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「諸行無常」 高橋信次 

「諸行無常」      

この言葉は暗い韻律(いんりつ)を秘めているような印象を与えているが、とんでもないことである。
仏教にしろ、釈迦の名が我が国の一般民衆の間に知られるようになったのは、たかだか一五〇年ぐらいの歴史しか経ていないようである。
そうした中で平家物語にこの言葉が引用され、民衆に馴染まれたために、事実そのような響きを与えてしまったようである。

諸行(しょぎょう)とは大宇宙を含めた物質世界の生活行為を指す。
そうしてその生活行為は瞬時刻々変化変滅をくり返している。
常なき状態である。
生ある者は一刻といえども止まることを知らず、常に変化し、動いている。

諸行は無常(むじょう)なのである。

諸行無常を解釈すると、現象界の姿をそのまま伝えた言葉のように受け取れる。
ところが、この言葉には重大な意味が秘められている。
それは神の意思である。
生命の実態だ。
形あるものは生命の実相を通して存在し、絶え間ない変化の過程を通って生き続ける。
変化の形は変わっても生命それ自体の意味は永遠に変わることなき生き通しの我である。

生者必滅(しょうじゃひつめつ)の姿はあっても、魂の永遠性は不動である。
諸行は無常であるから生命は生き永らえる。
諸行が無常でなく有常なれば、物質世界は滅びるしかない。
有常とは生活行為の停止を意味する。
生死は動であるが、生のみがあって死のない世界は生命のない停止の世界なのだ。
あの世とこの世があって魂の輪廻があるのだから、この世に生死があり、絶え間ない動的な生命の永遠性があるのである。

無常は進化を約束する。

大変難しくなったが、私たちは現象の動きに心をとらわれてはならない。
生き通しの自分を失わぬことだ。現象界の動きに心が奪われ執着すると、その執着の分量だけ自分の心を傷つける。
地獄に苦しむ諸霊はその全部が現象界に心を奪われた人たちなのだ。
現象界は魂修行の場である。
魂進化の大切な場所なのだ。
その無常の場を有常の場に置き換えようとするから苦しみをつくる。

私たちの住む世界はめまぐるしく変化している。
自己保存と足ることを知らぬ欲望の渦といってよい。
しかし、私たちはこうした渦を恐れてはならぬ。
一日一日無常の真意を忘れず、不動の心で過ごすなら、神は祝福と安らぎを与えてくれるだろう。

恐れず、惑(まど)わず、正法(しょうほう)を心の中に打ち立てよ――。


以上
GLA関西本部発行 2007.3月号月刊誌より転載
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タグ : 高橋信次:GLA誌より



[ 2007/02/27 13:43 ] 随 想 | TB(0) | CM(2)

「食糧問題」 高橋信次 

月に一度、GLA関西本部の月刊誌発行に合わせて、高橋信次先生の随筆をあげています。
興味が御座いましたら、ご一読下さい。

以下、GLA関西本部発行 2007.4月号月刊誌より転載
(1974年6月、月刊GLA誌の当時の記載分)


「食糧問題」

異常気象、食糧危機、人口問題、この三つは相互に関連し合って動いているが、これについて、さまざまな見方がなされているので取り上げてみたい。

まず気象については、太陽、月、地球の自転公転によって、その条件の基礎がつくられている。
だがしかし、寒暖、風、晴天のいずれかの一方に片寄ると地上の営みに狂いが出てくる。
かつて地上に人類が住む以前は、火山爆発と雨のくりかえしが続き、氷河時代が何度も現出した。
これは火山爆発の降塵が天空に舞い上がり、層をつくり、太陽の熱・光を遮断したため地上の気温を下げたからである。
今日、冷害やかんばつが各地におこっている。
原因の一つは熱消費の増大であり、煤煙、排気ガスの塵が天空に昇り、層をつくりはじめているからである。
もう一つは地上に住む人類の想念行為によって、地軸の位置、自転のリズムを変化させていることもある。

このように気象の基礎条件は少しも変わらないが、地上に住む人類の想念行為が人口の増大に比例して、さまざまな異常気象を生み出している。
アフリカの大干ばつ、ソ連、中国、インド等の食糧不足。
これはいったいなにがそうさせたかといえば、それは前述の説明を理解されれば自ずと明らかであろう。

気象は天然の産物であり、人間の生活行為と直接無関係と思われるが、例を今日の公害をみれば、気象も人為的に左右されることは説明を要しないと思う。

人口問題は、食料生産と綿密に結びつき、地球は満員という見方もあるが、しかしまだその余力は十分ある。
問題は現時点の人々の意識構造(政治理念、民族意識、人種差別、経済の考え方等)に問題があり、バランスを欠いているので、歪みが生じているのだ。
一方の国は食糧が有り余り、他の国では餓死者が発生すること自体、調和された地上とは言えないだろう。
こうしたアンバランスがなくなり、天然の気象条件に適した方法で食糧生産が行われ、技術開発を平均的に進めていけば、地球の人口許容量はまだまだ広げられる。

異常気象、食糧危機、人口問題は地球人類の責任である。
それぞれの責任において調和された生活、つまり、人類は皆兄弟という人間の原点に立って処理していくならば、この問題は明日にも解決していくことであろう。
しかし、今のままの状態が続けば、食糧危機を発生せしめ、問題を深めていくことになりかねない。



タグ : 高橋信次:GLA誌より



[ 2007/03/29 14:00 ] 随 想 | TB(0) | CM(8)

「偶 然」 高橋信次 

月に一度、GLA関西本部の月刊誌発行に合わせて、高橋信次先生の随筆をあげています。
興味が御座いましたら、ご覧下さい。
以下、GLA関西本部発行 2007.5月号月刊誌より転載


「偶 然」

人には運、不運が常につきまとう、と言われている。
道を歩いていて事故に遭う。
元気でいたいとしても病気をする。
あれが欲しい、こうもしたいと考えてもそうはならない。
競馬、ギャンブルは偶然の連続なので、面白さもあり、まるで人生を見ているようだと断言する人もいる。
運だとか、偶然を主張しながらも、これを信ずる人は少ないようだ。
反対に、すべて必然と断言するものも皆無に近いようである。
人生は余りにも不確定の要素、つまり認識できる範囲が非常に小さいので、判断がつかない、というのが実際であろう。
毎度繰り返すように、私たち人間の意識量(物を認識する働き)は普通で、その全体の量の約10パーセントしか働かない、人によっては7~8パーセントくらいでとまっている者もいる。
さらに重要なことは、人それぞれ過去世という魂の遍歴がある。
その遍歴によって記録された想念と生活行為がある。
そのために、そうした記録された、因縁に引かれ、その人の気質をつくり、性格に影響を与え、能力等を形作っていく。
同じ両親の下で育った兄弟姉妹でありながら、楽天家もあれば内向性の者もいる。
これらは父母のその時々の精神状態なり生活環境もあるが、実はこうした先天的な魂の遍歴に影響されている。
もっとも、後天的な生活環境にも人は大きく左右されるが、こうした先天的要素をはずしては、偶然、必然の判断は下せないのである。
運命の予知とか透視というものは、10パーセントの意識量では計れない。
それ以上の意識量が働くことによって計れるのである。
運命の予知が可能だということは、偶然の連続ではなく、物事は必然の方向に動いているということだ。
ただ普通はそれが不可能なために、偶然とか、運、不運で片付けてしまうのである。
現代科学は壁に突き当たりながらも発展の途上にあるが、物質科学をもって偶然、必然を測定しようとすると無理が出る。
なんとなれば、人間は物質ではなく、意識という心を所有し、その心の一部に記録された過去世の遍歴と、今世の想念と行為が因果を作り出しているからである。
偶然とか運、不運を口にする前に、まず神の子の自分に立ち返り、今を正しく生きるよう努めることである。
運はそうしたなかから開けてくる。

以上。

―――――――――――――――――――――――

>偶然とか運、不運を口にする前に、まず神の子の自分に立ち返り、今を正しく生きるよう努めることである。
>運はそうしたなかから開けてくる。

「運・不運」「神の子の自分」・・・
「今を正しく生きるよう努めることである。」
上記に付いて、これだけだと「それでは、どうしたら良いのか」の方法がわかり難いと思いますので、この記述に付いて信仰心に絡んだ内容で、引用を使って補足してみます。
以下、高橋信次著「心眼を開く」第四章 正法について

「おめェー、信心とか信仰とはどういうものだと思う?」
「神さまに手を合わせることじゃねェか・・・」
「神社、仏閣などにいってか?」
「・・・まあ、そうだな」
「じゃあ、神社仏閣へ行って、何のために手を合わせるのだ」
「そりゃあ、家内安全、商売繁盛を頼むのさ」
「頼んでご利益あるか?俺の知人がこの正月に成田山(交通安全の神様)に行って、その帰り道、自動車にはねられ、死んだよ」
「そりゃ信心が足りないからだ。信心が厚ければそんなことはなェさ」
「ところがその人は、常日頃、非常に信仰心の厚い人なんだ。月に一度は必ずお参りに行く。布施もする。人柄だって悪くない。その人が、アッという間に死んだ。これをみて俺は、いったい、この世の中に、神様とか仏様はあるんだろうかと思ったね。日本には随分と、いろいろな教団や教えがあるらしいが、サッパリよくならなねェじゃねェか。悪くなる一方だ。第一、神様や仏様が多すぎる。仏教一つとっても何百何千だろう。その何百何千が、我こそはとやっている。おかしいと思わないか?・・・・・・俺は思うんだが、信心とか信仰というものは、そんなものじゃねェ。神様、仏様に手を合わせることじゃねェと思うんだ」
「・・・・・・じゃあ、どうすりゃいいんだ」
「俺にもよくわからねェが、神様、仏様が頼りにならねェとすれば、頼りのなるのは、自分しかいねェってことになるなあ・・・」
「・・・・・・・」
「人にウソはいえても、自分にウソはつけねェもの。自分にウソがつけねェってことは、自分の中にも、神様、仏様があるってことじゃねェのかなあ・・・。だから、手を合わせるとすれば、ウソのつけない自分に、手を合わせるより仕方がねェと思うが、おめェ、どう思う」
「・・・・・・」
この会話は、ある寒い朝の、地下鉄の中での風景であります。二人とも中年の出稼ぎ労働者らしく、言葉はぞんざいですが、話の内容は、筋が通っています。近頃、珍しいと思って紹介しました。
この会話にもある通り、家内安全、商売繁盛のご利益信仰は、今や世上を覆っています。科学万能といわれながらも、これと並行して神信心が流行するのも、人間は一寸先が闇であり、同時に、自己保存の念がますます強くなっているからです。信仰の目的が自己本位、自分さえ良ければ、という考えに根ざしているからです。
神信心して交通事故に会うのも、こうした、利益追求、自己本位のあやまった心の状態が原因になっている場合が多いのです。人間は、信仰するしないに拘わらず、各人の運命そのものは、自分が作り出していることを知らねばなりません。運命とは、命を運ぶことであり、命とは、己自信でありますから、己自身が黒い想念に支配された場合には、黒い想念に運命をまかすことになってしまいます。成田山に行って死に見舞われるのも、その人の信仰そのものに、どこか間違いがあり・・・
【中略】
「人にウソはいえても、自分にはウソがつけねェ」
という考え方は、真実そのままであり、人間の姿を、ありのままにみつめた正しい信心であると思います。
人間、神の子、仏の子といわれる理由も、また、万物の霊長といわれるゆえんも、ここにあります。
人間には、心があり、心は神仏に通じています。なればこそ、自分の心にウソが言えないのです。ですから、信心とは己の心を信ずることです。ウソの言えない己の心を信じ、その心の命ずるままに、日々の生活を送るようにすれば、間違いはないということなのです。

以上、高橋信次著「心眼を開く」から引用。

いつもどおり、引用が長くなりました。(≧m≦)ぷっ

>まず神の子の自分に立ち返り、今を正しく生きるよう努めることである。

それには、

>ウソの言えない己の心を信じ、その心の命ずるままに、日々の生活を送るようにすれば、間違いはないということなのです。

と、いうことかと思います。
神の掟・・・にしても、また「心理」についても、普通の人では届かない奥深いものの様に思われますが、私は時々物思いにふける時、本当は誰にも分かるシンプルで単純なもの・・・と思うときがあります。
ところでこの世では、あの世の生活とは違い、お互いに人の心を自由に見通すことが出来ないから、自分の意に反し相手に対するウソがあっても、すぐには差しさえはありません。
自分の本音は別として、相手に合わせて表面だけ取り繕っておれば他に迷惑がかからずに円滑に物事が進むと思われる場合があります。
(純粋に慈愛の心で、相手の利益を考える「ウソも方便」は別として。)
しかし、そんなことを繰り返し行い、心に素直さが欠けて、暗い想念として残ったままだと、ひいては不運を自ら招き、自分で自分を苦しめてしまうようです。
それよりも、俗に云う「あけっぴろげ」の性格の方が、他に迷惑と思われることがあっても、自分と他に対しウソをつかないので、その素直さが天国の門に近いところにいるのかもしれません。

>ウソの言えない己の心を信じ、その心の命ずるままに、

これについて、スウェーデンボルグの「死後世界」によると、
「天界でも地獄でも、あることを考えながらしかもそれと違うことを行うといった分離した心を持つことは許されない」と述べてあります。
また、
生活や考えの中に、だれにも知られたくない部分があるのは自然なことです。しかし、自分の内部の考えを外部に晒すことは、残酷でも卑屈な経験でもありません。もしあなたが「天界を選択」しており、自分を〈霊たちの世界〉で完成させるなら、これは、霊的浄化の積極的、本質的な部分であり、あなたがこの世の生活の中で始めなくてはならないものです。あなたがこの世で、この浄化、すなわち変革を行えば行うほど、〈霊たちの世界〉で行わなくてはならないことは、どんどん減ってゆくでしょう。
・・・とあります。
本当の心に偽り無く、自分の内面を白日の下に晒す勇気の問題かもしれません。
もっと、スウェーデンボルグで紹介したい内容がありますが、もう止めときます!
文章がだらだらと、長すぎてしまいました。
読んでいただいている皆様、すみません。(汗
別の機会に書きたいと思います。
長文をお読み頂きまして、ありがとうございます。


タグ : 高橋信次:GLA誌より



[ 2007/05/07 15:45 ] 随 想 | TB(0) | CM(8)

「助 力」 高橋信次 

月に一度、GLA関西本部の月刊誌発行に合わせて、高橋信次先生の随筆をあげています。
興味が御座いましたら、ご覧下さい。
以下、GLA関西本部発行 2007.6月号月刊誌より転載


「助 力」

正法は自力である。
なぜなら、人間は神の子であり、原因・結果の因縁因果は、すべて自分の想念と行為にあるからである。
因縁因果を超えるには、善念を起こし、勇気と努力を持って自分を変えていくしかない。
守護霊の助力はそうした時に働き、私たちを導いてくれる。
最近ややもすると、こうした自力の精神を忘れ、いたずらに固有の天使の名を呼び助力を求める傾向があるのは遺憾である。
もちろん、天使の名を心に思い求めれば手を貸し与えてくれることもあろうが、しかし、それによって(たとえば病気)奇跡が起こり急場をしのいだとしても、病気の原因を根本的に改めないかぎり、また同じような、あるいは違った形で病をつくり出していくだろう。
自身を省みることなく、固有の天使の助力を求めることは、それはとりもなおさず他力の所業であり、他力はやがて欲望充足の道具と化してしまう。
このことは、自身を守っている守護霊をいたずらに口にする場合も同じことである。
ただ、守護霊の場合はその人を専任で守護し指導しているので、純然たる指導霊ないしは天使とは趣が異なる。
したがって、なにかあった場合、助力を求めたいときは守護霊の名なり祈願文を唱えるなりして助力を求め、決して固有の天使の名を口にしてはならないのである。
ユダヤ教のヤハウェー(エホバとも言う)も、このことを再三注意している。
注意の趣旨は、自身を省みることなく、いたずらに助力を求める傾向が強くなると、信仰自体が他力と化してしまうからである。
また、天使も地上の人びとが求めれば、他の重要な(天上界での自分の)仕事をおいてもその声に耳をかさねばならなくなり、それが時には、より多数の(天上界の)人々を犠牲にしなければならないことも起きてくるからだ。
それだけに、自分の都合のみを願って固有の天使の名を口にしてはならないのである。
人の心は一つにつながっている。
そのつながりは自身の守護霊であり、ついでその守護霊の近しい友人、先輩なりの指導霊であり、さらにそれにつながる天使の指導霊、そうして大指導霊とつながる。
こうして人の心は、光の子として、すべて一つにたばねられている。
それゆえ、助力を求める手順は、まず自身の守護霊であり、守護霊が経験不足の場合は、守護霊から指導霊なり天使に連絡される。
そうして、本人が知らない間に(自覚している者もあろう)、指導霊なり天使の助力が行われ、それが時として奇跡となって現れたり、智慧の涌現として、その人を助けるようになる。
しかし、こうした助力というものは、日頃の本人が努力しているか、誠実、真実であるかどうかによって、大いに変わってくる。
つまり、指導霊の助力の根底にあるものは、他力ではなく自力の精神であるからだ。
他力の生き方は、本人の人間性を否定し、神の子の創造力を曇らせる。
神は、自分を愛するものを愛し、自己の神性を否定する者を拒否する。
人は神の子であり、自分を愛せない者は神を否定し、、人を愛することができないからだ。
この意味において、いたずらに現実の現象、奇跡のみに心をとらわれ、自らを省みない行為は、厳に慎んでもらいたいものである。

以上。

――――――――――――――――――――――――――――

ここでは強く、「自力」の重要性について、理由付けを含めて書かれてあります。
良いも悪いも、すべて目の前に展開する事象は自分がつくりだし、自分の力で解決しなくてはならないようです。それを避けたら原因が解決するまで、新たな学習を課せられるようです。
どうしても解決できない時に「他力」にすがるんですね。
人間誰でも自分、あるいは身内が病気にでもなると、しかも医者の力では何ともならない、となれば神様に祈願したくなります。それが普通の人情でしょう。
そして助力を求めるのに、固有名詞を使ってはならない、とあります。
仮に自分が病気になった場合、身内がいるのにアカの他人に看病を依頼することはないし、仮に依頼した相手が慈悲深い方であっても相手の都合というのもありますので、そう簡単には四六時中とお願いできないですね。
しかも、身内がいるのにそれを無視して他人に看病を依頼する、としたらその身内の方の心を思うと、自分と関係が遠い、他人に依頼する・・・。そんなことは簡単に出来ないと思います。
まずは、一番親しい守護して頂いてる方にお願いする・・・。
分かるような気がします。誰にでも身内、必ずその存在はありますから・・・。

長文をご覧頂きまして、ありがとうございました。

――――――――――――――――――――――――――――――

以下、上記にある「祈願文」全文です。
精神修養内容ですが、個人によっては当然のことながら宗教色に抵抗が生じますので、その場合は無視されてください!
紹介させて頂く、ということで参考のために掲載しています。

タグ : 高橋信次:GLA誌より



[ 2007/06/01 21:41 ] 随 想 | TB(0) | CM(18)

反省すること、そして己を知ること 

過去、現在、未来は一点であり、集約されて今、自分というものが存在している。 
ということを高橋信次先生の講演の中で聞いたことがあります。  
過去、数え切れないほど幾転生をしていながら、今の自分が総決算された姿だということです。

もう少しは、ましな自分(笑)でありたいのに、今の自分を考えると少しがっかりする思いもあります。(汗
もちろん今後の自分に期待をしていますが・・・。
それだけに、原罪あるいは業の深さを思い知ります。 

仮に一つ前の前世が、ある程度人間らしく神の子として、精一杯やるべき事はやって生きてきたのに、かたや今生では自分が生まれてくる前に、自分で計画したにもかかわらず、自分の置かれた新たな厳しい学習の環境などなど・・・に災いされ、そして自分の至らなさゆえに、中途半端で終えてあの世に帰る・・・。
うまくいった方が少なく、そのくり返しをやって、今の自分を作り上げてきたんでしょうね。

生活上、神の理からして、間違いがあったら、その間違いは修正しなくてはなりません。
すんだことだから・・・と考えて、ほうっておいても再度間違いをおかす可能性は高くなります。
反省して間違いの原因を突き止める、そして今度同じ状況下になったときに、原因をしっかり押さえておけば、同じ間違いはしないはずです。
しかし、腰が重いのと(笑)自分自身に甘いために、なかなか前進しないです。(汗 

何か焦っていたり、ネガティブになっている自分ではありませんが(笑)、以下、取り上げさせて頂いている文章を読みながら、己を知ること、そして反省の大事さについて、なんだかここ最近、私はあらためて感じ入っております。
今の自分の心にゆとりがあるんだろうか?

以下、1971(昭和46年)6月号の月刊 「GLA」 誌から引用、紹介致します。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

「心にゆとりを」  星 洋子

普通、私たちはあの世といいますと色々想像したりしています。
霊視のきく方、あるいは夢の中に出てくる世界をあの世と思っておられる方もございます。
私たちの生命はあの世が元でございます。
高橋信次先生がお話しておられますように、私たちの生命の元はあの世であり、この世はただ現象化された世界なのでございます。
本当はあの世の方が皆様は好きでございます。
なぜかと申しますと、この世は魂の修行所であり、この地上界を仏国土にする、調和させるという使命があって出てきているからであります。
この世は苦しい学校と思ってください。
私たちの生命は何故にこの世に生まれてくるかといいますと、人間は常に転生輪廻して魂の修行を重ねているためであるからです。
私たちがこの世に生まれてきたのは両親という縁によってであり、そうしてその両親の環境、金持ちであるかないか、その時の思想などによって人間形成に大きくひびいてくるものでございます。
人の生命はこうした転生輪廻のくりかえしの中で、自分の性格というものを作り上げて生きますが、キリスト教ではこうした人間の性格をとらえて原罪といい、仏教では過去世の業(カルマ)と申しております。
そのような性格、生命を持って、また肉体的遺伝をうけつぎ、そうした中で修行しなければならないのでございます。
やがて私たちはそうした環境の中で行為し、思惟し、そのさまざまな修行が意識の中に記録され、その記録を持ってあの世に帰るのでございます。
よく先祖の供養といって仏壇に手を合わせる、人に良いことをしてやったという自己満足、GLAにきて生命の不変や生活の心のあり方を耳で聞いても、心の中で、行為の上でどう処したかによって、あの世にゆく自分自身の姿が分かるのでございます。
五十歳の方は五十歳なりに、自分の意識に書き込まれた環境や教養、その時の思想、習慣によって自分自身がどのように生きて来たか、その生き方を決定づける判断が、果たして本当のものであったであろうか、そうではないのではなかろうかと、考えてみたことがございましょうか。
自分自身をくりかえし反省し、その中で自分の心を見つけ出し、その場で反省できるように自分の心をまず知ることによって、あの世に帰る姿も必然的に分かってくるのでございます。
いくら神理をきいて、自分は聞いているから仕合せである、人に話ができるからこれでよい、というものではないのです。
常に私たちの心の中には神が存在するのでございます。
神というのは、自分自身の心は、無限大に大きく潜在されているところの90%の意識には善しかないのでございます。
その90%の善は、常に悪に対してブレーキをかけ、悪に対しての心のあり方に、私たちは常に10%を牽制しながら生きているのでございます。
その90%の善と、10%の悪、そのような原罪というものを抱きながら私たちは人生行路を渡っておるのでございます。
すべて10%が悪いということはございませんが、私たちが目で見たもの、耳できいたもの、肌で感じたものがすべてでなく、心で感じる、意識で思う、考えることが大事なのでございます。
慣れてきますと、今話した言葉は本物かニセモノか自分で分かるのでございます。
反省ということも時間をかけねばできないと思いがちですが、人と対話しながら、即反省ができ、即懺悔ができ、即そのなかで、相手に本当のことを伝えることができるような心を持つことが必要であります。
禅定をしたり、形を整えたときだけが反省ではなく、自分達の毎日の想念行為が即、善か悪かを見わけるだけの心のゆとりを持つことでございます。
心のゆとりのない方は、いくらどのような行いをしても、進歩的な言葉を使っても、お金儲けをしても、なんの意味を持ちません。
心のゆとりが、即反省のできる大きな力となるのでございます。
自分の心の開拓は常に善であるということでございます。
日々の生活の中で、自分が経験したそれのみをもって物事を判断することは非常に危険なことなのでございます。
自分の欠点、自分の美点、自分の弱味、自分自身の心のくもり、それらの自分の心を分析して、分析することができれば、人からの少々のことをいわれようが頭にくることがなく、納得し理解できるものでございます。
「汝自身を知れ」とソクラテスがいっております。
自分を知らぬ者は、相手の心を見る力を持つことはできません。
誤解や失敗は、みなこうした心を知らぬために起こるものでございます。
自分を知ることによって、神の存在を知ることができると申されているのは、自分の90%の潜在されているところの意識をふさいでいる想念帯の幕が破れて、霊感や霊視ができ、人の心を見る力が生まれてくるのでございます。
そうすることにより、人間としての善、慈悲と愛の心と行為が生まれ、人に対して悩みや苦しみを与えず、自分自身がそのなかで、たとえ苦しみ悩んでも相手に手をさしのべるだけの余裕ある心のゆとりができ、そのような心を、あの世に持ってゆくのでございます。
そうして、その心の世界が、あの世のさまざまな世界にも通ずるのでございます。
いくら地位や名誉があろうとも、この肉体は、いつかは焼かれてしまうのでございます。
持ってゆけるものといったら、五十年、六十年のその人のなした行為と、自分自身の心の在り方であって、あの世の住む世界、段階が決まってくるのでございます。
20070614173644.jpg

以上。

星 洋子さんは高橋信次先生の妹さんです。もう、すでに帰天されてあります。
通力については、随一の能力の持ち主であった、ということを伺ったことがあります。

長文をご覧頂き、ありがとうございました。
読み逃げ、大歓迎です!(≧m≦)ぷっ

タグ : 高橋信次:GLA誌より



[ 2007/06/14 19:04 ] 随 想 | TB(0) | CM(33)

「道について」 高橋信次講演 

高橋信次先生の講演をあげました。
かなり長文ですが、少しでも皆様の何か参考になれば・・・と思います。
読み逃げ、スルーは大歓迎!(≧m≦)ぷっ

先月からの続きです。
今回、追加した文章は色を変えて下の方と〈続きを読む〉に up しています。
なお今回で、この演題は最終回になります。


以下、GLA関西本部発行の月刊誌より転載。2006.11月号~2007.7月号

――――――――――――――――――――――――――――――――

この稿は、昭和47年12月10日、関西本部定例講演会での内容をテープより書き起こしたもので、一部加筆・訂正を加えてあります。

演題 「道について」

本日の講演は「道」という題で説明したいと思います。
私たちが生活する環境の中においても、道というものにはいろいろとあります。
まず、自動車をみますと、これには道路交通法というのがありまして、ルールをちゃんと作ってあります。
一方において、空の方にもルールがありますが、最近は航空機事故が非常に多くなっております。
鉄道もまた同じです。
これにもルールがちゃんと存在しております。
かつて私が(戦時中)飛行機に乗っていたときは、航法というのがありまして、気流とかいろいろな気象条件というものを規準として、飛行機の通る道をちゃんと明示してあります。
それにもそれぞれの厳しいルールがあります。
しかし、私たちの人生におけるところの心というものに対する道というものが、いつの間にかわからなくなってきております。
それが「末法」という時代です。
人間の心の内というものは、人間の知恵によって変えることが出来ません。
道路交通法にしても、あるいは空を飛ぶ航法にしても、この法というものはある程度自然というものを規準にしますが、人間の知恵が作り出すものです。
しかし、私たちがこの地球上に生まれてきて成すべき道というものは、人間の知恵が作り出すものではありません。
先ほどもT弁護士が説明しておりましたように、調和された大自然が人間の在り方を教えているんです。
しからば、人間の道とはいったい何でしょう。
インドの時代に、ゴーダマ・シッタルダー(お釈迦様)は「生老病死」という、人間の生まれてきたこと、病気をする、年をとる、死ぬ、というこの四つの問題は苦しみである。
その苦しみを除く道、それにはどうしたらいいのだろうかと追求し、三十六年間かかって悟り得た道が「八正道」という道だったのです。
それが先ほどもT弁護士が言われた、調和への道なのです。
そもそも、今から二千五百有余年前におけるところの仏教というものは、プターストラーと言いまして、「悟りへの道」ということです。
しかし、二千五百有余年後の現代におけるところの日本の宗教というもは、全てが他力本願です。
正しい人の道というものは、他力によって得られるものではありません。
人間の心と行いというものがどういうものであるか、あくまでも人生におけるところの苦しみというものは、自分自身の思うことと行うことが、正しいルールに適っていないときに苦しみが起こるのです。
プターストラー悟りへの道というものは、即ち、我々自身が、この地上界に生まれてきたところの目的と使命というものが、どういうものであるかということを悟る道なのです。
しかし、我々はこの地上界に生まれてしまいますと、本来100パーセントの心というものが90パーセントは潜在してしまいます。
そのため、次元を超えた世界、あの世という本当の世界、実在の世界を忘れてしまいがちなのです。
心が曇れば曇るほど、次元を超えた世界というものが曇ってしまいます。
あたかも人類の作り出した物質文明が、公害を作って太陽を阻止しているのと同じです。
我々はまず、間違った道というものは人間自身の知恵が、人間の「我」が作り出してしまったということを知らなくてはいけません。
仏教も二千五百有余年の間に、いつの間にか一生懸命お経をあげれば救われると、あるいはまた、神社仏閣にお参りすれば救われる。
病気になるとつい頼りたくなるとなってしまいました。
まずこのような不調和な結果に対しては、必ず原因があるはずです。
その原因がどこにあるかということを悟ることなく、結果だけで目先真っ暗なのが現代社会の人々です。
現代社会におけるところのあらゆる精神的な面を通しての混乱も、物質的な文明というものの奴隷になりさがっているところに原因があるのです。
私たちは、この地上界に生まれてきた時は全く裸です。
どんなに経済的に恵まれている場所に生まれようとも、その方は決してお金や財産を持ってきていないのです。
また、この地上界を去るときにも、いかに皆さんに財産があり地位があろうとも、それを持って帰ることは出来ません。
そこで、我々自身にとっては次元の違った世界、あの世という世界こそ実在の世界であり、我々は、あの世とこの世、即ち、色即是空、実在と現象の世界を輪廻転生しているということです。
我々はその「道」を歩んでいるのです。
そして今もまた、皆さんは自分自身のあらゆる環境を通して、人生の新しい学習を続けているのです。
人間の心というものが調和されてまいりますと、やがて我々は次元を超えた世界を、自由に見ること、聞くこと、話すことが出来るようになってきます。
それは、般若心経の中にあります「パニャー・パラ・ミター」と言って、内在された偉大な智慧に到達することなのです。
この境地に到達した人をラカンと言っていますが、インドのゴーダマシッタルダーの時代は、当時の言葉ではアラハン(阿羅漢)と言っております。
人間は本来、そのようなアラハンの境地になることができるのです。
生まれてきた時は、皆さんは本来、豊かな丸い心だったのです。
その心の中には、神から与えられているところの本能という領域、感情という領域、さらに知性という領域、理性という領域、さらにその中心には想念という領域があり、皆さん自身の五感五体を通して感じ得るいっさいの諸現象は、心を通して現象化されていくのです。
それは、皆さんの目で見ることは非常に難しいことです。
しかし、あの世という次元の違った世界は厳然として存在し、それぞれがみな肉体を持っているのです。
それは、現代のようなこの地上界に適応したところの物質的な原子細胞によって構成されてはおりません。
あの世からでてくる時には、それぞれが長い転生輪廻の中で、自分自身の魂をより調和した豊かな丸い広い心を持っていたのです。
私たちは、神の体であるこの地上界という場所にまず出てまいります。
先に、次元の違った世界でお互いに親になる人、子どもになる人と、それぞれが約束して登録されます。
両親になる人が先に出ていき、一定の年頃になり結婚をして結ばれていきます。
そのことは次元を超えた世界から皆さんはすべて承知の上で出てきているのです。
あの世では、金持ち貧乏人というものは関係ありません。
あの世から見ていると、その人がいかに人生を豊かに広く丸い心で生きているかということがわかるのです。
あたかも、皆さんが二次元のX軸Y軸を結んだところの映像を眺めて、それぞれの状態を支配し干渉するように、次元の違った世界からは、この三次元のすべて見通す能力を持っています。
そういう世界から、実は皆さんの誰もが出てきているのです。
それだけに、この末法の世の中、厳しい人生を皆さんは自覚して出てきているのです。
子どもになる約束をした人は、お母さんのお腹の中に入ります。
約三ヶ月目ぐらいになりますと、次元を超えた世界から支配にかかりますから、お母さんの意識と自分(子ども)の意識との間にずれが出てきます。
しばらくすると完全に調和されます。
その結果がある人にとっては「つわり」の現象となり、食べ物の好みが変わってしまうのです。
それは、子どもの意識の影響によりなされているからです。
子どもは、十月十日経って空気(出産)にふれます。
皆さん、水の中に氷を入れてみてください。
上から落としますと、瞬間は百パーセント沈んでしまいますが、徐々にまた上に上がってきます。
氷というものの密度は約九十二パーセント程度ですので、計算して水を百としますと、だいたい十パーセントしか表面に出ません。
それと同じように、神の体であるところのこの地上界という場に出てしまうと、皆さんの魂自身も、自然界の万象万物と同じ現象(法則)が起こってくるのです。
そのために、空気にふれて「オギャー」と泣くと同時に、十パーセントしか表に出てきません。
残り全部が潜在してしまいます。
そして、徐々に本能の領域というものが芽生えてきます。
その結果、黙っていても(教えなくとも)母親のオッパイ(母乳)を吸うようになります。
一週間経ち、二週間目ぐらいになりますと、小さい子どもは、周りに誰もいないのに「ニコニコ」と一人で笑っていることがあります。
それは次元の違った世界の魂の兄弟たちが、そばに来ていろいろと話をしているからなのです。
「お前、今度はしっかりやれよ」
「わかっております。がんばります」
彼らは祝福されているのです。
心の眼で見える人たちには、光の天使、あるいはその魂の兄弟たちが、その子どものそばにいるところをはっきりと確認することが出来ます。
こうして成長し、だんだんと自我が芽生えるようになってきます。
自己保存が強くなるにしたがって、生まれた環境、教育、思想、習慣、こういうものを通して子ども自身の性格は形成されていきます。
同時に、その子どもは、転生輪廻の過程において潜在されているところの九十パーセントの意識にも徐々に影響されて性格が生まれてきます。
こうして、五歳、六歳、・・・・、大きくなるにしたがって、少しずつ子どもの人格というものは形成されていくのです。
我々は、習慣からくるところの肉体先祖というものが、絶対だという間違った考え方をいつもの間にか身につけてしまいました。
親は子どものためと思って一生懸命に教育もし、自分の出来なかったことを託そうとする。
その心は良いが、期待が大きすぎて、いつの間にか子どもは親の言うことを聞かなくなってしまいます。
実は、地上界(この世)に生まれ出てくるために肉体の舟の約束はしても、魂までは親子ではないということを知らなくてはいけません。
しかし、我々はこの地上界(この世)に生まれてきた以上、自然というこの環境の中にあって、万象万物相互の関係によってこそ肉体を保存し、子孫を保存することが出来るのです。
太陽の熱、光は、金持ち貧しい人、地位、名誉等に全く関係なく、皆さんに平等にそそがれています。
神の光(エネルギー)もまた、すべてに平等に与えられているのです。
が、心の中で思うこと、行うこと、これが神の道である中道とは違う片寄った道を歩んだときに、その人の心の中に歪みが出来、自らして心の中にスモッグを作り出し、神の光(エネルギー)をさえぎってしまうのです。
そこに苦しみが出来てきます。
人間の心というものは、一念三千、三百六十度の丸には、始めもなければ終りもないように、心の針というものは、その人の心の状態によって違ってきます。
その心の状態が、すべてその人の苦楽というものを形成しているのです。
我々は、すべて自然の恵まれた環境の中に育っています。
その自然の恵みに対する感謝の心を行為として、人々に尽くす道を、また自然は教えてくれているのです。
同時に、両親は私たちを産んで育ててくれました。
それに対する感謝の心は、神の子として、お互いに親孝行するということは人間として当然の道なのですが、それがわからなくなってしまったのが現在です。
自然界は、すべて人間の在り方を教えているにもかかわらず、ただ祈れば救われると、人間の脳細胞まで狂わせてしまった。
宗教はアヘンと化してしまったのです。
思想というものは恐ろしいものです。
あの世(実在界)では、決して曼荼羅や仏像などは祀ってはおりません。
初期のイエス・キリストの時代においても、あるいはその前のゴーダマ・シッタルダー(釈迦)が神理を説いた当時にも、依然として旧来からの古い一つの宗教環境がありました。
ゴーダマ・シッタルダーの当時には、ヴェダーやウパニッシャド、すなわち、バラモンを中心として多くの宗派が乱立しています。
そして、バフラマン(梵天)、インドラー(帝釈天)など、そのようなものを神とあがめ、偶像崇拝が非常に盛んでした。
また、ヨギ・ストラーと言いまして、山中に入り、肉体的荒行をしたり、自分の雑念を無くそうとして禅定をし、神に到達したというような間違った道を踏んだ人たちが非常に多いのです。
しかし、そんな時代においてゴーダマ・シッタルダーは、人間の生きていく上において、正しく語ること、聞くこと、そして、自分自身が正しく見ること、正しく仕事をすること、という片寄らない八正道の道を人間が実行したときに、心の曇りが晴れていくと説いたのです。
その晴れた状態で、自分自身の日々の生活を積み重ねていけば、心の中は精妙になり、自由に次元を超えた世界と交渉を持つことができます。
逆に、禅定三昧とか言って肉体行だけで煩悩を滅しようとするが、心の中では何を考えているかわからない。
こういう状態で禅定しますと心の針は一念三千ですから、どちらに向いてしまうかわかりません。
不調和な世界に通じてしまいます。
現代、問題となっているスモッグも、太陽の熱が強くなれば当然そこには光化学スモッグというような、一つの新しい現象が起こってきます。
と、同じように、禅定だけで人間は救われるものではなく、調和されるものでもありません。
一秒一秒の正しい中道に基づいた生活を行い、これが積み重ねられた時に人々の心というものの窓が開かれていくのです。
当然のことながら、アラハンの境地にもなっていきます。
そして、アボロキティ・シュバラーと言われる観自在菩薩の境地にもなっていくのです。
その観自在菩薩と称する境地も、実は永遠の転生輪廻を繰り返してきている今までの積み重ねられたところのキャパシティ(容量・受容力・能力)によって違ってくるのです。
過去において、でたらめ三昧をやって地獄に堕ち、地獄界において自分自身神の子としての自覚を得て天上界へ行きます。
その天上界で、五百年、千年、自分自身というものの心の状態を反省し、神の子としての道に到達して修行をします。
けれども、そういう状態が繰り返されている人々は、なかなかアボロキティ・シュバラーの境地になることは出来ません。
こうして我々自身は、仏教を通してもキリスト教を通しても、一番根本にあるのは偶像崇拝ではないということを知らなければなりません。
大事なのは、人間自身の肉体と共にある光子体になっているところの人生行路の乗り舟の船頭さんである、すなわち魂、その中心である心というものの在り方を教えているのです。
インド時代のゴーダマ・シッタルダーは、二十九歳の時に家庭を捨て、六年間も山中に入って苦しい修行をし、人生というものを悟っていきます。
そして、慈悲という偉大なるものを説きました。
しかし、愛ということを説かなかったのです。
その後、約二十数年遅れて、ベンシャラーという男が出まして(出生)、愛という道を説いていきます。
皆さんがよくご存知の大日如来です。
さらにそれでも足りなくて、一世紀にガレリア地方に生まれたイエス・キリストという男が、愛という道を説いていきます。
愛と慈悲は十文字です。
慈悲というものは大自然を通して大きく広がり、愛というものは横に広がるところの、調和されたものでなければならないのです。
こうして、イエスにしても釈迦にしても、人間の心と行いというものの在り方の規準、その道を説いていったのです。
しかし我々は、そういうことがいつの間にかわからなくなって、一生懸命にお経を唱えることに専念してしまったのです。
この地上界というのは、地獄と天国がミックスされた世界ですから、そうすることによって違うところから霊的な現象が出てきます。
次元を超えた世界からは自由にこの地上界を見ることも出来ますし、来ることも出来るのです。
全然わからないから、これが良いと思えば一生懸命に拝み、どこどこの神々で、霊験あらたかだといえば崇拝してしまいます。
我々の心というものが、正しい道を知っていないために盲目になり、それが、狐か狸か何かわからないにもかかわらず、そういうものが信心の対象になり現象が出てきます。
そこにまた一つの新興宗教が出来上がってきます。
動物霊であっても少しぐらいの病気なら治すことが出来ます。
しかし、本来心という問題に対することに彼らは触れることは出来ないのです。
イエスや釈迦のように、人間自身の普遍的な正しい神理という道を説いてはおりません。
自分自身の心というものはわかりませんから、一生懸命に手を合わせて拝んでいるうちに、神のお告げだと言って出てまいります。
そうすると、皆さんは盲目になっているのですから、神様が降りてきたと思うのです。
しかし、残念なことに、その人自身が神と全く同じ状態の心と行いを実践していない限り、降りてくるはずがありません。
私のところで作っているコンピュータというものは、あらゆる計算を通してデーターが出てきます。そのコンピュータ自身も、最初に与えた計算だけは確実にやります。
人間のように、勝手に自分で考えたり感情を持ったりしていませんから、スイッチさえ入れればきちんと計算してくれます。
このように、機械と人間の違いというものはそこにあるのです。
しかし、人間自身にも心の調和の状態によるレベルがあります。
皆さんは仏像を知っているでしょう。
おそらく心の眼を開いた人たちがああいう物を造っているはずです。
菩薩という仏像を見ると、たいてい頭のところに後光が出ています。
如来になりますとその後光がさらに大きくなります。
これは、その人の心の状態、調和の状態に光が比例しているのです。
皆さんの肉体の後ろに出ているところの光はそれぞれ誰からも出ているのです。
ただ、恨み、妬み、そしり、怒り、こういう心を常に持っている人たちは、その光を消してしまっています。
心が調和されてきて、常日頃、思うことと行うことが正しい神の道に適った生活をしている人たちには、ちゃんとその後光が出ています。
その光の量も、自分の心の調和された状態に応じて違っています。
当時(インドの時代)は、一週間山中に入って、自分の心というものを見定めて初めてゴーダマ・シッタルダーの前で、
あなたは、まず私を信じますか。
あなたは、私の説く法を信じますか。
そして、私の集団、すなわちサンガー(教団)に帰依しますか。
という三つの約束をして、弟子入りを許されたものです。
一人ひとりの心というものは、調和されていれば後光が出ていますから、すぐに入門する資格が与えられます。
しかし、現代社会では違います。
心が不調和でも、お金を持っているか或いは調子のいい人たちのように表面だけを飾っていてもいいのです。
ところが、GLAではそれは通りません。
相手の心の状態、光をすべて見通す人たちが、何人も何人も出ているのですから、ごまかせないのです。
口先だけで上手いことを言ったところで、これはだめです。
人間には、それぞれ魂の乗り舟である原子肉体の後ろには、ちゃんと光子体というものがついています。
この光子体は、自分の心が調和されていれば(黄金の)光が出ていますし、調和されていないと光は消えます。
現象界(この世)から実在界(あの世)へ行く時、すなわち死を迎えた時、離れていく光子体の肉体が、暗いか或いは光に満たされているかによって、地獄、極楽が決まってしまうのです。
質量が重ければ、地獄です。質量が軽ければ、天上界です。
その世界を仏教では金剛界と言っています。
それは光の世界です。こういう世界に行く人たちは、仏像に出ているのと同じように後光に満たされています。
まず、八正道という、正しい人間の心と行いというものの道を極めている人たちなのです。
そういう人たちは、生きていながら次元を超えた世界に行って見てくることができます。
それは、光子体と原子体の肉体を結んでいる霊子線というものがあるからです。
皆さんの心は、光子体の中に入っています。
ですから、夜、眠ってしまった時には、光子体が肉体(原子体)から離れている場合が多いですから、どんなに立派に鼻の穴が開いていても耳の穴が開いていても、見ることも嗅ぐことも聞くことも出来なくなってしまいます。
人生行路の乗り舟から、船頭さんが降りているからなのです。
生きている間は、この舟と皆さんの光子体の舟とは、ちゃんと霊子線でつながっています。
この霊子線の光が、あの世に帰る道なのです。
片寄らない中道の道を、心と行いを通して実践している人たちの道(霊子線)は光に包まれます。
それは、光のドームのようなところで、その中をものすごいスピードで駆け巡っていきますと、次元の違った世界へ到達いたします。
神を信じない人たち、自分自身がでたらめ三昧で、人の道を行わない人たちは、そのまま地獄界、真っ暗の中へ堕ちていきます。
この地上界というところは、そういう人たちが非常に多いのです。
その結果が、社会の混乱であり、人々の意識に悪い影響を及ぼします。
これがまた、病気という現象になってくるのです。
皆さんは、わからないでいるけれども、この地上界は、地獄と極楽がミックスされている世界なのです。
そのために、心がきれいならば、その人たちは光の保護を受けていますから、バチが当たったり、憑依されることはありません。
うらみやねたみ、そしりや、家の中が不調和で、わけもわからないものを一生懸命拝んで、違うものを拝めば邪宗だと決めつけるような人たちの心は、阿修羅界という世界に通じています。
そういう人たちには、心に安らぎがありません。
本当に信心深い人たちというのは、お経をあげたり、そのような場所へお参りするものではなく、片寄らない中道の道を、一秒一秒怠りなく生活をしている人たちのことをいうのです。
中道の道を歩んでいる人たちは、常に光明に満たされ、その時に初めて他力の力を得ることができるのです。
実在界を通して、あの世の偉大な力を皆さんは受けることができるのです。
それゆえに、正道という片寄らない中道の道を自分の心の物差しとして、間違いがあったならば素直に反省をして、それを修正してより自分自身を謙虚に、人に対して慈愛の心を持った生活行為を積み重ねてゆく、自分の欠点を修正する勇気が必要です。
自分自身の欠点は、自分にうそをつけない善なる心が一番よくわかっているのです。
皆さん自身の生命は、転生輪廻の中で、ある時にはナザレの丘においてイエス・キリストの道を学んだ人もいるのです。
あるいはまた、ゴーダマ・シッタルダー(釈迦)のラジャグリハの郊外において、その道を聞いた人たちも皆さんの心の中に潜在されている意識の中には記録されているのです。
それをひもといた時に、我々は物質文明の奴隷ではなく、物質文明は人類のためにあるんだということに気がつくのです。
そして、より平和な調和された人類の道を自らして切り開いていかなければならないのです。
我々は、このようにして平和な安らぎのある魂というものをより豊かにつくり上げていくのです。
今、皆さんは物質文明という最も厳しい社会の中で自分をしっかりと見つめる時がきているのです。
我々の作り出したコンピュータよりはるかに精度の高い巧妙な皆さんの意識は、次元を超えた世界を自由に行き来することができるのです。
イエスにしても、釈迦にしてもその能力を持っておられたのです。
今、我々の中にも、そのような体験をしたさまざまな人たちが出てきています。
人間は永遠の生命であり、生まれることも滅することもないのです。
皆さんはただ、死とか生とか言うけれども、これは肉体という舟だけを通して、その形だけを追いかけているのです。
重要なのは、その舟に乗っている船頭さんというものに、皆さんが目を、そして心を向けた時に、我々の生命の妙(たえ)なるものを知っていくのです。
我々の科学は、やがてこのような事実を多くの人々が現象化し、信じざるを得ない時が来るのです。
現代科学は、まだメッキのようなものなのです。
現代医学が最高峰だとしても、医学そのものもほんのまだ初歩的なものにしか過ぎないのです。
ノイローゼの原因一つにしても、まだ医学者たちは、人間の脳細胞はモノを記憶する装置であるということを言っているうちは遥か彼方のことです。
人間自身のすべての記憶されているところの装置は、皆さん自身の肉体の船頭さんであるところの魂が、すべて記憶しているのです。
どんなに悲しいことがあろうと、苦しいことがあろうと、眠っている時には、皆さんは全く何もわからないのです。
眠りから覚めて、肉体の全てを魂が支配した時に、また苦しみや悲しみが出てくるのです。
その全ては皆さんの心がつくり出しているのです。
その心というものをしっかりと見極め、まず自分の心のどこに歪があるのかということを見極めて、たとえ、夜寝る時に十分でも、十五分でもいいから、自分の心の中に、感情の領域がふくらんで理性を失っているか、本能の側から見て感情がふくらんで心の中に歪をつくっていないか、あるいは、学問的に自分の知性だけを過信して、自分自身の心に歪をつくっていないか、こういうものを一つひとつチェックしてみてください。
自分の心で「行い」と「思っていること」が、本当に正しい道を歩んでいるか、ということを皆さんが知っていたならば、そこからはずれた場合、必ず、間違っている分野を修正する道へと進むことが出来るのです。
反省は、我々の思ったことと、行ったことを一つひとつ心の中でチェックし、不調和な分野を修正していくところの、神から与えられている正しい道なのです。
人間の間違いは、目を開けているだけではわからないのです。
そのために、色々な不調和な諸現象を作り出します。
それは、修行の場として神から我々に対して、反省の機会を与えられているのです。
”間違いは改むるに、はばかることなかれ”です。
素直に認めて謝ればいいのです。
個人相談に来る人たちは、病院へ行っても治らない、霊的な現象に支配されている人が多いです。
私のところのビルの下は病院です。
その病院で治らない人がよく上がってきます。
この前も、浅草で、昔から楽器を売っている店があります。そこの方が、十何年も半身が全く動かないのです。
医者に診てもらっても原因がわからない。
そこで、店の従業員の紹介で、私のところへ訪ねてきました。
みたところ、その左半身のところに、ご婦人の方が ”ビタッ”と憑いているのです。
”アラッ”これはおかしいと思いました。
そこで、その憑いているご婦人に色々聞いたところ、ご主人のことを非常に恨んでいるのです。
あの世(実在界)へ行っても恨んでいるのは地獄霊です。
さしあたり、動物霊か何かは「さっそく拝んで供養し、祀りなさい」と言うでしょう。冗談ではありません。
彼らの住む世界は、この地球上ではないのです。
皆さんの肉体先祖の住むのもこの地球上ではないのです。
それを人間は、お墓に執着を持たせたり、あるいは、形を作ったものに対しても執着を持たせてしまう。
彼らの住む世界はこの地球上ではないのです。あの世なのです。
そこで私は、そのご夫人に対して
「あなた自身は、いつまでもこの者に憑いてはいけません。十数年も主人の側にいるが、あなたのすむ世界とは違うのです。なぜ、執着を持ってこのようにい苦しんでいるのか知っているのですか・・・」
こんこんと教えると、約十分ぐらいの間に、ご婦人は肉体から離れてしまいました。
その瞬間に体は治ってしまいました。
こういうものは、お医者さんではわからないものです。
注射や針、お灸をしたところで、地獄霊は熱くも痛くもないのです。死んでいるのですから。
そういうことを知らないで、我々はややもすると、次元を超えた世界をないがしろにします。
先祖に対する供養ということは、まず皆さんが健康であることです。
そうして、心がきれいで、家の中に、常に明るく平和な環境をつくることが、先祖に対する一番の供養です。
立派なお墓を造ることによって先祖は供養できるものではありません。人生航路のただの舟(肉体)の置き場です。
我々はそのようなものに執着を持ってはいけません。
お墓や石塔に執着を持っているとしたら、百パーセント地獄だということを知らなくてはならないのです。
お墓(死ぬこと)に入っても、そこから首やあるいは手を出している地獄霊たちを私たちはいっぱい知っています。
執着を持たせてしまうことが大きな間違いなのです。
それには、まず皆さんの先祖に、この地上界に執着を持たないように、こんこんと神理を説くことです。
もし、お墓やお寺、あるいは仏壇に執着を持っているとしたなら、これは間違いなく地獄です。
これらは決して祀るものではありません。
(上記の続き。7月号より)
心が不調和になれば、地獄霊たちがまた邪魔をして憑依します。
皆さんは、それが見えないから病院に通ったり、拝み屋と称される方に会いに行ったりします。
そして「あなたの家の先祖を供養しなさい。一生懸命に何日か拝みなさい。」と言われます。
しかし、地獄に堕ちるような人たちにいくら難しいお経を唱えたところで、わかるはずがありません。
「経文とは、本当はこういうものだ。」と、お経の意味をよく解説することです。
「あなたたちはいつまでも人に憑いていてはいけません。私たちはこのように健康で平和な生活をしていますから、どうぞあなたたちの住む世界へ帰ってください。」
と、こんこんと教えてやることが一番大切です。
ですから、大きな墓に入っている人が必ずしも天上界へ行っているかというと、とんでもない話です。
この地上界を占有している執着だけを残しています。
そういうことでは本来困るのです。
皆さんは、家庭の中に色々な不調和が起こった時には、まず、家庭の中のあらゆる現象を見てみることです。
私のところにいる従業員の中に、ある教団に入っていて”ヘビ”を一生懸命拝んでいる人がいます。
彼は成績優秀で学校を卒業し、就職しましたがノイローゼになってしまいました。
一生懸命拝んでいますが、心の中が不調和ですからそこに憑かれてしまいます。
憑かれてしまうとノイローゼになって当然です。
そういう人たちの側には必ずと言っていいほど大きなヘビが憑いています。
”ヘビ”が憑くとヘビの臭いまでします。
”キツネ”が憑くと顔の相がキツネ顔になってくるものなのです。
不調和になって一年近く経って私のところに来ました。
今、私のところに勤めながら、心の勉強をしています。
人間は、わからないからそういうものを信仰してしまうのです。
一時、外から見れば商売繁盛、結構うまくやっていくのですが、内に入れば、家の中がガタガタと崩れ、調和されなくなります。
ヘビだのキツネだのという動物霊は、そういうことをやるのです。
(霊が)見えて、聞こえて、話せたらよいのですが、見えず、聞こえず、話せないのに、そのような者たち(憑依霊)に近づけば、かえって災いに遭います。
「触らぬ神に祟りなし」です。
それだけに、心というものは恐ろしいもので、正しい道を自分が歩んでいなかったならば、本当に我々はとんでもない間違いを犯してしまいます。
肉体の人生行路のいわば道路交通法やあるいは航法という飛行機の飛行よりか、もっと皆さんの心の方がはるかに重大だということを知らなくてはいけません。
その方法は、偏らない中道の判断をした日々の生活がとても大切です。
そういうようにしていったならば、地獄に堕ちる人たちはいないのです。
お経を唱え、いくら一生懸命に拝んでも無駄だということをよく知ってください。
(たとえば)観音経というものは、六世紀の時代に天台智というお坊さんが、観音力の偉大なる力を褒め称えた経文に過ぎないのです。
何のためにお経を唱えなければいけないのですか・・・。
動物霊は人のマネをします。地獄霊も同じです。
正しい道は、あくまでも皆さんの自分の心にウソのつけない善なる心です。
これは、偏らない中道の道なのです。
それを実践した時に、やがて皆さんの心の窓は開かれて、今までの人生に、そして偉大なる神の光を自らが得る道を、皆さんは探し求めることができるのです。

(おわり)


次の新しい演題の講演は来月の次号発刊にあわせて up 致します。


タグ : 高橋信次:GLA誌より



[ 2007/07/05 15:31 ] 随 想 | TB(0) | CM(50)

「謙 虚」 高橋信次 

月に一度、GLA関西本部の月刊誌発行に合わせて、高橋信次先生の随筆をあげています。
興味が御座いましたら、ご覧下さい。
以下、GLA関西本部発行 2007.7月号月刊誌より転載


「謙 虚」

人は、ややもすると自分を過大評価しがちである。 
それも、自分が何で在り、何を為すべきかを悟っているならまだしも、地位、名誉、知識が人より優れているという理由からそのような偏見が生まれるとすれば、その人はなかなか悟ることは出来ない。
人の一生は、普通五十年、長くて百年である。
だが、本当の一生は、そんな短いものではない。
人の一生は、何億、何十億年の年輪を重ね、現在、ここに在るのである。
何億、何十億年の過去世は、潜在意識の中に沈み、容易に外には出てこない。
人はこうした過去をもって、ここに生きているのであるが、そうした長い年輪と、その短い現象界の一生とは、比べものにならないひらきがあるのである。
その短い一生の過程なかで得た知識、地位、名誉におぼれるとすれば、これほど浅薄にして、自己を偽るものはない。
今世の一生を点とすれば、過去世の生涯は線に相当する。
線と点を比較してみて欲しい。
・・・とすれば、今世で得た知識、名誉というものが、いかに頼りないものであり、夢のようなものであるかということを知るであろう。
正法の智慧は、線のなかに内在されている。
その智慧は現象界の知識が呼び水となることはあっても、知識そのものから生まれるものではないのである。
点のその一生を、謙虚に、素直に、正道にもとづいた想念と行為を重ねていくうちに、なかば、忽然と現れてくるものである。
自己を過大に評価し、知識や地位が自分の日常生活の習慣にしてしまっていると、こうした内在された智慧をひもとくカギを、自ら閉ざしていることになるのである。
さらにもっと具体的に、率直に言うならば、人の過去世は十人が十人、正道を学び、自分の血肉になっているかというと、必ずしもそうではないのである。
正道を学ばないのに、それにもとづく智慧も出てこないのも道理ではないか。
過去世に縁があり、今世もその縁につながったことは、何よりも大事にしなければならないが、しかし過去が分からず、実在界も知識の範囲しか知り得ないとすれば、まず現在の自分自身を、正直に、素直に見直すことが何よりも大切である。
自分の心に、誰もウソは言えないはずだし、そのウソの言えない自分に立ち返り、日常生活についても、謙虚になることが、悟りを早める導因となる。
己を知るには、まず何はさておき、謙虚な心から始まり、謙虚な心を持ち続けることである。
そうしてその謙虚な心の培養は、今をおいて、永遠にそのチャンスは訪れてこないということも知ってもらいたいものである。

以上。

―――――――――――――――――――――――――――

この「謙虚」は以前から何度も読んできた文章です。
謙虚とは、言うまでもありませんが、控えめでつつましいことです。
そして、へりくだって、すなおに相手の意見などを受け入れることですね。
どういう状況下であれ、自分を偉い者と思わず、すなおに他に学ぶ気持ちを常に持っていなければなりません。
自分の心の器を、今以上に大きくするには絶対条件のようですね。

「それでは謙虚になろう」と、態ばかり整えようとしても苦しくなり、無理が生じます。自分の内面で偽りの我を作り出します。これは避けなければなりません。
謙虚さは自分の内面から、自然に行為として出て来るのが理想だと思います。
そうすると相手に対する悪感情が湧くことは、なくなるでしょう。
怒り、ののしり、グチなどなど。または、へつらうこと。
もちろん、私は謙虚な人間ではありません。傲慢と増長慢の二刀使い手です!!(汗

それが自然に出来るためには、常日頃の相手への見方というか、・・・相手の姿を見るのではなく、相手の心に敬意を払っておくべきだ、と思っています。

心の姿を断層でいうと、表面意識と潜在意識で構成されているそうです。
潜在意識は守護霊が居る世界であり、「神」(God) に通じています。そう教えて頂いています。

そうすると、そこに着目しなくては、真に謙虚になれないように思います。私見ですが。

どのような悪事を犯している人間でも、God に通じる「心」は所有しています。

ヤクザ映画では、神棚を祀ってあります。
儀式の時や出陣の時に拝んでいるのを観たことがあります。
あの悪党のヤクザさえ、God の神ではありませんが、神に敬意を払っています。
(あくまでも映画の中のことです。本物のヤクザについて、ではありません。汗!)
一般家庭のなかに神棚を置いてある方もいらっしゃると思います。
その神棚に唾を吐きかける人はいないでしょう。

ということは、どのような人に対してでも、相手が所有している心に「神」が居る・・・と思ったら、人を粗末には出来ません。
もちろん、自分にも・・・です。
・・・ただし「神」に対する概念や価値観は人それぞれ、だと思いますが。

今月号が届いて、私はこれを読み返して自分の中でそれを確認していました。
自分の中で「謙虚さ」は、どうなんだろう?
日頃そのように心がけていても、真に心から、そう思えているのか?
無理に装っていないのか?
相手に対して、そう思えるのは、心に余裕があるときだけではないのか?
自分が苦しめられている時でも、そういう中でも自分は、そう在るのか?
・・・そういうことを考えていました。

>そうしてその謙虚な心の培養は、今をおいて、永遠にそのチャンスは訪れてこないということも知ってもらいたいものである。

今日出来なかったら、「明日があるさー」と開き直ることが大事な時もあります。
しかし「今」という時間は、二度と訪れては来ません。
これからも永遠に転生輪廻をかさねていきます。
私は「今しかない」という思いで「謙虚さ」に取り組んでいきたいと願っています。
また、そう思っている今の気持ちは忘れないでおきたいです。

タグ : 高橋信次:GLA誌より



[ 2007/07/12 14:11 ] 随 想 | TB(0) | CM(21)

「羅刹と捨て身の王」 高橋信次 

今回、引用させて頂きます文章は、月刊 「GLA」 誌の前身であります、
「ひかり」 誌(昭和45年12月1日 5号)からです。
以下その内容をご紹介いたします。

―――――――――――――――――――――――――――

【信心と信仰】
人は生命を投げ出したとき、光をみる、永遠の我にかえる――。
素直な心こそ、信心信仰への道であり、今も昔もかわらぬ宇宙の神理は、いまなお人びとの心のなかに、いつまでも、どこにいても、辛抱づよく、あなたを待ちつづけています。
高橋信次先生が過日、八起ビルで講演された羅刹(らさつ)と王の物語りは、信仰の真髄にふれ、きく者の胸をうちます。
以下は、その要旨です。

「羅刹と捨て身の王」 高橋信次

(神理のための献身)
印度の頃、あるタージャンという王と、その家族が神理正法を知ろうとして日夜、神に祈っておりました。
天上界の天使達はそのことをずっと前から知っていました。
そこで、それほど当人たちが正法を知りたいなら教えようということになり、まず、王様の心をその前にためすことになりました。
ある時、天使は羅刹(人を食う鬼)となってタージャンの前に姿を現わし
「私はお前達に法を説くことができる、お前達はいつも神理をききたいといっていた。希望があるなら話してきかせる・・・・・・」
「しかし、話をきかせる前に、お前達の肉体の生血を吸わなければ神理を説くことはできぬ。どうだ、わしのいうことをきくか・・・・・・」
というと、スンダイという王子が、どうぞ私の肉体を食べて下さいといい、わきにいた王子の母親も
「それによって貴方が本当に、心の教えを教えて下さるのなら私の肉体はいりません」
と身を投げ出しました。
王子と王様の妻は羅刹にアッという間に食べられてしまいました。
王様のタージャンは、
「私は肉体をもって神理を知りたいのです。今貴方に肉体を供養するのはやすい。しかし供養してしまえば私は永久にその神理を知ることが出来ない。あの世に帰って神理を知っても時間がかかります。せめて肉体のあるうちに、その神理をきかせて下さい」
と真剣にたのみました。
羅刹はその鋭い目でタージャンの双眸をじいっとみていました。
牙を向けて、今にも王様に襲いかかろうとしている羅刹の形相は、それはそれはこの世のものとも思えぬ恐ろしいものでした。
ところが、どうしたわけかその羅刹がいつの間にか美しい天女にかわり、今食べたスンダイとその母を、王の前に、もとの姿で生きかえらせると慈愛に満ちたそのまなざしで、静かにいうのでした。
「お前達の命を捨てて、神理を聞こうとする心根は分かった。お前達に神理をきかせるからきくがよい。」と。
「人間は皆、神の子。肉体というものは何時の日か地上界に置いてゆかなくてはならぬ、お前達の肉体を支配しているものは、お前達の心であり、その心こそ偉大なる神、仏に通じており、心のない人間というものはあり得ないのだ。心を知ることは、神を知ることであり、己自身を知ることである。お前達は神の子であり、この地上に安らぎと調和を与えるべく努力しなさい。金があるなしによって人をわけへだてしてはいけない。お前達は一国の主だ。公平な政治と心の尊厳を人々に教えなさい」
天女は、このような意味のことを伝えると、サッと姿を消してしまいました。

(己に謙虚、人には寛容)
信仰とはこうしたものです。
神理を知るためには、己自身がどのように罵られ、迫害をうけ、刀で腕を切られようとも、魂の尊厳と心を知れば少しも苦になりません。
魂は永遠不滅であり、それは、心に死というものがないからであります。
正法神理を己のものとするには、またこれだけの覚悟と献身がなければ、本当は得ることができません。
神だ仏だと口ではいい、いかにも信仰があるようにみせても、それが私利私欲につながっているようでは問題にならないのです。
信心というものは、己自身の心の中にあるのです。
ウソのつけぬ心の中に・・・・・・。
勤行といって、朝夕場所を決めて拝んだり祈ったりする習慣があるようですが、私達の住んでいるところは神の体であり、大神殿であり、何時どこにいても、自分がその気になりさえすれば、その心は天に通ずるものです。
肉体という舟に乗りますと、人間はどうしても五官や六根に動かされます。間違いを犯します。
しかし間違いは、間違いで改めるに、はばかることなかれです。
人間だから反省をする。悩みのない人生、苦しみのない神理への到達は絶対にあり得ません。
悩み、苦しみ、己自身が探求という反省の機会があるからこそ、前進があるのです。
信心というものは、そうしたなかにあって神だ、仏だ、と口でいうような、そんな生やさしいものでは決してありません。
己自身に謙虚に、人にたいしては寛容に、そうして、そうした中に、本当の人間としての価値を見出すことを知っていただきたいと思います。

以上

―――――――――――――――――――――――――――――

随分以前に初めてこの文章を眼にした時、何度も何度も繰り返し読みました。
王様そして妻子、もし自分だったら「道」を求めていても、そんな勇気があるのだろうか?などと、問いながら。

ただの物語ですが、この物語と信次先生の解説には、含蓄が多くあり、何度読んでも冒頭に書かれてありますように心は震えます。
妖怪が出てきて命を犠牲にしてまで、というのは現実的な話ではありませんが、そうまでして「道」を求める姿に感服いたしました。
何も実行できていない私(汗)ですが、今世は簡単に本を通して、知識として神理を知ることが出来ました。

ところが「神理は行為しなければ、ただの知識だけでは何の役にも立たない」と聞いています。
死後に持ち帰るのは今世、生きていた時の想念や行ったことのみであり、それが魂に刻まれるようです。

次の転生時には、前世からの魂に記録されたものが、良いも悪い含めてカルマとして、ある意味では持って生まれた自分の性格としても湧出するようです。
前世で知り得た神理の知識(神理以外の知識も)は、多くは奥に潜在されたままのようです。
そう簡単には湧出しないようです。
勇気ある実践と努力の結果、智慧として心の内面から出て来るとは聞いています。
もし、90%の潜在意識が多く湧現(大悟)できるのであれば、今世で何も学ばなくても知識は溢れ、この世で起きる心的事象のほとんどが理解・解明できると思います!

この物語では王様家族が神理を求めています。
今、深く心がそれを求めているということは、王様家族の前世では、やはりそれを求め、神理の素晴らしさを知識と共に体得しているから・・・のはずです。

しかし王様家族の今世では、命に代えても価値あるものと熱望されていますが、知識として王様達の心の中から神理が湧出していません。
天使から知識として、それを教えられています。

・・・・・・おこがましいことですが、では、これを自分に当てはめると、今の私から、その知り得た知識を差し引いたら何が残るんだろう?
それを考えると自分の魂修行の少なさにちょっと、ぞっとします。

というのも、ずっと先のことですが(笑)自分が死んだ後、地獄の住民にならない限りは(爆)、時間をおいて、いずれ何処かの土地に、何処かの時代に転生をしていきます。
その時代がもし、末法(釈迦とかイエス・キリスト、モーゼの生まれ変わり、或いは高橋信次先生のように大悟した者がいない時代)であれば、こんな私が「道」を求めても、教えて頂かない限り、自分の内面から湧く神理の会得は無理でしょう。

この物語りは私にとっては、知識のみではなく少しでも行為として刻み込まなくてはいけないんだ、と常々思わせて頂く、発憤材料!を今回取り上げさせて頂きました。

長文をご覧いただきまして、ありがとうございました。

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[ 2007/07/20 20:09 ] 随 想 | TB(0) | CM(30)

「神と罰」 高橋信次 

月に一度、GLA関西本部の月刊誌発行に合わせて、高橋信次先生の随筆をあげています。
興味が御座いましたら、ご覧下さい。 
以下、GLA関西本部発行 2007.9月号月刊誌より転載


「神と罰(バチ)」

人間は神仏の子である。自ら律し、自ら創造し、自らこの地上を調和させてゆく。
大自然が調和されているように、人間もまた調和された存在者である。
神仏の子である一つの証明は、己自身にウソが言えないことと、人間の意識は宇宙大の広がりを持つということ。
人間の肉体構造が宇宙と同様につくられてあり、星の数と人間の肉体細胞の数についても、やがて新しい発見がなされるであろう。
では、そうした存在者の集団である地上社会が何故混乱を招いているかである。
神の子ならばもう少しましな社会がつくられてもいい筈ではないかと。
まさにその通りであり、神の子の社会が不善の社会をつくる道理がないからである。
だが、ここで大事なことをおろそかにしてはならない。
神の子は自らを律し自ら創造してゆくようにつくられている。
大自然を神が創造したように、人間もまたこの地上を創造してゆくものである。
しかも人間は、神と同様に自由な意思が与えられ、言うなれば、その自由な意思でどう自分が創造しようと、それは神の子の許された権能なのである。
人間が肉体を持ち、個々の生活環境を形づくってゆくと、本来の神の子の神理から離れた創造行為に移りやすくなってゆく。
ここに肉体人間の過ちがあり、不幸の原因が生じてくる。
相対観念は、あらゆる悪を生み出し、罪を生み出してゆく。
しかし、天があり、地があり、男女の区別のある相対界であるからこそ、より進化した調和を生み出すことも可能なのである。
これまでの人類史は、調和の期間が短く、悪を創造してきた期間のほうが長かった。
罪をいろいろ重ねてきた。神の子のあるまじき罪を、不調和を生み出してきたのである。
人間は、自由な意思と自由な創造性を与えられ、それは神の子としての当然の権能として行使できるために、今日の悪をつくってきたのである。
人間の本質はこのように、神仏の子である。
神仏の子であるが故に、その罰は己が償わなければならない。
神仏が神仏を罰することはないし、神仏の子は、神仏そのものであるからである。
神を祀り、仏を崇め、手を合わせることを拒めば罰が当るとする考えや思想・掟がもしあるとすれば、それはまったく人間を知らぬために起こった、いわばその教団維持のための自己保存にすぎない。
神は人間に罰を与えるどころか、不幸な者ほど思いわずらうのが親子の情というものであり、神仏の心は人間の心と少しもかわりはないものである。
――間違っても神仏が人間に罰を与えると考えてはならない。
蒔かぬ種は生えぬ、蒔いた種は刈り取ることが神理であり、法であり、人間に課せられた天命である。

以上

―――――――――――――――――――

罰・・・重い言葉です。

ちょっとした思い出です。小学1年の頃です。昭和四十三年ごろですね。
私は小さい頃から何か悪いことをすると、決まって「そんなことしたらバチがたあたる」と家族や近所の方から言われていました。(汗

自宅の前に幅が三メートル位の小川があります。その頃の小川は清流でした。
今は当時の記憶にある面影は全く無く、部分的にコンクリートで固められています。
その川では夏になるとフナやハヤ、そして川ガニとかシジミ貝を遊びながら自分でとってきて、とったものが食卓に上がっていました。

小川は初夏になると夕方ぐらいから、たくさんの数のホタルが飛び交っていました。毎日のように飽きもせず天気の良い日はつかまえていました。
飛んでいるホタルを手でキャッチするのは別に何も言われませんでしたが、草むらの中で光っているホタルは手で取ってはいけない、と親から言われていました。
草むらに隠れているヘビの目がホタルに見える場合があるから、ということです。
ヘビは怖いので噛まれたくないです。それで教えられたのは、笹を取ってきて、その笹を川の水につけて笹の湿った葉で、草むらに光っているホタルをこすってつかまえていました。
♪ほー・ほー・ほーたるこいっ♪っていう歌を歌いながら。(笑
つかまえたホタルは、カゴに入れて家で眺めていました。
翌日になると、ほとんど死んでいました。(涙

それからずっと後になり、川が濁ってホタルの幼虫の餌となるカワニナが減少し、ホタルが見られなくなった頃のことでした。
親に、その頃言われていた、ヘビの目がホタルに見えることがあるから手で取ってはいけない、と言われたことを思い出して、それについて何気なく聞いてみました。
親の本心は子供がヘビに噛まれることが危ないのではなく、夢中になってつかまえようとしているので、暗い中でガラスや瓦の破片などで怪我することを心配していたそうです。
もし、ガラスや瓦があるから手で取ってはいけない、と言われても親の忠告は無視して、手で取っていたはずです。(汗
ヘビだから怖くて親の言うことを素直にきいていました。


同じくその頃のことです。学校帰りに(目の前の自宅で済ませればいいものを)決まって毎日、自宅前の川に向かって、おしっこをしていました。(爆)はずかしい。爆爆!
ところがある日、自宅前の川を挟んで、お向かいの家のおばあちゃんに、それを目撃されました。
がばい怖い、ばあちゃんです。何か悪さが見つかるたびに怒られていました。(汗
そのときは、「川で、しょんべんするぎー、水の神様のバチがあたってチンチンが、赤(あ)こうなって、もう、しょんべんが出らんごつぅなるったい!」
と、怒られました。爆!

神様のバチがあたる・・・。
それを聞いて怖くなり、それ以来、川でおしっこするのは止めました。(笑

実はその頃の川は、島田洋七さんの作品 「佐賀の がばい ばあちゃん」にあるように、川は
生活用品!の一部でもありました。
そこに、平気でおしっこをしていました。だから怒られるのは当然です。(汗

家庭の井戸が他のものでいっぱいの時には、どの家の奥さんも目の前の川で野菜を洗ったり、お米をといだり、夏はスイカを冷やすために川につけたりしてありました。
また洗濯板でゴシゴシと下着、普段着の洗濯もしてありました。
赤ちゃんがいる家は、今みたいにパンパースなどの紙おむつはありません。
全部布オムツでした。布オムツは特別に汚いので、その場合だけは、家並みの一番下流に行って、洗ってありました。
田舎ですから、今と違って、周りのどの家もほとんどが百姓で、奥さんが外に出て働くというのが、あまりなく、のんびりしていたように思います。

こんなヘソ曲がりな、当時小さかった私には、理屈で言われるよりも、バチがあたる、と言われた方が効果てきめんでした!(笑
そういう場合は「バチがあたる」と言うのは良いかと思います。


ところで、罰には天罰とか神罰、仏罰あるいは天誅などと俗にいいます。
文中にあるように自己利益の為だけに、また、人を思うように使うために恐怖だけを植えつける「バチがあたる」というのは、もってのほかですね。

>神仏の子である一つの証明は、己自身にウソが言えないこと

この言葉は、高橋信次先生の著書、講演には折に触れ、何度も目にしたり聞いたりしています。
確かに、人にウソを言えても、自分の心自体にウソをつけません。
自分のなかには、自分は一人だからです。

今回は、他の動物に無い、万物の霊長のみに与えられた自由を行使できる権能の根拠に対する大意を書かれた随筆文でした。

長文をご覧頂き、ありがとうございました。


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[ 2007/08/30 10:11 ] 随 想 | TB(2) | CM(16)

「止観」 高橋信次 

月に一度、GLA関西本部の月刊誌発行に合わせて、高橋信次先生の随筆をあげています。
月刊誌転載記事をご覧頂いた皆様へ、ほんの少しでも何かの糧になるのであれば、ただ
嬉しいだけです。今回も興味が御座いましたら、ご覧下さい。 
読み逃げ・スルーは大歓迎でーす!!(≧m≦)ぷっ

以下、GLA関西本部発行 2008.3月号月刊誌より転載


「止観」

この言葉は天台大師が使った。
その意味は簡単にいえば「止(とど)まって見る」ということである。
つまり、想いを静め、反省をこらすことによって、これまで五官でとらえてきたさまざまな諸現象が心で見えてくる、正しく判断できるということだ。
止観(しかん)についてもう少し分析してみよう。
止観の止は観を止(と)めるということだから、物を見る前提である想念をまず止(と)めねばなるまい。
したがって、止とは想念を止(と)めることになる。
しかし正法・仏教は現実否定の虚無主義ではない。
現実に生き、躍動する生命の在り方が目的だから、五官に振り回されず正しく生きることであり、この意味から、止(とど)まるとは正定(しょうじょう※釈迦が説いた 八正道 の中のひとつ)を通してこれまでの生き方を反省するということになる。
つまり、次に止観の観が続いているので、反省を通してこれまでの誤った想念の動きを正しく軌道修正し、その結果、正しい見方が生じてくるということだ。
止観の観はこの意味から二つの働きを指している。
一つは、反省のための働きと、その結果の働きである。
こうみてくると、止観の文字は大変な意味を含んでいることになる。
それは心の安らぎ、不動心をもたらす智慧である。
智慧の涌現(ゆげん)は、反省の正定を通さぬかぎり期待できないということである。
人間の行動の七、八割は感情によっている。
怒り、憎しみ、嫉妬、愚痴、足ることを知らぬ欲望など、みな感情想念の働きである。
感激、感動、感謝なども同じく感情だ。
しかし、感情でもその出どころはちがう。
自己本位の感情は前者であり、博愛の感情は後者である。
毎日の私たちの行動を見ると、自己本位の感情に左右されているところが非常に多い。
努力の原動力が、怒りや憎しみであったり嫉妬であったりしている。
また、好き嫌いや人情で間違った方向に走ったり、虚栄や名誉、自己の立場にこだわり、苦しみをつくっている場合がいかに多いことか。
そのために私たちは心をますます曇らせ、正しい見方、考え方から離れている。
正しい見方とは智慧の涌現である。
止観の意義は智慧の涌現にある。
正定の反省を通して苦しみ悲しみをつくり、心の眼をふさいでいる波立ちの多い感情を静め、博愛の感情を育てることなくして、どうして智慧の涌現がはかられよう。
行動の大半を占める感情を調和させるには反省の正定しかない。
「止まって見る」止観こそ、心と生活を安定させ、調和させる唯一の道である。
自分を愛するならば、まず生活の中に止観を生かして欲しい。

以上。


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※天台大師(=天台智)について、私が知っている範囲での補足です。
仏教がインドから中国に渡ったのは2世紀頃です。
そして5世紀になって広がりました。その頃のことです。
中国で、陳(ちん)という少年が17才のころ、戦に敗れて父親や母親や兄弟たちとバラバラにされました。
そして同じく17才の時に、陳少年は当時の蓬莢山(ほうらいさん)というところにおられた南岳慧師(なんがくえし)を訪ねます。
後に天台宗を開いた天台智(てんだいちぎ)は、法華経(ほけきょう)を、その南岳慧師の下で約20年間修行をし、学びます。
当時の南岳慧師は毎晩、夢の中で弥勒菩薩(みろくぼさつ)から教えを受けて、法華経を伝授されました。
そうして、その伝授されたものを陳(ちん)少年、のちの天台智は学び、悟ります。
仏教は知識だけではなく、行いである、と。
行為のない神理は神理ではないとして、蓬莢山を出ます。陳少年が37才のときです。
当時、武将(将軍)であった陳少年の兄、陳鍼(チンチェン)が、修行するには良い環境の天台山というところを拠点にすることを勧めます。
そして天台山に移って法華経、そして摩訶(まか)止観を説いていきました。
ちなみに三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)の教えは天台大師のことばだそうです。

後に八世紀になると日本から最澄(=伝教大師)が辿り着いて、その天台山で留学します。
そこで八ヶ月ばかり法華経を学び、皆様ご存知の通り、それを日本に持ち帰って比叡山延暦寺にて天台宗を開きました。
最澄は推古朝の遣隋使に続いて、日本の仏教の普及に大きな功績を残しました。
ほんとうの人間のあり方ということを、仏教の観点から次々と説いてゆきますが、・・・・・・
しかしながら、時代の流れと共に、次第に哲学化されて今日の仏教では、その本当の真意が解らなくなってしまっているようです。




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[ 2008/02/28 00:00 ] 随 想 | TB(0) | CM(11)

「正法と業」 高橋信次 

月に一度、GLA関西本部の月刊誌発行に合わせて、高橋信次先生のことばをあげています。
月刊誌を転載したこの記事をご覧頂いた皆様に、ほんの少しでも何かの糧になるのであれば、ただ嬉しいだけです。今回も興味がございましたら、一読されて下さい。 
読み逃げ・スルーは大歓迎でーす!!(≧m≦)ぷっ

以下、GLA関西本部発行 2008.4月号月刊誌より転載


「正法と業」

奈良の大仏、鎌倉の大仏はどうして作られたかというと、大仏の製作者が仏の姿を夢で見るとか、あの世の天使に教えられ、仏の心は宇宙大に広がっている、ということを知って、ああした仏像を手がけるようになったと言える。
人の心というものが調和されてくると、もう一人の自分、つまり、肉体という原子細胞と一緒に生活している光子体が大きくなっていく。後光(※いわゆるオーラとは異質のもの)というのは、光子体のことであり、この分野が心の調和に比例して拡大されていくのである。
正法(しょうほう)を知って生活している人々の後光は、まず頭の周辺がボーッと明るく出てくる。仏像の多くは頭部の背後に丸く円を描いた姿で作られているが、ああいうようになってくる。
さらに調和が進み、心と生活が正法に適ってくると、後光の範囲は頭部だけではなく、体全体に広がるようになる。
後光の姿はこれで終わりかというとそうではなく、過去、現在の転生輪廻を知り、その転生の過程の中で神理を知った生活をし、広い心で多くの人々を救ってきた人の後光は、もっと大きくなってくる。
さらに生命の転生輪廻の事実を知り、生と死を解脱した光の大指導霊の後光は宇宙大の大きさになっている。
光の天使、菩薩、如来の後光は、こうした心の広さが光子体に反映し、光子体が拡大されていくわけである。心の広さは、心に曇りがあるかないか、そうして転生輪廻の過程の中で正法神理を実践してきたかどうか、現在の調和度はどうか、こうしたものがミックスされて現われてくるものである。
宇宙即我(うちゅうそくわれ)の心の境地になった人を如来(にょらい)と呼んでいる。
如来というのは中国で作られた言葉である。文字通り、来るが如し、ということであり、大自然の神理、人間の心、法というものについて詳(つまび)らかにし、人間の生活の在り方を説き来る人たちをいうのである。
また「悟り」という言葉もある。これも中国から来ている。
この語は実にうまく出来ており、りっしんべんは心であり、吾は自分を指す。二つが組み合わさって悟ると読むが、悟りとは我が心を知ることである。
心を本当に理解できると、人間は不生不滅(ふしょうふめつ)、不垢不浄(ふくふじょう)を知り、生死を超えることができてくる。
さて、仏教も正法として説かれた時代は短く、僅か千年ぐらいであったろう。いろいろな言葉に訳されるにしたがって形骸化され、日本に来た時分にはいつの間にやら他力本願になってしまった。
現代宗教家の多くは、貧乏し病気をしていると「あなたの前世は業(カルマ)が深いから貧乏している」「前世で悪いことをしたから病気をする」という説明が返ってくるようだ。
そこで私はききたいのだが、生まれるときに金を持ってきたか、死ぬときに地位や財産を持っていけるか、生まれたときも裸なら、死ぬときも裸である。金が有る無しは、人間のこの世における知恵が生み出したもので、前世の業とは関係がないといえよう。
金持ちに生まれる、貧乏人に生まれるというのは、自分があの世で選んでくるのである。業が深い浅いではない。
前世の業は、あの世においてある程度修正しなければこの世に出ることは出来ない。地獄の霊がこの世に(赤ちゃんとして肉体を持って)出ようと思っても、それはできない相談である。悪事や業というものは、まずあの世でみっちりそれを修正し、そうして、その修正した事柄を現世で修正できたかどうか自らが試していくのである。
そのため、仮に前世で貧乏をして(その貧乏により)心を狭くし、それに負けた場合は再び貧乏の環境を選ぶ場合がある。反対に裕福な家庭に生まれ、わがままや増長慢に陥った者は、もう一度裕福な家庭に育ち、そうならないよう自らの心を磨いていく者もある。
これは業というより、業の修正が本当に出来たかどうかを試す意味でそうした環境を選ぶのである。また、人間の価値というものも、金持ち、貧乏ということで決められるものでもないのである。金が有る無いの条件は、己の心がそうした条件に振り回されず、調和の心を維持し、進んで自分の心をより広げていく魂修行の一手段に過ぎない。
病気の原因は前世の業というより、今世における我執や無理な体力の消耗がそうさせるもので、後天的なものである。先天的な障害者や子供の病気は両親の不調和から起きると言えよう。
意識に記憶された業はあの世で100パーセント修正されるかというと、そういうわけにはいかない。人それぞれのあの世での修正の度合いによって、ある人は60パーセント、ある人は80パーセント、95パーセント修正できた人も出てくる。したがって、修正の度合いによって、この世では過去世、前世の業に強く引かれる者と、そうでない人もあると言える。この意味では前世の業と言えるかも知れない。
しかし、前世の業がそのまま結果となって出てくれば、人類はもうとうの昔に滅び去っている。何となれば悪を犯さぬ者は一人もいないからである。
さて、このように考えてくると経済的に恵まれなくとも、心まで貧しくしてはならないし、恵まれた人は多くの病める人たちに愛の手をさしのべることが大事であると言えよう。
今日の人々の心は、足ることを知らぬ欲望に振り回され、自分を失っていると言える。人生の目的を自覚し、大自然が教える中道(ちゅうどう)の心を知るならば、足ることを知った生活、つまりは神の子の自分を自覚するならば、欲望、我執に翻弄される無意味さを悟ることができよう。
足ることは我慢ではない、あきらめでもない。神の子の己を自覚した想念と行為を意味するのだ。与えられた環境、仕事に対しては全力を挙げてこれに当たる。それは欲望に燃えてそうするのではなく、調和に役立つために当たるのである。
商人は利を求めるが、利を求めるなとは正法は決して言っていない。大事なことは求めて得た利益をどう処分するか、自分だけのことに使うか、家族や従業員に分け与えるか、不幸な人たちに愛の手を差し出すか。足ることの知らない人たちは自分が中心であり、人のことなど構わない。大気汚染や河川の汚れは企業エゴイズムがそうさせたものであり、経済の歯車はこうした企業エゴを中心に動いてきたので、今日ここから脱皮しようにも身動きできないというのが現状である。自分だけのことを考えれば、やがてその因果は自分にはね返ってくる。
足ることの生活環境は、仏国土という相互扶助、愛に満ちた世界なのだ。そうしてそうした世界に住するようになれば、人の心はさらにより広く、大きく進化させることが出来よう。
仏教の言葉に諸法無我(しょほうむが)というのがある。諸法とは、大宇宙、小宇宙(たとえば人体)を動かし、秩序を保っているところの神理のこと。一切のものはすべて循環という法の下(もと)にある。循環という秩序である。無我とは、これは意思が無いというのではなく、自分勝手の自分ではなく、公平無私な中道ということなのだ。法に欲望や自分があったら法にならない。法とは公平無私な規範であり、万物を生かす秩序である。太陽の熱・光に好き嫌いの感情があったらどうなるだろう。一切の生物は生きてはいけない。
諸法無我――つまり、森羅万象は中道に沿って生かされ生きているのである。私たちの心も諸法無我に沿って生きなければならない。中道から外れれば、外れた分だけ苦しまねばならない。五官六根(が全てだと思いそれに)に頼った生活、あるいは無我というから、自分を無くした生活をすればよいと考えたら大変である。意思のない法、秩序というものはないのである。法として存在する以上は、必ずその底には意思があり、意思が働いているから秩序正しき法が存在するのである。
その意思は中道という片寄らない神の心、公平にして無私なる心、万物を生かし、己の心を宇宙大に広げた心であるのだ。
心の安らぎは、こうした中道に向かった反省と修正した行為によって、自然に培われていくものである。

(注) この稿は、志賀高原 熊の湯での研修会における講演の要旨である。
〔1973年10月の月刊GLAに掲載分〕


以上

:::::::::::::::::::::::::::::::


長文をご覧いただいて、ありがとうございました。


ところで、こちらは
白色がまぶしく!見えた花でした。



P1000220.jpg

実家の畑に咲いていたエンドウ豆の花です。




P1000224.jpg

こちらの花は通勤途中の道路脇に咲いていました。
この花の名前は知りません。野草ではないはず。笑!
きっと誰かが植えたんだね。

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[ 2008/04/04 18:05 ] 随 想 | TB(0) | コメント(-)

「心の在り方」 高橋信次先生講演 

以前からの、高橋信次先生講演の再掲です。

高橋信次先生をご紹介させて頂く目的で書いています。
少しでも皆様の何か参考になれば・・・と思います。
ご興味ございましたら、お時間が許されるときに、ごゆっくりご覧下さい。
かなりの長文ですので、読み逃げ・スルーは大歓迎!です。(≧m≦)ぷっ

以前の続きです。今回、追加した文章(2008.08月号)は色を変えて下の方に up しています。

以下、GLA関西本部発行の月刊誌より転載。2007.8月号~

――――――――――――――――――――――――――――――――

この稿は、昭和49年3月10日、GLA関西本部定例講演会での内容をテープより書き起こしたものです。

演題 「心の在り方」

大阪(GLA関西本部) では、定期講演としていつも第二日曜日に皆さんにお目にかかっています。
一年に十二回しか来ていないのに、毎日ここに来ているような感じ、気がします。
『光陰矢の如し』と言いましょうか、一年が過ぎるのがまことに早いものです。
今まで皆さんに講演を通していろいろおわかりになった方もありますが、GLAという所は別に制約がありませんから、あらゆる人が参ります。
この中にも私などはるか足元にも及ばないような宗教体験を踏んで来ている人もいます。
今日、たまたま朝のテレビ討論会を聞いておりますと、文教委員会の一部のグループですが、現代の教育方針というものをどのようにしたらいいかお互いに討論しております。
自民党の委員の方は、教育のベースアップをして多くの人を増やして教育行政というものを活性化しなくてはいけない、などと話しています。あとは似たり寄ったりの話しでした。
しかし、現代の社会情勢というものを見ますと、むしろ、いくら金をやる、上げる、環境を良くするといったところで、人間本来の本質を忘れてしまっている連中に、飾りばかり付けたって無駄だということです。
我々が人間としての偉大なる価値をしっかりと反省させ、人生の目的と使命を果たす方法を教えてやることが大事なことなのです。
日本の総理が東南アジア諸国を回ってきて、あのような不調和な歓迎を受けた結果、日本人の道徳教育がなっておらん、道徳を教えなけりゃいかん、教育をしなければと・・・・・・。
教育方法というものも、日本は長い歴史の中にまことに不自然な一つの道徳というものをつくりだして来た。
そういうものを復活して教えたところで、これが正しいかということは非常に疑問なことで、日本的ではなく、もうすでに私たちは世界的、地球国家的なものの考え方をしなければならない時期に来ております。
特に戦後はまったく道徳というものは日本の学校教育の中にありません。
ただ数学や物理、英語や他の学問が出来て、英才教育に徹して、一流大学に行って、社会に出る。
社会はまた、この基準によって地位というものが約束されている。
心など無くてもいいのです。国家試験においてもまたしかりです。
そういう人たちが日本人的な本当の道を忘れて、他の国に行ったならば、外国的なものの考え方とウンと違ってきます。
商社が派遣しているところのエリートの人々は、自分自身の業績を上げるだけのことに汲々とし、その国の人々との対話を怠っています。
おのずからして疎外されることは当然です。
自分たちはエリートだ、そういう考えがありますから、底辺の諸外国の人たちとの心の断絶が生じてまいります。
自分たちには休みもある、あるいは仕事中でも都合によってはゴルフ場に出かけてしまう。
クーラーの効いた部屋の中で安全に生活を送ってしまう。
こういうところから現地の人々はだんだんと差別されてきますから、不満が当然あのような形で爆発してくるのです。
そこへもってきてそういう爆発性のある国民のところへ、日本の心無い人たちが行きます。
そういう人たちが一つの思想を教えに行きます。東南アジアはほとんどそうです。
昔の大学といえば品性と教養をしっかり学ぶはずだったんだが、今の大学といえば無法地帯。(※当時の大学生による反米紛争)
しかも、勉強、勉強、勉強ばかりでノイローゼになるくらいです。
小学校は中学校の予備校みたいになって、心というもの、やすらぎはひとつもありません。
品性というものを養う場所もありません。
それは、なぜそうなるのか。
まず、私たちがこの地上界へ生まれてくる前には、皆さんは全部、天上界にいたのです。
まぁ、いろいろな宗教家たちは、貧乏したり病気をすると、前世が悪かったんだ。
あるいは、先祖がこういう悪いことをしたから、今あなたは貧乏しているんだ、苦しんでいるんだと、うまいことを言って教えるのです。
また、動物霊やあるいは地獄霊もその人に教えます。
それで、名前でも戒名でも確かに当たると真剣になってしまいます。
そりゃぁ、そうだと・・・。
ところが、そういうもの(動物霊や地獄霊)は、簡単に皆さんの(家の)お墓でも何でも見る力を持っているのです。
人間のこの眼で(肉眼だけで)見ようとするからおかしくなるのです。
動物霊でも地獄霊でも、簡単にそんなことは言い当てることが出来るのです。
そのご婦人と一緒に来たお嬢さんの場合も、後ろに憑いているところの悪霊・・・、
女性は魔王になれないので・・・、
まぁ、魔王の使いぐらいですね。
その憑いているものが、そばで
「この者の家の先祖はこういう悪いことをした。そのために今、この娘はおかしくなっている」
と言うのです。
まぁ、こうやって・・・手を上下に振って出てきて、飛び上がるのは大抵キツネが憑いています。
ところが人間は、それを解らないものですから、
あぁ、先祖が出てきたと思ってしまうのです。
ご婦人の方もお嬢さんを連れていって見てもらって、そう思った訳です。
その内に、こういうものをあげなさい。
先祖にはこういう戒名をつけなさい。
ハイ、戒名代はいくら。こういうものはいくら。
と言われて買ってしまう。
神様には大分お金がいるんですね。
ところが、私の所へ来るとお金はいらない訳です。
・・・では、そういう風になってしまう原因と言うのは・・・
本来は皆、光明に満たされた美しい心であるが、この地上界という場に出てしまうと、皆さんはすべてわからなくなります。
まず、あの天上界という所から皆さんは出て参ります。
お父さんお母さんというのをちゃんと決めて出てくるのです。
三ヶ月ぐらいになりますと、天上界から皆さんの魂はお母さんのお腹の中へ入って自分の肉体舟を確認します。
あぁ、これが自分の肉体だなと。
(あるいは)この辺がちょっと傷んでいるけど(先天的な身体の障害)、まぁいいやと。
少しぐらい肉体に欠陥があるほうが、この世に生まれて、(そのことに対して)何か疑問を持って最後には悟るであろう・・・と、初めからわざとそういう状態で生まれてくる人もいるのです。
(そういう人は)何らかの疑問を持つようにと思って出てくるのですが、生まれてしまうとそれらをすべて忘れて、親を恨んじゃう。
こんな肉体に生んでどうしてくれるんだ・・・と。身勝手なものです。
こうして、それぞれの目的を持ってこの地上界へ出てきます。
十月十日、九ヶ月、空気にふれると同時に皆さんの意識はいったん全部沈んでしまいます。100パーセント沈みます。
その後、徐々に心の中の本能の領域がボツボツ出て参ります。
そうしてお母さんのオッパイをしゃぶるようになります。
それが固体保全、慣性の法則、本能も慣性の法則によって、人間は永遠の生命として、口を通して食べ物を摂るようになっているのです。
本能の領域は、生まれたからといって親が教えなくともちゃんと解るようになっています。
その内におしめが汚くなったりすると泣いて周辺の人たちに教えるようになってきます。
これも本能的感情です。
本能的感情というものは、徐々に徐々に芽生えてきます。
ほとんどは生まれて一週間から1~2ヶ月ぐらいは、寝ている時に誰もいないのに、一人でニコニコ笑っています。
笑う練習をしているのかなぁと思った人もあるでしょうし、他にもいろいろな話はあります。
その状態を心の目で見ますと、赤ちゃんが笑っている時は、光の天使たちが側に来て、頑張れよ、お前の生まれた所は厳しいぞ、大丈夫か・・・・・・と、心配したり激励したりしているのです。
まあまあ任せておけよ。必ずやるからと、皆さん(赤ちゃん)は自信たっぷりに答えています。
あの世に帰った時に、シマッタ!と言わないようにすることですね。
それで、光の天使や魂の兄弟といろいろ話し合いをしているのです。
意識の面で話し合いができるのです。
ですから、本人(赤ちゃん)は笑っているのです。決して笑う練習をしているのではありません。
よく見ますと、羽を付けたエンジェルとか、あるいはちゃんとした大人が側にいて話をしている時もあります。
まぁ、その場合でもほとんどが、やります、頑張ります、と言っています。
もちろん、今度は魂の兄弟たち、あるいは指導霊・守護霊というような人たちも、しっかり頑張らなければいかんぞ、こういう家庭では大変だ、将来は・・・・・・。と話しています。
親を見ても、お母さんを見ても、こりゃえらいことになるぞと、皆さんの場合、なかにはそう思わなかった人もいたでしょうが、まずまずほとんどの人がそう思いますね。
こうしているうちにだんだんと視覚神経が発達してきます。
自分のお母さんや身近な人を記憶するようになるのです。
他人様が入ってくると泣いて騒ぎます。
この辺から、我というものが出てきます。
自我の芽生えですね。
意識(心)の中の感情と本能の分野、そして知性の分野が徐々に膨張してきます。
しかし、理性というものはまだ利きません。
九ヶ月目、徐々に足も発達するようになってきます。
自分が欲しいと思ったら泣いてでも取ろうとする、親がそれをひっぱたいてやめさせようとしてもそれは無駄なんです。
自分(親が)の思うようにならないからといって、最近ではロッカールームか何かに入れてしまう人もいます。
まぁそういう人は、あちら(あの世)へ行ってからゆっくり挨拶されるから覚悟することですね。
生きているうちにちゃんとしておいた方がいいですよ。
人は、真の道がわからなくなるからそういう人たちが出てくるのです。
お互いに親子としての約束を反故にしていくのです。えらいことですね。
こうしてだんだん成長し、満一才になりますと、結構物事がわかるようになってきます。
それぐらいだと、まだあまり罪をつくっていませんから、魂の兄弟たちは、次元の違った世界から安心して見ています。
あの世では、この世は立体モーションピクチャーで見ることが出来るのですよ。
あの世からこの世を見ますと、そのままズバリ見えるのですよ。
たとえば、拡大して見ることも出来ます。
この世のテレビジョンでは二次元、すなわち平面の世界、スクリーンに映るものしか我々には見えません。
ところが、あの世からこの地上界を見ますと、そのままの姿で見ることが出来ます。
四畳半なら四畳半そのままが映ります。畳の目までハッキリとわかります。
そのことを皆さんが知らないで、誰もいないのではないかなぁと思っていますけれど、あの世からは、皆さんのすべてのことがみんな見られているのですよ。
光の天使や、あるいは皆さんの魂の兄弟たち、また、肉親の関係の人もいます。
昨年の七、八月頃のことでした。
幽霊の出る季節というとたいてい夏ですが、出やすい時期のようです。
Aさんといわれる方の奥さんが亡くなりました。
それからわずか六ヶ月目に新しい奥さんをもらいました。
小さな子どもがいますから、仕事に行く上において面倒を見てもらう人がいなくては困る、何とかしなくてはならないということで早く再婚したのです。
ところが、夫婦そろって同じ布団の中で寝る十一時頃になると、その辺からボツボツおかしな現象が起こってくるのです。
仏壇の中の位牌がガタガタといって揺れるんですね。
「仏壇にはお線香も燈明もつけ、お経もちゃんとあげているのに、夜の十一時頃になって私たちが休む頃になるとガタガタと・・・・・・。傍らに印をつけておいてもその位牌が動くのがわかるんです。」とのことです。
さぁ、皆さんどういうわけでこんな事が起こってくるのでしょうか。
早く言えば幽霊です。ところが、その事を知らないで新しい奥さんが心を忘れていたら、今度はその奥さんも二の舞を演じるのです。
といって一般の宗教家たちは、そうなるとお坊さんを呼んでさっそく成仏させなきゃいかん。
特定な宗教家たちは、さらにまた良い戒名をつけてやらなければということで、ますます”南無妙法蓮華経”の熱も高くなる。
そんなことで彼らが鎮まるならばたいしたものです。
嫉妬に燃えている地獄の霊なのですから・・・・・・。
私ならば姿が見えますから、奥さん(地獄霊)、あなたは何で死んだのですか。
自分の旦那さんが新しいお嫁さんを迎えなければならないような小さな子どもを残して、あなたはなぜ死んだのですか。
死ななければそんなことにはならないはずです。
いつまでもこの家に、そして子どもたちに、ご主人に執着を持ってはいけません。
あなたが何故早死にしなければならなかったのか、その原因はどのにあるのかよくしっかり反省しなさい。
あなた自身の心の中に大きな歪みを持ってノイローゼになり、この地上界を去った。
その原因がどこにあったのかを、あなたは自分の嘘のつけない心でよく反省してみなさい。
前にサーッと来ましてね。もちろん幽霊です。
この間の研修会の時に出て来た幽霊は、ちゃんと頭に三角のマークを付けていました。
白い着物を着て幽霊らしく手をこうやって出しておりました。
ところが、その時の幽霊はそんなことをしておりません。
もう悔しくて悔しくて仕方がない、死んでも嫉妬しているんです。
決して幽霊は夜だけに出るのではありませんから、昼はわからないだけなんです。
皆さんの傍らにもいっぱい来ているんですよ。ただ知らないでいるだけです。
それで肉体的に不自然な現象が出ているんです。
この中にもそういう人がいます。自分でそれがわからないだけです。
”知らぬが仏”というのも、そんなところからきているのでしょうね。きっと・・・・・・。
こうして、そのご夫妻の場合もこんこんと教えてやりました。
結果、死んだ奥さんの幽霊は出てこなくなりました。
嫉妬をしてもしょうがない。それから位牌も動かなくなりました。
いいお墓を作ってやったから彼らは成仏したんじゃないのです。
なぜ、どうしてそのようになったのか。
そして、生きている人々に迷惑をかけてはいけないのだということをよく教えてやることが大事です。
そして、残されたところのご主人や新しい奥さんたちも、自分自身というものの心の在り方、生活の在り方というものを正しくしていかなかったら困ります。
先程の下町の方の幽霊となって出て、後ろの方に憑いているのも同じなのです。
それでは何故そういうものを呼び込むのかということになるのですが・・・・・・。
そこで私は、ノイローゼの方に、あなたはしばらく黙っていなさい。
後ろに憑いている者も黙っているようにと言い聞かせ、母親に話をしました。
奥さん、娘さんの病気を治す前にまずあなたから直さなければいけません。
自分の娘がおかしくなっているのに、家柄だのご主人だの、周囲の事を心配したりして、まるで他人事のようです。
そんなことより、可愛い娘のためなら自分の命を投げ出すくらいの心構えが必要です。
それを家柄だの地位だの名誉だのと、そんなくだらないものに執着を持って娘さんをここに連れてきているのです。
奥さん、あなたは自分から直しなさい。
心を裸にせずして娘さんだけを治そうたって治りませんよ、裸になる気持ちがあるなら私の所へ来なさい、と。
そこでいつも質問することなのですが、奥さん、あなたの家には”ゴキブリ”は出ないでしょうねと言うと、
いいえ、たくさん出ます。
では、どういうところに出ますかと聞いたら、流し台の所です。それも薄暗くてジメジメした場所に必ず出てきます。
そうですか、地獄霊も同じです。あなたたちの心のジメジメした所、夫婦の不仲、子どもとの対話の不調和、このような不調和な場が、あなたたちの家庭の中にあるから地獄霊が憑いてくるのです。
何故、このようなことが起きたのだろうか・・・・・・。その原因はどのにあるのだろうかと、それぞれ皆さんが追求していったならば、思っていること行っていることの中に、必ずどこかに片寄ったものの判断行為があるということを、皆さんは知らなくてはいけません。
そういうくらい世界に、暗い環境に、暗い人々に、地獄霊はいつでも憑く条件が整っているのです。
本来、地獄というものはなかったのです。
人類がこの地上界へ出て来て、この地球上という場において、神の身体であるこの環境を大調和させると同時に、一人ひとりの魂・心を豊かにするということが大きな目的です。
ところが、人間はだんだんと自分さえ良ければいいということになってしまったんです。
では、この自分さえ良ければいいということが何故悪いのか。
皆さんは一人で現実に生きていくことが出来るでしょうか。出来ないのです。
自然界を見なさい。動物も植物も鉱物も、お互いに相互関係にあるはずです。
植物に水が無かったら、また、植物に太陽が無かったらどういうことになりますか・・・・・・。
地球という所は約71パーセントが水圏です。
太平洋・大西洋・河川・小沼・池等、そのような場所の大量の水を蒸発させ、この地球という、いわば陸地に慈雨を降らせ、植物は根っ子から葉っぱからそれを吸収します。
皆さんは吸った酸素を空気中に戻す時、二酸化炭素(CO2)を出します。
人間というものは、化膿した所は二酸化炭素。燃焼しても二酸化炭素を出すのです。
植物はその排出された二酸化炭素を吸収したうえに、光の合成によってデンプンやタンパク質、脂肪を彼らは自分で作り出すのです。
その植物を皆さんは自分の血や肉や骨にするために食べているはずです。
そしてまた、食べたものを出します。出たものは、今度は植物が同じように自分の血や肉や骨(肥料)にします。
いわば、植物の彼等の生活環境というものに協力していきます。
こうして動物も植物も鉱物もお互いに相互関係の協力があってこそ自然界というものが成り立っているのです。
人間は、いたずらに知識が先走っているために、自分のことだけしか考えないようになってしまったんです。
そうなりますと、お父さんやお母さんたちは、自分ができなかったことを子どもにやらせようと期待をかけ、勉強勉強とうるさく言います。
そして、よそのお子さんが何処何処の一流大学に入ったときくと、親までも大騒ぎになります。
それで一流大学に入ったら何かもう将来が全て約束されたような気分に陥るのです。
こういう教育方法をいつの間にか一般の人たちがやってしまい、その結果、親と子がお互いに話をする機会が無くなってしまったのです。
お父さんは仕事で忙しい、お母さんもそれぞれ忙しい、こうして生活の場というものが自然と物質経済が中心となっていきます。
物質経済さえ満たされれば人間は幸せになるのだというものの考え方です。
まぁ、新興宗教など、ですね。
お布施を増やせ増やせ、各支部から増えたその率によってだんだんと自分の立場を良くしようとする。
そうすると幹部になればなるほどお金が必要となり、苦しくなってきます。
まぁ、当然なことです。こういうのをバチ当たりというのです。
私は宗教を知りませんが、関係のある守護霊がそばに来ていろいろ話をしてくれるのです。
ですから、すぐにわかってしまいます。
こうしてそういうもの(自分の立場)に執着を持ち始めると、苦しくなってきます。
そこから早く逃げ出そうとするとバチが当たる。と、少しぐらいそれを信じていると本当に現象が出ます。
これも軽いノイローゼです。
ところが、この女性のようになりますと、自分がわからないから大変です。
子どもさんが四~五才ぐらいの時に、お父さんお母さんが子どもとの話し合いがあり、こういうことをすればお前は良くないのだ。
お前が今やっていることは良いことだと、良い悪いのけじめをはっきりと子どもに教育することなのです。
親の感情で子どもを教育してはならないのです。
親子の対話をちゃんとはかって成長していく人たちは、ノイローゼなんかには絶対になりません。
だいたいノイローゼというのは、早ければ小学校の四~五年から、そして十五~六才ぐらいまでの間に出てきます。
だいたい中学校の一~二年生頃から無口になり、親はそんなことは知らないから、うちの子はよく勉強していておとなしいですわ・・・・・・と。
そのおとなしいはずの子どもがおかしくなってしまう。
これがほとんどですね。ノイローゼになりますと、自分の心というものの起伏が大きくなります。
今言ったこととコロッと変わってしまいます。
そして、彼等(地獄霊)は夜に活動するのです。
昼間は地上界には三十億の人たちが、地球の半分にしても十数億の人たちが生活しています。
金儲けだ、何儲けだと不調和な心がどんどんと発散され、黒い霧に包まれています。
ですから、地獄霊は簡単に出て来れない。
彼等(地獄霊)は、地上界のこの人たちが欲望から離れ、寝静まった夜の一~二時頃になると、おもむろに時計の振り子の振動を利用して魔王あたりが出てきます。
ノコノコと暗いところへ。そのカッチン、カッチン、カッチンという振動に合わせて彼等(地獄霊)はちゃんと憑いてきます。
そうすると、ノイローゼの人たちはその頃から元気が出てきます。
昼間はダラーンとしているが、夜になると起きてきていろいろなことをするのです。
彼等(憑かれる側)は、すべて原因は外にある。自分ではない。悪い原因はすべて自分以外の人にある、と思っていますから、親を、相手をうらみ、ねたみ、そしるのです。それは徹底したものです。
私の所へ連れてこられたそのお嬢さんも同じですね。
(昼の)三時頃ですからまだ元気がない。
後ろに憑いている者(地獄霊)もあまり元気がないわけです。
私たちの前に出るとその姿がはっきりと見えていますから、本当は怖くてしようがないのです。
ですから、(地獄霊は)私たちのところへ来るのをとても嫌がります。
お譲さんとよく話しをしようと思い、地獄霊に対して「お前はちょっと横に去りなさい。」と言うのですが、地獄霊は「前にいる人の言うことを聞いちゃいかんぞ。聞けば、今晩ウーンと色々な面でお前を苦しめてやるぞ。」と、お嬢さんに向かって言っているのです。
「ちょっと待った。地獄霊よ、お前はこの女性を苦しめると言っているけど、そういうことを言っちゃいかん。」と注意しました。
電車の中で、一人でブツブツしゃべったり、笑っている人がいます。
そういう人たちを皆さんは見かけたことがあるでしょう。そういう人を見ると、あの人は何をやっているのだろうと不思議に思いませんか。若い人たちならば、受験の季節だから英語か何かを口ずさんで一生懸命暗記でもしているのだろうと考えられますが、ところがそんなんじゃない。
いい男が、いい女がこれをやっている。一人でブツブツ言って、ニヤッと笑っている。そんな光景を皆さんは見たことがあるでしょう。
あれは、独り芝居をしているのではないのです。側に同じような仲間が来ているのです。ところが、皆さんには肉体を持った人しか見えないものですから、あの人は少しおかしい、一人でニコニコ笑っていると思うのです。その時は、その人の肉体の船頭さんは、その肉体の外と両方で話をしているわけですから、皆さんには分からないわけです。
私もよく電車に乗りますから、一人でニヤッと笑っている人に会います。僕たちが側にいると彼らの後ろにいる地獄霊には分かってしまうのです。電車の中で問題が起こると困るから顔をかくし、彼らは見られていることを知っているので警戒してきます。ですから、隣の駅辺りでコソコソと降りていきます。こういうのは、精神科の先生たちにはほとんど見えません。
ところが、人間は誰でもがそれを見ることの出来る能力があるのです。
ただ、皆さんが自分自身の心というものの在り方、正しいという基準、こういったものをよく分かっていないから、心がスモッグに覆われているため分からないだけなのです。あらゆる諸現象を見る能力がある人々のことを仏教の言葉で ” アボロキティーシュバラー ” と言います。
皆さんは 『般若心経』というものを知っているでしょう。あの中にある観自在菩薩(かんじざいぼさつ)というのは中国流に直した言葉なのです。インドの当時の二千数百年前の言葉では、アボロキティーシュバラー、すべてを見通す能力を持っている、ということです。人間は誰でもその能力を持っているのです。持っているけれども自分がその力を出し切っていないというだけなのです。ノイローゼになっている人々は、自分の心がだんだん歪(いびつ)なってしまって、自分の目で見たこと、体で感じたことをストレートに判断してしまう。どうしてそのようなことになるのか、その原因というのは何なのか・・・・・・。
この世は、地獄の暗い世界と天上界の世界が入り交じっています。あの世という天上の世界は生まれてきた世界です。光明に満たされた実在の世界です。そして、非物質的な世界です。それはすべて善我です。
皆さんは、自分の心に嘘はつけませんが人には嘘をつくことができます。
昨日、子供たちに訊(き)きました。あなたは人に嘘がつけますか?と言ったら、小学校三年の子供は、たまに嘘をつきます。小学校五年の子供は、はい、たびたび嘘をつきますと答えてくれました。大人になったらどういうことになってしまうのでしょうか・・・・・・。皆さんは人に嘘をつけても自分の心に嘘はつけないのです。その嘘がつけないという世界が実在界なのです。
今、我々が住んでいる世界は立体の世界です。この宇宙も立体です。
こういう立体の世界の中に三次元の世界を包んでいるところの四次元以降の世界、こういう世界があって、この世界から皆さんは生まれてきているのです。
物質の肉体と、あの世へ帰る肉体(光子体)とが一体となって今、皆さんはあるのです。このような物質を通し煩悩を通して、常に正しい心で判断をして生活していると、天上界へ帰ることが出来るのです。
お金、お金、地位や名誉や、これだあれだといって自分の欲望を追い求め、足ることを忘れた生活をしている人たちは地獄界に堕ちてしまうわけです。物質だけを頼りにして、目で見たり、耳で聞いたりしたことにとらわれ、毎日の生活が正しい基準を失ってしまうと、地獄界というところに堕ちてしまいます。反対に、心を中心としたものの見方をし、慈愛の心で生活をしていれば天上の世界へも黙っていても行けるのです。
しかし、人間はたとえ地獄へ落ちても天上界へ上がれるようになっているのです。それには、何百年苦労するかわかりません。人生わずか70年80年というのは、線香花火のようなものです。
お年をある程度召された人たちが「あぁー、今まで70年間自分は一体何をしてきたのだろう。」と言われるのを聞いたことがあるでしょう。70年間はついこの間のように思えるものなのです。過ぎ去った時間というものはそのように早いものなのです。若い人たちも、若い若いと思っていてもシワが増え、肉体は老骨化し、やがて死んでいくのです。肉体そのものは自分のものではないのです。
皆さんの肉体は、この地上の場に適応した肉体を、我々の肉体先祖が皆さんのためにくださったものです。ですから、自分の肉体だと思っても、実はこれも自分の肉体ではないのです。無常なもので常ならず、やがてその肉体を捨てて新しい光の肉体、光子体を持って帰らなければならないのです。この光子体は今、皆さんと同居しているのです。人間は、このようにあの世とこの世を転生輪廻している永遠の生命なのです。
そのお嬢さんの場合も同じように、懇々と教え、なぜ彼女がノイローゼになったのかということを考え、小さい時からのことをいろいろ分析すると、お母さんの教育の間違いが出てきました。間違っているので、もうすでに聞く耳を持たないお嬢さんに、お母さんがいくら謝っても無駄なのです。
さて、後ろに憑いている者よ、今から一週間の間私が懇々と道(正しい行ない)を説こう。その結果、私の手元からお前たちはどこへも行くことが出来なくなるぞ・・・・・・。(と、話しました。)
皆さんは宇宙って広いなぁと思うでしょう。ところが、皆さん自身の心が調和されてまいりますと、こちらの本当の肉体、すなわち、光子体が大きく膨張し、宇宙になってしまうのです。これを『宇宙即我』と言うのです。お父さんお母さんからもらった肉体(原子細胞の)は、芥子粒(けしつぶ)のように小さくなってしまいます。
禅定していると、自分自身の光子体の一つひとつの細胞が大きく膨張してくるにしたがって大きくなりますから、地球が手の中に入るまでになってくるのです。この体験は皆さんも自分で出来るのです。そのためには心を調和させることが大事です。皆さんの今までのこと、1才から現在までの行いを一つひとつ正しい心の基準によって反省し、心の曇りを晴らすことです。
自然の公害、スモッグは人間が作ったものです。そのスモッグが神の光と同じように太陽の光をもスモッグでさえげってしまうのです。思うこと、行うこと、自分さえよければいいという不調和なものの考え方がスモッグを作ってしまったのです。

我々は、先ずそのお嬢さんに自分自身のものの考え方、心の在り方を教えていきました。
その人が二日目に一人で私の所に訪ねてきて、「一人でこんな所へ来るなんて不思議です。もう5、6年こんなことはありません・・・・・・。」と言うのです。2回3回と来ているうちに憑依霊は憑けなくなるのです。
台所の非常に湿気の多い所へ、お天道様の光が入るように改造したのです。自分の中へ取り込んでいる心のスモッグを取り除いていったからです。そして今、その方はGLAの会員の方の所へ勤めています。
ただ大事なことは、”なぜ” ”どうして”というような難しいことではなく、皆さんが今、思っていること、行っていることがいかに人生を左右するかということなのです。そして、片寄らないということなのです。
よく、仏壇とか神社で手を合わすことがあります。
手を合わせるということは、自分の身体の中の両極端、右の極端と左の極端、これを捨てて真ん中に持ってきて、中和、調和するということが本当の中道の道なのです。
皆さんがよく塩をまきますね。塩をまいて清めるとか言いますね。塩をまくというのは”しょうがないから”(しおがないから)ということではないのです。これはあくまでも中和ということ、清めるということなのです。
塩は NaCl で、塩化ナトリウムと言い、塩化ナトリウムはどうなっているのかと言いますと、水酸化ナトリウム NaOH という極端なものと、もう一つの極端な HCl という塩酸、この塩酸の酸性と塩基性の両極端がバチッとくっつくと NaCl という塩になるのです。
水もまた同じでしょう。H2O という水は、酸素と水素という両極端なものです。両方とも燃焼すると爆発するものです。その爆発性の物がくっつくと最も安定した水になるのです。
だから皆さんは、仏様に水をあげたり、神様に水(とか塩)をあげたりするわけです。お線香とかローソクとか、こういう物は(本来の原点をたどると)本当はいらないものなのです。
それは、インドの当時、暗いところで(夜、お釈迦様が)講演をします。誰もが顔を見て講演を聞きたいわけです。みんなローソクを持ってきます。
今のような文明的なローソクではありません。松明のような物を持ってきて、それをあげてその光によって皆さんに説法をしたのです。お線香をあげたのは臭いからです。
当時の人たちはお風呂には皆入らないのです。現代の皆さんはお風呂が大好きですが、インドの当時の人たちというのはお風呂に入らない。しかも、山中で修行している人たちは毒虫あるいは毒ヘビ、こういうものから身を守るために自分の身体に、いうなれば除虫菊(じょちゅうぎく)のようなものをしぼって身体に塗ったわけです。
汗と両方ですから臭くてしょうがなかったのです。そこで、身体から出る異臭を消すために『センダンの香』というものを焚(た)いたのです。これを発明したのがゴーダマ・シッタルダー釈迦牟尼仏の十大弟子の一人、プルナーヤーヤンプトラーという難しい名前の人です。
それは、センダンの木を切って、これをきれいに細かくして乾燥したものを焚くと、その臭い匂いが消えてくれる訳です。
ですから、本来お線香というのは、そういう匂いを消すための香料だったわけです。ところが、現代ではいつの間にか仏壇には「お線香」ということになったのです。
人間というものは不思議なものです。仏様は仏壇にいる。お墓にいる。あるいはお寺にいるというようになってしまったのです。
本当にいます。神理を知らない人たちには、そこは地獄界を展開しているのです。皆さんが心の眼を開いて、お墓などに行ったならばビックリします。
たしかに、お墓はもうすでに原子細胞の肉体の捨て場であるはずなのに、まだ執着を持っている。死んだ肉体に執着を持ってお墓に行ってあげることが信仰だと思っているのです。
皆さん、私の言うことが信じられないのならば、どうぞやってみてください。先祖の皆さん、どうぞ供養しましょうとお墓にでも行って、一生懸命に拝んでみてください。そして、本当にお墓にいるのならば、私の肩に憑いてくださいと言ったならば、地獄にいるものがガバッと憑いてきます。
そのうちに、朝起きたらこっちが痛い、あっちが痛いと言い出し、お医者さんへ行っても治らない。どうしたんだろうということになってくるのです。
俺にはそんなものは憑かないという人がいれば、やってみてください。お墓参りに行って、「家(うち)の先祖の皆さん、本当に地獄に堕ちているなら私が救いましょう」と言ってみてください。本当の救い方が分からないし、見えていないからどうすることもできない。どうぞ家へ一緒に来てください。私のそばにいてくださいと言ったら、その晩から身体が冷え冷えしてきます。そして心の中がいつもイライラしてきます。
ですから、一生懸命に神様と称する地獄霊を拝んでいますとだんだん身体がおかしくなってくる。色々な面でおかしくなってくるのです。
(次号に続く)


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オニユリです。なぜオニの名前がついているんだろう。
どれも恥ずかしそうに、うつむいて咲いていました。笑! 2008.08.04





テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル : 心と身体

タグ : 高橋信次:GLA誌より



[ 2008/08/04 16:45 ] 随 想 | TB(0) | CM(39)

祇園精舎でのハンドクのお話 

GLA関西本部発行月刊誌の2月号には、ハンドクの話が載せてありました。それを紹介(転載)させていただきます。

いつだったか、ある方から頂いた高橋信次先生の個人録音講演テープの中に、高橋一栄先生(信次先生の奥さま)が語られる祇園精舎で修行していたハンドクのお話がありました。公に頒布されていた当時の信次先生ご講演全41巻カセットブックの中の、ある一巻にも研修会時での一栄先生が語られるハンドクについてのお話がありますが、それよりも、もっと詳しい内容だったと記憶しております。
今月号の月刊誌を見て、それも思い出したので詳しいハンドクの話の、そのカセットテープを探すために自分の書庫と自作カセットテープ目録を確認していますが、その録音テープが見つかりません。処分は一切していないので、見つかったら改めてその講演録を紹介させていただきます。

ハンドクは理屈抜きで、生半可な反省ではなく、とてもシンプルなハンドクによる反省の成功事例です。結果、ハンドクは他の兄弟子を抜いて阿羅漢(アラハン)の境地にまでたどり着きました。


:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
(以下転載)

祇園精舎の近くに、シュリ・ハンドクという男がいました。
近くを通りかかったお釈迦様が「ワアワア・・・」辺り構わず大声で泣くハンドクを見て、
「何故そんな大声で泣くのか。」と聞きますと、
「私には兄がおります。色々と教えてくれるのですが、何一つ覚えることが出来ません。どうすれば覚えることができるのでしょうか。」
と、必死に頼みました。
辺り構わず大声で泣くくらいですから、あまり利口とは言えませんが、彼は正直で勤勉だと見抜いたお釈迦様は、「私のそばにいれば一緒に力になってやろう。」
と言って、ハンドクを連れて帰りました。
精舎では弟子たちが色々と教えましたが、全然覚えません。
日が経つにつれ弟子たちは、これではたまらん。と、みんなお手上げの様子でした。
その様子を見ていたお釈迦様は、ある日ハンドクに、
”塵(ちり)を払い、垢(あか)を除く”
”垢を除き、塵を払う”
「お前はこの言葉を覚えられるか? 言ってごらん。」と言うと、
ハンドクはもう、しどろもどろで、何日経っても覚えられませんでした。そこでお釈迦様は、
「お前は掃除はできるか。人の履いていたものをきれいにすることが出来るか。」
と聞くと、ハンドクは、
「はい、それなら私は何時でも出来ます。」
と喜んで、みんなの履物をきれいにし始めました。
そこで、お釈迦様は精舎のみんなに頼んで、履物の整理はすべてハンドクに任せることになりました。
ハンドクが履き物を揃えたり、きれいにした時に、感謝を込めて弟子たちは、
”塵を払い、垢を除く”
”塵を払い、垢を除く”
と言っているうちに、塵を払い、垢を除くということは、物をきれいにすることだと言うことがハンドクにも解ってきました。
そうして、塵とはどんな物だろう。垢とはどんな物だろうかと、一つひとつ考えていきました。
「そうだ、塵とは精舎の内や周りに溜まっているゴミだ。垢とは服や身体の回りに付く汚い物だ。除くとは、その塵や垢をすべて取ることだ。それが取れたらどうなるのだろう。」 「私はみんなの物をきれいにしてきた。その時にとても気持ちが良かった。そして、心の中までスッキリとしていた。」
ハンドクはこのように毎日毎日実行しながら、心の中の汚れについても考えていきました。
「みんなの履き物の汚れを取ったらきれいになった。それでは自分の心の執着を取ったらどうなるだろう。引っかかりを取った時には、どういうことになるだろう。欲を取った時にはどんなふうになるだろう。」 「欲を取れば特に悩む人はなくなるだろう。引っかかりの中の怒るということは、塵だろうか。垢だろうか。怒るということは自分が傷つくばかりではなく、他人をも傷つけてしまう。この塵はまず取り除くことだ。」 「また、思慮が足りないということは、自分自身にブレーキがかからないことだ。自分がシマッタと思ったら、すぐに直せる心の余裕のない人のやることだ。これでは他人に迷惑をかけてしまう。これではいけない。」
このように、ハンドクは履き物をきれいにし、水を汲み足に注ぐという毎日の仕事の中から
”塵を払い、垢を除く”
という言葉の意味を考えて実践してきたのです。
そうすることによって、自分の心の中と言葉の意味がしっかりとつながってきました。
やがて、自分の心が自分に引っかかりがなくなってきました。
「ああ、この気持ちは素晴らしい。それは塵を払い、垢を除いた結果ではないだろうか。」
ということが、身体中の隅々にしみ渡ってきました。
さっそくお釈迦様の所へ行き、「お釈迦様、私は言われたことを実行してきました。これが、塵や垢を除いた心ではないでしょうか。」
とお聞きしますと、お釈迦様はハンドクに向かって、
「よくやった。一つ覚えの言葉にも神理があるものだ。その単純な言葉が解るということは、お前は馬鹿ではない。利口なのだ。己の馬鹿さを知っている者は利口なのだ。己の馬鹿さを知らない者こそ哀れな人間である。」
と言われたのでした。
ハンドクのように、自分たちの身の回りを清浄にし、心の角(かど)を取り、引っかかりのない生活に高めていくことが、私たちの悟りへの道と言えましょう。
ハンドクは悟ったその後も、
”塵を払い、垢を除く”
を続け、偉ぶる心もなく、後から入ってきた弟子たちの履き物や濯(すす)ぎの世話を続けたということです。

(転載以上)
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

高橋信次先生は、心にスモッグを作っている過去の誤りを修正(=心を浄化)するには「反省」が、もっとも近道であると話されます。しかもそれは10%の表面意識(逆に90%が心に深く潜在しているために、あの世の実相を知らないまま)で盲目の人生を歩む人間への、神の慈悲である。とも言われました。
反省が深くなれば誰しも、過去、それまでに自分で自分が気づかなかった誤りとか、その時点の(対人関係であれば)、相手に対する自分の足りなかった思いやりや間違った行動を知ることになります。
普通は(正法を知る前の過去の私の場合ですが)反省というのは、自分が、あるいは他から指摘されて(こちらの方が断然多い!)始めるのですが、能動的には思い出したくも無いような過去の封印しておきたい辛い出来事の、事の原因を(少しずつ心の負担に無理なく)見つけることだったり、または気づけなかった過ちなどを自分から探してみる、ということです。

過去にも書いていたと思いますが、以前に私の職場のすぐそばにある吉本伊信氏流の「反省道場」で24時間の寝食を除く丸一日間の反省三昧を経験しました。私にとって、ここで体験してみての大きな収穫。それは、意識して過去の自分の姿(思っていたことや行動など)を思い出しているときに、『それを客観的に見ようとしないこと』ということでした。客観的に見ようと意識するときに、もうその時点では、頭のてっぺんで考えようとしています。
思考は外して、過去の自分をただ眺めるだけ。
人間としてこの世に生を持っているのであれば誰しも(仮に大悪党でも)慈悲や愛の片鱗は神の子の証として心に内在して持っております。
「ただ、ただ、あの時は申し訳なかった。」 「許してもらえるのものなら許してもらいたい。」 「こんなバカなことは絶対に、もうしたくない。」 自然に流れる熱い涙とともに、素直に、そう思える心境になれば、ここで初めて意識することもなく結果的に自分中心ではなく客観的に自分を見ていることになります。そして過去のその出来事に決別となります。そしてそれを忘れないために、たとえば小さなことでも良いので(たとえば期間を決めての一日一善とか・・・)、またその過去の出来事にまったく関係の無い人、誰でも構わないので、定期的に自分が出来る(ほんの小さなことでもいいので)ことの何かを決めます。 
人それぞれ自分に合った反省方法があると思います。
高橋信次先生が講演で話されていたことです。
先の大戦の一番の首謀者は、獄中にて戦争責任において処刑されます。その方は阿修羅だった自分を、死する直前には、自分が日本の国を挙げて取り返しのつかない多大な国民の犠牲者を出した戦争責任について短い期間に深く、深く反省されました。そして処刑後は戦争責任者としては珍しく、地獄に行くことなく天上界に行けたそうです。その方にとっては反省なんて方法論というものは、その獄中では、なかったはずです。

とっても普通なことなのですが、「反省」を考えると人間ですから、いつのまにかそれに真剣になればなるほど、私の場合、方法論を考えて(思考の渦に呑まれて)いわば、「熱い血が通わない」ようになってしまうことに自分は気づいたのをハンドクの話を読みながら思い出しました。
信次先生は常に「反省」の重視を述べてありましたが、反省に対する方法論の型はありませんでした。きっと方法を形作ったら人はその形にこだわり(このようにあるべきだ・・・など)、こだわると本来の慈愛を感じる心が抜けて肝心の自然と湧出する感情体験ができなくなるから、という理由もあったのかもしれません。瞑想だってそうです。
祈りにしても、私はそうだと思います。生かされていることを実感できて、ほんの小さなことでも、それに関して心から感謝できる自分を、長い道のりですが少しずつ作り上げたい・・・


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テーマ : 自分にできる事から - ジャンル : 心と身体

タグ : 高橋信次:GLA誌より



[ 2009/02/05 21:33 ] 随 想 | TB(0) | CM(14)

感情のコントロール 2 

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前回はとっても久しぶりの記事更新にメールを送って下さった方々・・・
ありがとうございます♪

前記事の続きです。今回も拙意でありますが、信次先生がその当時の月刊GLA誌に書かれた以下「止観」を読みながら、ふと思ったことを述べてみたいと思います。私流の解釈ですが・・・。


「止観」

この言葉は天台大師が使った。
その意味は簡単にいえば「止(とど)まって見る」ということである。
つまり、想いを静め、反省をこらすことによって、これまで五官でとらえてきたさまざまな諸現象が心で見えてくる、正しく判断できるということだ。
止観(しかん)についてもう少し分析してみよう。
止観の止は観を止(と)めるということだから、物を見る前提である想念をまず止(と)めねばなるまい。
したがって、止とは想念を止(と)めることになる。
しかし正法・仏教は現実否定の虚無主義ではない。
現実に生き、躍動する生命の在り方が目的だから、五官に振り回されず正しく生きることであり、この意味から、止(とど)まるとは正定(しょうじょう※釈迦が説いた八正道の中のひとつ)を通してこれまでの生き方を反省するということになる。
つまり、次に止観の観が続いているので、反省を通してこれまでの誤った想念の動きを正しく軌道修正し、その結果、正しい見方が生じてくるということだ。
止観の観はこの意味から二つの働きを指している。
一つは、反省のための働きと、その結果の働きである。
こうみてくると、止観の文字は大変な意味を含んでいることになる。
それは心の安らぎ、不動心をもたらす智慧である。
智慧の涌現(ゆげん)は、反省の正定を通さぬかぎり期待できないということである。
人間の行動の七、八割は感情によっている。
怒り、憎しみ、嫉妬、愚痴、足ることを知らぬ欲望など、みな感情想念の働きである。
感激、感動、感謝なども同じく感情だ。
しかし、感情でもその出どころはちがう。
自己本位の感情は前者であり、博愛の感情は後者である。
毎日の私たちの行動を見ると、自己本位の感情に左右されているところが非常に多い。
努力の原動力が、怒りや憎しみであったり嫉妬であったりしている。
また、好き嫌いや人情で間違った方向に走ったり、虚栄や名誉、自己の立場にこだわり、苦しみをつくっている場合がいかに多いことか。
そのために私たちは心をますます曇らせ、正しい見方、考え方から離れている。
正しい見方とは智慧の涌現である。
止観の意義は智慧の涌現にある。
正定の反省を通して苦しみ悲しみをつくり、心の眼をふさいでいる波立ちの多い感情を静め、博愛の感情を育てることなくして、どうして智慧の涌現がはかられよう。
行動の大半を占める感情を調和させるには反省の正定しかない。
「止まって見る」止観こそ、心と生活を安定させ、調和させる唯一の道である。
自分を愛するならば、まず生活の中に止観を生かして欲しい。


**************************************************


この文章には止観についての大意が書かれてありますね。
大意はつかめたとしても、では現実問題として、ここに記されていることをどのように生活に密着させて行けばいいんだろう。
ここに書かれている文章の中から、自分なりに意味や道理などについて吟味しながら思いつくことを一つにしぼって述べてみたいと思います。他の皆さまはどのようにお考えになるのだろう。私の思うことと一致している部分があると嬉しいです!

結語として、
> 行動の大半を占める感情を調和させる・・・
> 「止まって見る」止観こそ・・・

最終行には
> 自分を愛するならば、まず生活の中に止観を生かして欲しい。

と結んであります。生活に生かす止観とは具体的にどうするのでしょう。

止観は禅定という「態」のみで行うものではなく、日常で、例えばその時々の対人関係の中で常に発生する、五官でとらえてきたさまざまな諸現象の発露である感情のコントロール(ある意味ではバランス感覚)とも解釈できると思います。

また、文章の中ほどには、
> 人間の行動の七、八割は感情によっている。
> 自己本位の感情に左右されているところが非常に多い。

とあります。「感情」がポイントになっていることには違いありません。

そして、
> 人情で間違った方向に走ったり、

この「人情」は、ある意味難しいものがあります。
人間関係を律する人情と義理は両立しないことが多いですよね。
方向性が道理に合わないと後で気付いたときに、自分の方向性を変えようとしても人情あるがゆえに、流れをせきとめて、それがまとわりついてくる場合があります。
いわゆる、「しがらみ」のようなものです。あるいは兼ね合いなど集団心理の中に発生しやすいものです。このときに、間違った方向の人情だと判断したときの、それから切り離す勇気が問われます。


話を戻して、それでは「感情」をどのようにコントロールしていったら良いのでしょうか。
まずは、些細なものでも、そのときどきで様々な感情を発していることに適時、タイムリーに気付かなければ、おそらくはその時点でコントロールは出来ないでしょう。そのときの感情に知らず知らず流されるままになると、後で、シマッタとなります。
些細なものでも、と書きましたが、皆さんも経験あると思いますが・・・
対人関係で言えば、ある誰かへの、何らかの感情というのは、ちょっとした感情がちょっとずつ積み重なると、最初はそうでなくても、だんだん抱えきれない苦しいほど大きくなります。京都下鴨神社!ではありませんが、さざれ石が巌となるようなものです。それに耐えられなくなったらどうなるでしょう。



この信次先生の文章には紙面上の都合のためか、大意のみで、その方法が記されていません。
実際に日常生活の上で、どのように実践していけばよいのか。

それには色々と方法はあると思います。ある一つの方法として、岸田本部長から研修会で指導して頂いたことがあります。
随分以前に岸田本部長からは、「田中さん。Yさん。信次先生が説かれた『自己の確立』は『己を知る』ことから始まるんですよ。」と、福岡支部集会に来福された集会前夜では、宿泊先のホテルで繰り返し何度も何度も夜遅くまで教えて頂きました。頭から離れません。それは信次先生最後の東北研修会での、信次先生からの本部長への最後の言葉でもありました。
それゆえに本部長は過去の研修会では、何度も何度も形を変えて己を知る方法を会員さんに伝えてきたことを、しかし、なかなか伝わらないということも、そのころ個人的にそのお話を伺いました。それは、どれもシンプルで取り組みやすい方法でした。
だから、それがゆえに本部長の願いである本当の真意を理解して取り組んで行かないと、長くそれを日常生活の中で継続するには耐えられないことがあるかと思います。
正法は誰にでも理解できるシンプルなものであるはずです。知識・理論で覆わない限り複雑なものは無いはずだと思います・・・。

次回の記事更新時には(すぐには更新できないかもしれませんが)、その方法を少しばかり紹介させて頂きたいと思います。


2010100611410000.jpg
― 奈良の高原にポツリと美しく咲いていたリンドウ ―



ところで・・・  (まだ、続くんかい。爆!)


誰もあの世から生まれてくる時は「よし、俺はやってくるぜ」と、一抹の不安も抱えながらも胸を張って出てくるんですよ。ところが、生まれてしまうとすっかりあの世での約束を思い出せず、生まれた環境、教育、思想、習慣そして肉体五官に翻弄され、心がスモッグでいっぱいになってしまうんですよ。

と信次先生は話されています。

あの世・・・。これは「心行」の冒頭「我今、見聞し」とあるとおり、信次先生は生まれてくる前の世界・あの世を意識で体験して、あの世が存在しているのは間違いないという確証の事実にたった上で、モーゼの指導の下、著書「大自然の波動と生命」の文中のエキスを抽出する意味でも、また、あの世を支配している基準も含めて心行は書き記されています。
あの世・ユートピアの神界クラスで行き渡っている生活基準を、あの世とは全く違う盲目の地球上の生活において、あの世での生活基準のそれをこの世に表す方法として、必要最低限といわれている八正道を記されてあります。
信次先生当時に三宝出版に送られてきた会員さんたちの体験談の手記を読むと、信次先生からの光により霊道を開いて異語を語るだけではなく複数の方が実際に生まれてくる前の世界(自分の帰るべき家なども)を意識で見てきた人の体験談が色々と記されています。なかには、アガシァー大王の家の前まで行ってある人たちもあります。
いずれ機会があったならば、その手記をここで紹介したいと思っていますが、これは紛れも無い事実だと私個人は信じています。私自身は体験はありませんが・・・。
しかし、その会員さんたちは、信次先生の光により、そのような素晴らしい体験をされて、その当時の意識の高さをどれくらいの期間を維持、持ち続けてあったんだろうか。信次先生が帰天された後でも維持され続けてあったのでしょうか。そうであったら、具体的にどのような方法なのでしょうか。

ずいぶん以前に、岸田本部長からの光(異語を語らせるための呼び水、あるいは誘い水と本部長は仰ってありました)により関西本部では何人もの方が異語を語りました。が、本部長が仰るには、異語を語るだけで、次のステップに移るにも、その当時、それ以上に進歩して意識が上がる人は、待っていても誰も居なかったようで、あきらめられて本部長は異語を開発するためのプロジェクトは止められたと聞いております。
異語を語るということは守護霊様と一体になれたのですが、その次の段階に入るための日々の精進に欠けていたのは事実です。日々の精進とは、まずは常に自分の心の動きを、些細なことでも客観的につかむことだと信次先生は仰ってあります。とても難しいことです。
心(感情)のバランス感覚とコントロールです。これが出来れば意識しなくても自ずと理性の分野も正しく判断出来ていくことになると思います。
日々の精進については、本部長は研修会の折にはテーマを掲げて、いろいろと工夫されながら指導され続けてありました。


今回も、共に学ぶということではなくて、多彩な! ご意見でも何でも結構です。
お気軽に メールメール して頂けると嬉しいです。 (≧∇≦)





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タグ : 高橋信次:GLA誌より



[ 2010/10/24 15:29 ] 随 想 | TB(0) | コメント(-)

高橋信次先生・反省について(質疑応答より) 

私自身、思うところがあり、方法の一つとして、この取り組みを白紙に戻し、高橋信次先生の「反省・禅定」の具体的なやり方に関するお話を改めて聞き直しておりましたが、どうしても聞くだけでは聞き流してしまい、曖昧な理解と同時に肝心なところを落としてしまう場合があるので、収録を筆起こして自分に言い聞かせるようにノートに書きまとめてみました。

こちらにご訪問頂いた方の中で、実践を試みてある方に、何か少しでも参考に供することが出来るならばと思い、ここに挙げさせて頂きました。
以下、質疑に対する高橋信次先生の応答です。

*********************************************

八正道を通して、一つひとつチェックしていく。
どのようにチェックしていくのか。
自分の生まれた環境・教育・思想・習慣をチェックしていく。
その基準は、あくまでも中道、偏らない中道ということを根底にする。
両親の教育方法と、兄弟と、だんだんと分析していく。
・両親のことば
・兄弟や、兄弟との対話
・その頃の生活環境

この中で、どのへんに、正しいという基準からもって間違いがあったのか。
良い面と悪い面を、はっきり区別してみること。

―― 前段で、このようなお話のあと、以下具体的に述べてあります ――

続いて、生まれた一歳の頃から、五歳ぐらいまでのことを一つひとつ、生まれた環境・教育・思想・習慣というものを通し、モノの考え方、偽善・偽りの我がどのように出てきたのか。
善なる我が、どのように芽生えてきたか。
これを、一つひとつチェックしていく。

そして、お父さんやお母さんに対して、自分はどのような行為をし、こういうことを言われて、それがどのような結果になったのか。
ということは、自分が生まれた時からの、自分の心の歪を発見する。

こうして、五歳ぐらいから、徐々に他人との関係、友達との交友関係・・・
他人との関係で、友達同士で、どのようなことがあったのか。

特に、この頃は自我が大きく芽生えてくる。 
・・・喧嘩、あるいはまた、自己保存、自我我欲。こういうものの原因が、どこにあったかを自分を振り返ってみる。
そして、自分自身の心の中に、思ったこと・行ったことを基準としてやることが大事。

モノには、すべて原因と結果がある。
この原因と結果、この因果というものを、はっきりと見定めて、その原因がどこにあったのか。

両親から、怒られたことにより、心の中に歪を作り、親を恨む結果を作り出している場合がある。ノイローゼは、ほとんどが自分のせいではなく、他人のせいにする。

自分というものの、悪い原因がどこにあったか。その種の根っこを、根を除く。
除かない限り、また心の中に歪が出てくる。

それは、恨み・ねたみ・そしり・怒り・愚痴・自己保存、自我我欲。
こういうものを分類して、その時の状態というのを、しっかり見定める。

そうして、我々は、このような反省の基準というものを、しっかりと自分が知って、一歳から五歳までを、最もきれいに、心の中のテープレコーダー・ビデオテープの失敗した分野を修正していくことが大事。

我々は完全なモノにすることはできない。失敗したことは失敗として、二度と同じマチガイを犯さないようにすればいいんだが、人間はどうしても、同じマチガイを犯すんです。
そのために我々は、自分の偽りの我には、どうしても弱いのです。甘いのです。
その偽りの我に負けてしまうんです。
「今度は、やめよう・・・」
また、やりだすんです。
それには、勇気と知恵と努力というものが無ければ、できません。

そこで、反省は、そのような心の中の歪を、スモッグを取り除く一つの方法なのであり、神が我々に与えられた慈悲なのです。

煩悩即菩提というのも、我々は、その煩悩を自らして作った悪を修正し、その悪を芽として、新しい芽を我々は作り出した時に、煩悩は即菩提になるのです。

「人のふり見て、我がふり直せ」ということわざがあります。
我々の周辺は五官を通しても、すべて勉強の道具があるのです。
人の失敗を見て、自分が失敗しないように、自分というものが、常に他人を参考として見られるように・・・。
それも、すべて正しいという中道の基準を持ってなければなりません。

こうして、小学校に進むに従って、周囲の関連が深くなってきて、自己保存という偽我・偽りの我が芽生えております。
こうして八正道という基準を持って、私たちは一歩一歩、自分自身の心の状態を修正していくことが大事です。
やれば、やるほど心の中には・・・

「・・・いやー、ぼくはもう、一回やったから大丈夫なんだ・・・」
と、思っているけれども、そこには必ず、荒削りの分野があります。
心のメッシュは、どんなにでも、細かくなっていきます。
それだけの細かく、自分をしっかりと知り、そして、毎日毎日の生活を、同じマチガイを犯さないように前進させて行くことが大事なのです。

まず、一歳から五歳までは、特に父親に対しての問題。母親に対しての問題。兄弟に対しての問題を、はっきり区分して、まず皆さんは、じっくりと瞑想して、心の中で考え、思い出し、やればやるだけ結果が出てきます。

スモッグがとけてくれば、自らして、神の光は皆さんの心を満たします。
禅定というのは、それをしないでやるから、魔王に支配されたり、自分自身の「己心の魔」という、心の中にある魔が、心を騒がせ、不調和な状態を作り出してしまうわけです。
それゆえに、自分を見つめるということは、最も細かくやることが大事です。

「研修会のたびに、ぼくはやってるんだよ。」
・・・そう言っても、皆さんは歳に比例します。とれば、とっただけ、それだけの曇りを作り出しているのです。独りよがりの、どうしても判断をしがちになるのです。

あくまでも、自分を、まったくの第三者の立場に立って物事を思い・見・したならば、公正な自分を発見することができるのです。
公正な自分とは、正道をしっかり踏んだ己自身の姿なのです。

こうして、両親・兄弟、区分して、一つひとつ、両親に対しては、あるいは兄弟に対しては、周辺の人に対しては・・・
これを一つひとつチェックしてみることです。


五歳から十歳、徐々に自分というものの性格が完成されていきます。
ほとんど、人生における、一歳から五歳までの環境が大きく、その人を支配してしまうのです。

「思いこんだもの」を変える、ということは、難しいことです。

そのために、皆さん自身でも経験があると思うんですが・・・
自分の子供たちに、自分の兄弟の悪口を言ったり、ほめたり、いろいろあります。
小さな子供。お父さん、お母さんを絶対信頼している子供たちが、両親の言うことを信じ、悪口を言われれば、その子供たちは、また、その心というものは、なかなか消え去るものではありません。
子供の教育に対しても、そういう問題は必ず出てきて、それを、子供は毒を食べて、誤解する結果を招いてしまうわけです。
兄弟というものでも、よほど正しく語らなければ、子供は、絶対信頼している両親の言葉を信じてしまいます。
これが、一歳から、約十歳くらいの間が、特に影響されます。


十歳からは、だんだんと今度、学校の先生という対外的なものを信ずるようになってきます。
その学校の先生は、現代は、心なく、物質至上主義、そういう教育をしているのが現代の、心の中の歪を作る大きな原因になっているわけです。
本来は先生たちが、自分の心の状態をしっかり分析・・・。
このようにしてみて、真実のものを子供たちに教えていけば、間違いは無いんです。
ところが、修身教育・道徳教育というものは、現代は、日本だけがありません。それだけに、暗中模索の中で、人々が迷っているわけです。
だんだん、こういう日本の教育が普及されていきますと、外国からは相手にされなくなります。日本人が。
すべての基準を、物質や経済にもってっているからです。

こうして、今度は、十歳の状態というのは、対外的・・・。
特に、先生というものが絶対的な力を持ち、今まで、親の言うことは聞いとったが、今度は逆に先生の言うことを聞くようになります。
ですから、子供さんたちは、
「お母さん、こんなこと言ったって、先生はこう言っているんだ・・・。」
先生の意思によって、子供たちの人格が徐々に形成されていきます。

こうして、その当時は、今度は、先生と自分の関係というもの。先生に対する自分の心の在り方。その教えに対して、自分の心に記憶している分野。
これは少なくとも、皆さんの場合は、三日間くらい、その問題だけに取り組んでみてください。
小さい時なら、小さい時。大きくなったら、大きくなった時。一つの問題をしぼって、そして、それを書き出していくのです。瞑想をして、自分が反省しているうちに思い出す。それを記録していくことなんです。
そして、しっかりと自分の欠点というものは、こういうところに欠点がある。
あーいうところに欠点がある。
こういうものを、しっかり修正していくと、皆さんの、その状態において後光が出てきます。
当然、後光というのは、その人の心の状態が反映しておるからです。


十歳から十五歳までの間は、今度は徐々に、本能的分野の異性に対する感情。こういうものが出てまいります。
そのときの自分の心というものが、どのように・・・。
果たしてこれが、情欲的な面にまで発展していった、欲情的な問題を、だんだんと解決していくことです。


自分さえ良けりゃ良いという自己保存の念は、ますます心の中を占拠してきます。
その念を、もっと分析していくと・・・対人関係・・・
十五歳から二十五歳くらいの間は、自分自身の対外的・・・仕事の面。
会社の場合、勤めているならば上司と自分の関係。
取引先と自分との関係。あるいは、下請けと自分の関係。
・・・その心と行いの状態というもの。
毎日の仕事の中において、給料さえ貰えば良いんだ・・・という考えがあったか。
あるいは、正しくその中で自分が一所懸命に仕事をしたか。
・・・こういう面を、ずーっと分析していくことです。

そして、自分の心の、あらゆる、自分と周辺の関係というものを、はっきり区分して、自分の正しいという基準の中に当てはめていったならば、
「この分野は自分の歪だ。あぁ、これは直さなきゃいかん。これは、こうせなきゃならん。」
というのを、最後にピックアップしてみることです。

そして、自分の欠点は、堂々と人の前で言えるようにならなければ、いけないのです。
「いやー、ぼくは、こんなことやっちゃった。これは良くなかった・・・。」
心の中で、まだ、恥ずかしい、とか自己保存しているうちは、まだダメなんです。
これを懺悔といいます。懺悔。
そういうように、自分の欠点を堂々と言い、二度と犯さない人たちこそ、本当の、勇気ある人というのです。

そして、自分自身というものを完全に作り出して・・・
こうしていきますと、自分というものとの両親との関係は、生きている間は続いていきます。


さらにまた、二十五歳・二十六歳からは、だんだんと家庭問題が入ってきます。
夫と妻、妻と子供に対する関係。
独りよがりのモノの考え方で、自分を見ていなかったか。
妻と子供との関係において、正しく、偽りと善なる我を見極める教育をしたか。
あるいは、独りよがりの判断をしたか。
他人様と自分の子供との関係。
こういうことを一つひとつチェックしてください。
当然、両親が生きていれば、それとの関係。
兄弟との関係。
心にウソのない事実のモノをはっきりと思いだし、自分が八正道という正しい心の基準に照らし合わせていくことが大事なんです。
そして、自分の、常に、心の中に思っていること、行っていることが、果たして、正しいものであるか、ないかを、しっかりと吟味できるだけの余裕が大事なのです。
・・・病気。この病気に対して、自分自身が、その原因がどこにあったか・・・。病気の問題。
あるいは、拾得物。拾ったその拾得物の処理。
あるいは、偽りの生活・・・

こういうものをしっかりみて、その原因がどこに、なぜ、起こったのか。
こうして、一つひとつ、自分の心の中をチェックしていって、本当は、禅定をしなければいけないのです。

そうなってまいりますと、自ずから、生と死というものに対する執着から離れていくのです。
人間は、「生まれた」とか「死んだ」とかいう、こういうような執着。こういうものから離れていくものなんです。
心には安らぎ・・・というものが出てまいります。
その過程の中には、自分の犯した、いろいろな悲しみや苦しみの中から・・・。
マチガイを犯したことは事実なんだから、
「・・・許してください。こういう、原因だったんです。」

―― それから、高橋信次先生、質問者に対して ――
「・・・もう、わかりますね?」  
「・・・そうです。そうして、なるべく細かくして、やって欲しいのです。」  
「・・・いいですか?」

―― 質問者 ――
「一歳から五歳までのこと、ほとんど忘れているわけです。」
「それで、どうしたら良いかと、いろいろ考えてみたんですけれど・・・。」

―― 高橋信次先生 ――
「そのときは、瞑想をして、自分自身というものの、先ほどの、生まれた環境や教育や思想や、習慣を思い出してください。だんだんと。」
「自分の生まれたとき・・・あぁ、こういうことがあった。」
「こういう話を親から聞いた。そのとき自分は・・・」
「それから、あぁいうこともあった。お祭りの時は、どうだったのか。あぁいうこともあった、こういうこともあった。」
「だんだん・・・ですよ。月ごとに追っかけて。」

―― 質問者 ――
「それで・・・あのー、方法が無いもんですから、憶えている五歳以降の自分の行ったことを、逆に突っ込んでいったわけなんですが。」
「そうすると、だいたい、こういうことであったろう・・・ということが出てきたんですが・・・」

―― 高橋信次先生 ――
「そうですね。」「それでも良いです。」

―― 質問者 ――
「それで・・・」

―― 高橋信次先生 ――
「方法としては良いと思います。」

―― 質問者 ――
「それでも、尚且つ、細かいことは、ほとんど忘れているわけです。」

―― 以下、高橋信次先生 ――

はい。それが出てきます。
それは、まだ、反省の、自分自身の状態が中途半端なんです。
ですから・・・「よっしゃぁー・・・」と。
今日は、自分自身の生まれた時の環境を、一つひとつチェックしてみよう。
兄弟や姉さんや兄さん。あるいは、親父・お袋から聞いたこと。そして、自分の関係。自分はどうだったかな。・・・こういうこと。
で、罪を犯している偽りの我・・・というのはね、あんまり、小さい内は、我はあっても、その我自身が、自分自身を食い潰すようなことは無いんです。
知らない間に・・・、さっき言われたように、理性というものが無いんですから、欲しいと思えば欲しいし、泣いてでも取ろうとする。
まぁ、そういうことが出てくるわけですから、その分野においてのスモッグは、気がついた時に・・・
「あっ、これは、いかん・・・」と。
「・・・やっぱりガキだなぁ。」と・・・。
「小さかったから仕方ない。これ、許してください。」・・・で、済んでいくんです。

ところが、一番大きいのが、もうね、自分の心が両親から巣立って外へ出てからです。そうして、心の中で思っていたこと、行っていたこと、こういう問題が大きく影響します。

そちらのほうのスモッグを払うまでには、一番元からこうやって、だんだん、だんだんやってくると、
「あっ、これもあった、あれもあった。あれもあった、これもあった・・・。」
そこで、皆さんは、いろいろ、先ほど言ったこと。両親に対して、兄弟に対して、分類してしまうんです。
その時の状態を一本にしぼっていくんです。そうすると、
「はっ、父親は、こんなことをしてくれたなぁ。自転車に乗っけて、こういうこともして、あすこへも連れてってくれて。」「・・・そのとき、自分はどうだったかなぁ。」
「あっ、お袋におんぶされて、こういう所へ行った。ああいう所へ行った。」「あっ、このときは、自分は、どうだったかなぁ・・・」


こうやって、ひっくり返していくとね、小さいとき・・・
ぼくは、二歳まで、はっきり分かります。
二歳の、キントキっていうのを着てね、ここで、あのー・・・
子供の頃のこと、思い出していきましたねぇ。そして、あのー・・・
川に、こうやって、兄弟がおって、自然と石が転んで、水の中にアップアップしている時、えー、それで、その中で・・・
「誰か助けてくれ・・・」その時、ただ、泣いとって・・・
感謝なんか、ありませんね。子供だから。
あー、あの時に救ってくださった方にね、「ありがとう・・・」と。
ぼくは、あの時、お礼も言えなかった。
・・・知らないんですから。
えー、そうやって、やっていくわけですね。
                (※キントキ?? 赤い丸金のよだれかけ?)

ですから、小さいときも、そうやってね、やっていけば、やっていくほど、
「あっ、お父さんに対して、こういう感情を持ったことがある。」
「お袋に対して、こういう感情を持ったことがある。」

あるいは、生まれた自分の環境自身に、
「こういうことをもう少し、こういうふうに、せめてしてもらえば良かった・・・。」とか。欲望も、いろいろ、あるわねぇ。

そういうことを、チェックしていくわけですね。
そうして、それのチェックの中心が八正道です。
そして、自分が、その頃の、恨みや、ねたみや、そしりや、怒り・・・

そしてまた、病気をしたら、その病気を徹底的に追及するんです。
その時の、病気の自分の心の状態は、どうだったかなぁ・・・
周辺は、どうだったかなぁ・・・
感情は、どうだったかなぁ・・・
両親の状態は、どうだったかなぁ・・・
そうして、その根っこは、どこにあったのか・・・

こうやって、反省していけば、良いわけです。
ですから、あらゆる・・・
たとえば、事故でもいいですね。
あるいはまた、いろいろと、火災とか。
いろいろと、周辺に、そういうものを思い出していくうちに、周辺が、はっきりと映り、投映されてまいります。

そうして、自分を修正して、今度は、それをやってから瞑想していけば、その心さえ崩さなければ、光明に満たされて、光の天使たちが、自然と、その人たちの心の状態を反映して語り始めます。

ですから、そのように、一つ、徹底的に、自分というものを、もう一回、見てください。

しぼらなきゃ・・・。
あまりに広すぎるから。
一つひとつ、しぼっていく。

「・・・自分の生まれた時は、どうだったかな。」
「それから、どうなった。」
「・・・どうなった、・・・どうなった。」
「・・・どうなった、・・・」っと、突っ込んでいく。

やれば、やるだけ、細かくなってきますね。
そしてまず、自分を、そういう調和の状態に持ち込んでいくことが大事なんです。

そうして、我々は、人間としての自分を、ほんとうに、
「これは偉大な人生なんだ・・・」
ということを発見したら、もう、これは、しめたものですね。
もう、後は、自分が勇気を持って、神理を、ちゃーんと生活の中の法灯を消すことなく、ともかく、実践していくことです。


ところが、人間は、そういう、ひとつの状態になっても、苦労して、そこまでなっても、下がるのは簡単なんですよ。
ちょっと、思った時、バーッと、下がっちゃいます。
それだけに、生活の中に、ガッチリと、自分の正しい基準を持っていなかったならば、下り坂は、瞬間にして下ってしまいます。
難しいですよ。
ですから、上るのは難しいけれども、下るのは、ウンと早いということです。

それですから、自分を常に、毎日、それからは、
「今日一日はどうだったかなぁ・・・」
「今日は、こういうことが無かったかなぁ・・・」
「あっ、ぼくは、こういうところに、心に歪を作っちゃったなぁ・・・」
「・・・許してください。私は、今日、今から、このことは、もう、二度と同じマチガイを犯しません。」・・・といって、勇気ある自分を作っていったら、それは、素晴らしい力になります。
そのときには、次元の違った世界から、より偉大なる、また、現証を出されるようになるでしょうね。

このように、まず、自分というものを、しっかり見つめるためには、小さい時から思い出して、それを更に、今度やっていくと、心の中が綺麗にスカッとなっていくと、今度は、前生まで分かるようになるわけですね。
その前生のカルマは、「あぁ、こういうカルマがあった。このカルマは取り除かなくちゃ、いかん・・・」
ということが、自分というものを、はっきりと見分けがつくようになるわけです。


ですから、まず、しぼってください。ひとつ。
・・・あまりに大きすぎるからね。しぼって。
「この分野・・・、お父さん、お母さん。これも欠点。悪かった。」
「これは、どうだ。」「小さいときは、どうだった・・・。」

・・・そのために、さっき、生まれた環境や教育や、思想や習慣・・・

「どういうものが、あったかな・・・」
「習慣・・・。あっ、お祭り。」「あっ、お盆・・・」「暮れ・・・。」
「・・・そのとき、友達と、どうだったかなぁ。」
「親には、どうしたのかなぁ・・・。」
「小遣いを、ねだらなかったかなぁ・・・。」
「自分さえ良けりゃ、良いと思わなかったかなぁ・・・。」

これから入っていけば、いいでしょっ。
そうすると・・・

―― 高橋信次先生、質問者に対して ――
「・・・だいぶ、分かってきましたね。」

―― 質問者 ――
「はい。」

―― 高橋信次先生、質問者に対して ――
「ええ、いいんです。それで。」



―― 以上 ――


*********************************************

以前にも何度か、高橋信次先生の反省方法をブログで紹介しましたが、ご覧頂いた方には、今回挙げております内容との共通項を見出されてあるかと思います。

もう一つ、ご紹介させていただきます。
(まだ続けるんかい。爆!)

テーマ : 高橋信次 - ジャンル : 心と身体

タグ : 高橋信次:質疑応答 高橋信次:GLA誌より



[ 2014/01/18 19:55 ] 随 想 | TB(0) | CM(2)
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