しく答えられた方は少なかったようです。
然し心の調和をされた方、意識感の強いお方は、見た事、尋ねられた事に合致された様です。
先生の送り出される光の大きさ、その強弱、心眼に映像された事実の確認、意識でお尋ねになった問に対して答えられた確認、如何に遠くに離れていても自由自在であり、受けられた一名、二名の方も素晴らしく感じましたが、先生が私共の心の調和度の確認をされた事と思います。
それは心の世界の無限大の一端を見た様でした。
禅定を終えて宿舎に帰り、床につくのがいつも午前二時以降でした。
禅定は出来る限り午前零時以降が最適である。(この研修に参加した)多くの方々は午前零時迄は、不調和を起す時間だから波動の悪い時間は避た方が最も良い、と申されました。
朝食後、先生を囲んで談笑する楽しい一刻をすごした後は、日課の如く自己反省の記帖に一所懸命です。
二日目は、山に午前十時より入り禅定致しました。
佐藤要先生と、三宝出版の大田君が霊道を開かれ、山中にて語り出しました。先生は二日間に亘り心の調整の指導をされました。
霊道を開かれた佐藤要先生の過去二五〇〇年前の魂の肉体を得られた方はプルナヤプトラと言われる方で説法第一人者として、釈迦牟尼仏様の十大弟子の一人として正法を流布致された方でした。本当に感慨深い事でした。
此の様に先生を中心に多くの方々が過去を思い出され、印度の釈迦様在世当時と何一つ変る事の無い現世と同じ事態の起って来ている現証を否定出来ません。
私達の宿舎には大学生が夏期研修に来て居られましたが、之等(これら)若き青少年の人達が偉大なる神理を身に読まれる事こそユートピア建設の礎石であると話され、研修生の方々に呼び掛けて先生のお話を二時間余聞かれました。
後刻数名の方々がお話のお礼に来られましたが、その中から過去世に於いて学ばれた方々が発見され、先生の、一人でも正法を知ってほしいと心を集中されている熱意は、私達に対する偉大なる御教示であり大きな警鐘であると思いました。
私達は昼の反省の記載、深夜の禅定と、積み重ねさせて戴き、仕上を受ける頃になって来ました。
全員が先生の部屋に集り、私共の霊性の練磨をして戴きました。
各人が先生に呼ばれ、壁(かべ)前に座り心を落ち着けるのです。
諸先生方の頭の上より、又、重なり合っての守護霊、横に立ってられる守護霊、生まれて初めて本当に美しく、はっきりと守護霊様の姿、輪郭だけですが全部見せて戴きました。
頭の上より大きな光輪(オーラ)の出ている方、少し小さい方、其の方の心の広さに依って大小が有ると先生の御説明。全員が個々その姿を見られた様でした。
本当に素晴らしく今世に機会を得たからこそ、この様に見せて戴けたのだ。
部屋は本当に黄金色の様でした。
もう一人の自分が瞬時にも肉体を持った方の側近に居て、調和への道を指導して下さっていると感ずる。
守護霊、指導霊が入り同通せし実感、本当に今世の使命に協力すると語られる指導霊。神秘的な光景に今までに無く感動を起しました。
それ故に私達一切の者が、この様に先生の説かれる転生輪廻の過程を得て、魂の兄弟が私達を見守って、善導守護して下さって居る事を忘れてはいけないと思います。
そして私達一人一人が正道に叶った行為の大切さを知り、二度と犯す事の無い様に罪の深さを知り、修正しなければという自覚が起こりました。
高橋先生のお体からも大きな光輪が出ており、側近くで居られぬ様な心地でした。
翌日の夜、禅定より帰りまして、暫くして先生より部屋に来る様に申されました。
瞬間感じました。其の時が来た様に思い、先生の側に座りました。
心の動揺が致します。若き頃よりの犯した罪の一切を一つ一つ示され、実に細かく手に取る様に、聞き入る話の中に嘘のつけぬ吾が心、意識の中に示された行為、自己の意識を通し先生の意識の中に投映している事の驚きで一杯でした。
先生の後に居られる神に心から全部申し上げ、其の罪の許しを請(こ)う事に致しました。
私しは実在界、あの世に於て、自分の善なる心が裁くのも、この様な状態であろうと深く深く知りました。
高橋先生がお説き下さる「人に嘘をついても、己に嘘のつけぬ心こそ神の子である証で有る」と申される事が吾が心を引き締める様でした。
傷心の思いと、恥ずかしさで先生の顔は見られませんでした。
自分の守護霊にも心からのお詫びと生涯になき改心の時で有ったと思います。
丁度話し終わりましたのが午前三時でした。先生から寝(やす)む様に申されました。
寝む前、先生は少し窓を開られて部屋に空気を入れられた様でありました。
其の時先生が私を呼ばれて、前方を見る様に申されました。
午前三時の高原の霧はとても深く吹き上げて来ます。野外一杯にベールの如く包んだ霧は、映画のスクリーンの如く、小窓を開けた前方二〇米位の処に幅四米からから五米迄位の黄金色の光輪が投映されているのがはっきりと見えるのです。
これは先生が窓際に立っておらる体より投映している後光だ、何んと言う姿であり光輪(オーラ)であろう、これこそ光の上上段階の大指導霊の姿よ、と心で手を合わせました。
その光輪の真中に人の姿、きっと先生の姿と思う、先程来の予期せぬ一切の指示と、自己の懺悔心に、本当に自分ながら清く澄み渡っていたればこそ、この現象を私に見せて戴けたのだと思います。
生涯に見られぬと思ったこの姿、又、生涯になき掘り下げての五〇年来の反省、罪深き裁きをこの地上界で受け、其の罪の許しを受けた瞬間の出来事でした。
先生には余りお話しも出来ず床に入りました。
先生のおやすみなされたのを見定めましたが、自分には芯から寝られず、次から次から二十才、三十才、四十才台の数々の罪深さと、恥ずかしい心が往来して寝むる事は出来ませんでした。
翌朝は変わらぬ先生の心遣いに、自分の心のやわらぎを感じ、先生のお心の広さが、吾が心に泌み入る様でした。
朝食後、私達の近くで大学の研修生の男女が朝の語らいを致して居る姿を見、此の青年達よ、大きな罪を積む事なく清潔な心と体、一切の間違いを起す事なく正法に叶った、成長をして戴きたいと心で祈りました。そして全員集って先生の講義を受けました。
九月五日午前十時、急に先生の語調が変られました。「私はフォァイシン・フォァイシンフォと申すものです」
つまりイエス・キリスト様が先生の体に入られたのです。全員正座に変り、静かな語調で申される一句一句を身に泌みて拝聴いたしました。
この紙上に記載をと思いましたが、独自の計いは不敬と思いますので省略させて戴きますが、約一時間に亘り、色々大事な格言とも言うべき事でした。
このように毎日毎日寸暇も惜しんでの六日間でした。
尚私達が毎日記載した反省書は、最終日に提出する筈でしたが、先生から其の提出請求は有りませんでした。
先生にしては私達に、あくまで深く深く掘り下げた反省をなさしめるために、「提出するのです。守護霊の確認を取ります」とおっしゃったお慈悲が後で良く判りました。
私しは積み重ねてきました五〇年の一切の汚物を、此の志賀高原に捨てさせて戴く事の出来た此の山、この修行を受けた心境は、私にとって生涯忘れる事の出来ない山となろうと思いました。
此の様に先生を中心に六日間、特別研修を先生から各個人に深く特訓を受け得た事を深く感謝し、有意義だった六日間、きっと未来にも残る志賀高原の修行山、大きな希望を抱いて下山させて戴きました。有難う御座居ました。
(有)大昌製材所社長
----------------------------------------------------------------------- 信次先生が「反省的な瞑想」について述べられていたことを、林 正氏は詳細に綴られています。私たちがその反省的な瞑想に取り組むにあたって、とても参考になる言葉を手記に残して頂いております。自分自身に厳しくあるべき姿を強く示されてあります。
長文でしたが、ご覧いただいた皆様へ何かご参考になれば嬉しいです。
----------------------------------------------------------------------- ところで、記事とは関係ありませんが、十年以上のずいぶんと前のことで、今となっては懐かしく思います。思い出しついでに記します。
当時のGLA関西本部本部長の岸田先生が福岡支部集会にお越しの際には、私と当時もう一人、私と同じく福岡支部支部長を拝受されていた久留米市内在住の
Yさん とで毎回福岡空港または、佐賀空港まで車でお迎えに上がっていました。
必ず前日にお見えになり、福岡市内での市民センター利用の集会の場合は博多駅周辺のホテルでした。
私の自宅、または久留米市内での集会の場合は久留米ワシントンホテルでの宿の予約を取られました。本部長とはそれぞれ別室で私とYさんも同ホテルの同階で隣り合わせに計三部屋の宿泊の予約を取っていました。
本部長と三人で毎回夕方は一緒に食事をとりました。
食事後は本部長がお泊りになられる部屋にて集合、談話です。
お腹がいっぱいになるとタバコが美味しい。私もYさんも今は煙草は止めていますが、当時、本部長もヘビースモーカー、私もYさんもヘビースモーカーでした。ですから、ホテル内の狭い室内は就寝するまで火事みたいに煙がいつも充満していました。(笑)
私も本部長も、15分か20分ごとに煙草を吸って談話していました。どうかすると、一本目が終わったらすぐに二本目にも火をつけてありました。
食後にホテルに戻ると、Yさんと私は毎回かならず部屋に入った真っ先に、霊道を開く呼び水として本部長に「光」を入れて頂いていました。
いつもYさんが先に光を入れて頂いてありました。Yさんが「本部長お願いします」と言われると、本部長は「ちょっとまってください。煙草を一本吸ってからでいいですか?」ということでした。(笑)
そうやって笑いながら、そして真剣に、神理正法のこと。信次先生のこと。信次先生の周囲の方々のお話し。また、信次先生ご帰天前後の混乱のこと。私とYさんの霊道と過去世で、いつの時代に、どこで何をしていたなど。さらに、これからの関西本部の在り方などお話しされていました。
明日は集会だというのに、夕方から夜中の12時をゆうに過ぎるまで・・・。三人、沈黙している時間もありますが、私たちから質問をしたり、いろいろと多岐にわたり、集会のたびに夜更けまでお話を聞かせて頂きました。
そのお話の中で志賀高原特別研修のことをおっしゃってありました。志賀高原特別研修は当時GLA関西本部青年部長だった岸田先生に対しても信次先生から、参加するようにと言われていたそうです。ところがゴルフが好きだし、ゴルフの予定が入っていたそうです。研修よりもゴルフを優先され、本当は痛くないのに、お腹が痛いということを理由にして逃げて参加しなかったそうです。
そうしたら、岸田先生ご自身の守護霊様の作用により、研修の日は本当にお腹が痛くなって苦しんだそうです・・・。
本部長は非常に謙虚な方であり、素晴らしくて、私とYさんも本部長とは懐かしい思い出ばかりです。
私は、本部長とは2001年11月22日に鹿児島にて初めてお会いし、すぐに師事しました。それから既に19年の歳月が経過しようとしています。
----------------------------------------------------------------------- さて、ここから下の「続きを表示」には、志賀高原特別研修に参加された他の方の手記を掲載します。
園頭広周著「高橋信次師こそ真のブッタだった」
より抜粋しています。
こちらの書籍についてもご存じの方は多いかと思いますが、志賀高原特別研修に因んだ内容です。
園頭広周先生ご逝去後には廃版となりましたので、ご存じでは無い方にご紹介させて頂いています。
以下、書籍より。
ダブルパンツの話
昭和四十八年九月、インド当時と同じ修行をしましようということになって、奥志賀高原に十人で行ったことがある。
禅定をする前にまず心をきれいにしてからと反省をすることになった。
私達九人は壁に向かって、或は内側に向いて、それぞれ反省を始めた。
高橋信次師は一番端しの五つ向こうの部屋にいて、私達が反省することが、その人の心に記録されている潜在意識の底の記憶と同じであるかをチェックしていられるのであ
る。
暫くして入って来られた先生は、「あなた方の反省は同じ所を堂々めぐりして一向に反省になっていない。これから紙に書きなさい。その書いたものを私が見ます。」とい
われた。
心の中はすべて見通されていると思っていても、いざ書くとなると誰しもがためらいがある。人はそれぞれに、このことだけは人に知られたくないと思っている秘密があるものである。いざ書けば、その知られたくないと思っている秘密が人の目にさらされることになる。その知られたくない秘密を人に知られたらどうなるであろうかと思うと、身体がすくんで血の気が引く思いがした。
しかし、高橋信次師にはすべてわかっていてしまっていることであるから、脇の下から冷や汗を流しながら勇気を振るって私は書いた。こういうことが本当の勇気なのだな、本当の勇気がいるのはこういう時だなと思った。
私は全部何もかも書いた。それはいくら隠そうとしてみてもむだなことであるのに、やはり、いざとなると隠したくなるのが人情というものであろう。だが、しかし、本当に悟るためにはそのような勇気が必要なのである。
「あなたは〃ダブルパンツ〃食ったことがありますね」
いわれた人はきょとんとしていた。暫くしてから、
「〃ダブルパンツ〃ですか、 〃ダブルパンチ〃とちがいまっか」
その人は大阪の人だった。
「ちがいますよ。 〃ダブルパンツ〃ですよ」 高橋信次師はユーモアのある人だった。
「〃ダブルパンツ〃ですか、それはどういうことですか。」
「あなたは、ありましたね。あったでしょう。税金のことで。」
と、いわれると、その人は真っ赤になってひれ伏してしまった。
如来はすべてのことがわかられるのであった。なにも隠すことはできない。
その人は、終戦直後の税金攻勢に悩まされていた。日本が敗戦の廃墟から立ち上がるためには、苛酷といえるほどの課税には、みな、悩まされた。日本政府には一銭も金はないのだから、国民が税金を納めないと政府は何も出来ない。
その人の近所に、税務署に勤めている人の妹があった。その人は、その妹に近づいて、そうしてその人を通して税金を安くしてもらった。そうしているうちに、その妹なる人は妊娠して男の子を産んだ。本妻の方にも同時に男の子が生まれた。同じ小学校へ上がることになった。入学してPTAの集まりがあってうっかりして集まりに出た。
ところが、男の子が二人、「お父ちゃん」といって両方から飛びついて来た。子供同士が「うちのお父ちゃんだ」とけんかになって、「それならうちのお父ちゃんは、どんな色のパンツをはいているか」 ということになったんでしょう。困りましたね。
そのことを反省しなさいといわれた。
喫茶店を十一、出した人
「○○さん、あなたは喫茶店を十一、出しましたね」
「え、なんですか」
その人はびっくりして問い返した。
「あなたは、女の人を欺すたびに喫茶店を出してやるからといったんじゃないですか」
とたんにその人は真っ赤になって真顔になり、つぎに蒼白になってふるえ出した。神妙になった。そうして指を折って数え出した。
「いいえ、先生、九つです」
「ちがいますね、十一です」
また、指を折って、過去の記憶をたぐり出した、
「先生、やっぱり九つです」
「いや十一です。あなたの心のテープレコーダーにちゃんと記録してあります。ぼくをごまかそうと思ったって、そうはいきませんよ。」
また、指を折り出した。しばらくして
「あ、やっぱり十一でした」
奥志賀高原の特別研修
―インド時代と同じ修行―
インド当時と同じ修行をしましよう、といってやった研修は、最初の二日間は徹底して反省であった。あとの八日間は禅定瞑想である。
山を一つ越すと、向こうは新潟県である。そこは時々熊が出るという。
敷物を持って、夜十二時に山へ入ってゆく。
そうして、あちこちにそれぞれ場所を決めて座る。満天の星がきらめいてくる。懐中電灯で足下を照らしながら場所を決める。都会の灯りの中で生活してきた眼には、闇は本当に深く、草がかさかさと音がすると、熊が出ると聞いていたので、ぞーっとしてたたずんで様子をうかがう。風が鳴ったのであるとわかると、ホッとして、また歩き出す。
みんな同じような思いをしているのであろうが、誰も声を出す者はいない。
研修というのは、完全に心を開いて解放し、天地間、すべてのものの動きを、声と心でキャッチする訓練である。
我々は、かねては、眼、耳、鼻、舌、身の五官を、常に外に向けて生活していて、心を内に向けて深くものを考え、認めることをしていない。心の中にこそ無限の宝庫がある。その心の中の無限の宝庫のことを「多宝塔」というのである。ところが現在は、石で多宝塔を刻んで、そうしてそれを拝むことをやっている。インドの釈尊の時代は、そんな石で刻んだ多宝塔があったのではない。一人一人が心の中にある過去世からの智恵を湧出するように指導されたのである。
勿論、釈尊は釈尊で、過去世の智恵の宝を湧出なさって、みなに法を説かれたのである。
そのことが法華経には多宝如来が湧出したと書かれることになったのである。
それぞれ、みな離れて座を占めて禅定に入る。禅定瞑想するとなると、多くの人は精神を統一することと考えて凝念してしまう。そうではないのである。
完全に心を解放して、心が何ものにもとらわれない状態になって、天からの啓示を完全に受け、潜在意識の底から湧き上がってくる想念とを、自分の胸の、今の一点において結び合わせるのである。
多くの人々は、一つ一つのことに凝念して執着して、その連続で生活している。
禅定瞑想といっても、永い日本人の習慣で、すぐ何かを祈る、念ずることをやってしまう。
身体はラクに座って、心が身体のどこにもとらわれない姿勢がよいのである。その点、生長の家の神想観の姿勢では、本当の禅定瞑想はできない。
足は正座では血行が不調になって、〃しびれ〃てしまい、手は下に垂れているのが自然の法則であるのに、その自然の法則に逆向して、合掌した手を眉間の高さに持ってくる。そうすると、その手の姿勢を維持するのに腕が痛くなって、足のしびれと、腕の痛さに、心をとらわれて、心をラクにするどころではなくなってくる。だから、神想観は、生長の家の会員にとっては難行苦行になっていて、喜んでする者は一人もいない。だから勿論、神想観によって悟った者は一人もいないのである。
ラクな姿勢で座って、心を完全に解放して、高橋信次師が離れた所から送られる想念をキャッチするのである。
その時、高橋信次師の鞄持ちをしている□□君という二十三、四歳の青年もいた。前世ではやっていたであろうけれども、今世に生まれてきてからでははじめての経験であるから、最初からうまく禅定できるわけではない。
しかも夜中の一時、二時であるからねむくなって、禅定の姿勢のままで、こっくりこっくりねむってしまうのである。
すると集合を命ぜられる。真黒の闇の中を懐中電灯で足下を照らしながら、草藪をかきわけて、声のする高橋信次師の所に集まる。
中には草に足を取られて、どすーんと倒れる者がいる。闇の中を倒れたひびきが伝わってくる。
集まると、一人一人に対して、どのように高橋信次師から発信された想念をキャッチしたかを聞かれるのである。
「□□君、君は、いくらぼくが心の扉を叩いても、ぐっすり眠っていて、眼を覚まさなかったね」と、いわれる。
その修行が、夜中の一時から四時まで続くのである。
抜粋、以上。
さらに、ここからは園頭広周先生に師事されていました福岡市博多区に歯科医を開業されていました故H氏が、1997年(平成9年)頃から2000年頃まで、インターネット上に公開されていました正法の記事から志賀高原特別研修に関して一部引用いたします。
今は公開さていませんが、読み応えがあるかなりの力作です。その後に「正法と高橋信次師」の著書三部(絶版)にインターネット上に公開さていたその記事内容は引き継がれてあります。
この故H氏は、福岡市内にある市民センターでのGLA関西本部岸田本部長の福岡支部集会にも一度参加されてありました。
www.shoho.comより
九月二日の午前は質問の時間だった。
園頭師は、かって本部講師をしていた「生長の家」教団の教義の問題について質問しようと考えていた。
すると、「園頭さん、あなたの質問はキリストに答えてもらいましょう」と質問をするより早く園頭師の心の中を読んで告げた。
瞑想にはいると信次師は、「心に愛のない人に、心の法則、心と肉体との関係、を教えてはなりません。心の法則は、人が愛の心を持った時に教えなさい。…」と、キリストは信次師を通して教えるのだった。
園頭師が最初に見た信次師は釈迦の相(すがた)だったが、いま眼前に現われている姿はキリストであった。
固唾を飲んで顔を見ていると、不思議なことにも信次師の顔がイエス・キリストの顔に似てきた。
瞑想を解いた信次師が「園頭さん、わかりましたか」と言った直後に、「モーゼにエホバと名乗って出たのは私ですからね」と。そのとたん園頭師は、それまで経験したことのない神の権威に打たれて信次師の前に跪(ぬかず)く。跪いているのだから、信次師の姿は見えないが感じたという。
信次師は釈迦の相を示現している。すると、不思議なことに釈迦の相の上に大きな光りがあって、それは釈迦の権威を超越したもう一つの大きな権威だった。
園頭師は跪きながら、その感激に、そのありがたさに泣き出してしまう。
園頭師の頭は、その権威の前に自然に下がった。それは頭を上げてなどはいられない全く自然なものであったが、上げようと思っても上げられるようなものではない霊の権威、霊の重圧であったという。
信次師の言葉が終って頭を上げようとした。そのとたんに園頭師の頭は今度は押しつけられるようにして額(ひたい)を畳にすりつけていた。
そして、言葉が胸の奥からほとばしり出た。頭は畳にすりつけているのに園頭師の心眼は信次師とその背後にある釈迦とキリストを通して、はるか彼方からというか、はるか上からといっていいか目も眩むような神の光りを園頭師は見ていた。
「神よ、この偉大なる方を今、この世に下したまいて、われらの心の光りとなさしめ給いしことを感謝申し上げます。」
肉体を持った園頭師は、信次師の前に跪いているが心は信次師の心と神の光(神の心)とが一つであり、神の光が肉体を持つ姿となってこの現象の世界に現われ、それは神が全人類を救わんがための神の愛であることを知ったという。
大きな権威 →光→ 釈迦→ イエス→ 高橋信次 そこから流れ出る、「仏法・正法」こそは神の心の流露であった、と園頭広周師は言う。
「特別研修といえば、志賀高原のホテル竜王が、何回も使われて」
信次師は言っている。ここは霊域が精妙で良いから、と。そして、このとき次のことも明らかにしている。
昭和天皇は、インドの時のアショカ王、その後のカニシカ王だった。
大変、勇気ある王だ、と。アショカ王は、世界で初めて戦争の放棄宣言をして仏教に帰依した偉大なる王である。
今世紀には、第二次世界大戦の終戦の決定を宣言されたことは不思議であった。
そして、昭和六十三年五月には、ホテル竜王は園頭師の主宰する国際正法協会の全国支部長・連絡所会議が開かれたが、ホテルの主人と奥さんが当時を想い出し、「高橋先生にサインを頂いた本は大事にしております」と涙ながらに話した。そして、「ここで特別研修を受けられた方々も、今はちりぢりになって」、と感慨深そうに園頭師に話している。
また、この特別研修の時、高橋信次師は「この宇宙には七つの霊圏があり、この地球を中心とした霊圏を指導しているのが、アガシャ系であり、このアガシャ系がいちばん早い速度で、霊的に進歩しつつある」と。
この大宇宙には七種の人間がおり、姿形は地球人と同じで、人間は人間だ、サルから進化したものではないと。
同じく、この時、「世の中は物質文明の時代から霊的文明の時代へと移ってゆく」と言っている。
研修の五日目の夜の休憩の時、信次師は「私の母は、かつてキリストを生み、日蓮を生んだ人だ」と言い残している。
以上。
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