前回 からの続きです。
今回も転載の記事が長くなってすみません。
お時間の許される時に、ゆっくりご覧いただけたなら嬉しいです。
***************************************************桶屋(おけや)の小僧や丁稚奉公(でっちぼうこう)
私は小学校を出ると漬物桶製造の店へ奉公に出た。13の時だった。日露戦争の最中で、出征(しゅっせい)兵士の食糧として梅干など漬物類の需要が増大し、それを戦地へ輸送する漬物桶の製造がまた多忙を極めた。からだの弱い私には決して楽ではなかったが、重宝がられたのは事実である。
しかし漬物桶製造の活況も長くはつづかず、戦争が二年目に日本大勝利で終わる頃には、だんだんと下火になった。戦後の不景気で、店でも職人の数が日に日に減った。私も漬物屋では心細くなり、主人は引き止めてくれたが、無理にひまをとって茶臼山の家に帰った。
帰ったがじっとしているわけにはゆかない。つてを求めて今度は本町の相当大きな呉服問屋に丁稚奉公に住み込んだ。当時大阪の商家は封建色が強く、待遇などは論外だった。私は木綿着に角帯の丁稚姿で、呉服類を積んだ車を引き、番頭さんのお供をして街を歩いた。
日露戦争の勝利は、日本を世界の列強に押し上げた。同時に時代は大きく転換した。農本主義から商工業立国家が唱えられ、資本主義が台頭、すべてが近代化され、いわゆる日本の産業革命が出現したのである。昔の面影は刻々に消えていった。この時代的な刺激が少なからず私に影響したらしい。
今でも憶えているが、番頭さんのお供で北浜の高麗橋(こうらいばし)辺に行ったとき、改装された三越呉服店の近代的な商法を見てアッと驚いたのであるが、その持ち主だった天下の三井家が、三越をあっさり手放して新時代的な大企業に乗出したと聞いて、一層呉服屋の奉公に希望が持てなくなり、新時代新時代という声が耳に聞こえ、番頭さんの、のんびりした姿がひどく時代遅れに見え、考え考え、主家(しゅか=主人の家)に戻ったが、それからまもなく私は正式にひまをとって実家へ帰った。
ちょうどその前後だと憶えているが、母が大病でどっと寝ついてしまった。日頃の疲れで風邪をひきこんだのがこじれたのである。枕もあがらぬ始末であった。一家がみな心配した。見ていても苦しそうだった。その母がふと、スイカを食べたいともらしたのを私が聞きつけた。何とかして食べさせたいと思ったが、もう秋半ば過ぎなので普通では手に入らない。兄と二人で手分けして、足を棒に大阪中をたずね廻っても、時季はずれだからどこへ行っても見つからない。それでも母に食べさせてやりたい一心で大阪の南のはてから北の外れまで歩いて、とうとう天満(てんま)の市場で待望のスイカをたずねあて、財布をはたいて買って帰り、さっそく母に食べさせたのだが、母は枕にすがって、かんじんのスイカよりも私と兄の手をとって涙を流した。母の喜ぶのが自分が食べるよりも嬉しく、兄と二人、大手柄でもしたように鼻高々であった。
その頃、父も母も、私が奉公先で長つづきしないのをひどく心配している様子だった。しかし何も叱言(こごと)はいわなかった。むしろ母は私を励ますようにし、それよりも、からだのことをやかましくもいった。
さて、帰ってきたものの、べつに当てがあったわけではなく、遊んでいられる家の状態でもないので、ちょうど母が、からだの空いている時の内職に、呉服の背負い商いをしていたのを手伝うことにした。呉服を背負って商いに廻るのだが、こんなことをしていてどうなるのかと、しきりに気がせく。
私も少年期から青年期に入ろうとしていた。自分が一生をかける仕事が、何かありそうでいて、しかもそれが見つからないもどかしさ。今から考えると、将来、何によって身を立てようか、そのことで昼も夜も悩んでいたのだった。もちろん父も母も心配していた。わが子を何とか立派に仕上げたいというのが、親の強い願いであるから――。
新聞との機縁
明治から大正に変わった頃、私たち一家は、茶臼山から墳墓の地、天下茶屋に帰ってきた。
もう昔の村ではなかった。南海電車が走り、その沿線一帯が発展し、人口が増え、新しい建物が並び、しだいに街の体裁を整えつつあった。西も東もわからぬうちに離れた私は、ここが生まれた土地かと懐かしく、すべてがもの珍しかった。しかし依然として将来の方針はつかない。考えあぐねた末、いっそのことアメリカへ渡って、独立独歩でやってみようかとさえ考えた。ちょうどその時分、天下茶屋の表通りに、父の母方に当たる祖母が新聞の販売店をやっていた。
ここでちょっと昔の新聞販売についていえば、新聞は文化に寄与する高級な仕事として、もと庄屋などをした家柄の旧家が、名誉職と心得て、自ら進んで販売を引き受け、男衆などを使って配達させていたものだが、それがだんだん発達して、新聞販売店の形態を整えてきたのである。
祖母の家も相当の家柄で、数人の配達人を使い、かなりの成績をあげていた。私は考え疲れると、この祖母の店へ来て、新聞配達を手伝ったりしていた。
大正2年、私も21歳になった。国民の義務だった徴兵検査を受けたら、身体が弱いので不合格になった。その前後から私のアメリカ熱が一層高くなった。何としてでも行きたい。考えるほど功名心が湧き、アメリカで働いて名をあげたいと強く思うようになり、その準備を始めたのである。
ある日、例の如く、表通りの祖母の店に行き、新聞の配達を手伝っていると、祖母に呼ばれた。かたわらに祖父もいた。
「アメリカに行くなんて、わたしたちは大反対だ。お前、お父っちゃんや、おっ母さんの心配が目につかないのか」
と祖父は、私のアメリカ行きに真向から反対した。それよりも両親の膝元にいて安心させろ、という。
その傍から祖母も、言葉をつくして私の翻意(ほんい)を迫るのである。
「そんな考えは捨てて、一つこの店をやってみたらどうなんだい。新聞の販売は、むつかしいには違いないけれど、それだけ働き甲斐のある仕事だよ」
突然だったが、祖母のこの提言には、私も少々考えさせられた。祖母はさらに言葉を進めて、天下茶屋もだんだん発展してきて新聞の販売も広まったが、それだけ競争も激しくなったこと、自分も女の身で年もゆき、激務が体にこたえてきたこと。それかといって長い間苦労してきたこの店を手放す気にもなれないこと、だから私に店を引き継いでやって貰いたいことなど、じゅんじゅんと説いた。
これは祖母が、前から考えていたらしい。私は祖母の気持ちに納得がゆくし、そういってくれる心遣いを有難いと思うし、それに今まで手伝ってきたお陰で、新聞の仕事を全然知らないというわけでもないし、いよいよ迷って、ともかく考えて返事をすると、その日は帰ってきた。その晩は眠れなかった。
夜ふけに気がつくと父が咳きこんでいる。母が背中でもさすっている気配だ。私は考えさせられた。年ごとに老い衰えてゆく両親のことを思うと、さすがに決心もにぶるのであった。一番鶏をきくまで、私は枕を抱えて転々とした。
しかし私は遂に考え直してアメリカ行きを断念、祖母のすすめに従ってその新聞販売店を引き受けることにした。それをいうと、父も母も生き返ったように喜んだ。もちろん、祖母も祖父も喜んでくれた。
これが、後年、私が新聞をやるようになった機縁でもあるが、その時はまだ、新聞が一生の仕事になろうなどとは思いつきもしなかった。思えばその時、私は一生の岐路に立っていたのだった。
新聞配達から経営へ
21歳で祖母の新聞販売店を引き受け、27歳までの七年間、私はこれをやった。元来、物事をいい加減にすまされない性分だから全精力を注ぎ込んだ。その間、新聞配達もやって、つぶさにその実際を知った。この体験が、後年、大いに役に立った。母はほかのことはいわなかったが、健康だけはやかましくいった。今から思うと有難いのだが、当時はうるさいと思うほどだった。心配のあまり、そうでもいわなければ気がすまなかったのであろう。
お陰で私は、弱そうに見えても病気しなかった。忙しくて病気するひまがないと、私は冗談口をたたいた。店はだんだん発展して売上げ部数もふえてゆく。苦しい中にも楽しみがあり、私には新聞が面白くなった。自分自身のためばかりではなく、社会公共性につながるものだと思うと愉快だった。これは漬物桶店の小僧や呉服屋の丁稚では、とうてい味わえない感激だった。私は新聞を自分の手でやりたいと思った。一生、新聞から離れまいと決心した。あれほど迷った自分の将来に、今や明確な方針を掴んだのである。有難いと思った。
私は他日を期して一銭の金も無駄には使わなかった。誰の力も借りず自分の力でやりとげる決心だった。
私の新聞販売店業は27歳で終止符をうつ。
大正9年、忘れもしない28歳の時、天下茶屋を中心とする町の新聞「南大阪新聞」を創刊した。資金は私の血と汗で貯えた金の全部をあてた。わずかの金で始めたのだから、苦しむことはもちろん苦しんだ。だが、この町の新聞がうまく育った。まもなく「夕刊大阪新聞」と改題。大阪の真ん中へ乗り出したのが、大正13年3月、私が32歳の時で、今日(こんにち)の「大阪新聞」の前身である。
当時は、朝日、毎日の両紙が新聞界の王座を占め、この独占的勢力のほかにいくつもの地方紙が群立し、なかなか競争も烈しく、大阪で新しい新聞は育たないとうのが定義になっていたほどであった。その中へ飛びこんでいったのだから、私ごとき資本のない者としては、随分苦しい目にも会い、辛い思いもした。
昭和6年になると満州事変が起こって、時局はとみに重大化した。私は重工業の促進、生産の増強に寄与すべく、反対もあったが、押し切って翌々年の昭和8年6月、「日本工業新聞」を発刊した。
これも最初は欠損続きで、廃刊か続刊かと議論の中心に立たされ、迫害さえ受けたが、苦心惨憺(くしんさんたん)、つづけてゆくうちに次第に好転、基礎が固まってきた。これが、今日東西二百万の読者を持つ全国紙「産経新聞」にまで発展してきたのである。
人生は日々勝負の場
好きで始めたのだが、私も新聞事業では、随分と長い間、苦労を重ねてきた。
だいたい新聞の仕事は、始めから採算が採れるように出来ていない。目前の採算に固執すれば消極的となり、結果として伸びない。算盤(そろばん)を捨てて算盤を持つ。そのつもりはしていても、実際はそうはゆかない。新聞を始めてからの私には困難が相次いだ。それを刎(は)ね返したものは、私の粘りと「日々が勝負だ」という決意だった。大阪人の粘りといわれるが、私も大阪に生まれ、大阪に育ち、粘りにかけては人に負けないつもりでいる。人間は日々が勝負だと、ふと頭にひらめいた考え方が、苦難にぶつかるたびに私を激励した。
人間社会に「万象相克」(ばんしょうそうこく)の相(そう)が消えないかぎり、どうせ人生は日々が勝負の場である。勝負が免(まぬが)れ難い人間の宿命とすれば、勝たざるものは負けるに決まっている。
【編者註:万象相克・・・世の中のすべてのもの、すべてのことは、すべて人と人との関係、人と物との関係によって成り立つ】
勝たねばならない。日々を勝負の場に臨む気構えで、一難来るごとに闘争心を燃やし、私は苦しい新聞経営と取り組んだ。痩躯(そうく)十二貫(じゅうにかん=約46kg)、事に堪え得たのは、この満身のやる気だった。
最後の一日(いちじつ)
新聞をやるようになってから、母は私のすることに、なんにもいわなかった。わが子を信じ、あやまちのないことを念じ、陰から見守っているといった様子だった。ただ、からだに気をつけることだけは、やかましくいった。私も新聞では苦しんだが、それについては何も話さなかったし、母もまた訊(き)くのを遠慮する風(ふう)だった。しかし訊かないだけに、私を案じる母の心配は、あるいは私以上だったのかも知れない。
この以前から、私は父と母のために、自宅とは別に、南海電車天下茶屋駅に近い所へ隠居所をもうけ、母はそこで父と二人、老後を静かに暮らしていたのだった。私が夜、家に帰ると、隠居所から母が来ていて、おおかた母が自分で買い出しに行って味付けをしたのであろう、子供の時分から私の好物が、味加減も私の好みに合わせて膳の上に並んでいた。私が喜べば、それが何よりも嬉しいらしく、目を細めてじっと私を見ている。もっと話していたいのを、私が疲れると思って早々に切り上げ、残り惜しそうに隠居所へ帰っていった。こうした、ほんのわずかなことにも母の心づかいは現われて、今、思い出しても有難いと思う。
私は新聞が多忙なので、両親とゆっくり話し合う機会がなかった。たまに隠居所を訪れても、無事な顔を見せ、また見るだけでそのまま帰ってくることが多かった。静かな隠居所の明け暮れにも、人から私のうわさを聞いては、
「どうやら苦労の仕甲斐(しがい)がありました――」
と、父と二人、陽当たりのよい縁先に、ほほえみかわしていたそうな。
昭和10年8月、私が43歳の時、年来の無理がたたって、小さい時分からの胃下垂症がぶり返し、どうにも我慢が出来なくなった。
ちょうど、上半期の決算が終わったし、この機会に根本的な建直しをしようと、断食療法をするため、大阪と奈良の分水嶺(ぶんすいれい)、生駒(いこま)山の山腹にあった断食道場にこもった。
断食療法は23日間を要した。もちろん精神的、肉体的に苦しかったが、効き目はたしかにあった。永年の胃下垂症も忘れたように心気爽快。8月末、下山して家で静養することになった。
私が山を降りると、一番に母が隠居所から駆けつけてきた。私は今日こそ、何もかも忘れて母と一日を話して過ごそうと思った。こんなにゆっくりしたのは、後にも先にもないことであった。
みんながうち寄って、日が暮れても話はつきなかった。母も嬉しかったに違いない。私の傍を離れず、六十余年の皺(しわ)を伸ばしてよく笑い、よく話した。私の小さい時の話も出た。苦労の多かった母の生涯に私の幼少年期を織り込んで、その折々の情景が、私の追憶の中に浮かんできた。茶臼山時代、包みを抱えて裏口で泣いていた母を私が見つけた時のこと、菊菜売りから帰ってきて叱られた時のこと、思い出すままに、それとなくいってみたら、
「そんなことも、あったかねぇ――」
と母は目を閉じて、遠い昔を思い出している風だった。
夜がややふけて、遠くもない隠居所へ帰ってゆく母を、私は道の半ばまで送ることにした。母と子が幾年かぶりで肩を並べた。
「からだに気をつけておくれ」と、母がひとこといった。「おっ母さんも」と、私が答えた。それっきりで黙って歩いた。夜風が毒だからと母が無理に断るので、私は送るのを途中でやめ、母のうしろ姿を見送った。これが母のこの世に残す、私に見せた最後の姿であった。八日後にせまる母の死を、私はもとより、母自身も知るよしもなかったのである。
***************************************************[次回につづく]
若き日の久吉少年は職を不安をおぼえて、いくつか転々とします。
でも与えられた仕事には全力で努力をし、自分にとって必要な精進を一つひとつ積み重ねていきます。
しかし両親のことを想い、アメリカ行きの夢をあきらめましたが、新しく好きなことが見つかります。
夢というものは叶わなかったからそれでお終いではなく、形を変えて、また現われてくるものなんですね。
私には、だんだんと年老いてゆく母親がいますが、前田久吉氏が自分の母親と向かわれてきた姿と、これまでの私が接してきた自分の母親への対応を比べると恥ずかしいばかりです。
さて、次回でこのシリーズ(転載)は終わります。
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