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馬鹿な猿 1 

タイトルが変。笑!
実は「執着」のことなのです。

私は、普段の日常で心が少しばかり重く、波動が若干荒いなぁ・・・。
と、感じるときは私自身の内面に何か心配ごとがあるのか?
それとも何か引っかかりとか、離したくないものがあるのではないのか?
など、自分自身に問います。早くその気持ちから遠ざかりたいために。
もし、重荷があるとしたら、それは間違いなく「執着」だそうです。
ところがその原因がわからない場合があります。
気付けない、ということです。もちろん、そういう場合は「反省」というものが浅い証拠でもあります。
おそらく大きな出来事による原因ではなさそう、と判断したら自然と軽くなるのを待たざるを得ません。
でもその原因になっているもの。小さなことだろうとしても、それに気付けないというのが・・・
ちょっと悔しい。笑!
私も気付かない馬鹿な猿なのか。汗!

「執着」といえば、高橋信次先生の「猿」になぞられた、この話しが頭から離れません。
私は、一つの小さな執着が心に食い込んだら、これは、なかなかそれを切り捨てるのには時間がかかります。
過去の私にはいろいろとありましたが、たとえば、「物」であれば、初めは「大切にしたい大事なモノ。」
次第に次の心境の変化がおきて、「これは他に譲れない・・・。手放したくない。」
ついには、「それを奪われるのでは、と思える相手には、ちょっとした敵愾心を知らずのうちに抱いてしまう。」
これはもちろん、物質的な「物」、あるいは、「ことがら」だけには限りません。

そこには、愛着やこだわりというものの線引きが難しいところがあります。
線引きというのは、きっちりと白黒をはっきりと付けなくてはいけない、と考えているわけではありません。何事も白黒をハッキリつけすぎると、融通の利かない人間となります。
そうではなく、ボーダーラインを知っていると線をわざと踏み出す余裕!も持てるし、我慢して踏みとどまる!という自覚がもてます。人間だから誰しも持っている苦しい「執着」を少しばかり楽しめる余裕のことです。

現在の私は「執着」というのを忌み嫌っている心境から抜け出せないので、それが理想のようにも思えます。
それは盲目の人生、誰しも先が見えないので不安があります。その不安は魂修行としてすんなりと自分に受け入れることにも似ていると思います。
苦しみ、悲しみは自分の精神修養であり糧になるものだと思え、苦労を苦労としない、買ってでも苦労をしてみる、という勇気です。
というのも、私の祖父の姉が私と会うたびに、耳にタコが出来るほどに、常に私に言われていた言葉があります。
「苦労は買ってでもせよ」と。小さい頃は、そんな馬鹿なこと、と思っていました。
その祖父の姉は傍から見たら苦労人でした。でも苦労を苦労と思っていなかったようです。それは明治時代の人ですから時代背景もあると思います。苦労することに精神的に余裕がありました。
私に対してしつこく言ってあったのも自分のためになる、と知っていたからこそ、だと思います。それを思い出すたびに敬服しております。
私は苦労は買ってでも・・・という心境にはなれませんが。汗!

自分の心を重くする限度を知っておく、ということですが、限度は価値観とも似たもので、人それぞれ違うと思います。
たとえば極端な例かもしれませんが、あの世の基準ではどうなんだろう?
と考えるときがあります。すみません。いつも「あの世」ばかり言っています。笑!
あの世では心の大きさにより、段階があるそうです。
上段階は仏教でいうところの如来。次に菩薩となっているそうです。
如来は粗末な服を着ていて身に飾り気がありません。モノに対するこだわりがありません。後光だけやたら大きいそうです。
少し下の段階の菩薩は装飾品を身に着けています。ネックレスや冠など。これは如来に比べてモノに対する執着が若干残っているためだそうです。それでも天上界では心の広さでいえば、ずっと上の段階の住民です。
また、高橋信次先生が、ある「支部長」の守護霊を呼ばれた時に出てきた霊は戦国時代の武将でした。その霊の格好は、しっかりと「甲冑」に身を包んでいたそうです。その甲冑は「戦闘用」ではなく本人が気に入っていた「儀式用」の甲冑です。
その高橋信次先生の「霊道現証」を聞きながら、ふと思いました。
死んで天上界に行ってまで、なぜ装飾品や甲冑を着ておく必要があるのだろうか?
高橋信次先生の講演を聞いて、そう思ったのは私だけなのでしょうか。

高橋信次先生は日本人だろうと外国人だろうと関係なく、あの世には賽の河原(三途の川)は実際にあると言われています。
お伽の世界の話ではない、人に悪いことをさせないための方便ではない、と言ってあります。
その賽の河原には、生きているときに死んでまでして持ち込んだ執着を捨てる場所があるそうです。
歴史上の様々なモノが転がっているそうです。それを捨てなければ、重くて川を渡れないとか・・・。
例として書きました菩薩の装飾品にしても、守護霊の甲冑にしても天上界に持ち込んでいます。
持ち込んでいるというか、後で思い出して着けているのかも知れませんが。
ということは、それくらいは重い「執着」では無いということになります。

自分なりの心の中で重くなる執着の限度を知ることなのだ、
と、私は講演テープを聞きながら、そう思いました。
もちろん私自身は、自分の限度というものはまだ、わかりません。

原因になるものは小さいうちに芽を摘んでおきたいものですが、どうしても知らず知らずのうちに気付かずに、自ら呼び込み育ててしまいます。
早くそれに気付くことですが、少しばかり発展しないと自覚できない・・・。
それは心に潜在された90%の内在されている「あの世」の意識世界を認識できないために起こるのであり、つまり10%の表面意識である五官(目・耳・鼻・舌・身)に頼らざるを得ない盲目の生活なので執着を持ってしまうのは仕方ありません。

高橋信次先生という方は、ご自分の心に内在された過去世での偉大な記憶を紐解かれました。
つまり表面意識層を占める層の割合が、大悟されて大きくなられたため、過去世の記憶を元に釈迦当時の教えと現代仏教の違いを説かれました。その偉業は素晴らしいものです。
高橋信次先生は仰ってあります。
四十何年か生きてきた、この「高橋信次」という名前の人間は大したものじゃない。
それよりも内在された智慧が素晴らしいものです。これが発見できることは私だけの独占物ではありません。皆さまにもあるのです。・・・と。

後になりましたが高橋信次先生の「馬鹿な猿」のお話を要約して書いてみます。
似たような話しは信次先生ご著書の「人間釈迦」の第三巻にもあります。
他にも似たような話は聞いたことがあるような・・・。

長くなりすぎましたので、続きは後にUPしています。


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タグ : 馬鹿な猿



[ 2008/06/25 13:15 ] 随 想 | TB(0) | CM(2)

馬鹿な猿 2 

続きです。

出来事は戦中時の頃のようです。

余談ですが信次先生の戦中時のお話では園頭広周先生(高橋信次先生のお弟子)関連のHPの中に、このような記事があります。
「信次は陸軍幼年学校から士官学校に進んで航空士官となって出兵。その時、十二時間、海に漂い海防艦に救われる。それは不思議とイルカが信次のそばに寄って来てくれたので、米軍の機銃掃射を免れたことによるが、信次の身体には弾丸の破片が残った。」

それとこのお話しの舞台が関連するのか、関連しないのかはわかりません。

また、信次先生は昭和46年12月13日に、このようなことを述べてあります。
こちらも戦中時でのお話です。

高橋信次先生はフィリピン海上にてアメリカ軍戦闘機との空中戦で信次先生が操縦されていた戦闘機は攻撃を受けて墜落させられます。
その時のアメリカ軍の飛行機はB51戦闘機で時速550kmで飛行。
信次先生側は キ84 ハヤテ
(奇跡的に残ったこれと同機種の戦闘機は鹿児島の知覧特攻会館で私は見たことがあります)

信次先生は、この戦闘機で時速600kmを見方の二機で飛行されていたそうです。
その時に進行方向にハエみたいな黒いツブツブが見えたそうです。見えたところでは、もうどうしようもない。相手敵機の時速と合わせると合計時速1,150km。
相手の高度が3千メートルなので、こちらは高度を三千五百~四千メートルに上げないとならないが間に合わずに落とされた、と話されてあります。
マニラ湾に、二機の戦闘機とも焼け落ちたそうです。そして奇跡的に助かってあります。

ところで本題の以下の話はマレーシアのボルネオ島での出来事です。
マレーシアはフィリピンとは、海を隔てて隣同士の島です。
マニラ湾上空で落とされてボルネオ島に上陸されたのでしょうか?
その当たりのことは、私は存じておりません。

逸話みたいになってしまい、話しがそれました。戻します。


以下、昭和46年11月20日の高橋信次先生のお話しです。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


私(信次先生のこと)が昔、ボルネオに居た当時・・・、昔と言ってもこの現象界でのことです。

飛行機に乗っている頃の戦争中にたまたま、その場所で、そのときに戦友と
「猿を捕まえてみようじゃないか」と相談しました。

そして、「どうやって捕まえればいいんだ。」
ということになり、

「あぁ、あいつは簡単に捕まえられるよ。」

私は、「冗談じゃない。くるくる回って椰子の木の上に登っていくので捕まらないよ。」

「いやっ、簡単だよ。ありゃ、馬鹿だからなぁ。」
って、相手が言うから

「へぇー、じゃ、どうすりゃいいんだ。」
ということになって、

「椰子の実を取ってきて、それをきれいに、えぐっちまえ。」・・・と。
それは、「彼(猿)の手が入る、ぎりぎりの大きさにしておけ。」さらに、
「穴を丸くしておいて、その中にマンゴーをひとつ入れておく。」
「一方の方(穴を開けた椰子の実の反対側)を縄で括って木につないでおけば
朝になれば彼らはマンゴー欲しさに来るよ。」
と言います。

それを試してみました。

ところが猿は、なるほど馬鹿でした。捕まえられました。

手を椰子の中に入れたままでした。
それでも彼はマンゴーを離せば、手は簡単に抜けるんです。
それを彼はマンゴーを欲しさに人間に捕まってしまったのです。

そしてこちらは木につないでいる椰子の実を縄からはずして、
暴れないように彼の頭から紙袋をかぶせました。
それから完全に椰子の実を割りましたところが、
まだ手にマンゴーを持っていました。

皆さん、こういうのを執着というのです。
そういう執着を持っていると、これはどうにもならないのです。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


あえて、「執着」の意味を改めて手元の大辞泉で調べると
一つのことに心をとらわれて、そこから離れられないこと。
とあります。

まさに猿は、それを欲しさに自分の身と引き換えに、つかみ離しませんでした。

このお話しは会場の一会員さんの質疑に対する信次先生の応答です。
そもそも、あの世の地獄霊や動物霊がなぜ、人間界にやってきて禍いを起こすのか?
という問いに対して、地獄に落ちる理由はほとんど「執着」にあるということを強調して話されています。
地獄に落ちてもこの世の地上界で持っていた執着を死んでも離さない・・・と。


信次先生の話中で私が印象に残っている一つを抜粋して書いてみました。

初めは短く簡素に書くつもりでしたが、またまた、だらだらと焦点のない長文になりました。汗!
ご覧頂きまして、ありがとうございました。


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しるしい毎日。雨が続きますね!



タグ : 馬鹿な猿



[ 2008/06/25 13:18 ] 随 想 | TB(0) | CM(20)
  1. ..
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