「生命(いのち)の輝きへの道」五項目 

私が日々、行っていることを少し、書いてみたいと思います。
「生命の輝きへの道」五項目のことです。

これは 平成14年 GLA関西本部の春季研修会の時、岸田先生が 
自分の意識を高めるための方法ということで、示して頂いたものです。

1. 一日一回、心行を熟読する。

2. 神に感謝し、肉体先祖に対して、感謝の心を持つ。

3. 今日一日のなかで自分の「戒め」を振り返り反省する。

4. 宇宙意識のエネルギー(神の光)を全身にいただく。

5. 病や悩みのある人に、光(エネルギー)を送る。


私の場合、時間にして約一時間かけ、自分ひとりしかいない職場で
手が空く お昼過ぎにやっております。

まず、イスに座ったままでの深呼吸です。
およそ、東の方角を向き 心行を手にして小さな声で読んでいきます。
私の心行は、色々と鉛筆で落書きをしています。
高橋信次先生の著書や講演の中で「常に忘れてはいけない、」と
私が思った言葉のキーワードや、自分の心から発した想いをメモしています。
そして、心行に書かれていることを自分の「今の心」と照らし合わせ
メモしているキーワードとも、吟味しながら読み進めます。
心行の中では、いくつか重複した言葉があります。

・・・・を悟るべし (たとえば体験を通し、心から気付いたり自覚すること)
・・・・を知るべし
・・・・すべし
・・・・忘れるべからず

などです。
「神理について理解したら、次に行為することが重要」
であることを説いてあります。
今の自分はそれに対して、どうなのか・・。
心から わき上がってくる思いなど、自問自答して読んでいるため
日によって、読み上げてしまうまでの時間は まちまちです。

次に 「祈願文」 を読みます。
これは、祈りの心=感謝の心=実践 
・・・ということを ことばで表したものです。
そして、中道の実践を誓い、神様や上段階の光の天使からの光を求めます。
また、自分を慈しんで頂いている守護・指導霊様への感謝のことば。
人が生きていくために犠牲になっている諸々への感謝の心。
まず第一に、自分自身の体を持つことにより、地上界での修行ができるのだから
生んでくれた両親、先祖に対する感謝の心。
これらを一心に、胸に手を当て 念じながら読みます。

そして、もう一度 改めて神様からの光を仰ぎます。
神様の姿、神の光、人の心の姿・・・とは、どういうものなのか。
幸いに それについて、はっきりと高橋信次先生が著書とか講演、
写真を通して教えてあります。
それを参考に、ここからは、イメージとして行います。
あくまでも 念による自分の想像です。(笑)
この想像は以前に、自分に光が入ってきた その体験をもとにしているので
私としては、やり易いです。

イスに座って座禅をくみます。
光をいただく前、自分の今の心の状態がどうか、確認します。
神聖な光をいただくのに心が歪んでいては、失礼にあたります。
そして、自問自答していきます。
心は風船玉のように、丸いだろうか。
では、心から発している振動はどうだろうか。
精妙な状態だろうか。
自分の心の奥から発している神様、守護霊様による波動が
想念帯のところで歪みを作らずに表面意識に流れ込んでいるだろうか。
心は一念三千。右にも左にも偏らず、
(五感に振り回される事なく心を内に向け)中道だろうか。
海のように広く、空のように意識は高くあるだろうか。
自分の体から黄金色の光が出ているだろうか。

自問自答の次は、立ち上がり両手を伸ばして上空を仰ぎます。
そのとき自分の意識は、天井をつきぬけ空に駆け上がり、地球を見下ろします。
そして次元の違ったあの世に行きます。
きれいな緑色の芝生に座り、上空を仰げば 真っ青な空に 神の姿を見つけます。
それは太陽であり、地球のそれより一回り形が大きく 直視すると、
放っている光はやわらかく、ふくらみがあり
人に、慈悲と愛の尊さを教える光が自分に降り注いでいきます。
その光は、自分の体を貫いています。

自分の体と意識に金色の光が充満したら、その光を相手に送ります。
いわば念も含め、相手に送りますので 間違いのない様、守護霊様の御加護をお願いします。
私の場合、相手は、亡くなった父親と弟、そして病気の母親、
特に心配はないのですが、伴侶や子ども達。他、知人等。
病とか、心配事を抱えている人に対しては三度繰り返して光を送ります。
自分の全身、意識から充満している光を頭や、足元から集めて
目の前に黄金色の光の玉を作ります。
相手を思い出し(場合によっては、危険かもしれませんが自分のそばに呼びます。)
その玉を両手でつかみ、投げるように相手に送ります。
相手に光が届いたら、自分の手のひらから出ている波動によって調和を促します。

これは現実ですが、光を集めるとき自分の体を覆っている何か、エネルギー体を感じます。
また、何もない空中に光が見えたりすることがあります。
(目が悪くなっている、といわれれば、それまでです。笑)
手はしびれ、体中が熱くなったりすることもあります。
このような実感があるので、今やっていることに意味がある、と思っています。

光を送った後は、神様 上段階の天使、守護霊様への感謝の念をささげます。
守護霊様には、せっかく生まれてきたのだから、自分の今生での魂修行の 
目的と使命 が達成できますことを祈願します。


以上を 一心ふらんにやっています。
そのとき、雑念も何も心に入ってくる隙はありません。
無心状態という感じでしょう。 
なんだか、かなり かた苦しいというか、ほんとなの?
やってどうなるの~とか、こんなことマジで やってんの~と思われるかもしれません。
でも、マジです。(笑)
これだけで、一時間は かかってしまいます。
そして、時間があったら心静かに反省と瞑想をしています。

私は、こういうことをするのが好きなのです。(笑)
瞑想については後日、書こうと思います。






[ 2006/12/20 13:08 ] 瞑 想 | TB(0) | CM(5)

瞑想 prologue 

自分が行っている瞑想について書いてみます。
少し長文になるので、うまく書きたいことを書けるか自信がありません。
大したことを書くわけではないのに。(笑)
何回か、分けて ぼちぼちと、記入します。
そして一度ブログにup して、後で思い出したことや、ことばの表現が分かりづらい所など、伝わり難い箇所があれば その都度、訂正したいと思います。

瞑想の達人と云われるような人からすれば、私の瞑想など 迷想 程のものです。

参考にしている瞑想のマニュアルというものは有りません。
そもそも私の考え、精神的支柱には 高橋信次先生の著書と講演記録があります。

高橋信次先生が教えてあることに対し私は、曲解しているところもあろうかと思いますが・・・。
それを「私なりの方法」でアレンヂしているだけです。
つまり、自己流です。
いずれにしても、瞑想に関しては、誰かに こうしなさい と教えられたものでは有りません。

内容は、まず瞑想の目的から始めて、それを妨げる雑念、睡魔・・・など、私が思うこと、感じたことを率直に述べてみたい と考えています。
他に、瞑想について これまでに読んだ本や聞いたことで、私が興味深く思ったことがらも思い出しながら、少し交えてみたいと思います。

結論を云いますと、瞑想により 自分にとって何かの糧を得たのか
というと いまだ、何もありません。(笑)
一人で、心静かに目を閉じて過ごすこと・・が好きなだけです。
それが自己流で 趣味の瞑想 に結びついているわけです。

ところで、瞑想は「反省」と切り離すことができないものです。
反省とは、心を浄化する為の方法 と、まず考えていただければ良いかと思います。
ここでは私の反省に付いて書きたいことは一旦、割愛致します。

瞑想は心が 無 になる場合があります。
すると、その時に 周辺にいる霊が自分に入ってくる確率が高くなるそうです。
守護霊・指導霊であれば問題ないのですが、迷っている霊などは大変です。

生きているときに神に反する自己本位の間違った強い想念、例えば うらみ、怒りや悲しみ・・などなどを持ったまま死を迎え(死んだ直後にそれを悟れば良いのでしょうが)気が付かずに迷ってしまう霊がいます。

浄化することなく自己本位のまま、心を 無 にした人が、日頃そういった感情のままに瞑想すると、同じ感情を持った霊と同通して憑かれることになります。すると人格が変わるなど、心の平安からは遠くなり苦しみをもたらす結果となるそうです。
(私は迷った霊に憑依されたことは、おそらく無いと思うので、その辺は感覚的に分かりません)

不可分関係にある「反省と瞑想」をあえて分け、瞑想の方を少しずつ書いていきます。





[ 2007/01/11 14:46 ] 瞑 想 | TB(0) | CM(10)

瞑想 1  心の糧を求めて 

私の瞑想の目的は、心の糧となるものを求めています。

瞑想により、大自然との一体感を味わいたい。

そして、「肉体の荒い波動」と「精妙な心から発する波動」
その二つの波動のバランスを保つ。

さらに、守護霊との対話(感じること)です。

今はどれでも、私が納得できる状況ではありませんが。(笑)

これは、「ただ座っているだけで何も考えない」という方法の瞑想だけでは、到達できないと思っています。

「私流の瞑想」は、以下のことも含めたものです。

1. 「抜本的な反省」
2. 自分の意識を高めるための方法である「生命の輝きへの道」の実行。
特にその中の項目で、自分の今持っている意識(思ったり念じること)と、日常行為の
修正すべき性格、癖・根性の思考パターンを勇気を持って、自分を変えないと叶いません。

それが豊かな自分の心を創るための一つの方法であり、今現在の私の課題だと考えています。

例えば、人間は誰にでも欲望があります。
物やお金、色々あると思います。仕事に関して、家庭環境にしても
すべて、自分の幸せに結びつけて「今以上に」欲しいと考えます。
それは、それで良いと思います。

ところが「価値観」というものが、この三次元世界では通用しても、
神の存在(または神の掟)の世界(あの世)から見たら通用しないものがある、
と知ったら考え方や判断が変ると思います。私がそうでした。

あの世では、あの世でのルールがある、と私は思いました。
根拠は「あの世」について、複数の方の本を読んでいると共通したことに気づきます。
それについては、科学的な真偽は確認しようがありません。
ただ、信じるか、信じないか、のことです。

時間にして、生きている時間よりも死んだ後の時間が長い。
人は短い生涯をこの地球に、厳しい体験ばかりを積んで、これから先のこと、
全てが不安で一体何をするため生まれてきたのでしょうか。

それは、あの世では経験ができない最も価値ある「魂修行」と、私は信じています。

そういうことから、あの世、神の存在が「在る」ということを基にして書いています。

これは私、独自の思いをつづっているだけです。批判があっても、それに対抗できる意見もなければディベート能力もありません。(笑)




[ 2007/01/16 16:53 ] 瞑 想 | TB(0) | CM(7)

瞑想 2  心の波動 

瞑想は「瞑想に入ろうとしている、今の自分の心」が
何もとらわれのない状態、または「荒さ」を表面で感じない状態でないと、できません。
誰だってそうだろうなぁと思います。
荒い状態では怖いし、瞑想に気持が向きません。
そうでないと瞑想で、「より、心の精妙さ」を感じることは出来ないだろうなぁ、と思います。

「荒い」と書きましたが簡単に云いますと、こういうことです。

「驚く」、「ショックを受ける」ということを例にあげてみます。
感動するときの「驚き」とは別、ということで考えてみます。
身体的なこと、精神的なことなどで何か「驚く」という経験をします。
外部からの影響で、自分の内部(心と体)に変化が起きます。
ある程度、心臓の鼓動が早くなるのを感じます。
驚くことによって死に結びつかない限り、おそらく心臓の鼓動が前よりゆっくりとはならないと思います。
つまり驚いて「落ち着く人」はいない、ということです。
驚く=肉体的によい影響はなく、荒さを感じます。
落ち着く=肉体的にも癒されます。

体の反応と同時に、胸の上付近にある「心」にもそれが伝わります。

位置的にいうと体の内面ではなく
外側の両腕の間の空間の何もない胸の上のところに「驚き」の、荒い振動を同時に感じます。
(感覚というのを言葉で、どう表現したら良いのか難しいです。すみません。)

この「驚く」という例は、身も心も荒くなる、ということを述べました。
そうなると「冷静な心」を掴みにくくなります。別に例をあげます。

私の先生からよく教えて頂くことばですが、高橋信次先生は「心の三毒」ということを仰っていたそうです。
神の心、自分の心の平安から最も、遠く隔たったものかと思います。
それは、「怒り」、「愚痴」と「貧欲」(これで満足、という際限がない心)です。

「怒り」は当然、その渦中にあると心の冷静さを欠きます。心臓も血圧も荒くなります。
そういう状態の真っ只中、一瞬、自分の「心を感じる意識」で胸辺りに意識を集中して見てみると
自分の「心から出ている振動」が荒く感じると思います。
怒ったときの事を思い出しても、その時の「心の振動」がどうだったかが判り難い、と思います。
真っ只中、一瞬、冷静になる・・・ということです。(これ、難しいです)笑。

「怒り」と比べて心臓がおよそ冷静な状態の「愚痴」を思ったときがよく分かるかもしれません。
相手に強く出れない弱い自分のため、心の中で、または口から何かの不満をこぼします。
その時、意識を心に向けると、やはり荒い振動を感じることができます。
何か、欲望をあらわに心の表面に出しているときも波動は良くありません。

このような心の状態では、落ち着いた瞑想ができません。

「心の精妙さ」と書きましたが、私の経験では精妙に感じる心の振動(波動)は
「自分から発するもの」もあれば「他から受けて感じるもの」があります。

心は、そのとき、そのときで色々変ります。
精妙なときもあれば、何も感じないときもあります。
では、「精妙」はどういうものなのか・・・。
説明、難しいです。
私は私なりの、波動を感じている度合いをレベル分けしています。

自分が及ばない遥かに、魂のポテンシャルの高い、岸田先生から波動(光)を頂き、その素晴らしく精妙な、これも、ことばで表現できない様な、その波動を感じることが出来たときは感激、感動以外にありませんでした。

私は、岸田先生とお会いすることができて初めて「自分の心の振動」というものを知りました。
知りました、というより気づきました。

最高の状態は、その、「他から受けて感じるもの」です。
波動が非常に細かく感じて安定感があり、受けたエネルギーの様なものが暖かく、よろこびがあり、つきなみな表現で言うと、湖面が風により波が立っていない、鏡のような状態で心がずっーと、「シーン」としています。最高の、落ち着いた状態です。
このような状態は、一時的なときもあれば 長い時で一日~二日間は、精妙な状態を維持しています。
しかし、これは、せっかく受けた波動が自分の至らなさで、消えてしまいます。
裏を返して言えば、自分はそれだけの波動を長い期間、維持できる器ではない、ということです。

その次のレベルは、守護霊様を感じるときです。
静かな心の状態の中から、いきなり胸辺りから、抑えようにも抑えることのできない熱い感動のようなものが突き上げてきます。
(この状態は、こみ上げてくる、というより、突き上げるの方が近い表現です)
よろこびも同時に感じます。
もう、涙がでて どうしようもなくなります。
一人で瞑想をしているから、誰も見ている人がいないからいいのですが、これは、人に見せられる状態ではありません。(笑)
あまりにも、それが激しく来たら、胸の上の位置にある心に グッ と力を入れます。
そしたら、ある程度、突き上げてくるものが、おさまります。
この感覚も、私の記述能力では、説明しがたいです。
この精妙さの場合は、数時間ぐらいは味わえます。

ところで、瞑想(私の場合、最初から最後までをじっと座っておく所作だけではありません)をやった後は、始める時と比べて、より心の精妙さを感じることがあります。
(その時々によって感じるレベルが違いますが)

私は、この感覚が好きなので瞑想をしている理由でもあります。
これは、守護霊様の協力のもと、自分が発している振動です。

岸田先生と初めてお会いし、心から発している「振動」ということが自覚できた頃のちょっとした、失敗を書いてみます。

私はだいたい、夏風邪をひくと、冬は風邪ひかないことになっています。(笑)
去年は夏風邪をひいていなかったので、今度の冬は風邪をひくだろうなぁ、と思っていました。
やっぱり、昨年末の様に風邪で高熱を発しました。
そのような事が以前にもありました。
ちょうど冬でした。その頃一時期、私は自分の心ばかりを意識していたことがありました。
心から発する振動ばかりを追っていたわけです。
夕方、なぜか心の波動が荒くなっていました。
なんで、荒いんだろう。
何か自分の思念とか行為に、間違いがあったんだろうかなぁ~。おかしいなぁ~。
時間をさかのぼって、昼の時点での 心の持ちようはどうだったか。
朝、何かあったんだろうか。
その前の日、と考えていましたが思い当たることがありませんでした。
おかしい。荒い。なんで、なんで心臓までどきどきしているんだ。
よほど、悪い思いをもったんだろうなぁ。どういうことだろう。
ずーっと二時間ぐらい腕組みして、じ~っと考えていましたが
ふと、なにげなく額に手を当てたら、あぶら汗がでて、物凄く熱い。
もしかして・・・とおもって体温を計ったら、四十度になる手前でした。
心にばかり、意識を持って行き過ぎて
肝心の自分の身体の悲鳴に気が付きませんでした。(笑)
それからは、自分の意識に集中することは、ほどほどにしています。

ことばが混じってしまいましたが、同義語で 振動=波動 です。






[ 2007/01/17 15:17 ] 瞑 想 | TB(0) | CM(4)

瞑想 3  雑念 

あえて書くほどの大したことではありませんが、私流の「雑念処理」について書いてみます。

普段、前にも述べた「生命の輝きへの道」を実施した後にその瞑想に入ります。

私の場合、瞑想は時間が空いている時、誰もいない職場で昼頃します。
毎日瞑想をしているわけではありません。
仕事が忙しいときは「生命の輝きへの道」でさえ、全くできません。

するときは、少なくとも時間が一時間位余裕がないと静かに座っての瞑想はしません。
床から四十センチぐらいの高さの事務用イスの上に胡坐をかいての状態です。
正確に言えば胡坐ではなく「半跏趺坐」状態で座ります。
慣れると、そちらの方が足組みを時々交互に変えて、楽に長時間座れます。
足の痺れが気になると集中できないものですから。
イスに座っていますがイメージとしては、雲一つない真っ青な青空の下、暖かい太陽の日差しを浴びて芝生に座っています。

自分なりに「正法」を知って瞑想を意識した頃、静かに座っていると必ず雑念が湧いたものでした。
いろいろな雑念がありました。
それを強引に無念無想を貫こうとしていました。
集中しよう、と意識すればするほど余計に不思議と湧いて来ます。
何度やっても消えず、雑念を消すことのみ執着していました。

ところが、瞑想中のあるとき ふっと、
あることばが心に浮かんできました。それは、
昭和天皇か誰だったかが言ったことばで
「雑草という名前の草はない」

おそらく、一つひとつ名前をそれぞれ持っているのに「雑草」という名前で全部一緒に邪魔者扱いをしている・・・。
それを皮肉った?ことばではないか、と私は思っています。

そう考えたとき、私は「雑念」。
これは瞑想の邪魔者扱いだけにするのではなく自分が納得できるまで、まずは前向きに取り組むもの、だと考えました。

もう一つは、植物を育てようにも雑草があれば邪魔されて理想通りに育ちません。
そうなった場合は仕方ないので、生えてきた雑草は抜くしか方法がありません。

湧いてくる雑念を一つひとつ、自分なりに分析してみました。
すべてそれは物事一つひとつ真剣に考えている証でもありました。
必ず、出てくる根拠があります。
いろいろ有りましたが、私の中で大別すると「関心事」「欲」「心配事」でした。
私の場合、特に心配事が多かったと思います。

そのとき何か「関心事」が出るということは、瞑想に対する意気込みが足りていないためでした。

生活上、(神の理から見たら)不要に些細なことでも自分の思い通りにしたい「欲」を知らず知らずのうちに考えています。
それが雑念として自然と出ていました。
これでは守護霊との対話(感じること)はできません。
また、瞑想に付いて「瞑想によって何かを得たい」という期待感を必要以上に持っていました。
表面では期待感は「瞑想には禁物の考え」だと打ち消していましたが、自問自答で自分の思っていることを正直に白状させると(笑)、その根底には「あるがまま受け入れる」という自然体ではありませんでした。
内面的なものですから、それを発見するのに時間がかかったと思います。

「心配事」については ちょっとした、いわゆる「杞憂」が多く占めていました。
現在、将来のことに対するいろいろな悩み・不安などです。

瞑想中にそういう何か想いが浮かんだとき「その考え・思いが今、必要なのか」ということを考えます。
「今思う」必要があれば瞑想はやめて、その場でそれに取り組む方法を考えて、納得した上でもう一度、時間が有れば瞑想に入ります。
納得してそれが解決するまで(雑念としてあったものが消えるまで)瞑想はお預けです。(笑)

「悩み上手」になるためには、「時が来ないと解決できないものもある」と、割り切ることも大事だ。
と、自分に言い聞かせ納得させました。
実は、それまで「心配性がなかなか抜けない自分」でした。(笑)

また「瞑想中の今、必要のない思い」が湧いて来ます。
念のあとカス?のようなものです。
つまり、雑念が出てくる根拠が見当たらないものなどです。

しかし、どうしても根本原因が分からず、漠然と想いを引きずったりする場合も有ります。

その二つは、もう引き抜く以外にありません。

方法は、雑念を芝生の間から生えている雑草に置き換えます。
大地にしっかり張っているその雑草を、力を込めて根ぐるみすっぽりと引き抜くイメージです。(笑)

私の場合、それが効果ありました。
そのイメージ訓練を重ねると、前に比べてほとんど出てこなくなった、と今は思っています。

これで良いかどうかの確証はありません。
あくまでも自己流です。





[ 2007/01/22 19:22 ] 瞑 想 | TB(0) | CM(12)

瞑想 4  雑念 (エネルギー変換ボックス) 

以前に、坂本政道著「死後体験」を読みました。
米国モンロー研究所のヘミシンク音響技術が、死後の世界探訪を可能にした内容を綴った本でした。
ただ、がっかりしたのは幽体離脱体験があっても「神の理」については特別に述べられてはありませんでした。
「神の理」、死後の世界については、スピリチュアリズムの祖であるスウェーデンボルグやアラン・カルディックの方が実が有り、教訓になりました。

しかし、幽体離脱は面白そうだったので、CDを入手しました。
結果は、前にブログへ書いたとおりです。
私の場合、幽体離脱には縁が無いようです。(笑)

ところで、CDには日本語訳のガイダンスマニュアルが付いていました。
CD収録内容は特別な音響だけではなく、英語でナレーションが入っています。
ただ漠然と聴くのではなく、英語のガイダンスに従ってイメージトレーニングを通じて、効果が発揮出来るわけです。

興味深いことに、私が日頃行っていることと一部分の共通した内容がありました。
それを今回、取り上げてみます。

今、日本語訳ガイダンスマニュアルが手元に無いため、CDの英語音声ガイダンスを聴きながら、その時に行っていた記憶をもとにイメージトレーニング方法を書きます。
記憶をもとに・・・ですので勘違いもあると思います。(笑)

CDは、フォーカス10のレベルです。

ここからは、イメージとしてガイダンスに沿って音響を聴きながら、自分の心の中に創っていきます。
まず、聴くことに意識を向けなければなりません。

瞑想と同じく、雑念に阻まれます。
雑念を払拭するための方法として、エネルギー変換ボックスを創ります。
その箱は、蓋が付いていて、形・デザインは自由です。
ただし、しっかりとした重い蓋で塞がれており、箱は壊れることはありません。
広い、大きい箱なので、何でも収納できます。
一度収納したらイメージトレーニングが終わる頃まで開きません。
自分が創ったその箱の中に、雑念として浮かび上がる全てのものを入れて、しっかりと蓋をします。
その箱は自分の気にならない所に置いて、自分自身を開放させます。

上記のような方法での雑念対処法です。
全て、詰め込み方式です。(笑)
ブログのコメント欄に書いて頂いた記事の中に、高橋佳子先生は
「雑念はそれに抗うことなく湧くままにしておくのだ」と仰っているそうです。
対処法は、いろいろあるんですね。

そして、自分自身に誓います。
内容は詳細に覚えていませんが、こういうことだったと思います。

「自分は三次元世界だけを感知できる能力ではなく、物理世界以上のものを感知できる可能性を持っている」
「そのためには四次元世界以降の、自分以上の智慧を持った者の存在やエネルギーの協力が必要です」

・・・と、助けをお願いするわけです。
拡張された意識体験をするため、その存在者の協力を要請します。

また、素晴らしい経験ができることをお願いするわけですが、それ以下の状態に導く存在(危険な霊)「魔」の影響を受けない様、自分を導いて頂く方に対し守護して頂く旨、祈願を念じます。

「魔」で思い出すことがあります。
それは、2003年の五月でした。
岸田先生に福岡へお出で頂いた時のことでした。
先生は、
田中さんの「想念帯」にヒビが入っています。
そのため、心の中に「魔」が入ってくることが無い様、毎夜「光」を送り、カバーを張ります。
と、仰っておられました。
想念帯に穴が開いた場合の「魔」の怖さは、それまでいろいろと信次先生の講演での体験談を聞いていたので、岸田先生のそれを聞いて安心したことを覚えています。
この幽体離脱の世界でも危険がある、ということなのでしょう。
瞑想に入るときは「魔」の侵入が怖いので、それを防ぐために私は必ず「諸天善神」に祈願を念じています。
※想念帯とは簡単に一言で云うと、人の「心の構造」の中での一部分の領域です。
自分固有のいわば「アカシックレコード」みたいなものです。
今生と過去世の全ての転生記憶がそこにあります。

話を戻します。
そして、ガイダンスに沿って、特有の呼吸法を行います。
「共鳴同調法」というものです。
自分の身体へのエネルギー進入を容易に持っていくための方法です。

息を吐いたり吸ったりすると同時に、きれいな「光輝く閃光」をイメージして、その光のエネルギーを身体中に充満させます。

この呼吸法は、ここでは具体的に書きませんが瞑想にも有用であることをマニュアルに書いてあったと記憶しています。


ところで、「梵我一如」(ぼんがいちにょ)という仏教用語があります。

至高の悟り(神の理)を得ると、次元を超えた最高の意識で
「宇宙と自分は一体」であることが自覚できるそうです。

それを他の教訓と交えて伝えているのは「孫悟空」にあります。
意識が拡大した方の下で「宇宙の端まで逃げ切ったと思ったところが、実はお釈迦様の手のひらの中を回っているだけだった」という孫悟空の体験が物語の中にあります。
至高の悟りを得た方は今生だけではなく過去の幾転生で、そういった器を培った偉大なる魂だと思います。

また、六神通力の一つとして、自由自在に身体はそこに置いたまま、意識だけで飛ぶように三次元世界のどこへでも行けるし、四次元以降の世界へも色々と体験できるそうです。

そういうことで幽体離脱体験が出来る人は、ある程度の悟りを伴っていないと出来ない、とばかり思っていました。

しかし訓練により、モンロー研究所のヘミシンク音響技術は幽体離脱が可能だと証明しています。





[ 2007/01/24 14:16 ] 瞑 想 | TB(0) | CM(12)

瞑想 5  方法 

じっと座って目を閉じた状態での瞑想について、特に特筆すべき経験はありませんが、感じたことを率直に述べてみたいと思います。
その前に、私が常に意識しながら瞑想を行っている方法をそのまま書くよりも、真似していることを写して記述したほうが間違いなく伝わる、と思います。
方法を真似していますが私自身、書かれてあることを完璧に出来ているわけではありません。

まず、態として「じっと座って目を閉じた状態」の瞑想について私が参考にしている本を手にとって一部抜粋した文を、長文になりますが以下、紹介します。


禅宗の座禅の目的は心を空(カラ)にし、その空の中から己を見出そうとするらしい。
一般的には無念無想になることが、仏を見性することになるらしい。
ところがゴーダマ・ブッタ(お釈迦様)が教えた瞑想はそうではない。
毎日の想念と行為の在り方が、中道に適ったそれであったかどうかをたしかめ、誤りがあれば、神に詫び、智慧と勇気と努力で、二度とその過失を繰り返さない自分を修正していくことにあった。
したがって、瞑想の目的は反省にあって、一日二十四時間の、正しい生活をめざすものであった。
瞑想のための瞑想ではないのである。
何ごとによらず、私達は反省することによって前進する。
学業にしろ、職業にしろ、人生の問題にしろ、反省なくては進歩もない。
私達の人格を形成する心と行為の問題も、反省を通じてつちかわれ、安らぎある自分を見出すことができる。
反省は、いつ、どこにいても可能だし、なれてくれば、一秒一秒がそれにつながっている生活といえよう。
しかし瞑想による反省は、反省の中身をより深くし、充実したものにする。
なぜかというと、中道を尺度とした反省をすると、必ずといってよいほど守護・指導霊が傍に来て、その反省を助けてくれるからだ。
また、瞑想は、軽く目を閉じ中の目をひらき思念を一点に集中させる、もっとも良い方法なのだ。
目を開けていると、思う、考えることがどうしても散漫になり、まとまらない。
外界の動きに気を取られるし、考えが浅くなる場合が多いのである。
私達の心と肉体の関係は先にもふれたように、別個に存在している。
めざめてる時はそれが一緒になって生活するので、肉体そのものが精神をつくっていると考え勝ちだ。

【中略】

三昧の境涯とは、瞑想の極致を指すのである。
無念無想となり、気持のよい状態をいうのではない。
無念無想は、危険極まりない心の空白を意味し、いつ他界者が自分の意識の中に進入してくるか分からない。
瞑想中でも自分を失ってはならない。
大我の自分は、どんな場合でも、生きとおしの自分であり、瞑想が深くなれば、ますます大我(別名を無我ともいう)の自分が躍動してくるものである。
反省の瞑想は瞼を軽く閉じ、瞼の中の眼は真っすぐ前方を見つめる。
瞼を閉じると大抵はねむけを催し、反省が思うようにゆかないものだ。
そうならないために中の眼は前方をみつめるようにするのだ。
ねむくなると、たいていは中の眼は上に移動する。
疲れた時、夜が遅い場合は、瞼を閉じると自然にコックリがはじまる。
瞼があいているときはそうでもないが、瞼を閉じるとそうなるものである。
これは自然現象であり、生理的なものなので仕方がない。
しかし、そうした場合、中の眼を真っすぐに前方を見定め、意識をしっかり定めていると、そうねむくなるものではない。
そればかりか、心が一点に集中でき、反省が比較的容易にできるものである。
瞑想というと、ふつうは黙って目をつぶり、さまざまな妄念がおきないよう、つまり雑念がおこらないようにすると考えがちだが、これではいけない。
瞑想の意義はまず反省の瞑想をくりかえし、守護・指導霊の光が届いたときに真価が現れてくるものだ。
反省もせずに、いきなり、雑念を払う瞑想をしたり、そうした習慣が身につくと、心がゆがんだままであり、そのために、ゆがんだ心に通じた悪霊を引きこんでしまうのである。
正道を知らずして、座禅をすれば悟れるということで瞑想の行を積むうちに、魔に犯され、精神分裂や肉体的欠陥に悩む者が出てくるのはそのためである。
したがって、反省は瞑想にとって絶対欠くことの出来ない基本的な行方であり、心の曇りをのぞく、唯一の方法なのである。
瞑想はどうしても夜になる。
朝、昼は仕事に従事しなければならないし、仕事をせずに瞑想ばかりしていたら、生活に問題が生じてこよう。
夜になると一日の疲れも出るし、前記のように、瞑想に入るとねむけを催してくる。
どうしても反省に集中できないという場合は、瞼を軽くあけ、座している少し前方に視点を定め、反省するようにすると、ねむけは解消できる。
反省になれてきたなら、再び眼をとじ、瞑想の反省に入っていく。
夜は昼間とちがい、雑音が少ない。
草木の活動も静まり、動物達も眠る。
それだけに、夜の瞑想は、深くなり、心が統一しやすい状態になる。
同時に、あの世の天使達の通信も受けやすい状態になる。
昼間は、家事や仕事に気をとられるので、天使達の通信をキャッチしにくい。
ゴーダマ・ブッタの瞑想が、ほとんど夜、それも今の時刻で午前一時から三時の間に集中したのもそのためであった。
ただし反省の瞑想をせずに、雑念を払う意識の空白状態や執念に心を奪われると、魔が入り易い。
これは昼間よりも危険である。
百鬼夜行というように、夜は魔も活動しやすいのである。
反省の瞑想をしておりながら、それを終えて夜ねむれなくなるような場合は、反省の仕方に、どこか間違いがあり、反省ではなくて、何かにとらわれているのである。
こうした場合は地獄霊が近くにいて、本人の意識に入りこもうとしており、まことに危険である。
こうした状態が毎夜続くとノイローゼになっていく。これは反省ではなく執着なので、こういうときは反省の瞑想はしばらく休まれた方がよい。
正道にもとづいた反省をしている時は、守護・指導霊が近くに来ており、本人を守っている。
魔は絶対に近寄れないものだ。
したがって、瞑想を終えればすぐ就寝できる。
こうして、反省の瞑想をつづけて行くうちに、守護・指導霊との交流がはじまり、対話が可能になってくる。
つまり、心の曇りが晴れてきて、いつ、どこにいても、守護・指導霊の導きが可能になってくる。

以上、高橋信次著「心の原点」より 
第5章 神は光なり我とともに在り 
8.瞑想的反省の意義
から、引用させていただきました。






[ 2007/01/30 18:29 ] 瞑 想 | TB(0) | CM(6)

瞑想 6  トニーの自叙伝から 

「瞑想により、大自然との一体感を味わいたい」
前にも書いていましたように、これが私の瞑想の目的の一つでもあります。
その理由として、住んでいる地球、大宇宙は、あらゆる生命物質を生み出している母体でもあります。
その恵みの中で、永遠の調和に向かってお互いが共存共栄の生活しています。
以前の私でしたら、自分本位の人間でしたから(笑)、そんなこと考えてもみませんでした。
ところが、信次先生の著書「心の原点」等を読んでからは、これまでの自分の愚かな考え方に気づくことが出来たことを思い出しています。
素晴らしい「人」とか「本」に出会えますと、これまでの自分の考え方や今後の自分の在り方、理想像を考えさせられます。少しでもそれに近ずきたいと願ってやみません。

読んだ後、今も大事に手元に残している本の中で、大自然との一体感を体験した、故アントニオ・トニー氏の興味深い自叙伝の一部分を以下引用、紹介したいと思います。
私の言葉で読んだ感想を中心に説明し、引用は数行に留めておくつもりでしたが、私の感想文ではやはり正確に伝わらないと思い感想を抜いて(笑)伝えようとしたら引用文が非常に長くなりました。
これを読んで頂いている方に何か参考になれば幸いです。

しかし随分以前にテレビで、トニー氏の心霊手術(メスを全く使わずに手だけで皮膚を切って体内の悪くなった腫瘍を取り出し、しかも全く傷跡を残さない手術)を見て驚いたものでした。


―――――――――――――

トニー著
フィリピン心霊手術者の半生
「わが奇跡の力」
昭和52年10月20日初版発行 
(現在は残念ながら絶版です)

20070223162901.jpg



山の隠者

木の葉の間を洩れて、朝日がまだ寝ている私の顔を照らしていた。
目を覚ますと一片の雲もない青空だった。
小川の水音を聞いていて、一昨日から何も食べていないのに気付いた。水がとても恋しかったから小川にでて、冷い水にさっと手を浸け、頭をすっぽり入れて水をのんだ。
さわやかな気持になると、岸辺に坐って今度は足を水にじゃぶじゃぶ入れ辺りを見まわして近くに果樹がないか探した。
その時、一人の男がそばにいるのに気付いた。
ずっと前からいたらしいが、私は気付かなかったので、非常に驚いた。あまり驚いたので、すぐには顔もわからない位だった。
その男がにっこり笑ったので、私の気持もおさまった。
こんなに気持の落着いたのは初めてだった。
その男の目は若々しく輝いていて、笑顔は母親を見て微笑む赤児のような笑顔だった。
だが目の輝きと笑顔とを除けば、全身に老いがうかがわれた。
額には幾すじもしわが深く刻まれ、顔は老人の顔だった。
地上に脚をくんで坐っていた。
着衣は色あせていたが、黒染めの絹のような服をまとっていて、腰には汚れた白いひもを巻き、長くのびた白髪も白いひもで束ねていた。
「おいで」長い白いひげをふるわせて低い声が響いた。
足元に置いてあるつややかなバナナの葉に盛られていた果物と根菜を食べろと手ぶりで示した。
あやつられたように私は従った。果物は甘く根菜は暖かった。
どうやって調理したのか私にはわからなかった。
話す言葉は父のようでもあり、友達のようでもあるような響きで私に伝わった。
ずっと前から私を知っているような話し方だった。
私はすぐに親しみを覚えずにはいられなかった。
一言一言、言葉を選んで話すような話し方で、言葉数は少なかった。
だが、それでいて言葉が自然に流れでているような感じで、私にも言う事がよくわかったのだ。
目の輝きと一言一言とが絶えず連携しているようで、これが言葉の意味を深め、私の理解を助けてくれたのだ。
男は自分のことを隠者だと言った。
奥深い山中でただ独り年老いるまで暮す人がいると祖父に聞いた事があったので、その祖父の話を思い出していた。
男は私に一緒にいるがよいと言ったが、その目の輝きは、私がそこに一緒に居る事になるのだと語っているようだった。
私はなおもがつがつと食べつづけていた。
私が一番驚いたのは私の名前を知っていた事であったが、しかもそれに私が気付いたのは何度か私の名前が呼ばれてからの事だった。
男はやはりほほえんでいて、その目は私にどうしてとか、なぜとか尋ねる必要などないと教えていた。
若者と変わらない敏しような動きで立ち上がると川のそばに行き水をすくって口に入れた。
そして私の方をふり返ったので私も同じように両手に水をくみ、のんだ。
「アントニオ、わしと一緒にいる限り飢えも渇きもせんぞ」そう言って私の手をとると、何の道しるべもない山道をどんどん歩いて行った。
男の手はごつごつして固かったが、私の手を優しく握っていた。
体付きはほっそりしていたが、道のつるつるしたり、険しいところでも足どりはしっかりしていた。
年老いた様子なのに一度も休むことなく歩きつづけた。
男の体から私の体に何か力が伝わってくるのを感じた。
山中では時間もとまっているかのようで、二人がどの位歩いたのかもわからなかった。
男は口もきかなかったが、きく必要もなかったのだ。
私は少しもこわいとは思わず、子供だけにみられる純真さで私は全身を男のひく手にあずけきっていた。
やがて両脇がきりたった崖にはさまれたかっこうの、隠れ場所のような平地にでた。
二人の歩いてきた道の外には、ここに達する道はなかった。
ようやく二人は立ち止まった。
男は私の手を放し、きっぱりとした口調で言った。
「二人が住むのはここだよ。わしは、もう何年もここに住んでいるが、これからは、アントニオ、ここはお前の住み家にもなるのだぞ」
なぜ私が住むのかわかりもせず、またわかろうとも思わずに私はうなずいた。
男には私はアポ(叔父さん)と呼びかけていたので、これからはアポと書くことにするが、そのアポが何もかも承知しているのだから私としては何も訳を尋ねる必要もないと思ったものだ。


霊的めぐり会い

平地の一隅には、屋根をコゴン(草)でふ葦いた竹造りの小屋がたっていたが、かたわらには絶壁のがけがそそり立っていた。
小屋の前にはさまざまな草木が列をなして植わっていたが、その中でカモテ(いもの一種)だけは私にすぐわかった。
だが他の草木は何なのかわからなかった。
アポは私が何を疑っているのかを察して、小屋まで歩く途中で、いろいろと草木の名前を教えてくれた。
みな薬草や薬木だった。
もちろん病に備えてアポが植えたものだった。
小屋の前に泉が湧いていたが、水はこれを使うのだなと思った。
そこで立止まると、私にボロボロの服を脱いで、体を洗うように言いつけて、どこかへ行ってしまった。
私は言われたとおりに体を洗ったが、洗いおわった頃に戻ってきた。
「ほら、この葉っぱで体をふきなさい」と言って何枚かのもみつぶした木の葉をくれた。
言われたとおりにすると、山中を歩いていた時のひっかき傷が、水浴びをしたら、ひりひりしたのだが、その傷の赤味が消えて、体が乾くと痛みも全くとれてしまった。
小屋の中に入ると、低い竹のベッドが二つ置いてあって、一つのベッドの上には私にぴったりの着替えがのっていた。
それを着ると、アポはにっこりと笑った。
この時、私は初めて気付いた。私が迷子になって偶然ここにやってきたのではないのだという事に。今までに私の身にふりかかった総ての事は、ここでアポと一緒に、私が暮すようになるために起こるべくして起きた事なのだ。
「アントニオ、その通りだよ。神の導きなのだ。お前にとってもわしにとってもな。二人共その導きを受けねばならん」
アポが言ったが、私にはよくわからなかった。
もっと知りたかったが、尋ねようとはしなかった。
「わかる時がくる。ようくわかる時がくる。おまえには守護神がついていて、いつもおまえと一緒にいるのだよ。それにわしもいつまでもおまえの守護神になるのだよ」
アポがほほえんでこう言った時に、私は自分の体内に炎のような熱気と明るさとがみなぎるのを覚えた。
私は歓びの湧き起こるのを感じたが、それはちょうど私が木の上で目を覚ました時の感じと同じものだった。


真実の理解

その夜の夕食後、私の守護神でもあるアポは、小屋の片隅にあった石造りの三脚炉に薪を積んで火をつけて、それをじっと見つめていた。
私もアポの向かい側に坐って、アポの動きを細大もらさず見守っていた。
アポは私の顔を見て薪を足しながら言った。
「人間は昔はお互いによく気持が通じ合ったものだ。それが人間の天から授かった知恵というものだった。ところが、だんだんその知恵を仲間同士で悪用するようになって、しまいには知恵そのものを失うはめになったのだよ」
「人間は石や木とお話しできるの?」私が尋ねた。
「いや、こうやっておまえと話し合っているようにはできないが、感ずる事だ、そう、触わったり、見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったりする感じ以外の感じで感ずることだ。そこで初めて知ることができるのじゃ」
私にはアポの言うことがわかった。
「人間はその知恵を失ってしまったから、もう自分の事もわからなくなってしまい、自分が誰か、何なのか、何ができるのかもわからなくなってしまったのだ。
そこで人間としての自分自身を知る事、自分が何者で、何ができるのかを知る事。これがおまえのやらなくてはならない事だよ」
私にはアポの言葉がわかった。
そこで、アポは立ち上がった。その夜はもうこれで、アポの話は終りだった。
次の日の夜はいろいろ教わった。
まずアポはものの見方を私に教え始めたのだった。
私はそれまで目が見えると思っていたし、実際見えていたのだが、アポの言う意味では私は目が見えなかったのである。
それは単に目を使うという意味ではなく、それ以上の意味があったのだ。
このことは今でも変わりがない。
たとえば、ある問題を長時間講義して、先生が生徒に
「わかりましたか」と聞くと生徒の方が「わかりました」と答える。
アポの言う「見る」はこの種のわかると似たものだが、実際はその「わかる」以上のものなのだ。
表面的にはこうした言葉のやりとりは、とうぜんの事のように思えるのだが、よく考えてみると、この事は人間が視覚を通じて見る以外にも、ものを見る能力を具えている事実を示している。
ある問題をめぐって、先生と生徒との間に理解したという共通の認識が成り立って初めて学習が進むのだ。
「わかるか」というのを言葉で表わすのは難しいのだが、アポは優秀な教師で、必要な時を除いては一切言葉を用いなかった。
目の輝きだけでは教えきれない時、今までにない新しい事を教える時、私を試す時などは仕方なく言葉を用いた。
山中の学校で私はこうして、ものを見る事を教えられたのだ。
山中にはさまざまな包い、物音、味わい、情景などがあったし、さまざまな体験もつむ事ができた。
「山の静けさ」というのは単なる比楡で、実際には昼となく夜となく、山は絶えず動いているのだ。
山が静かだと言われるのは、山の総てが自然の調和の中に一体となっているからなのだ。
山が静かだと言うのは、人間が人間の言葉で自分の心に映る実在の影像を表わしたものだ。
とすると、その影像が消え実在が残るというのがわからなくなる。
心の影像と実在との係わりには、いかに多くの混乱が生じている事か、だがこれも人間の認識体系の一部にすぎない。


大自然の中での修業

私が初めに教えられた事は、あらゆる感覚に優って視覚だけを顕著に働かせる方法であった。
アポはまず私を一輪の花の前に坐らせ、その花の動き、刻一刻と花の開く様子をじっと目で捉えよというのだ。
何時間も目ばたきもせず、じっと花を見つめて坐っていたものだ。
坐っているとのどがかわいたが、じっと花の香りを嗅いでいると、背筋がぴんとしてきて、さまざまな音が聞こえてきた。
これを何度も何度も繰り返しやらされ、やっと花が蕾から開くところが確かに見えるようになった。
それから花の開く音を聞き、香りを嗅ぎ、味わい、最後にその感触を覚える事などを順次教えてくれた。
こうして初めてアポは、私にものの見方を教えてくれたのだ。
朝露がビロードのような花びらにまだ残っているバラの花が開くのを見つめているだけで、総ての感覚が同時にしかも等しく働くようになった。
これがアポの言う見るという事なのであった。
見ているだけで花の開く極微の動きが立てる音が聞こえ、その柔らかな感触にふれ、刻刻移り変わるふくいくたる香りを嗅ぐことができ、ゆっくりと光に消える露を味わう事もできた。
すなわち、バラに内在する自然の調和を見る事ができたのである。
それはいわば、相互に係わり合う総ての感覚が奏でるシンホニーとも言えるものだった。
私の全身全霊がバラの中の小宇宙に一体となったのである。
アポはこう教えた。
「まず、バラの茎を見、それから根、土、周りの草、近くの木へと順次視野を拡げてゆくのだ」
すると、総ての物音、香り、味わい、触感が一つに流れるような脈打つ調和に溶けこんでゆくのであった。
調和を学び、総ての感覚の働きを知ると、山そのものが私にとって前の山ではなくなっていた。
山の見方が変わってきた事で、私自身も以前の私とは違ったものになっているのに気付いた。
山自体はもちろん変わったわけではなかったのだが、私の感覚が訓練されていなかったので初めは山本来の姿が見えていなかったのだ。
また、私の存在そのものが山に働きかけるようになった。
山に働きかけるというのは、私が近づくと、こうろぎ等の虫や鳥が音を立てたり、逃げ去ったり、飛んだり、這いまわるという事ではなく、山の総てのものが活気を増し、私が山に、山が私に働きかけるという事なのだ。
それは言葉で表現するのは大変難しい現象なのだが、つまり山によって私がいっそうの生気を得、同じように山は私によっていっそう生き生きとするということだ。アポの教えが次第に進むにつれて、アポが始終私のそばについている必要もなくなり、アポがでかけて私独りが小屋に残っている時があるようになった。
しかし、独りの時でもアポの存在が身近にいつも感じられた。
アポは次に瞑想する事を教えてくれた。
夜になって寝る前に私はよくこう言われた。
「花を開くバラの事を考え、今日感じた事をもう一度感ずるように努め、心に花を見るのだ」
言われたとおりに幾度も同じ事を繰り返した。
それから心に浮かんだ花の各部を別々にわけて、花びらの動きだけを見るようにしろと言われ、花びらの動きだけをとらえるようにした。
その次には、花びらから消える露の香りを嗅ぎ、茎の中を流れる水液の動きを感じろと言われた。
このような訓練を通じて私は自分の感覚はいっそうとぎすまされていったのだ。
衝動を与えたり、衝動の複合的変化が生じたりすると、即座に肉体がそれに応じ、精神集中ができるようになった。
さらに瞑想の対象による肉体的な刺激がなくても、精神の微かな動きによってあらゆる感覚を再現することができた。


傷付いた小鳥

しかしながら山は平穏な時ばかりではなかった。
熱帯性の嵐が吹き荒れ、自然の猛威が山の姿を一変させ、木が倒れ、川が氾濫し、洪水がおこり、小さな生き物は溺れ死に、鳥の巣が散り、ひな鳥が死ぬといった惨状となる事も珍らしくなかった。
だが、嵐が去って山が自然の調和を取り戻す時の姿は実に美しかった。
嵐の前後のいわゆる山の静けさ、特に嵐の後の山の静けさというものは、再生と成長の活気あふれる時期を表わしているのだ。
嵐を迎える毎に私も成長し、動植物の成長過程を学んだ。
植物の本質、互いの調和、一つ一つの植物やその細胞の内なる統一性を瞑想するという、植物を対象とした精神集中を学びおえると、アポは次に動物に学ぶことにすると言った。
私は動物が好きだったから、この方がいくらか楽だった。
必要に迫られると、二人はおそろしい野性の猪や、脚の速い鹿を狩りにでかけたり、野性の鶏に罠を仕掛けたりしたが、そのつど、動物達の生態についての知識を深め、狩りを楽んでいたから、捕獲するのが巧くなった。
「お前は立派な猟師だな」ある日、アポは私をほめた。
私のやる事はめったにほめたことがなかったから、これは珍しかった。
だが、その後でこう言った。
「動物にうち勝つ術を覚えたり、その弱点をつかみ、お前の知恵で動物の本能に対抗しようとしたりする事よりも、大事な事は、動物の内なる調和を学び、お前自身がまた、動物達と調和する事だ」
私に問題を与えたのであった。
そこで次に狩りに出た時には、殺さず捕えず、ただそっと近づいて相手に気づかれないようにして細かに観察だけした。
しかしこれは難しい事で、動物達は一ヵ所にじっとしている事がなく、絶えず動きまわっているのだ。
とうぜん、草や木のように一つ所にじっとしていないので、観察できるのはほんの瞬間の事もあって、その瞬時に動物達の内なる統一性を見究めようと努めなければならなかった。
鳥の場合はまだ楽で、木に登って身を隠すことができたし、私は木の内なる統一性は悟っていたから、木と一体になれたので、鳥の方が私を木の一部と見て、私の体にとまる事すら珍らしくなかった。
だから鳥の観察は非常に綿密に行えた。
駿足の動物や鳥を目近かに観察する事で、私は体内の精気を瞬時に統一されたある感覚や目標に集中させる能力、すなわち一つの感覚のみを増幅してものを見る能力を啓発する事ができたのである。
ある長い激しい嵐の後、アポは私を生い繁った竹林に連れていった。
背の高い竹の根元にいばらの繁みがあって、そこに小鳥が一羽動けなくなっていた。
その鳥のさえずる声に私は苦痛、体内の内なる不調和を感じとった。
とげが突きささって動けなくなっていたのだが、そのとげすらが、小鳥の窮状と苦痛に同情を寄せているかのようだった。
とげの事などかまわず、私が小鳥のそばに駆けよると、訴えるかのようにさえずった。
アポの方を見ると、アポはどこにもいなかった。
私は小鳥を両手にすくうようにかかえると、その小鳥に全身全霊を預け、精神を集中した。
片手で傷ついた翼の姿勢をただして、今まで観察した鳥達の事を心に描き、鳥の具えるべき調和を心に念じた。すると手の中の小鳥は翼を羽ばたいて静かになった。
それから体をすくっと伸ばすと立ってしばらくすると空中に飛び立った。飛べたのだ。翼の傷はもう直って調和を完全に取り戻したのだった。
私は思わず嬉しくなって声をあげた。その時、とつぜんアポが姿を現わした。
私の手をとると小屋に連れて帰った。
その夜、アポは火のそばに坐って、今までに見せたことのない目つきで私をじっと見つめた。
私の方を見ているように見えたが、実際には私だけを見ているのではなかった。
あらゆるものとあらゆる所を同時に見ているのだった。
今までに聞いた事もない穏かな声で、私に語り始めた。
私の体内のある力について話したのだが、アポの話では、その力は修得することのできるもので、いったんそれを制御できるようになると、その力で、通常の人間の能力を超えた行いができるようになると言うのである。
この力が制御できるようになると全く別の世界がひらけてその別の世界の超人的力を伝達する手段に自分自身がなれるのだ。
この力をアポは、霊(スピリット)と呼び、この別の世界を霊界(スピリット・ワールド)と呼んだ。
人間は生きている限り、霊界に入る事はないのだが、その霊界の善なるもの、諸力はこの世に移入する事はできるのである。
そこで私は、アポが低い声で話しているのに気付いた。
アポは私に思念を移入していたのであったが、私はその思念を理解できた。
私はその思念に精神を集中し、思念を要素に分解し、各要素の全体性をそしゃく咀嚼して、その中の統一性を会得した。
今までの総ての努力は、私の内なる霊力を会得するためのものだったのだとアポは言った。
この霊力は霊界と接触する媒体となるものだった。
さらにアポは言った。
「内なる霊力は自然に現われてくるものであって、この霊力によりお前は人間と霊界とを結ぶ生ける媒体となるのだという事を忘れてはいけない」
アポの言葉が真実だった事は、ある日二人が山奥から出て、ある小さな村を訪れた時に証明されたのだった。
そこへ行く途中でアポは、私がじきに自分の今まで学んだ事を実践に移せると語ってくれた。
私はその時を長いこと待っていたのだった。

以上、「わが奇跡の力」より、引用させていただきました。


なお、高橋信次著「心の発見・科学篇」
第三章 彼岸の縁
イエス・キリストの生命
の本文中には、イエスの分身がフィリピンで肉体を持っており、クラリオが守護霊で、指導霊はイエスの友人であるモーゼの分身が担当している旨の記述があります。
イエスの分身こそが、このトニーです。







[ 2007/02/01 13:16 ] 瞑 想 | TB(0) | CM(7)

瞑想 7  現実と夢の狭間 

これまで私が書いてきた一連の所作を通して瞑想に入ります。
目を閉じて、意識して中の眼を開け、「見る感覚」で座ります。

しかし、眠気に襲われることもあります。(笑)
眠気と対峙して、自分なりに感じたり気付いたことを書いてみます。

目を閉じて、見る感覚でいると、真っ暗で何もない状態ではなく、闇の中に動く光の残像のようなものが見えます。(誰だってそうかと思います・・)
それを見ながら、かといって別に考えることは何もなく、無意識の状態でいるときのことです。

だんだんと起きている意識の状態と、眠りに入る意識の状態の、ちょうど「中間点」に居ることがあります。
それは身体の一部(手の指とか足の指)を動かそうとしてみると、動きます。感じます。

「中間点」・・・眠りに入るその狭間。意識的に微妙なバランス状態です。
その状態に入るときは、自分が瞑想に対しての意気込みが特に強いときです。
いつもその状態には入れません。
そのとき耳の神経が敏感になるような感じがします。
それは、部屋の何もない空間あたりから「ミシッ」とか「ピチッ」と普段は聞こえない音がします。

そして、何気なく見ている眼の中に見える、光の残像みたいなものが動いていますが、それが形に変わっていくんですね。
目の前で映像に変化していきます。夢の見始め、というものです。
そうなった場合は、いつも感じるんですが、位置的に閉じた眼の下方で左側の距離的に少し遠いところから夢が向こうから「やってくる」ような感じがします。
それを意識のある自分が迎えています。

その映像ができる源は瞑想に入る前に出ていた「雑念」の延長のようにも思えましたし、ある時の場合は、光の残像みたいなものをを見ていて一緒に「雑念」がでてきました。
その雑念が光の残像とミックスして映像になったことがありました。
出所が雑念の延長の夢ですから、ほとんどストーリーがしっかり出来ていません。
夢の出現の瞬間を自覚(見えて感じること)ができる・・・ということでしょうか。
その時、若干の指の動きは出来ます。

思い切って身体を大きく動かすと(足を組みかえるなど)夢は消えてしまい、普通の意識に戻ります。
しかし夢に呑みこまれると(夢の展開を知りたくなり夢を見ようと思うと)、
座ったまま、いつの間にか(今ある意識を自覚出来なくなり)完全に眠りに入ります。
身体が前に深く傾く格好です。しかし、イスから転落したことはありません。(笑)
そうなると、そこから先の「見た夢」はどうなったのか、ということは後からはよく思い出せません。
瞬時でも眠ってしまえば、夢は夢だからです。
普段、夢の想起はやっていないので特にインパクトがなければ、思い出すのが苦手な私です。(笑)
この中間点、眠りに入るその狭間というのは、何か微妙なバランスの上に立っているのは間違いない、と私は思います。
その何かは判りません。
感覚を言葉に表現するのは、果たして理解いただけるか、いつも思います。

瞑想中に大体そうなると、夢に支配されることが多いので身体を動かすか目を開けて、夢から脱出します。
そして、もう一度気を取り直して心静かに自分の身体と空気(周り)が一体になるイメージに戻ります。
大自然と一体になるイメージができたら、受動状態の無念無想に入ります。

ところで私と親しくして頂いている法友で、東大阪市在住の方がいます。
その方は、夜寝る時に(瞑想中ではなく)自分の過去世の様子が映像として、開けている目の、目の前の壁に展開した経験をお持ちです。
そのお話しを以前に聞いていたために連鎖したのか、どうかは判りません。

瞑想中に守護霊様の顔が見えました。
意識の位置が、その中間点にあったときの事でした。
いきなり大きく「顔」だけが見えました。
「この人は誰だろう・・・」と思ったら私の守護霊様だ、と気付きました。
私より細面で、肌の色が白かったです。
肩付近に着物の白い生地が少しだけ見えていました。髪はそこまでは、伸びていたようです。
しかし、目・鼻・口の形や髪の色は判りませんでした。
それは、夢とか自分がイメージして浮かんだものとは違います。
「見せていただいた」という感覚がありました。





[ 2007/02/05 17:35 ] 瞑 想 | TB(0) | CM(9)

瞑想 8  ジャブ、ジャブの練習 

中学生の頃に、週間少年マガジン連載で つのだ じろうの「うしろの百太郎」で初めて守護霊の存在というものを知りました。(笑)
主人公の危機を自分の守護霊から救われる、という心霊体験のストーリーでした。
その当時はオカルトブームでもあり興味をもって読んでいました。
守護霊の存在は誰にも在る、ということを漫画の中で書いてありましたが、守護霊は自分とは関係ない世界のことであり、それに対して私は架空の世界だと思い存在を否定していました。
また随分以前に、お昼のワイドショーというテレビ番組でドラえもんのご主人が司会で新倉イワオ氏がコメンテーターとして「霊」について週に1回、金曜日でしたか、放送があっていました。夏になると特集を組んで放送されているのを、その頃楽しみにしていました。
しかし、幽霊なんて見た事ないし、まして霊感について私にとっては、全然無縁とばかり思って興味本位の半信半疑でした。

ところで、GLA関西本部の岸田先生との「縁」は、つくづく有り難いものだ、といつも感謝しております。
当初、正法を思想的に捉えていた私に対する見解の誤りの指摘。
また、このようなことは、ご縁が無ければ自分一人だけの力では絶対に無理です。
「一人の時、人は孤独の空間に居るのではない」という実感を持つことができました。
これまで書いている通り、守護霊様を身近に感じ、異語を語れるように出来たのは先生から「光」を入れて頂いた時からが始まりでした。
先生からは、しっかりと異語を語り、それが何を言っているのか日本語に訳すことが出来るためには、もっと意識を高めて自分を変えるための日々努力の積み重ねがないと叶わないと仰いました。

異語に付いて、私が行っていることと感じたことを少し書いてみます。
座っている私を前にして岸田先生は「異語」を語られます。
異語は、およそ二千年前の古代のイスラエル当時の言葉や二千六百年前のインドに先生や私が生命を持った頃の言葉です。
異語を語りながら私の頭や心に、先生の体全体、特に手から発する光で私の心と体を調和していかれます。
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そして先生は、私に対して「ジャブ、ジャブ」と繰り返し、声を出してください。
と促されます。
異語というのは身体を持っている人間が「しゃべろう」という意識がなければ守護霊様が入ってきても、言葉として出てこない・・・、そのようなことを先生は仰っていました。
また、想念帯に穴が開かないとうまく異語は出ない、ということも聞きました。

初めの頃とは違い、今はもう毎日やっているわけではありませんが、先生の所作を思い出して守護霊様と自分が一体となる練習をします。
練習するといっても駅前留学の英会話教室に通っているわけではありません。
職場で、誰もいない時間帯にします。

以前にもブログに書いていましたが、私の場合(今は何ともないのですが)初めの頃は守護霊様であっても自分の身体に入ってこられるのは怖かったです。
ある時、このようなことがありました。
心しずめて職場で深夜に電気を消して一人で「ジャブ、ジャブ」とやっていたら、両足の下の方から腰にかけて皮膚の表面に静電気をまとったような感覚がありました。
そして傍に人の気配があります。その人は、私の両足の方から入ろうとしているのが分かります。
自分はそれを求めているに関わらず、我が強いというか臆病なのか、自分が自分でなくなりそうな錯覚になり、その場で止めました。
後で先生にそのことを報告しましたら、傍にいたのは守護霊様だった、ということを教えていただきました。

その後、入って頂くのに抵抗が全くなくなった頃のことでした。
深夜、職場で「ジャブ、ジャブ」の最中、突き上げてくる想いで涙があふれた時のことでした。
その後、帰宅するため職場の入り口の鍵をかけて、歩いて三分かかる駐車場へ向かうときのことです。
タバコをワイシャツの胸ポケットから取り出す時でした。
日頃、肩凝り性ではないのですが、初めに気づいたのは肩が今迄には無いくらい軽く感じました。
おかしな表現ですが「肩」が無くなったような感じです。
そして身体全体がとても軽く、歩いている足の裏は地面の抵抗をあまり感じなく、宙を浮いて歩いているような感覚でした。意識はハッキリしています。
こんな体験は全く初めてでした。
その時、もしかするとあの世の人はいつも、こんな感覚なのかなぁ・・・。
自分は、この世に生まれてきて、地球に住めば重力の抵抗で身体も重く感じるし、余分な執着などにより心まで重くしてしまっているのかな・・・と思いました。

自分がちょっとした不思議体験をした後にそれを思い出すとき、なぜか自分の目線ではないんです。なぜか、かならず自分を後ろとか、横とか斜め上の方から見ている目線で思い出します。





[ 2007/02/10 14:35 ] 瞑 想 | TB(0) | CM(14)

瞑想 9  正定 (しょうじょう) 

以下再度、反省と瞑想で忘れていけないと思っていることに付いて高橋信次先生から引用します。
20070217160553.jpg

正定(※釈迦が説いた八正道の最後の項目)の目的=禅定(座禅)

反省によって心が安定し、やがて不動心が養われてくるが、その不動心を日常生活の中に活かせなくては正定の目的は半減する。
正定はまた、実在界(※あの世)とのもっとも身近な交流の場であり、要は心の調和、安定、智慧の湧現が正定の目的となる。

反省=正定

魂の前進は正法(※釈迦、イエス・キリストが教えた真理)の正しい循環にあるのだから、(偏らない)中道の尺度で一日の言動、心の動きを反省し、想念の浄化、修正に努力をつづける。
反省後の瞑想は心と肉体のバイブレーションが神に近づき、晴れ晴れとした気持になる。
その気持で一日の生活を送ること。
反省後の瞑想は心が非常に整うものである。
この時、守護霊とも通じやすくなるので、心の中で祈願文(※信次先生がつくられたもの)を唱え瞑想をつづけなさい。

反省の禅定に入る前に、まず丸い、太陽のように広く大きく、あらゆる生命を生かす生命体(※霊太陽)を心に想像することだ。

瞑想は反省をしたあとでするようにして欲しい。
丸い心を心の中に描き、祈願文を静かに唱えることを忘れないで欲しい。
祈願文を唱えると、心が大宇宙大神霊(※God)、守護、指導霊に直結するようになり、さまざまな雑念から離れることができると同時に、魔の支配からも避けることが可能になってくる。
こうして瞑想をつづけるようにすると、やがて守護霊と交流がスムースにできるようになってくる。

また、以下の様に信次先生は言及してあります。

昭和49年「反省の仕方」

バイブレータが効くようになると(上下まぶたに振動が起るようになると)霊視が効くようになり、次元の違った世界が見れるようになる。
しかし、見たい見たいという意識で見ると閉じられます・・・欲望だからです。
目の右側に金色の光りが、ポツーッとついている事があります。
あの世の次元の違った世界を投影する一歩手前なのです。
しかし、執着心があると消されます。

以上。

以下、「集中力」角川書店から引用します。

ソルトレークシティ五輪の「内なる炎」は出場選手一人ひとりの目に宿っていた。
どの選手も目が輝いている。内部の炎の照り返しが目に出ているのだろう。
選手の内部がどうなっているか、余人にうかがい知ることのできない聖域だが、きっと脳からつま先まで集中力の束が走っているに違いない。
スピードスケートの清水宏保選手は最高の状態で滑っているとき、自分の周りが真っ白になり、外の音は何も聞こえてこないそうだ。
視野は30センチほどしかなく、自分が滑るべきラインが光って見える。・・・
とあります。

また、横綱の若乃花(おにいちゃん)でしたか、以前に私が書店で立ち読みした自伝の著書の中に書いてありました。
相撲相手との取り組み中、相手のまわしの一部分に瞬時「光」が見えることがある。
そこを狙うと勝っていた・・・このような事を書いてあったと思います。
このような似たような経験をお持ちの方はたくさん在るかと思います。

「光」。不思議です。
物理的に光源がないところで見えます。
特別に何か、それぞれ意味があるのでしょう。






[ 2007/02/17 16:07 ] 瞑 想 | TB(1) | CM(8)

瞑想 epilogue   

それにしても、「今の自分を変える」というテーマを前にすると
長年知らず知らずに周囲の影響を受け、様々な良いもの、悪いものを自分なりに取捨選択してきた、自分の人格の形成過程を振りかえざるをえません。

これまでの色々なことを振り返り、例えば
「これは良くなかった」ということや、
相手に対して「申し訳ない」
というものを思い出して、その原因と出た結果に対して、
「二度と同じ過ちをしない自分」
というものを作り上げたいです。
自分の思考や行動パターンを発見、自覚して心の曇りを取り除く作業(反省)は当然、瞑想のみで行うものではありません。
その気になれば仕事の合間や、お風呂、トイレとか食事中など、いつ、どこでも出来ます。

また「無常=永遠に定まることがないモノ」
に振り回されない自分をつくりたいです。
人間のモノに対する欲望は際限が在りません。
一時の満足で収めればいいものを、もっと欲求する気持が限度を忘れて、
知らない内に、心の歪みと共に苦しみを私は作ってきました。
でも心はモノと違い、おろそかにできないものだ、と気付く事が出来ました。
永遠に持ち続けていくものだからです。

「人間は元々、神と同根(ブランチ)である。神が人間をつくった」
と、教えて頂いています。
日常生活の中で、また瞑想を通して、常に神を信じ、自分を信じ、人を信じ、そして新しい自分の発見を願っています。
こんな自分でも、神の目から見た価値観に一歩でも近づきたい。
    
人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり
ひとたび 生を得て 滅せぬものの あるべきか

敦盛は、人間は長く生きても50年。
たとえ、いくら長寿であってもいつかは死を迎える。
死は全ての生命に平等に与えられる。
長生きをし、地位、名誉の栄華を誇っても、いずれ手放す時が来る。

・・・と、誰も避けて通れない生命と、栄耀栄華の無常観を詠っています。

しかし「この世だけではない、また来世に生きる」と思えばこそ、
不偏的な真実なるものを求め、自分の生き様をどう求めるかを真剣に考えさせられます。





[ 2007/02/19 19:07 ] 瞑 想 | TB(0) | CM(19)

反 省 

ゴーダマ・ブッダ(お釈迦様)が指導していた瞑想(禅定)に付いて、高橋信次先生の講演から聞いたり高橋信次先生の本で読んだことも含めて、自分がやっていることを書いてみます。

瞑想には、瞑想に入る深さにより段階があるそうです。
第一段階から第九段階まで。
第一段階は、反省です。
第二段階は、反省後の心を鎮める、心の統一です。
第三段階は、守護霊・指導霊との交流がはじまり、
第四段階で、守護霊・指導霊との対話になるそうです。

このような区別は、反省を重ねて、心の曇りを払い、日常生活に反省の結果、智慧と勇気と努力で改めることを行うことによって理解されてくるそうです。
その後、第五、第六、第七(結果どうなるのか詳細は知りません)と上にあがって行くそうですが第六段階まで行く人はかなり限られてくるそうです。
第八段階は如来の瞑想であり、座していながら外界の動きが手に取るように分かってくるそうです。第九段階は、お釈迦様レベルの瞑想だそうです。
この段階は過去世の修行を多く積み、神と直接交流できた人のみの境地だとか・・・。だから余人は近づけない。
過去世の修行により、また今世で徳を積むことによっては第六段階までは上がられるそうです。

以前に書いたものと重複していますが、第一段階の反省の瞑想方法です。
反省の瞑想は瞼を軽く閉じ、瞼の中の眼は真っすぐ前方を見つめます。
瞼を閉じると大抵はねむけを催し、反省が思うようにいきません。そうならないために中の眼は前方を見つめるようにします。意識をしっかり定めるためです。
どうしても反省に集中できないという場合は、瞼を軽くあけて、座している少し前方に視点を定めて反省するようにしたら、ねむけは解消できます。
で、慣れてきたら再び眼を閉じて、瞑想の反省に入っていきます。

正道にもとづいた反省をしている時は、守護・指導霊が近くに来ており、本人を守っているので魔の入る隙はないそうです。

第一段階の反省もせずに、いきなり雑念を払う瞑想の習慣が身につくと、心がゆがんだままである場合は、無念無想の心がカラッポになったときに、それに比例した霊に憑依されることがあるそうです。時には動物霊に憑依されて狐狸(やこ)禅状態になることもあるとか・・・。
心がゆがんだまま、ただ座禅をすれば悟れるということで瞑想の行を積むうちに魔に犯され、精神分裂や肉体的な欠陥に悩む者がでてくるのは、そのためだそうです。
心のゆがみは「意」である自分の意思、考え方や思い方が五官(眼・耳・鼻・舌・身)に基づいて偏りがあるからおこってしまいます。
苦しみや悲しみの原因は、すべてこうした心のひずみがつくっていきます。
心が丸く豊かであれば、心は安らぎ、不動の自分を見出すことが出来るそうです。

人格を形成する心と行為の問題も、反省を通じてつちかわれ、安らぎある自分を見つけることが出来ると思います。
反省は、必ずしも瞑想でのみばかりではなく、いつ、どこにいても、トイレとか風呂場でも散歩しながらでも可能です。
そして夜、寝る前とか朝起きた時の布団の中で・・・。仕事の合間に。
ただ、瞑想による反省というのは反省の中身をより深くし、充実したものになるとあります。
私は瞑想の姿勢で反省する、というよりも普通に事務イスに座って、腕組みしてやることが多いです。笑!
瞑想の姿勢で反省する場合は、「まとめ」 にはいる場合などです。そして反省したことに対して自問自答したり、何か判断がつかないときには自分の内面に疑問を投げかけます。

人によっては静かに瞑想して反省することより、雑踏の中の方が集中できる人もあると思います。学校に通っている頃の家庭学習と同じです。静かな一人部屋で勉強をするよりも、ヘッドフォンをつけて軽い音楽を聴きながらとか、お茶の間でテレビをつけた状態でやった方が勉強に効果がある人もいます。自分のペースが一番です。

そして反省が進み、反省の結果を行為として現していくと、瞑想の境地がさらに進んでいくそうです。そうなると守護霊との対話が可能となってくるようです。
瞑想三昧の境涯、というのは瞑想の極致を指すそうですが無念無想となって気持ちのよい状態をいうのではないそうです。無念無想は危険極まりない心の空白を意味し、いつ他界者が自分の意識に侵入してくるかわからない。
ですから瞑想中でも自分を失ってはならないと言ってあります。


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ところで、昨年の11月初旬ごろ、内観道場の一日体験をしてきました。
それについて少しばかり書いてみたいと思います。
内観道場は少しは存じていましたが、ほとんど何の前知識もなく、最初に予約のために訪ねました。そこで行われる内観(=反省のことです)は、しっかりした複雑なプログラムがあるとばかり予想していました。
ところが、とても、しっかりした!シンプルな方法です。
以下リンク先に道場で頂いた冊子を紹介しております。

悩みの解決法 「内観のすすめ」 

上記ご覧いただけると、お分かりになられると思います。
ただ、ただ、三つの観点で過去の自分と対人関係、出来事をふりかえります。ただ、それだけ。

1. していただいたこと
2. してさしあげたこと
3. 迷惑をかけたこと

最近の私が反省する場合は、この内観法で行っています。冒頭、第一段階の反省です。
というか、内観法を知る前の自分が書いた過去の反省ノートを見ると、その観点でもやっていました。しかし改めてこの内観法の実績を知ったことで、自信!をもって、その反省方法に取り組めます。

この冊子を基にして私なりの内観をすると、なのですが・・・
(注: もちろん私は内観がしっかり出来ている人間ではありません。笑!)
ここで、あえて一つ注意することは、過去をふりかえる内観では、自分とか当時の場面を思い出すときに 「意識」 して客観視しないことです。
(日常の新しい出来事に遭遇!する一瞬一瞬の自分を意識的に客観視することは大切です)
結果的に、自分は自分のことを 「客観的に観ることができた」 という自覚、思えることがここでは大事ではないのかなーと感じます。
つまり客観的に自分を見ようとするところに、すでにその時点で、頭のてっぺんで反省を考えていることにもなります。
もちろん頭を使いますが、内観法は頭で判断するものとはちょっと違います。過去の出来事を思い出した分だけを当時の自分の感情を抜いて三つの観点で、ただ眺めるだけ。何かを意識して考えることなどはありません。調べたその結果、自分で深い気付きが出てきます。
感謝の心とか、とっても申し訳ない気持ちとかが、ジーンと熱い涙と共に胸から湧いてきます。
こういう反省体験は、なにも 「瞑想による反省」 とか「内観法」という、かしこまった!態度ではなくても、誰しも経験があることかと思います。
内観(=反省)は、そういう想いを自分から能動的に取り入れる方法!でもあります。

反省は云うまでもなく心を浄化するために事の原因と結果を探り、悔い改めること。原因の根を捨てることです。それは自分のクセとか根性・・・つまり 「己を知る」 ということにつながります。また感謝の心を育むことでもあろうかと思います。

ただし、内観法では上記、瞑想の第二段階の反省後の心を鎮める、心の統一以降については教えていません。第一段階のみです。
内観法は宗教色!!抜き、です!

それにしても、相手に対して迷惑をかけたことが、どれだけ多いか改めて感じさせられます。
それは、わがままで自己中心的な自分。なかなか、これが直らない。汗!
「していただいたこと」 に対して、ありがたみを覚えなかったこと、たくさんあります。
してもらって当然だ、と思う心。それは義務だろ、という思いには、感謝の心が芽生える余地はありません。
自分が無償の気持ちで 「してさしあげたこと」 または奉仕の行為が如何に少ないか・・・。

内観道場に訪ねて来る人には、トラウマなどを抱えた、うつ病の方もあります。
過去の出来事が苦しくて精神的に病になっている人に 「反省」 させたら、ふつうは、よけいひどくなると考えてしまいます。
ところが内観法の三つの観点で過去の出来事をふりかえると、うつ病が治ってしまいます。
しかしながら、うつ病の方がこの冊子を読んで、あるいは身内の方がこの冊子だけで内観法を指導されたら非常に危険が伴います。うつ病の方は自分で独自に内観するよりも内観道場に行かれることを私は勧めます。

長文をご覧頂きまして、ありがとうございました。


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P1000242.jpg


私の職場で、かわいがっている!ハエトリ草です。
若い葉は刺激を受けたら閉じるタイミングが早い!葉が古くなると閉じるのが遅くなります。笑!
中央に小さな丸い蕾が少しだけ見えています。
去年は食虫植物とは思えない!白い可愛い花を咲かせました。
今年も花が楽しみです。
私は小学生の頃、刺激で動く草を知って不思議感で興味がありました。オジギソウとかもね。




タグ : 吉本伊信氏の内観法



[ 2008/04/23 21:33 ] 瞑 想 | TB(0) | コメント(-)
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