天の御国 1 

人は誰しも「目的と使命」を持って、物質界という不安定なこの世に生まれてきている、と高橋信次先生は仰ってあります。
生まれてきた「目的」。それは天界では確認できない修行、盲目の人生の中での自己の確立。心の調和。過去世で作り出したカルマが天界の修行で本当に修正できているかどうか、をこの世で確認するためだそうです。
そのカルマを知るには己自身を知らなくては発見できません。その鍵は自分の日頃の想念と行為の中に現われてきます。
そしてもう一つ、「使命」とは仏国土ユートピアの建設と仰ってあります。
ユートピアについて参考になる、と私が思っている本の内容を今回少しばかり紹介いたします。

ユートピア建設が人間の課せられた使命。これは高橋信次先生だけが初めて仰った言葉ではないような気がします。主観ですがイエス・キリストもはっきりと、そのことにふれてあると思います。それはイエス様が弟子に教えた「主の祈り」に表われています。
「天にまします我らの父よ 願わくは 御名(みな)の尊まれんことを 御国(みくに)の来たらんことを 御旨(みむね)の天に行わるる如く 地にも行われんことを・・・ 」
おそらく神学上の本来!の解説とは違い、自己流の解説ですが・・・
祈祷文冒頭は天地に満つ神の栄光を祈り、次に神の力により神が支配する御国(ユートピア)到来を自分のなかに、そしてこの地上にもその到来を待ち望んでいる、ということを示されているように思えてきます。

ユートピアとは、どんな世界なのだろう。おそらく生まれてくる前の世界、あの世の環境がそうだと思います。各人の「使命」として、全人類が物質中心の世界を精神世界にもどす・・・ということなのでしょうか。
では、どのようにしたらそれが実現可能になるのだろう。それを想像すると途方もないことのような気もします。
しかし、まずは一人ひとりが自分の中にユートピア建設を目指さないと何も進みません。
自分の中でユートピア建設に一歩ふみだすには、どうしたらいいのだろう。
神に対する感謝の祈りは大切だと思います。私は瞑想前にはかならず祈ります。しかし祈りのみで建設できるものではないでしょう。自分をもっと成長させるために自分の内面に対し、今までにない新たなモノを取り入れなくてはならないこと。あるいは自然な形で内から排斥すべきもの。もちろん、カルマの修正がそれに一つ歩を進める、ということは分かります。
では、目指すユートピアとはどのような世界なのでしょう。
私は自分のなかに、とっても小さくても構わないのでその礎を築きたい。
私たちがこの地上に生まれてくる前のあの世の世界(死後、帰るべき世界)について、高橋信次先生の著書や講演にはいろいろと出てきます。

ここではスウェーデンボルグが書いたものをブルース・ヘンダーソンが紹介している「死後世界」をあげてみました。他に死後の世界について書いてある本はいろいろあります。過去、いくつか読みました。しかし抽象的でもあり信憑性に欠いているものばかりでした。教訓となるものが探せずに自分としては納得いくものがありませんでした。スウェーデンボルグならびに二冊のアラン・カルディックの著書は特に価値を感じます。
あの世の実相を知らない私が信憑性がない、というのもおかしなものです。ただ私の中の規準は高橋信次先生の講演にある説明をもとにして、そう考えているだけです。この本は高橋信次先生が説明されてあることに非常に似通って共通しているところがあります。高橋信次先生とは少しばかり違う切り口ですが読むたびに新鮮な気持ちになれます。

規準は高橋信次先生・・・こんなことを書いているということは、私は高橋信次先生を疑わずに信じきっています。
以前は違いました。幽霊なんて見たことも感じたこともないですから。唯一経験したことは、ずいぶん昔の若い頃、寝ているときの金縛り。笑! 人の怖い気配を強く感じましたが、それは錯覚!と自分に言い聞かせ納得していました。ですから「あの世」とか高橋信次先生の「現象」は半分信じて半分疑い。笑!
ところが岸田先生とご縁をいただいて以降、守護霊様を感じたときには驚きでした。以前にも書いた、ちょっとしたことなのですが、守護霊様が自分に入ってこられた時の自分の身体が宙に浮きそうな軽さには感動しました。その軽さは、あの世の人は「執着」による重さがない、という証です。そのとき、そう教えて頂いたように思えました。その体験は忘れもしません。そのあたりからやはり「あの世」は存在する、と自分の中で実感としての確証をもてました。そうなると自分を常に軽くしておきたい!と思います。まだまだ重いものを引きずっていますが。汗!

以下、かなり長いのですが省略することなくユートピアとはどういう世界なのか、ということが少しかいま見られて参考になった一つの章をそのままとりあげました。
興味ございましたらご覧下さい。

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ブルース・ヘンダーソン著 「スウェーデンボルグの死後世界」より第五章全文

どんなとき、私たちはあるものを「天の」と形容するのでしょうか? たいてい、平和・喜び・満足・美・愛といった天界を思わせるものをとらえた特別な瞬間です。私たちが生き甲斐を感じるのはこのような瞬間であり、この一瞬を決して忘れません。このようなとき、私たちは天界に住みたいと思います。
けれども、この世の旅を終え安堵の胸をなでおろそうとするすべての人にとって、天界は漠然とした怖さを感じさせます。そこは実際にはどんなところなんだろう? 本当にそこが気に入るのかなあ、いつまでも? それとも、印象がうすれてきていつか飽きるんじゃないの? 天界ってどれくらい大きいんだろう? いつか人でいっぱいになってしまうのかな? そして、いつか閉ざされてしまうのだろうか? 天使たち(※定義として、天使とは特別な大天使ではなく、あの世の天界の人のこと)は眠り、働き、食べ、夫婦として一緒に暮らしているのだろうか? 来世への疑問でいっぱいです。しかも、この疑問にはたいてい答えが見つかりません。
ところが、スウェーデンボルグの著作の中に答えがあります。しかもさらに、その答えは一貫しており安心できるものです。天界はこれを本当に求めるだれにでも開かれている、と彼(※スウェーデンボルグ)は言います。そこはいっぱいになることもなければ、決して閉ざされることもありません。また退屈になることもありません。ともかく、天界は愛の国なのです。あなたの愛する人たちと、またその人たちに、あなたが本当にしたいことをしているとき、あなたはこの上もなく幸せであり、決して退屈とは思いません。これが天界の生活です。
スウェーデンボルグの描く天界は、この世で私たちが「天の」と呼ぶ状況とそれほど異なったものではありません。なぜ天界はそうなのでしょうか? あなたの愛があなたを天界へと導くなら、そこは見知らぬ外国ではなく、故郷のように思え、故郷のように見えてきます。
スウェーデンボルグは、「そこには、雲・雨・風があり、引力やまたその他の力が働いていて、見たところ自然界のものと同じである。緑の芝地、楽園、花園や野原や休閑地、山や渓流、それに海岸すらある」と述べています。
天界では太陽がつねに輝いており、その太陽の中に神が見られます。その明るさは神の真理から輝き、その熱は神の愛です。スウェーデンボルグによれば、その太陽は私たちの昼間の太陽の明るさよりも明るいのですが、少しも目にきついことはありません。
その光はどこまでも貫いており、それから隠れることができるものは何もないほどです。この光の中では、あなたの正体そのものが見られてしまいます。けれどものこのとは、天使たちにとってびくびくするようなことではありません。彼らは自分たちの性格が完全にオープンになることを歓迎しています。天使になった彼らの中には善以外の何ものもないからです。彼らには何も隠すものはなく、何も恥ずかしいことはありません。
「天界の下方にいて、善を心がけていない人々の場合はこの限りではない。このような人々は、天界の光の中で見られることをひどく恐れている。奇妙なことに、地獄にいる者たちはお互いを人間と見ているが、天界の光の中では恐ろしい顔と体つきをした怪物に見える。これが彼らの悪の形状そのものなのである。」 天界の光の中では、天使たちは、善良であるのに比例してさらに美しくなります。天使になればなるほど(※天界での段階が上がれば上がるほど)、美しくなるのです。悪人たちはその心の内に作り上げたものに比例して外見も極めて醜くなります。
スウェーデンボルグには、天界の中で天使たちが見ているものを描写するには難しいことが分かりました。多くのこの世と同じものが見られるのですが、しかし、その性質は非常にすぐれ完全であり、この世の言葉を受け付けません。
彼(※スウェーデンボルグ)は 天界について全般的な描写をして、その詳細をかいま見ることはあなたの想像力に任せています。「そこには、あらゆる種類の樹木と花にあふれた庭園や公園がある。木々は、横枝をアーチ上に組んで通り抜けられる入り口にと、またあちらこちら散歩できるようにと、美しく配置されている。すべてのものが美しく、それは言い表しようもない・・・・・・。そこにはこの世に知られていない樹木や花もある。」
こうした描写に慣れるのはそれほど難しくないでしょう。私たちの考え方の中で調整を必要とする部分は、霊界には時間と空間(この中でこの世の私たちは生活しています)の制約がないということです。天界にはこのどちらも存在しません。私たちの知っているあらゆるものは時間と空間から定まっているので、これはほとんど理解できないことかもしれません。けれどもスウェーデンボルグは、霊的な生活に移っていったとき、このことは少しも調整を必要とすることではなく、だれもがみなきわめて自然に感じることだ、といっています。例えば、空想の中では時間と空間に何ら関係なく、近くや遠くの人や場所へとさまよいます。遠く離れた友であっても、その人のことを思うとき身近に引き寄せます。何年も前の経験であっても、これをまざまざと思い出すとき、時間は消えます。このように、時間と空間の限界を超える経験は全く初めてのものではありません。
霊界は、私たちが考えられないほど異なっているものではありません。私たちの大部分はこの世を、目で見て計量できるものによって定まる実在性を持った厳密に構築された世界だと思っています。しかし、見ることや量ることができなくても本当に実在するものがたくさんあります。例えば、あなたがだれかを愛するとき、この愛は見ることも量ることもできませんが、あなたにとってこれにもまして実在するものはありません。
静かな部屋の中にも、大気を通過してくる電波や、またそのような波動するエネルギーが存在するのを知っています。このようなものは、私たちが聞くことができる波長やそうしたものに伝えられるときのみ「実在」となります。
この世で私たちは、測定できる有限な物の中に、少なくとも心の外側の物質世界の中に閉じ込められています。しかし、スウェーデンボルグは、「天界をこのように考える人は、まったく違っている。天界の広がりはこの世の広がりと違う。この世の広がりは有限であり計測できるが、天界の広がりは、限りがなく計測もできない」と言っています。
もちろん、天界にも「距離」、少なくとも距離のように見えるものがあります。物や人は、価値の大小の順に応じて配列されます。しかし、その距離は、この世で普通に行われているように、一定のもので計られるものではありません。それに代わって、その距離は天使の心の状態の変化によって定まります。あなたがだれかに距離を感じるなら、あなたは霊界でも実際にその人から遠くはなれています。身近に感じるときには、霊界では出会っているでしょう。これは、心が霊的世界に属するものであって、物質世界に属するものではないからです。けれども、時間と空間にきっちりと締め付けられた世界に住む私たちと同じように、霊界あるどんな些細なことも、天使たちにとってそれは現実のものです。
私たちのたいていのことは、この世を定める特殊な関係によって決まってきますが、天界にはそのような制限はありません。この世ではある場所から他の場所へ行こうとするとき、まず計測できる距離と、移動に要する時間を考えなくてはなりません。けれどもスウェーデンボルグは、天使たちがある場所へ、本当に行きたいと望んでいるときには素早く、気の進まない時には遅く到着するのを何度も見ています。それで、かつてはこの世で時間と空間の制限の中で生活を経験し、今でもやはり外見上では距離と時の進行という環境中で生活しているにもかかわらず天使たちには「時間」「空間」という言葉を考えることができない、と述べています。
天界はこの世よりもリアルである、とスウェーデンボルグは言っています。それは周囲の環境の現実性に加えて、愛がはっきりと見られるからです。私たちの世界を現実に作り上げているものはこの愛です。心の中のすべてのものは、心の精神世界にあるものでもこの世や天界の中にあるものでも、すべてのものはこの現実の一部なのです。
このこととうまく折り合いをつけることのできるただ一つの方法は、時間と空間の錨をあげて、あなたの心の中を漂うといった自己の思考の自由な漂流を通してでしょう。考えてみたいものは何でも、その場面や人物が物理的にどれほど遠く離れていようとも、あなたの心の中にまさに存在します。自分の存在を忘れて夢を見ているとき、時間は関係ありませんし、空間は妨げとなりません。しかも、あなたの「見る」もの、感じるものはリアルです。
夢や、心の静まった状態を別にして、時間はこの世であなたの生活を支配しています。そこであなたは、時間と空間をふまえて、あらゆるものを(死後の生活ですら)推し進めざるをえません。このことは、永遠に生きるという理想に少しばかり落胆することになるかもしれません。なぜならそれは終りのない時間の推移なのですから。しかし、終りのない時間という考えから始めたのでは、永遠というものが理解できないでしょう。あなたの夢のことを、または時を忘れるほど何かに夢中になっていたときのことを振り返ってみてください。最高に幸福だったときのことを考えてみてください。そのとき時間は存在せず、その時が終わってほしくなかったはずです。あなたはその瞬間だけ生きていました。そしてこれがあなたの期待する「永遠」(時の経過や将来の時といった時間の概念なしに、喜ばしい生活にすっかり夢中になっている状態)なのです。
この世の生活はおもに時の流れの中で考えられています。地球は、昼と夜、時と季節を作り出しながら太陽の周りを回転しています。けれども天界の太陽は不動であって、どんなものもその周りを軌道を描いて回っていないので、天界にははっきりした時の進行というものはありません。けれどもこれは、天界はいつも昼間と同じような「時」である、ということではありません。そこには朝・昼・夕方があり、働き・気晴らし・祈り・休憩の「時」があります。ただ心の状態が変化するのであって、時計で計ることのできる絶対的で物質的な変化があるのではありません。
スウェーデンボルグは、天使たちはすみやかに時間の概念をすべて忘れてしまい、霊界が心の変化を反映する(この心の変化から相応する環境が作り出されます)のをまったく当然のこととしている、と言っています。「彼らは、年・月・週・日・時・昨日・今日・明日といった時間に関する言葉が何を意味するかを知らない。」それで、この世で日々時間に追われてあくせくしているとき、あなたはこんなことが天界を天界らしくすると思えますか?
私たちの世界の大部分を定めている固定した時間と空間を欠いているので、天界は物体と霊たちが混じり合って浮遊しているように思えるかもしれません。しかしスウェーデンボルグは、まったく違う状況のもとですが、天界を完全な秩序の世界として描いています。
天界は、天的、霊的、自然的の三段階に分けられます。それぞれは、そこの天使たちの間に行き渡っている愛の種類により区別されます。天的な天界、すなわち最高位の天界では、神への愛があまねく行き渡っています。霊的な天界、すなわち中位の天界では、隣人への愛、他人を助ける愛が支配的です。そして自然的な天界、すなわち低位の天界には、十戒など神の律法に従おうとする愛があります。どの段階の天界も、天使たちの間の「愛と信仰」の違いに従って、無数の社会に分かれています。
この世で私たちは、おもに興味や価値を共有する人たちと友達になったり交際したりします。天使たちも同じく、共通のきずなで彼らの社会を作ります。彼らは各社会の間を好きなときに自由に訪問しますが、最も気楽で最も自由に感じられるのは自分の社会にいるときです。
これらの社会は、大きさも、またその環境も田舎から都会までさまざまですが、それぞれが独自の共同社会です。「大きな社会は数万人、小さな社会は数千人、最も小さいのは数百人である。家や家族単位で離れて住んでいることもある。」
天界では、あなたは見知らぬ環境に置かれることはありません。もし田舎に住むのを好むなら、あなたの天界の家は田舎にあるでしょう。都会や町のほうに親しみを持つ人は、やはりそのような天界の環境が与えられ、それに満足するでしょう。
それぞれの社会の天使たちは共通の趣味を持っているので、どの社会でも大部分の天使たちは歴史の中の同時代に生き、同じ国からやって来ている、と言われても驚くことはありませんし、異なった時代と地域からやってきた天使が同じ趣味を土台にして一緒に住むことも当然可能なことです。慣れ親しんだ文化の中で暮らしますが、心の状態はさらに高揚しています。そして各社会間の実際の相違は、この世から持ち込まれた人種・階級・民族主義などではなく、若者たちを教えたり、新来者を導いたりする、天使たち果たす役立ちにあります。
スウェーデンボルグは数回、古代ギリシャの哲学者が当時のままに暮らしているアテネと名付けられた天界の共同社会を描いています。そこは大きな都で、図書館・博物館・大学・法廷などがあり、またいろいろな商業活動もなされています。そこの、スポーツや試合、女性によってなされる刺繍、それに「霊的な方法による芸術的腕前を持った」職人のことも述べています。
個人の住まいは、そこに住む人の性格を反映します。あなたの住まいも、あなたが何に気を使い、何を大事にしているかといったあなたの性格をかなり物語っています。天界では、もっとそうなります。各人の家は神からの贈り物であり、どの天使の性格や個性にも完全に似合ったものです。
事実、あなたの永遠の家は、天界にあろうと地獄にあろうと、すぐに自分のものだと分かるほど自分の一部なのです。これは、この世の生活を通して設計し建築したものだからです。この家が永遠にあなたの住まいとなります。
この住まいは、完全で平和な秩序を持った国にあります。スウェーデンボルグは、神から広がり出た相互愛のスフィア(霊気)が天使たちの社会に行き渡っている天界の統治形態も描いています。これは多くの人がこの世に望む統治です。
論争やエゴがなく、支配より仕えることに専心する人々の統治を想像するのは難しいかもしれませんが、このことが統治を天界のものにします。そこで天使たちは、ただお互いにとって最善なことだけを望みます。それで天界での統治は私たちのものと非常に異なっています。そこの統治者たちをスウェーデンボルグは次のように描いています。

・・・・・・他のだれよりも愛と知恵にすぐれ、だれにでも愛から善を願い、知恵から善をどのように与えたらよいかを知っている。このような人は、支配したり命令したりしないで、奉仕し、仕える・・・・・・。自分を他人より偉い者としないで、劣る者とし、社会と隣人の善を優先し、自分のことを後回しにする・・・・・・。それでも統治者たちにも名誉と栄光がある。彼らは共同社会の中心に、他の者よりも高いところにある壮麗な邸宅に住んでいる。けれども、この名誉と栄光を受けているのは、自分のためではなく、従順のためである。この名誉と栄光はじつに主から与えられたものであり、それゆえ従わなければならないものである、とそこのだれもが知っている。

スウェーデンボルグは地獄の統治も描いていますが、天界と地獄を対比させてみれば、その正反対の性質を知ることができるでしょう。地獄でも統治は欠くことはできません。「なぜなら、統治がなくては、そこの人々を拘束できないからである。しかし、地獄の統治は天界の統治と正反対のものである。だれもが他人を支配し、頂点に立とうとする。自分の側に来ない者を憎み、復讐し、暴力による危害を加える。自己愛とはこうしたものである。こうして、最も悪い者が支配し、他の者は恐怖から服従するのである。」

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>天界では太陽がつねに輝いており、その太陽の中に神が見られます。その明るさは神の真理から輝き、その熱は神の愛です。スウェーデンボルグによれば、その太陽は私たちの昼間の太陽の明るさよりも明るいのですが、少しも目にきついことはありません。
その光はどこまでも貫いており、それから隠れることができるものは何もないほどです。

ここに書かれている霊太陽は高橋信次先生が言及されている「神の姿」とまったく同じことを述べてあります。
スウェーデンボルグは太陽を天上界のどの段階で見たのだろうか。
高橋信次先生は霊太陽の中に人と同じ姿をした神が存在しており、霊太陽は地上でみる太陽より一回り大きい。地球上の太陽の光は直視することはできないが、あの世の太陽は違う。しかも柔らかい「ふくらみ」のある黄金色の光を発し、その光は慈悲と愛からできており、天上界はもちろん下は地上界、また地獄界までその光はあまねく宇宙全体を照らし、上々段階の光の大指導霊はその光をあおぐ・・・。とあります。

あの世には「時間と空間」という地上界で通じる概念がない。という説明も分かりやすい内容です。統治者の壮麗な邸宅は従順のためであり、しかも名誉と栄光は主から与えられたものであり、それゆえ従わなければならないものである、とそこのだれもが知っている。・・・とあります。妬みなど発する元さえない素晴らしい世界です。

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かなり長くなってしまいました。
続きは後日UPいたします。
長文をご覧いただき、ありがとうございました。


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職場途中の田園から。
ずっと遠くまで黄金色に輝く自然の恵み。



タグ : 天の御国



[ 2008/05/19 21:00 ] 随 想 | TB(0) | コメント(-)

天の御国 2 

前記事の続きです。

天の御国についてスウェーデンボルグが書いているものは聖書のなかの教えとも似ています。過去に読んだ何人かのスピリチュアル系の本(体験談としての信頼性に個人的な疑問あり!)もこれと同じようなことを書いてありました。その面からすると新しいものでもなく、あえて紹介する必要もありません。
過去、私は教会で聖書勉強会に長く通ったことがあります。神父さまからは要理以外の、聖書の中にある御国のことも含め、教訓などを教えて頂きました。しかしながらスウェーデンボルグが書いているもの比べると、やはりあの世を見聞し、永遠の生命を身をもって発見。また神の啓示を受けた経験者のことばは書物のみで勉強された方とはインパクトが違います! 読みながら直感で、これはホンモノだ!と思えました。まぁ私の直感はあてになりませんが。笑! 

前述したアラン・カルディックも読み進めながら、これもホンモノだと思いました。その証拠かどうかは分かりませんが、濃い黄金色で固まったような物理的な形状をしている光が本からまちがいなく出ていました。ただ、どうしても解せないのが・・・出版社が「幸○の科学」です。汗&笑! 
天の御国を自己の内に建てるにはどうしたらよいのか、スウェーデンボルグは述べています。いくつか取り上げてみます。

また長くなりますが、他の章では以下、書かれています。

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【引用】
「神の国とその正義を最初に求めなさい。そうすれば、これらのものはすべてあなたに加えられるでしょう」と言われています。しかし神の国を探すといっても、今ここでこの世を捕まえていますが、その現世の中でどうしたらよいのでしょうか? 天界を選ぶということは、簡単に言うと、天界をこの世であなたの生活の一部にすることです。天界的な生活を送ることが天界の生命を自然に完成させることになります。天界に反した生活を送ったあとで天界に行くことを望んでも道理に適うものではありません。その人にはその資格もないし、天界で幸福になれるはずもありません。「人はそれぞれ天界へ行くように生まれついている。この世で自分の心に天界を受け入れた人が天界に受け入れられ、受け入れなかった人は閉め出される。」天界へと導かれる生活は難しいものではありません。しかし、私たちが地獄からの影響を自分たちの生活に取り入れるなら、地獄へと導かれてしまう生活もまた容易なものです。
天界は善良な生活の報酬であり、地獄は悪の生活への刑罰であるという考えはあまりに単純です。
スウェーデンボルグは、天界に行くかを決定するものは、あなたが自分の人生の中で何を行うかではなく、なぜそうするか、であると説明しています。あなたが何かをするときのその理由――これがあなたを決定します。一生を通じてなされる自由な選択から形成される人格が、天界あるいは地獄の生活を選ぶことになります。どちらを選ぶにせよ、そうすることがあなたの本当に望む生き方を完成させることになります。自分を変えるのに死んでからは遅すぎる、とスウェーデンボルグは警告しています。
しかし、あなたが「正しく行ない、慈悲を愛し、へりくだって神とともに歩む」なら、天界を得るのは難しいことではないという、聖書の中に響き渡っている約束があります。この行いがあなたの生命の一部となるからです。

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死んで帰るあの世の世界は「天国」と「地獄」の二者選択のように思えるかもしれませんが、高橋信次先生は天上界はその人の魂のグループでの意識の段階により、いくつかの層に分かれているそうです。一つの層でも多く細分化された段階があるようです。「地獄」もそれと同じく「天上界」の底辺、三途の河原付近にある「魂の収容所」より下は、地獄の一丁目から果ては無間(むげん)地獄まであるとか。汗! 

ここでは「何を行うかではなく、なぜそうするか」とあります。
あとでこれについては、はっきりと述べられています。
神を愛し謙虚な心をもって生きること。
「正しく行ない」とは「なぜそうするか」に基づいた発露のことだろうと思います。

「自分を変えるのに死んでからは遅すぎる、とスウェーデンボルグは警告しています。」
これは盲目の人生、魂修行のゆえんですね。
高橋信次先生は、一生を棒にふることがないよう、死んでから「しまったー」と、なる前に生きているうちに自分を変えなくてならない、ということを力説してあります。


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【引用】
あなたは、この世では自分の本当の気持ちを偽ることが容易にできます。来世では不可能です。この世では、「目は心の窓」と言われます。霊の世界では、顔の全部、また全身までも、心の窓です。自分の気持ちに反するような見せ掛けを装うことは、まったく不可能です。
スウェーデンボルグは、「天界でも地獄でも、あることを考えながらしかもそれと違うことを行うといった分離した心を持つことは許されない」と述べています。
生活や考えの中に、誰にも知られたくない部分があるのは自然なことです。しかし、自分の内部の考えを外部に晒すことは、残酷でも卑屈な経験でもありません。
もしあなたが「天界を選択」しており、自分を霊たちの世界で完成させるなら、これは、霊的浄化の積極的、本質的な部分であり、あなたがこの世の生活の中で始めなくてはならないものです。あなたがこの世で、この浄化、すなわち変革を行えば行うほど、霊たちの世界で行わなくてはならないことは、どんどん減ってゆくでしょう。
後悔するようなあなたが言い行ってしまったこと、あるいは考えただけのこと、これらに当惑するのではなく、あなたの生活から望ましくない部分を取り除くことに焦点を当てるべきです。これは、あらゆる地獄の影響からまったく解放され、ついには天界へと導かれる優しく愛に満ちた過程です。
つまり、神はあなたのすべてのことを知られ、しかもいつまでもあなたを愛されるのです。完全な愛がこの浄化の全過程に行き渡っています。
道徳的生活や社会生活において、何が本当で何が正しいのか、何が公正で何が誠実なのか。このことについては、法律体系やあなたが教え導かれるあなた自身の信念や原則があるので、自分の考えを持っていると思います。しかし、霊的な真理や善は、神と天界だけから学べるものであり、あなたが天使になる前に学んでいなければならないものです。
神の聖言(みことば)から、またそれに基づく信仰の教義からたくさんのことが学べます。しかし、あなたのさらに内部の心が天界に存在しない限り霊的な原理が本当にあなたの生命の一部となることはない、とスウェーデンボルグは言っています。

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「自分の気持ちに反するような見せ掛けを装うことは、まったく不可能」とあります。
高橋信次先生は「己の心には絶対にうそはつけない」
生前になしたことは、「その善なる、うそのつけない己の心が自分を裁く」と仰っています。
自分の内部の考えをさらすことには、時と場合や相手によりけりで抵抗があるときもあります。
私はまだまだ「はだかの自分」には程遠いです。


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【引用】
私たちはみな、愛する人々のために物事をしている時、そこに喜びがあるのを知っています。天界に住んでいる人たちはいつもこの喜びを感じています。彼らは決して自己本意ではなく、いつも分かち合います。主だけが天界と宇宙を統治されているのであり、御国の法律は永遠の真理であり、これはすべて、「人は、すべてのものにまさって主を愛し、隣人を自分のように(いまや天使であるからは自分以上に)愛さなければならない」という一大法則に基づいている・・・・・・。天使の持っている愛は他人に仕えることの喜びを見出すものであり、自分のためのもの、自己愛のためのものではない。自分を他人以上に愛し、利益のために貪欲な生活を送った者には、このすべてが理解できないものであった。

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「天使の持っている愛は他人に仕えることの喜びを見出すものであり、自分のためのもの、自己愛のためのものではない。」
前述しました「なぜそうするか」というのは、この「一大法則に基づいている」とあります。
たしかに誰しも、自分の身内あるいはとても仲の良い間柄の関係であれば、何ら見返りを求めることなく自分がしてあげることに喜びを感じます。
その想いを自分周辺の人たちにどこまで広げられるのか・・・。
しかも生きているうちに。抵抗なく心から・・・。


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【引用】
自分の行いはすっかり自分のものだ、と確信して天使たちの世界にやって来る人を、天使たちは避けます。「天使たちは彼を愚か者、泥棒と見なしている。」自分の善行のなかに神を見ないからであり、神のものを盗み、自分のものとするからです。

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「抵抗なく心から・・・。」
それが天界で行き渡っている本来の愛からくる「無償」あるいは「布施心」ではなく、もし偽物だったら・・・。愚か者・泥棒。汗!


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【引用】
天界を選択するとは、例えば、邪悪な考えや思いつき、これが欲望や復讐、傲慢や自己本位という形を取ろうと取るまいと、ここから引き返すことです。これは自己を評価できる間は容易ですが、試練が襲っている際に行うのは困難です。しかし、商取引で人のものをかすめるといったものから偽りや強欲まで、いろいろな醜い衝動に屈服してしまうのは、地獄を意識的に生活の中に取り入れることになります。これはそのときだけで終わるものかもしれませんが、繰り返されれば習性となります。
あなたが、自分のしたことや考えたことが天界に反するものであったから自分は地獄に行ってしまうのではないかと恐れるとき(このような恐れをときどきだれもが抱きます)自分の選んだ地獄に行ってしまうに違いないという思いが心に浮かんできます。スウェーデンボルグは、だれもあなたを地獄に行かせることはしない、と断言しています。だれも悪の生活に対する罰としてあなたを地獄に送り込むことをしません。人はただ自分が本当に地獄に行きたいから地獄に行くのです。自分の選んだ生活が地獄にあるから、地獄に行きたいのです。そこが故郷だからです。
「天界に入ることを許された地獄の人々は、できる限り急いで天界から立ち去ろうとした」
私たちが望むに応じて、地獄は身近なものにも遠く離れたものにもなります。私たちの大部分は日々の生活にたやすく包み込まれてしまい、自分の運命を作り上げている選択をめったに反省しようとしません。

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「人はただ自分が本当に地獄に行きたいから地獄に行くのです。自分の選んだ生活が地獄にあるから、地獄に行きたいのです。そこが故郷だからです。」

GLA関西本部では毎年、8月8日は「感謝と回向、供養の集い」が行われています。
GLAの会員さんの身内など、亡くなられた方々を供養いたします。
GLAにはお坊さんがいらっしゃいます。本部講堂にて、お坊さんと本部長の岸田先生が会員さんの身内の死者の霊を本部講堂によばれます。
すでに天上界で過ごしてある霊ならびに、さまよえる霊や地獄に居る霊もふくめて。
さまよったり地獄に居る霊を一旦、天上界の入り口にある「魂の収容所」まで送る儀式です。
収容所とは、生きているときに思ったこと為したことを全部思い出し、善我の心、うそのつけない神に通じる心で自分の一生を反省、総決算し、己が帰るべきところを決める場所だそうです。
聞いたところによると、一旦収容所に連れて行っても、またもとの世界、地獄に帰る霊もいるそうです。汗!
地獄を故郷にしたら魂の進化、意識のレベルを上げることはできない。。。


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【引用】
この世で押さえ付けられていたあらゆる悪意が地獄ではあからさまに吹き出します。これは、苦々しさ・不満・ごまかし・残酷・怠慢に満ちた生活であり、心の苦しみと欲求不満の世界です。何事も正しく行われないとき、自分がしようと始めたことが完成しないとき、自分の本当に望むものが邪魔されるとき、どのように感じるかを想像してみてください。これが地獄の味わいです。

地獄を恐れることは、善良な生活をしようとの決意を奮い立たせるかもしれませんが、たんなる恐れからでは十分とは言えません。何を恐れ、何を避けねばならないかを知るために、本当の地獄がどんなものかを知ることはよいのですが、しかしそれが「聖なる恐れ」となるときに限って意味があります。これは愛から湧き起ってくる恐れです。これは、神や人を傷つけてしまう恐れのあるどんなことにも、絶対の嫌悪感を持つことです。他人を傷つけまいとする恐れは他人の幸福のために働く愛に変わってゆきます。これが究極的に私たちを地獄から救うのであって、たんなる恐れだけでは救われません。

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「何事も正しく行われないとき、自分がしようと始めたことが完成しないとき、自分の本当に望むものが邪魔されるとき」

地獄の味わい・・・私はこれまで何度も味わいました。汗!


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高橋信次先生が仰った人生の「使命」であるユートピア建設。
スウェーデンボルグの記述から私なりに、自分のなかに礎を築くにはもっと取り入れるべきこと。自分の中から追い出すべきことをあげてみました。
しかしこれは、なかなか出来るものではありません。
かといってそれに近づく努力を何もしない、では進歩はありません。

長文にお付き合い頂きまして、ありがとうございました。




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野の花、ヒメジョン。




タグ : 天の御国



[ 2008/05/21 15:34 ] 随 想 | TB(0) | コメント(-)

天の御国 3 

イエス様がゴルゴダの丘で磔刑にあったとき、その姿を見ていた母マリアはヨハネ族の長老、ヨハネの胸で泣いていたそうです。
イエス様のひざ元にいた菩薩界レベルの魂の持ち主の、あの十二使徒ですら裏切り行為をした人がいます。
それを思うと本当の「信」について、なぜ復活される前に気付けない・・・。
もちろん、私がそんなことを言える「信」をしっかり持っている人間ではありません。
でもなぜか、深く考えさせられます。

高橋信次先生の講演では、このようなことを常に仰ってあります。
「信じることに対しては、すぐに鵜呑みするのではなく、まず疑問を持ちなさい。なぜ、どうして。なぜそうなるのかという疑問に対する回答をみつけて、それに自分が納得したら初めて信じなさい。」
つまり疑問・追求、疑問・追求のプロセスの繰り返し。結果、おかしがたい神理に到達するのだ、と述べられています。

高橋信次先生は「疑問をもて」の、そのことについて高橋信次先生ご自身、イエス様と対話したことを話してあります。それは、いつの講演だったか私は忘れてしまいました。おそらく個人録音のテープだったかと思います。私の記憶に基づいて書きます。
「疑問・追及」の姿勢に対して、「イエス・キリストは、『お前、初めから 信じよ。 といった方が精神面でも成長は早い。』と。」、そのようなことを言ってあったそうです。
そのイエス様の言葉に対して高橋信次先生は、「私がいるうちは、私には大衆の、どんな疑問に対しても必ず回答を与えることができる。」
というような言葉を返した、と仰ってある場面があります。

それを思いだすたび、高橋信次先生の説かれた「法」に対して自分の「信」の重みはどうなんだろう?と考える時があります。
お釈迦(ブッダ)様の当時、ブッタサンガー(教団)に入る資格がある人は三宝帰依している人のみです。三宝とは、「仏(お釈迦様)」と「法」と「僧・教団」の三つにすがることです。その三つを信じていなければ弟子にはなれません。
高橋信次先生が説かれる「法」(2600年前の釈迦当時の教え)は盲目の人生の中、人を幸せへと導く教えです。おそらく誰がみても人心を惑わすような危険な教えとは、まったくちがいます。

イエス様がいわれた言葉、「迷わずに素直に信じること。それを受け入れ従うこと」・・・これはとても大事なことのように思えてきます。
そう考える一方、私はなかなか実行できていません。それは「信」の欠片もない証拠です。汗!


ところでGLA関西本部の本部長、岸田 守先生が高橋信次先生のまえで、過去の転生の中でカナンの地より「預言者」として出てきたことを初めて思い出される場面があります。
岸田先生が過去世でのイエス・キリストが出生することを預言した、預言者時代の頃を思い出された「現証」のその直後に高橋信次先生が岸田先生のそれに関連してイエス様を描いた映画、「偉大な生涯の物語」について語られています。

ずいぶん以前のことですが、それを聞いて私はこの映画を探していました。たまたまカトリック教会のバザーで見つけて購入することができました。感動的な映画です。
その映画を詳しく ストーリー・観た感想を書いている方がいらっしゃいました。


偉大なる生涯の物語VHS


もし、このブログをご覧のみなさまの中で、興味ございましても探し出すことが出来ない方がありましたなら、メールにてご一報いただければこのVHSビデオをお貸しすることはできます。

高橋信次先生の予言によると、現在のシカゴに将来、イエス・キリストが肉体を持って再来されるそうです。もう、あと115年くらいの後。
そのときには、この地上に天の御国ユートピアは建設されるのでしょうか・・・

駄文を長々と書いてしまいましたが、これまで連続してご覧頂いた方、ありがとうございました。


最後に、高橋信次先生が「偉大な生涯の物語」についてお話しされたことばを少しばかり、ご紹介させていただきます。
以下、昭和47年4月、高橋信次先生、岸田 守先生の現証後のお話しより。


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これ(映画、「偉大なる生涯の物語」の上映)をまた、みなさまが観られたときに、その当時の模様がはっきりとわかります。
ただしイエス・キリストは亡くなる時に、「神は我を見捨てたもうた」という言葉がありますが、それはマチガイです。
それをみなさまは信じないでほしいのです。
その時にイエス・キリストは自分自身が、すでに天上界に上がって自分の死体を見ておりました。
「かわいそうな人たちだ。私の真実のことが分からないために私を殺してしまった。あわれな者たちよ。」
といって、涙を流していました。
ところが彼が最後に、「神が我を見捨てたもうた」というのはうそです。
イエスはそんな執着を持っているような人ではありませんでした。
それだけを一つ、付け加えておきます。
ぜひ観られる機会がありましたならば宜しくお願いします。

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[ 2008/05/22 19:20 ] 随 想 | TB(0) | コメント(-)
  1. ..
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