新年 

新年明けましておめでとうございます。

今日が仕事始めです。
ふだん、ブログは職場で時間が空いたときに書いていますので
皆さんのブログと比べると年始のご挨拶が、遅くなりました。

ブログを読んでいただいている方、今年もよろしくお願いいたします。
皆様にとりまして、今年も幸多き年となりますようお祈りいたします。





[ 2007/01/04 12:47 ] 随 想 | TB(0) | CM(2)

年頭の決意 「己を知る」 

三社参りの習慣はないのですが昨日は娘と二人で
すぐ近くにある神社へお参りに行きました。
この神社は、日本の三大火祭りで有名なところです。
毎年正月七日夜に勇壮な火祭りが行われます。
もう、境内の参道周りには所狭しと、大きな松明や荒縄などの準備が整っていました。

今年一年は、
知っているようで、知らない部分のある「自分」をもっと知り
直すべきところは直すよう、他の人の善意な意見を尊重しながら努力をしてみたいと思います。

①自分のことでありながら自分が知らない(気づかない)所、他人が知っている自分の性格等

②自分は知っているが、他人は知らない(見せない)癖・根性。

③自分のことでありながら 自分も知らない、他人も知らないこと。
  (神、或いは天上界しか知らないこと)


2001年に初めて岸田先生とご縁を持つことが出来て、今年で六年目となります。
岸田先生からは、初めてお会いした頃に 
己を知ることが大事ですよ。
と教えていただいた。
その頃の「初心」を忘れないよう特に①②は、さらに精進することを年頭、自分に誓いました。



タグ : 岸田守本部長



[ 2007/01/04 18:54 ] 随 想 | TB(0) | CM(4)

私の 「正法」 (しょうほう)との出会い 

これまでを振り返って、今年一年の目標と方法を昨日からいろいろと考えていたのですが、
それに関連して、私の「正法」との出会いについて、思い出しながら書いてみます。

私が初めて高橋信次先生の著書にふれさせて頂いたのは、信次先生が帰天された翌年、
高校一年生の時で、今は絶版となっている「心のことば」でした。

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読むきっかけになったのは高校に進学すると校区がさらに広がり、これまで小・中学校と共に学んできた仲間と全く違った地域の友人ができるため、入学を機会に、これまで友人付き合いで何度か失敗したことがあったので、「もっと違った自分」になりたいと考えていました。
入学してすぐの頃、担任の先生が、
「どこかの宗教団体が聖書を何冊かおいていったので誰かこれを読みたい者はいないか、心の勉強になるぞ」
と、休み時間に言われたので、私一人でしたが「欲しいです」と言って
早速、戴き家に帰って読みました。
しかし聖書独特の言い回しとか、たとえ話が難しくて、
心から納得することができませんでした。
聖書を読むことをあきらめて、書店に行って何か自己啓発になる本を購入しようと考えました。
たくさん並んでいる本の中で、ふと、指が止まった初めて手にした信次先生の本。
表紙をめくると、左ページいっぱいに信次先生の写真が載っていました。
右のページには、詩が紹介されていました。その詩にとても、心が洗われました。
その詩を紹介します。

子どもは自由だ
子どもには想念による
自己限定がないからだ
いつも あかるく
今日一日を
天衣無縫に生きる
我があり 期待があり 執着がある間は
本来の心ではない
雲ひとつない 青空のような
子どもの心こそ
ほんとうの心だ

うれしくなって買って帰りました。
一通り読み終えて、奥付の前のページには、切り取って三宝出版社に送付できる感想用紙がありました。
まず、自分の住所・氏名・年齢だけを書いて、後で読んだ感想を書いて送る準備までしていました。
ところが、思った以上に高校生活が楽しかったため、「自分を変えたい」
という思いや、信次先生の本の読んだ感動も、いつの間にか忘れてしまっていました。

その後、二十六歳の頃だったと思います。
再度、自分の欠点というものを本気で意識してきた頃で、色々と悩みもあり、自分の「心」を変えるには宗教しかない、
と考え書店で手にしたのが、「原説・般若心経」でした。
読んでみて、目から鱗が落ちる の心境でした。
目の前が明るく感じました。後に現刊行の全十五冊を買い求めて、夢中で読みました。
さらに当時はまだ、三宝出版で講演カセットブック全41巻を販売していたので分割で購入し、勉強しました。カセットテープの収録内容に、「驚き」の連続でした。
私の知らない世界がそこにありました。

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しかしながら、私にとって一人で勉強するには限界がありました。
それは、自分の欠点などの過去の出来事を反省する方法に自信がなくなり、これで良い、という確証を自分で得られなかったため、
「自分を変えたい」という強い思いは、だんだんなくなってしまい、あきらめてしまいました。
それどころか、いつの間にか「行ずる」正法を思想的に捉えていたのでしょうか、高橋信次先生とは私自身全く縁がなかったものですから、私の中では、著書と講演を通して、はるか雲の上の偉大な存在の人であり、どこか神格化していたと思います。
正法を知ったことによる心からの喜びは失せていました。
当時は、仕事は順調だし、特に思い悩むこともなく、しかしこのままではいけない、心は何かを求めてはいるが、何もできない自分に長い間、悶々として過ごしていました。

そして、縁あって岸田先生とお会いすることができました。
これで、三度目の正直 ではないですが、
今年こそは自分を知り、「自分を変える」をより強く念じ、一年を過ごしたいと考えています。





[ 2007/01/05 12:17 ] 回 想 | TB(0) | CM(8)

テンプレートの変更 

自分なりにやっている、瞑想に付いて
(恥ずかしながら、ハッキリ言って瞑想といえるほど全然たいしたものではありません)
時間をかけて暇なときに一所懸命 長文を書いていたら、何かの拍子でブログ保存する前、全文消えちゃいました。(笑)
今度から長文を書くときは、「テキストドキュメント」などに書いてからコピー・ペーストした方が良いようです。

この教訓(笑)を忘れないため、また、気分換えに思い切ってテンプレートを変更しました。






[ 2007/01/10 15:08 ] 随 想 | TB(0) | CM(7)

瞑想 prologue 

自分が行っている瞑想について書いてみます。
少し長文になるので、うまく書きたいことを書けるか自信がありません。
大したことを書くわけではないのに。(笑)
何回か、分けて ぼちぼちと、記入します。
そして一度ブログにup して、後で思い出したことや、ことばの表現が分かりづらい所など、伝わり難い箇所があれば その都度、訂正したいと思います。

瞑想の達人と云われるような人からすれば、私の瞑想など 迷想 程のものです。

参考にしている瞑想のマニュアルというものは有りません。
そもそも私の考え、精神的支柱には 高橋信次先生の著書と講演記録があります。

高橋信次先生が教えてあることに対し私は、曲解しているところもあろうかと思いますが・・・。
それを「私なりの方法」でアレンヂしているだけです。
つまり、自己流です。
いずれにしても、瞑想に関しては、誰かに こうしなさい と教えられたものでは有りません。

内容は、まず瞑想の目的から始めて、それを妨げる雑念、睡魔・・・など、私が思うこと、感じたことを率直に述べてみたい と考えています。
他に、瞑想について これまでに読んだ本や聞いたことで、私が興味深く思ったことがらも思い出しながら、少し交えてみたいと思います。

結論を云いますと、瞑想により 自分にとって何かの糧を得たのか
というと いまだ、何もありません。(笑)
一人で、心静かに目を閉じて過ごすこと・・が好きなだけです。
それが自己流で 趣味の瞑想 に結びついているわけです。

ところで、瞑想は「反省」と切り離すことができないものです。
反省とは、心を浄化する為の方法 と、まず考えていただければ良いかと思います。
ここでは私の反省に付いて書きたいことは一旦、割愛致します。

瞑想は心が 無 になる場合があります。
すると、その時に 周辺にいる霊が自分に入ってくる確率が高くなるそうです。
守護霊・指導霊であれば問題ないのですが、迷っている霊などは大変です。

生きているときに神に反する自己本位の間違った強い想念、例えば うらみ、怒りや悲しみ・・などなどを持ったまま死を迎え(死んだ直後にそれを悟れば良いのでしょうが)気が付かずに迷ってしまう霊がいます。

浄化することなく自己本位のまま、心を 無 にした人が、日頃そういった感情のままに瞑想すると、同じ感情を持った霊と同通して憑かれることになります。すると人格が変わるなど、心の平安からは遠くなり苦しみをもたらす結果となるそうです。
(私は迷った霊に憑依されたことは、おそらく無いと思うので、その辺は感覚的に分かりません)

不可分関係にある「反省と瞑想」をあえて分け、瞑想の方を少しずつ書いていきます。





[ 2007/01/11 14:46 ] 瞑 想 | TB(0) | CM(10)

宗 茂 氏の気功術 

有名なマラソンランナーだった 宗 茂 氏の「宗式気功術」を先日の土曜日に受けてきました。
宗 茂 氏は現在、九州保健福祉大学の客員教授をされています。

気功は治療の一環として、オーリング診査の病院から薦められました。
気功によって血流を良くするためです。

本当は、その日と翌日曜日には別に大事な用があったのですが、そちらを中止せざるを得なくなり、時間が空いたので気功を受けに行きました。
その時のことを書いてみます。

病院で気功を受ける前と受けた後に血管の変化を調べるため、機械による検査を受けました。
両足首と両手首に血圧を測る時のようなベルトを巻かれ、測定されました。

血流検査の後、受付で案内され、上の階に行きました。

そこのフロアーでは、既に三人、宗氏からの気功を受けてありました。
一人は四十才代の女性、あと二人はもっと年配の女性二人だった。
宗氏以外にスタッフが四~五人いました。

おしゃべり禁物の雰囲気です。不思議系の静かな音楽が流れています。
私はスタッフから小声でイスを勧められ、座りました。
私にとって、初めての気功です。
順番が来るまで、イスに座って様子を見ていました。

宗氏は直立して立っている三人に対し、それぞれ順番に何度も体の周りの何もないところを素手で、かき回すようなしぐさや、整えるような色々なしぐさをされていた。

おそらく体の周囲にある「気」(オーラ)に何かを促してあるように見えました。
宗氏に色々と聞きたかったことがありましたが、そのような雰囲気の中、何も聞けませんでした。

私の順番が来るまで様子を見ていると、四十才代の女性は気功が気持ちが良いのか、上半身を時計回りにゆっくりとローリングしだしました。
おもしろいな~と思う反面、あの人は「ちゃんと自分の意識をしっかり持ってあるのかな~」とも思いました。
「自分の意識を変なところへ引っ張られる怖さ」も感じながら見ていました。(心配のしすぎ!)

イスに座って見ていた私に、手招きで宗氏からお呼びが掛かりました。

長身の宗氏が私の耳元へ、小声で「そのまま目を閉じて、楽にして立ってください」
云われるまま立っていると、宗氏の両手が私の両肩を揉むようなしぐさをされた。

宗氏の両手から発しているエネルギーが物凄く熱かったです。
手から発する体温は、四十度以上は軽く超えるか、と思うぐらいの熱さです。びっくりしました。

そして、目を閉じているので解りませんが、先ほど三人の人に施しているのを見ていたことで推測すると、私の「気」を整えるしぐさをされていました。

気功による身体の変化は、受けている最中、こういうことがありました。
体が若干暖かく感じ、私のおへその周辺から喉元までの、体の全ての内臓が軽い痙攣を起こしているような感覚をしばらく感じました。
こんな感覚は初めての事です。

その内、閉じた目の隙間から足元付近に、電気ヒーターで見るようなオレンジ色の光が見えたり
白い閃光が飛び込んできました。
もちろん、そこに物理的な発光源はありませんでした。
これは何の光だったのかは、解りません。

受付の時、女性の看護師さんの体験談で
「気功を受けていると、宙を飛んでいるような感覚で気持良くになり、夜はいつもと違い、ぐっすりと寝れますよ」
といってありました。
ところが、私の瞑想の癖で「自分の意識」を失わないように意識していた為なのか
「宙を飛んでいる感覚」は持てませんでした。残念。(笑)

ハッキリと時間を見ていなかったので分かりませんが、40分~50分は立ちっぱなしの不動の姿勢で気功を受けていました。
「宙を飛んでいない」ので正直、いつまでこれが続くのかな~と、終わる十分ぐらい前には退屈を感じていました。(笑)

ところが、気功が終わる頃、宗氏は私の体の周りの「気」を調整するだけではなく再度、両手で私の両肩を掴れた。

そのときは一番驚きました。
宗氏の両手から発する熱いエネルギーが体に充満したのが、目に見えるような感覚で伝わりました。

私の肩から下に降ろしている腕を伝って、手のひらまで浸透してくる感覚が伝わってきました。
そして自分の手のひらは痺れを感じ、肩から入ってきた宗氏のエネルギーが自分の手のひらから外に放出されていました。
(日頃、光を受けたり、光を送る所作をしているため分かります)
それは、左手より右手の方が顕著に感じました。

宗氏の手が私の肩を掴んで頂いていると、次には、次第に私の体が時計の振り子のように、ゆっくりと右、左に揺れてきた。
「止まれ」と思いましたが、止まりませんでした。(笑)
うっとりしたような感覚になり、気持ちよかったです。

最後に宗氏の熱い手が、私の肩を包まれ「もう、終わりました」
と、聞こえました。

終わって目を開けたら、私の周りには十数人の人が立って宗氏の気功を受けておられました。
気功の間、耳からは人の気配を感じていましたが、目を閉じていたから、こんなにいたとは分かりませんでした。

もう足は、ひざから下は立ちっぱなしのため、がくがく。
スタッフが私のそれに気づいて、イスをすすめられた。

イスに座って、五分ぐらい他の人の気功施術を見ていました。
私の前にいた年配の女性二人は、既に終了しているのか、もういませんでした。
四十才代の女性は、まだいました。その方は、床に仰向けに寝転んで気持よさそうに体をくねらせ、気功を受けてあります。
他に小学2年生ぐらいの子どもも、仰向けで床に寝そべって気功を受けていました。
また、体を屈伸しながら気功を受けている人もいました。
気功の受け方は人それぞれ、いろいろあるなぁ~と思い見ていました。

気功が終わった後、アンケート用紙を頂きました。
いくつか項目があります。
以下、その内容です。

1.その日はぐっすり眠ることはできたでしょうか?

私の場合→いつも通りと変らなかった様に思う。

2.翌朝の気分は如何でしょうか?

私の場合→こちらも、いつも通りと変らなかった様に思う。

3.他に何かお気づきの点があればどうぞ。
 1)気功中
私の場合→上に書いているとおりです。

 2)気功後
私の場合→特に感じられるものは、今のところ、無いようです。


気功の結果、血流状態の変化は後日、診察結果を待たなくてはいけません。

また、機会があったら 宗 茂 氏の気功を再度、受けてみたいと思いました。







[ 2007/01/15 12:20 ] 気 功 | TB(0) | CM(7)

瞑想 1  心の糧を求めて 

私の瞑想の目的は、心の糧となるものを求めています。

瞑想により、大自然との一体感を味わいたい。

そして、「肉体の荒い波動」と「精妙な心から発する波動」
その二つの波動のバランスを保つ。

さらに、守護霊との対話(感じること)です。

今はどれでも、私が納得できる状況ではありませんが。(笑)

これは、「ただ座っているだけで何も考えない」という方法の瞑想だけでは、到達できないと思っています。

「私流の瞑想」は、以下のことも含めたものです。

1. 「抜本的な反省」
2. 自分の意識を高めるための方法である「生命の輝きへの道」の実行。
特にその中の項目で、自分の今持っている意識(思ったり念じること)と、日常行為の
修正すべき性格、癖・根性の思考パターンを勇気を持って、自分を変えないと叶いません。

それが豊かな自分の心を創るための一つの方法であり、今現在の私の課題だと考えています。

例えば、人間は誰にでも欲望があります。
物やお金、色々あると思います。仕事に関して、家庭環境にしても
すべて、自分の幸せに結びつけて「今以上に」欲しいと考えます。
それは、それで良いと思います。

ところが「価値観」というものが、この三次元世界では通用しても、
神の存在(または神の掟)の世界(あの世)から見たら通用しないものがある、
と知ったら考え方や判断が変ると思います。私がそうでした。

あの世では、あの世でのルールがある、と私は思いました。
根拠は「あの世」について、複数の方の本を読んでいると共通したことに気づきます。
それについては、科学的な真偽は確認しようがありません。
ただ、信じるか、信じないか、のことです。

時間にして、生きている時間よりも死んだ後の時間が長い。
人は短い生涯をこの地球に、厳しい体験ばかりを積んで、これから先のこと、
全てが不安で一体何をするため生まれてきたのでしょうか。

それは、あの世では経験ができない最も価値ある「魂修行」と、私は信じています。

そういうことから、あの世、神の存在が「在る」ということを基にして書いています。

これは私、独自の思いをつづっているだけです。批判があっても、それに対抗できる意見もなければディベート能力もありません。(笑)




[ 2007/01/16 16:53 ] 瞑 想 | TB(0) | CM(7)

瞑想 2  心の波動 

瞑想は「瞑想に入ろうとしている、今の自分の心」が
何もとらわれのない状態、または「荒さ」を表面で感じない状態でないと、できません。
誰だってそうだろうなぁと思います。
荒い状態では怖いし、瞑想に気持が向きません。
そうでないと瞑想で、「より、心の精妙さ」を感じることは出来ないだろうなぁ、と思います。

「荒い」と書きましたが簡単に云いますと、こういうことです。

「驚く」、「ショックを受ける」ということを例にあげてみます。
感動するときの「驚き」とは別、ということで考えてみます。
身体的なこと、精神的なことなどで何か「驚く」という経験をします。
外部からの影響で、自分の内部(心と体)に変化が起きます。
ある程度、心臓の鼓動が早くなるのを感じます。
驚くことによって死に結びつかない限り、おそらく心臓の鼓動が前よりゆっくりとはならないと思います。
つまり驚いて「落ち着く人」はいない、ということです。
驚く=肉体的によい影響はなく、荒さを感じます。
落ち着く=肉体的にも癒されます。

体の反応と同時に、胸の上付近にある「心」にもそれが伝わります。

位置的にいうと体の内面ではなく
外側の両腕の間の空間の何もない胸の上のところに「驚き」の、荒い振動を同時に感じます。
(感覚というのを言葉で、どう表現したら良いのか難しいです。すみません。)

この「驚く」という例は、身も心も荒くなる、ということを述べました。
そうなると「冷静な心」を掴みにくくなります。別に例をあげます。

私の先生からよく教えて頂くことばですが、高橋信次先生は「心の三毒」ということを仰っていたそうです。
神の心、自分の心の平安から最も、遠く隔たったものかと思います。
それは、「怒り」、「愚痴」と「貧欲」(これで満足、という際限がない心)です。

「怒り」は当然、その渦中にあると心の冷静さを欠きます。心臓も血圧も荒くなります。
そういう状態の真っ只中、一瞬、自分の「心を感じる意識」で胸辺りに意識を集中して見てみると
自分の「心から出ている振動」が荒く感じると思います。
怒ったときの事を思い出しても、その時の「心の振動」がどうだったかが判り難い、と思います。
真っ只中、一瞬、冷静になる・・・ということです。(これ、難しいです)笑。

「怒り」と比べて心臓がおよそ冷静な状態の「愚痴」を思ったときがよく分かるかもしれません。
相手に強く出れない弱い自分のため、心の中で、または口から何かの不満をこぼします。
その時、意識を心に向けると、やはり荒い振動を感じることができます。
何か、欲望をあらわに心の表面に出しているときも波動は良くありません。

このような心の状態では、落ち着いた瞑想ができません。

「心の精妙さ」と書きましたが、私の経験では精妙に感じる心の振動(波動)は
「自分から発するもの」もあれば「他から受けて感じるもの」があります。

心は、そのとき、そのときで色々変ります。
精妙なときもあれば、何も感じないときもあります。
では、「精妙」はどういうものなのか・・・。
説明、難しいです。
私は私なりの、波動を感じている度合いをレベル分けしています。

自分が及ばない遥かに、魂のポテンシャルの高い、岸田先生から波動(光)を頂き、その素晴らしく精妙な、これも、ことばで表現できない様な、その波動を感じることが出来たときは感激、感動以外にありませんでした。

私は、岸田先生とお会いすることができて初めて「自分の心の振動」というものを知りました。
知りました、というより気づきました。

最高の状態は、その、「他から受けて感じるもの」です。
波動が非常に細かく感じて安定感があり、受けたエネルギーの様なものが暖かく、よろこびがあり、つきなみな表現で言うと、湖面が風により波が立っていない、鏡のような状態で心がずっーと、「シーン」としています。最高の、落ち着いた状態です。
このような状態は、一時的なときもあれば 長い時で一日~二日間は、精妙な状態を維持しています。
しかし、これは、せっかく受けた波動が自分の至らなさで、消えてしまいます。
裏を返して言えば、自分はそれだけの波動を長い期間、維持できる器ではない、ということです。

その次のレベルは、守護霊様を感じるときです。
静かな心の状態の中から、いきなり胸辺りから、抑えようにも抑えることのできない熱い感動のようなものが突き上げてきます。
(この状態は、こみ上げてくる、というより、突き上げるの方が近い表現です)
よろこびも同時に感じます。
もう、涙がでて どうしようもなくなります。
一人で瞑想をしているから、誰も見ている人がいないからいいのですが、これは、人に見せられる状態ではありません。(笑)
あまりにも、それが激しく来たら、胸の上の位置にある心に グッ と力を入れます。
そしたら、ある程度、突き上げてくるものが、おさまります。
この感覚も、私の記述能力では、説明しがたいです。
この精妙さの場合は、数時間ぐらいは味わえます。

ところで、瞑想(私の場合、最初から最後までをじっと座っておく所作だけではありません)をやった後は、始める時と比べて、より心の精妙さを感じることがあります。
(その時々によって感じるレベルが違いますが)

私は、この感覚が好きなので瞑想をしている理由でもあります。
これは、守護霊様の協力のもと、自分が発している振動です。

岸田先生と初めてお会いし、心から発している「振動」ということが自覚できた頃のちょっとした、失敗を書いてみます。

私はだいたい、夏風邪をひくと、冬は風邪ひかないことになっています。(笑)
去年は夏風邪をひいていなかったので、今度の冬は風邪をひくだろうなぁ、と思っていました。
やっぱり、昨年末の様に風邪で高熱を発しました。
そのような事が以前にもありました。
ちょうど冬でした。その頃一時期、私は自分の心ばかりを意識していたことがありました。
心から発する振動ばかりを追っていたわけです。
夕方、なぜか心の波動が荒くなっていました。
なんで、荒いんだろう。
何か自分の思念とか行為に、間違いがあったんだろうかなぁ~。おかしいなぁ~。
時間をさかのぼって、昼の時点での 心の持ちようはどうだったか。
朝、何かあったんだろうか。
その前の日、と考えていましたが思い当たることがありませんでした。
おかしい。荒い。なんで、なんで心臓までどきどきしているんだ。
よほど、悪い思いをもったんだろうなぁ。どういうことだろう。
ずーっと二時間ぐらい腕組みして、じ~っと考えていましたが
ふと、なにげなく額に手を当てたら、あぶら汗がでて、物凄く熱い。
もしかして・・・とおもって体温を計ったら、四十度になる手前でした。
心にばかり、意識を持って行き過ぎて
肝心の自分の身体の悲鳴に気が付きませんでした。(笑)
それからは、自分の意識に集中することは、ほどほどにしています。

ことばが混じってしまいましたが、同義語で 振動=波動 です。






[ 2007/01/17 15:17 ] 瞑 想 | TB(0) | CM(4)

忘れられない夢 

いつだったか、ずいぶん昔に見た、なぜか忘れられない夢があります。

現実に有り得ない、素晴らしい光景でした。
その夢は、私と気心が知れた懐かしい
とても仲の良い人(今思えば、魂の兄弟?)が一人、私の横に座っていました。
その相手の顔は思い出せません。
男の人で、歳も同じぐらいです。
二人とも白くて、飾りっけのない服を着ていました。
腰付近に紐を巻いていたような気がします。
左側が私で、その人が右側にいます。
どこか、懐かしく感じられる場所でした。
幅の広い断崖絶壁のようなところの先端に座って
お互いに足をぶらぶらさせながら、高所恐怖症の私が
真下は何も見えないぐらいの、かなり高いところで怖がりもせず
ふたり楽しそうに何か、おしゃべりをしています。
何をしゃべっていたかは、思い出せません。
空を見上げると、暗い空一面に低空飛行で、
数え切れないほどの大きなUFOが猛スピードでぶつかることなく、
後ろの方から前方へと隊列組んで飛んでいました。
形は、ちょうど☆の形で、五つの>の先端に○をくっつけたものでした。
その、五つの○は光っていました。色は覚えていません。
そのUFOを、ちらちら見ながら会話しています。
かなり低くUFOが飛んでいるのに、その影響による風は全く吹きません。

思い出すたび、この夢は何だったのかなぁーと、考えてしまいます。
たかが夢なのに。(笑)





[ 2007/01/18 15:43 ] 回 想 | TB(0) | CM(12)

瞑想 3  雑念 

あえて書くほどの大したことではありませんが、私流の「雑念処理」について書いてみます。

普段、前にも述べた「生命の輝きへの道」を実施した後にその瞑想に入ります。

私の場合、瞑想は時間が空いている時、誰もいない職場で昼頃します。
毎日瞑想をしているわけではありません。
仕事が忙しいときは「生命の輝きへの道」でさえ、全くできません。

するときは、少なくとも時間が一時間位余裕がないと静かに座っての瞑想はしません。
床から四十センチぐらいの高さの事務用イスの上に胡坐をかいての状態です。
正確に言えば胡坐ではなく「半跏趺坐」状態で座ります。
慣れると、そちらの方が足組みを時々交互に変えて、楽に長時間座れます。
足の痺れが気になると集中できないものですから。
イスに座っていますがイメージとしては、雲一つない真っ青な青空の下、暖かい太陽の日差しを浴びて芝生に座っています。

自分なりに「正法」を知って瞑想を意識した頃、静かに座っていると必ず雑念が湧いたものでした。
いろいろな雑念がありました。
それを強引に無念無想を貫こうとしていました。
集中しよう、と意識すればするほど余計に不思議と湧いて来ます。
何度やっても消えず、雑念を消すことのみ執着していました。

ところが、瞑想中のあるとき ふっと、
あることばが心に浮かんできました。それは、
昭和天皇か誰だったかが言ったことばで
「雑草という名前の草はない」

おそらく、一つひとつ名前をそれぞれ持っているのに「雑草」という名前で全部一緒に邪魔者扱いをしている・・・。
それを皮肉った?ことばではないか、と私は思っています。

そう考えたとき、私は「雑念」。
これは瞑想の邪魔者扱いだけにするのではなく自分が納得できるまで、まずは前向きに取り組むもの、だと考えました。

もう一つは、植物を育てようにも雑草があれば邪魔されて理想通りに育ちません。
そうなった場合は仕方ないので、生えてきた雑草は抜くしか方法がありません。

湧いてくる雑念を一つひとつ、自分なりに分析してみました。
すべてそれは物事一つひとつ真剣に考えている証でもありました。
必ず、出てくる根拠があります。
いろいろ有りましたが、私の中で大別すると「関心事」「欲」「心配事」でした。
私の場合、特に心配事が多かったと思います。

そのとき何か「関心事」が出るということは、瞑想に対する意気込みが足りていないためでした。

生活上、(神の理から見たら)不要に些細なことでも自分の思い通りにしたい「欲」を知らず知らずのうちに考えています。
それが雑念として自然と出ていました。
これでは守護霊との対話(感じること)はできません。
また、瞑想に付いて「瞑想によって何かを得たい」という期待感を必要以上に持っていました。
表面では期待感は「瞑想には禁物の考え」だと打ち消していましたが、自問自答で自分の思っていることを正直に白状させると(笑)、その根底には「あるがまま受け入れる」という自然体ではありませんでした。
内面的なものですから、それを発見するのに時間がかかったと思います。

「心配事」については ちょっとした、いわゆる「杞憂」が多く占めていました。
現在、将来のことに対するいろいろな悩み・不安などです。

瞑想中にそういう何か想いが浮かんだとき「その考え・思いが今、必要なのか」ということを考えます。
「今思う」必要があれば瞑想はやめて、その場でそれに取り組む方法を考えて、納得した上でもう一度、時間が有れば瞑想に入ります。
納得してそれが解決するまで(雑念としてあったものが消えるまで)瞑想はお預けです。(笑)

「悩み上手」になるためには、「時が来ないと解決できないものもある」と、割り切ることも大事だ。
と、自分に言い聞かせ納得させました。
実は、それまで「心配性がなかなか抜けない自分」でした。(笑)

また「瞑想中の今、必要のない思い」が湧いて来ます。
念のあとカス?のようなものです。
つまり、雑念が出てくる根拠が見当たらないものなどです。

しかし、どうしても根本原因が分からず、漠然と想いを引きずったりする場合も有ります。

その二つは、もう引き抜く以外にありません。

方法は、雑念を芝生の間から生えている雑草に置き換えます。
大地にしっかり張っているその雑草を、力を込めて根ぐるみすっぽりと引き抜くイメージです。(笑)

私の場合、それが効果ありました。
そのイメージ訓練を重ねると、前に比べてほとんど出てこなくなった、と今は思っています。

これで良いかどうかの確証はありません。
あくまでも自己流です。





[ 2007/01/22 19:22 ] 瞑 想 | TB(0) | CM(12)

瞑想 4  雑念 (エネルギー変換ボックス) 

以前に、坂本政道著「死後体験」を読みました。
米国モンロー研究所のヘミシンク音響技術が、死後の世界探訪を可能にした内容を綴った本でした。
ただ、がっかりしたのは幽体離脱体験があっても「神の理」については特別に述べられてはありませんでした。
「神の理」、死後の世界については、スピリチュアリズムの祖であるスウェーデンボルグやアラン・カルディックの方が実が有り、教訓になりました。

しかし、幽体離脱は面白そうだったので、CDを入手しました。
結果は、前にブログへ書いたとおりです。
私の場合、幽体離脱には縁が無いようです。(笑)

ところで、CDには日本語訳のガイダンスマニュアルが付いていました。
CD収録内容は特別な音響だけではなく、英語でナレーションが入っています。
ただ漠然と聴くのではなく、英語のガイダンスに従ってイメージトレーニングを通じて、効果が発揮出来るわけです。

興味深いことに、私が日頃行っていることと一部分の共通した内容がありました。
それを今回、取り上げてみます。

今、日本語訳ガイダンスマニュアルが手元に無いため、CDの英語音声ガイダンスを聴きながら、その時に行っていた記憶をもとにイメージトレーニング方法を書きます。
記憶をもとに・・・ですので勘違いもあると思います。(笑)

CDは、フォーカス10のレベルです。

ここからは、イメージとしてガイダンスに沿って音響を聴きながら、自分の心の中に創っていきます。
まず、聴くことに意識を向けなければなりません。

瞑想と同じく、雑念に阻まれます。
雑念を払拭するための方法として、エネルギー変換ボックスを創ります。
その箱は、蓋が付いていて、形・デザインは自由です。
ただし、しっかりとした重い蓋で塞がれており、箱は壊れることはありません。
広い、大きい箱なので、何でも収納できます。
一度収納したらイメージトレーニングが終わる頃まで開きません。
自分が創ったその箱の中に、雑念として浮かび上がる全てのものを入れて、しっかりと蓋をします。
その箱は自分の気にならない所に置いて、自分自身を開放させます。

上記のような方法での雑念対処法です。
全て、詰め込み方式です。(笑)
ブログのコメント欄に書いて頂いた記事の中に、高橋佳子先生は
「雑念はそれに抗うことなく湧くままにしておくのだ」と仰っているそうです。
対処法は、いろいろあるんですね。

そして、自分自身に誓います。
内容は詳細に覚えていませんが、こういうことだったと思います。

「自分は三次元世界だけを感知できる能力ではなく、物理世界以上のものを感知できる可能性を持っている」
「そのためには四次元世界以降の、自分以上の智慧を持った者の存在やエネルギーの協力が必要です」

・・・と、助けをお願いするわけです。
拡張された意識体験をするため、その存在者の協力を要請します。

また、素晴らしい経験ができることをお願いするわけですが、それ以下の状態に導く存在(危険な霊)「魔」の影響を受けない様、自分を導いて頂く方に対し守護して頂く旨、祈願を念じます。

「魔」で思い出すことがあります。
それは、2003年の五月でした。
岸田先生に福岡へお出で頂いた時のことでした。
先生は、
田中さんの「想念帯」にヒビが入っています。
そのため、心の中に「魔」が入ってくることが無い様、毎夜「光」を送り、カバーを張ります。
と、仰っておられました。
想念帯に穴が開いた場合の「魔」の怖さは、それまでいろいろと信次先生の講演での体験談を聞いていたので、岸田先生のそれを聞いて安心したことを覚えています。
この幽体離脱の世界でも危険がある、ということなのでしょう。
瞑想に入るときは「魔」の侵入が怖いので、それを防ぐために私は必ず「諸天善神」に祈願を念じています。
※想念帯とは簡単に一言で云うと、人の「心の構造」の中での一部分の領域です。
自分固有のいわば「アカシックレコード」みたいなものです。
今生と過去世の全ての転生記憶がそこにあります。

話を戻します。
そして、ガイダンスに沿って、特有の呼吸法を行います。
「共鳴同調法」というものです。
自分の身体へのエネルギー進入を容易に持っていくための方法です。

息を吐いたり吸ったりすると同時に、きれいな「光輝く閃光」をイメージして、その光のエネルギーを身体中に充満させます。

この呼吸法は、ここでは具体的に書きませんが瞑想にも有用であることをマニュアルに書いてあったと記憶しています。


ところで、「梵我一如」(ぼんがいちにょ)という仏教用語があります。

至高の悟り(神の理)を得ると、次元を超えた最高の意識で
「宇宙と自分は一体」であることが自覚できるそうです。

それを他の教訓と交えて伝えているのは「孫悟空」にあります。
意識が拡大した方の下で「宇宙の端まで逃げ切ったと思ったところが、実はお釈迦様の手のひらの中を回っているだけだった」という孫悟空の体験が物語の中にあります。
至高の悟りを得た方は今生だけではなく過去の幾転生で、そういった器を培った偉大なる魂だと思います。

また、六神通力の一つとして、自由自在に身体はそこに置いたまま、意識だけで飛ぶように三次元世界のどこへでも行けるし、四次元以降の世界へも色々と体験できるそうです。

そういうことで幽体離脱体験が出来る人は、ある程度の悟りを伴っていないと出来ない、とばかり思っていました。

しかし訓練により、モンロー研究所のヘミシンク音響技術は幽体離脱が可能だと証明しています。





[ 2007/01/24 14:16 ] 瞑 想 | TB(0) | CM(12)

月刊誌巻末から   

GLA関西本部発行の月間誌巻末の数ページにある「GLA関西本部」をご紹介いたします。


”釈迦、イエスの神理正法に還り神の子の人間に目覚めよ”
と叫び続けられた『高橋信次先生』の教え、真の幸せへの導き

◎あなたの死後の世界はどうなるのか

「人間はどこから来て、どこへ行くのだろう」
「なぜ生まれ、何のために生きているのだろう」
「死んだらどこへ行くのか、どうなるか」
「人生をどう生きてゆけばいいのか」
「神、仏はあるのだろうか」
これらの根本的なことが解らない限り不安な日々を送ることになり、気づかないうちに心も肉体も得体の知れないものに蝕まれ、我に返った時「私の人生は一体何だったんだろう」と、大きな悔いを残すことになるでしょう。
しかし、その疑問を解決する道を解き明かされ、証明されたのが、高橋信次先生だったのです。

◎GLAは何を教えているのか

GLAは、正法という釈迦の教えた大自然の調和された循環の法と慈悲と愛について教えている。
釈迦は宇宙即我によって神の意思を悟り、プッタ(仏陀)となった。そして真の安らぎのある至福者となられた。
多くの衆生がプッタの安らぎに近づき、近づこうと願うなら、この世はそのまま地獄から仏国土となろう。
高橋信次先生は、末法と化した現代社会に正法という法灯をともし、二千五百有余年前のインド時代の衆生の喜びを再び蘇らすべく、
人々の教化にご自分の生涯をかけられました。
GLAは、その釈迦の神理を世に伝えるべくつくられたのである。
G はゴッド=神または神理、L はライト=光、A はアソシエイション=会。
つまり、『神理の会』というのがGLAである。
人々が正法を実世界に表わすにはどうすればよいか、安らぎのある生活を送るには、正法を貫く中道の心を自覚することである。
中道の自覚は八正道の実践しかない。
一、正見。 二、正思。 三、正語。 四、正業。 五、正命。 六、正進。 七、正念。 八、正定 である。
この八つの実践によって、中道の心を知り、自覚が芽生え、如心の境地に到達する。
人々に慈悲の心で接し、愛の行為が行えるようになるには、こうした如心の境地に進むことによって、より可能となるのである。
つまり、菩薩行がつつがなく行えるようになると言えよう。
GLAは釈迦の正法を根本として慈悲の心を、そしてイエスが説いた愛の行為を教えているのである。

◎他力信仰の誤りについて

世が末法となると他力の信仰が流行ってくる。他力とは文字通り他の力を借りる信仰である。
阿弥陀にすがって、念仏を唱えれば極楽往生間違いなしというわけである。
仏教も変れば変るものである。二千五百有余年前の釈迦は他力の信仰は一つも教えていない。
イエスが教えたキリスト教にしても今日では祈り一辺倒の他力と化している。
人間は神の子であることはプッタが悟った。
神は天地を自らの意思で創られたように、人間神の子もその運命と環境は自らの手によって調和させていかねばならないのである。
プッタは神の子の自力を教え、イエスは神の子の愛の実践行為を説いた。
それが今では念仏や祈りが信仰というわけである。
明日の運命も分からぬ肉体人間の思念と行為を思えば、他力の信仰を一概に責めるわけには行かないだろう。
しかし、人間は神の子であり、他力の果ては自己満足を助長し、一方では無気力な人間をつくっていく。
宗教が偽政者と結び、衆生を苦しめたのも他力の故であり、盲信・狂信のアヘン患者が出るのも他力の害毒といってもいい。
二十一世紀の今日といえどもまだこの弊害が続き、信仰の名の下に争いが続いている。
神は平和を求めている。人類に調和を求めている。
他人にはウソは言えても己の心にウソの言えぬその心が神の子の証なのである。
とすれば、人はその心を大事にし、その心にしたがって、神性仏性の自分を自らの手で育てることが信仰ではないのか。
つまり、神は我が心に宿っており、ならばその心に忠実であることが神の子の義務であり、責任ではないか。
正法は自力である。神の子の自覚にもとづいた自力である。我欲を果たそうとする自力ではない。
求め、努め、勇気を持って歩むものに神は光を与えてくださる。
神は自ら努める者に安らぎと調和を与えることを知るべきであろう。

◎転生輪廻と魂の不滅について

この世のすべての物は循環の法則の下にある。
水は気体、液体、固体の循環を繰り返し、一日は朝、昼、夜の周期を維持している。
こうして、物質とエネルギーは神の偉大な意思と働きの下で、永久運動を続けている。
物質もエネルギーも永遠にして不滅である。
人の魂もこれと同じように、この世を去ればあの世の生活が待っており、やがてこの世に再び誕生する。
そうして、個の魂をより豊かに、より調和するべく永久運動を続けている。
GLAでは、魂の不滅についての実証がなされている。
インドに、イスラエルに、エジプトに、スペインに、イギリスに、ドイツに、ベトナムに、チベットに、中国に、その当時の言葉を語ってくれる。
千五百年前に中国で生まれ、当時の名前はこうであり、生活環境は厳しかったが、しかし学んだ事柄は内容的には現代と少しも変わらないということを話してくれる。
これら霊道者の人びとは、インド語も、エジプト語も、スペイン語も習ったことがないのである。
ところが、現代にも通用するその言葉を、いとも簡単に語ってくれるのだ。
普通では信じられないことである。
釈迦時代、イエス時代しか、こういうことは今まで起こったことがないのだから。
こうした現象(現証)はGLAでは発足したその時から現れ、霊道者と称する人々は多く出ている。
霊道によるこうした過去世の言葉は魂の永遠不滅と転生輪廻を示す偉大にして価値ある実証といえよう。
しかも霊道現象は、高橋信次先生の光によってその門がひらかれ、霊道者自身が中道の生活を実践することによって与えられるのである。
私たちの記憶は通常、脳の中にしまわれているとみられている。
医学の発達によって肉体の死は生命の死につながるように思われているが、ではGLAで起こっている霊道現象を医学でどう説明するだろう。
もし肉体の死によって記憶の一切が消えてゆくとすれば、霊道現象が教える過去世の実証はどう答えたらいいだろう。

◎霊道現象(現証)について

仏教の中の華厳経は主に霊的な問題を扱った経文として知られている。
その中の十地品第四章二十は、過去世の記憶について累々と述べている。
「彼は色々な名前の住所を記憶する。一生を記憶し、数百年、数千年、数億年を記憶し・・・・・」
当時の人はプッタの光によって霊道をひらき潜在意識に記録されている過去世の記憶をよみがえらせ、過去世の生活を思い出し、言葉を語ったのであった。
新約聖書使徒行伝第二章にも同じようなことが載っている。
「・・・・・みよ、この語る者は皆ガラリア人ならずや、如何にして、我等おのおの生まれし国の言葉を聞くか・・・・・」
十一人の使徒達は、イエスが十字架の人となり、五十日を経ったある日、突如として霊道をひらき、各国の言葉を語り出したのである。
インドの当時は、プッタの在世中に数万人が霊道をひらき、過去世の言葉を語り、神理を説き、多くの奇跡を遺した。
イエスの使徒達も、霊道をひらくことによってイエスを信じ、神の子の自覚に燃え、伝道に生命を投げ出した。
現在GLA関西本部にも同じような霊道現象は起こっている。

釈迦、イエスの神理正法に還り、真の人間にめざめよ

恩師の心を受け継いで、GLA関西本部では、皆様方の幸せのお手伝いをさせて頂いております。



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[ 2007/01/25 19:08 ] 随 想 | TB(0) | CM(0)

お地蔵さん 

職場に向かう途中の信号の角に、お地蔵さんがまつってあります。
信号待ちのときは視線に入る位置にあるのですが、いつも眺めているわけではありません。
今日たまたま見たら、赤い綺麗な、よだれ掛けをしています。
付近住民の誰か、いつも大事にお世話されているのでしょう。
お地蔵さんを見て、ずいぶん前のことを思い出しました。
今思えば、あれで良かったのか・・・と思うときがあります。

私が23歳頃でした。
或る悩みが有り(悩み多き人生です。笑)どう、解決して良いか分からず神仏に頼ったことがあります。
住んでいる場所から少し離れた郡部に、いわゆる「拝み屋」の噂を知って暫らく何度も通いました。
その拝み屋さんの家には、他の所から引き受けた仏像など沢山まつってありました。
そして私に対し、(今考えても何のことか未だに分かりませんが)
「素質があるので、いろいろ教えてあげます」
ということで、行く度に目を閉じた状態で正座をさせられ「光が見えないか?」
などと言われ指導(笑)を受けました。
内心、「光が無いところに光が見えるはずが無いじゃないか」と思っていました。
今だったら、「光」に興味ありますが(笑)・・・しかし今思えば、拝み屋は怖いです。
そんなことよりも「悩み」解決が優先でした。
結局、拝み屋では解決できませんでした。
今であれば、それくらいの悩みは悩みの内には入りません。
その頃若かったので「がむしゃら」に切羽詰ったような感で考えることが多かったと思います。
悩みは、時が経って自然と解決(納得)したようなものです。

その悩みというのは、もしかすると代々家系の因縁ではないのか。
と思ったことが通った、きっかけでもありました。

私が小さかった頃の昔は、近隣の家では専業農家が多く、鶏や肉牛などの家畜を飼っていました。
私の家も、そういう環境でした。
農業用機械が無かった、もっと昔であれば牛を頼りに農耕していたでしょう。
私の家では、私が生まれる以前に牛以外にも豚も飼っていたそうです。
家畜を飼っていた家には必ず家畜鎮魂のため、石で出来た「馬頭観音」をまつっています。
馬頭観音って面白い姿をしています。
正面と左右に一つずつ、一体の身体に憤怒した顔が三つあります。
しかも正面の顔の額付近には「馬」の顔が付いています。

私の家の庭には、その馬頭観音ともう一体、同じく石で出来た「お地蔵さん」が有りました。
生前の父親の話によると、そのお地蔵さんは何代か前の先祖が子どもに恵まれなかったので、子どもが授かる願いを込めてまつられた、と聞いていました。
お地蔵さんをまつってからは一人の女の子に恵まれたそうです。
そして、今の私の存在があります。
お地蔵さんの台座の石には、天保二年の銘と作った先祖の方の名前が刻まれていました。
庭先で毎朝、祖母か母親は、馬頭観音さんとお地蔵さんに「お茶」「ごはん」と線香をあげていました。
小さい頃は、私も一緒にお参りをしていたものでした。
お地蔵さんに話しかけたりして、親しみを感じていました。
(馬頭観音さんは怖い顔をしてあったので馴染めませんでした)

あるとき、拝み屋さんを自宅に招いたとき
「特に因縁とは関係が無いが、この仏像さんたちは私の所に来たがっている」
ということで二体の仏像を引き取ってもらいました。
それからは「拝み屋」さんのところに行った時、手を合わせて帰っていました。
拝み屋では解決できない、と判断してからは、一度も訪れてはいません。
その方(拝み屋)は、当時七十歳代だったので今はご高齢です。
ご健在かどうかは知りません。


「生命の輝きの道」の中で、肉体を頂いた先祖に対して心から感謝を述べます。
両親と亡くなった祖父母です。
それ以上の先祖は面識が無いので「先祖代々」と置き換えて祈ります。
その先祖の子孫繁栄の「思い」が込めてあったお地蔵さんを私は簡単に手放してしまいました。
それは先祖に対する感謝もなにもありませんでした。
お地蔵さんは、ただの「石」ですから何ともないのですが、先祖の思いを当時、汲むことの無かった自分に情けなく思います。
今更ながら引き取ることはできないし、もう仕方ありません。

道路わきのお地蔵さんを見てその頃のことを思い出しました。


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[ 2007/01/26 13:28 ] 随 想 | TB(0) | CM(10)

瞑想 5  方法 

じっと座って目を閉じた状態での瞑想について、特に特筆すべき経験はありませんが、感じたことを率直に述べてみたいと思います。
その前に、私が常に意識しながら瞑想を行っている方法をそのまま書くよりも、真似していることを写して記述したほうが間違いなく伝わる、と思います。
方法を真似していますが私自身、書かれてあることを完璧に出来ているわけではありません。

まず、態として「じっと座って目を閉じた状態」の瞑想について私が参考にしている本を手にとって一部抜粋した文を、長文になりますが以下、紹介します。


禅宗の座禅の目的は心を空(カラ)にし、その空の中から己を見出そうとするらしい。
一般的には無念無想になることが、仏を見性することになるらしい。
ところがゴーダマ・ブッタ(お釈迦様)が教えた瞑想はそうではない。
毎日の想念と行為の在り方が、中道に適ったそれであったかどうかをたしかめ、誤りがあれば、神に詫び、智慧と勇気と努力で、二度とその過失を繰り返さない自分を修正していくことにあった。
したがって、瞑想の目的は反省にあって、一日二十四時間の、正しい生活をめざすものであった。
瞑想のための瞑想ではないのである。
何ごとによらず、私達は反省することによって前進する。
学業にしろ、職業にしろ、人生の問題にしろ、反省なくては進歩もない。
私達の人格を形成する心と行為の問題も、反省を通じてつちかわれ、安らぎある自分を見出すことができる。
反省は、いつ、どこにいても可能だし、なれてくれば、一秒一秒がそれにつながっている生活といえよう。
しかし瞑想による反省は、反省の中身をより深くし、充実したものにする。
なぜかというと、中道を尺度とした反省をすると、必ずといってよいほど守護・指導霊が傍に来て、その反省を助けてくれるからだ。
また、瞑想は、軽く目を閉じ中の目をひらき思念を一点に集中させる、もっとも良い方法なのだ。
目を開けていると、思う、考えることがどうしても散漫になり、まとまらない。
外界の動きに気を取られるし、考えが浅くなる場合が多いのである。
私達の心と肉体の関係は先にもふれたように、別個に存在している。
めざめてる時はそれが一緒になって生活するので、肉体そのものが精神をつくっていると考え勝ちだ。

【中略】

三昧の境涯とは、瞑想の極致を指すのである。
無念無想となり、気持のよい状態をいうのではない。
無念無想は、危険極まりない心の空白を意味し、いつ他界者が自分の意識の中に進入してくるか分からない。
瞑想中でも自分を失ってはならない。
大我の自分は、どんな場合でも、生きとおしの自分であり、瞑想が深くなれば、ますます大我(別名を無我ともいう)の自分が躍動してくるものである。
反省の瞑想は瞼を軽く閉じ、瞼の中の眼は真っすぐ前方を見つめる。
瞼を閉じると大抵はねむけを催し、反省が思うようにゆかないものだ。
そうならないために中の眼は前方をみつめるようにするのだ。
ねむくなると、たいていは中の眼は上に移動する。
疲れた時、夜が遅い場合は、瞼を閉じると自然にコックリがはじまる。
瞼があいているときはそうでもないが、瞼を閉じるとそうなるものである。
これは自然現象であり、生理的なものなので仕方がない。
しかし、そうした場合、中の眼を真っすぐに前方を見定め、意識をしっかり定めていると、そうねむくなるものではない。
そればかりか、心が一点に集中でき、反省が比較的容易にできるものである。
瞑想というと、ふつうは黙って目をつぶり、さまざまな妄念がおきないよう、つまり雑念がおこらないようにすると考えがちだが、これではいけない。
瞑想の意義はまず反省の瞑想をくりかえし、守護・指導霊の光が届いたときに真価が現れてくるものだ。
反省もせずに、いきなり、雑念を払う瞑想をしたり、そうした習慣が身につくと、心がゆがんだままであり、そのために、ゆがんだ心に通じた悪霊を引きこんでしまうのである。
正道を知らずして、座禅をすれば悟れるということで瞑想の行を積むうちに、魔に犯され、精神分裂や肉体的欠陥に悩む者が出てくるのはそのためである。
したがって、反省は瞑想にとって絶対欠くことの出来ない基本的な行方であり、心の曇りをのぞく、唯一の方法なのである。
瞑想はどうしても夜になる。
朝、昼は仕事に従事しなければならないし、仕事をせずに瞑想ばかりしていたら、生活に問題が生じてこよう。
夜になると一日の疲れも出るし、前記のように、瞑想に入るとねむけを催してくる。
どうしても反省に集中できないという場合は、瞼を軽くあけ、座している少し前方に視点を定め、反省するようにすると、ねむけは解消できる。
反省になれてきたなら、再び眼をとじ、瞑想の反省に入っていく。
夜は昼間とちがい、雑音が少ない。
草木の活動も静まり、動物達も眠る。
それだけに、夜の瞑想は、深くなり、心が統一しやすい状態になる。
同時に、あの世の天使達の通信も受けやすい状態になる。
昼間は、家事や仕事に気をとられるので、天使達の通信をキャッチしにくい。
ゴーダマ・ブッタの瞑想が、ほとんど夜、それも今の時刻で午前一時から三時の間に集中したのもそのためであった。
ただし反省の瞑想をせずに、雑念を払う意識の空白状態や執念に心を奪われると、魔が入り易い。
これは昼間よりも危険である。
百鬼夜行というように、夜は魔も活動しやすいのである。
反省の瞑想をしておりながら、それを終えて夜ねむれなくなるような場合は、反省の仕方に、どこか間違いがあり、反省ではなくて、何かにとらわれているのである。
こうした場合は地獄霊が近くにいて、本人の意識に入りこもうとしており、まことに危険である。
こうした状態が毎夜続くとノイローゼになっていく。これは反省ではなく執着なので、こういうときは反省の瞑想はしばらく休まれた方がよい。
正道にもとづいた反省をしている時は、守護・指導霊が近くに来ており、本人を守っている。
魔は絶対に近寄れないものだ。
したがって、瞑想を終えればすぐ就寝できる。
こうして、反省の瞑想をつづけて行くうちに、守護・指導霊との交流がはじまり、対話が可能になってくる。
つまり、心の曇りが晴れてきて、いつ、どこにいても、守護・指導霊の導きが可能になってくる。

以上、高橋信次著「心の原点」より 
第5章 神は光なり我とともに在り 
8.瞑想的反省の意義
から、引用させていただきました。






[ 2007/01/30 18:29 ] 瞑 想 | TB(0) | CM(6)

第15回 福岡支部集会 

第15回 GLA関西本部 福岡支部集会を
2月4日(日)pm1:00~5:00
福岡市の山王公園中にある「博多市民センター」で行います。
「真実の心」を学ぶ為の学習会です。
東大阪から岸田先生ならびに数名の方にお出で頂きまして「講話」と「質疑応答」を予定しています。
参加料はありません。
途中退場、途中参加でも大丈夫です。
ご興味のある方はどうぞ、覗いてみてください。
参加者は毎回、常連の方もいれば、不特定の方と様々です。
ほのぼのとした雰囲気です。


タグ : 岸田守本部長



[ 2007/01/31 16:53 ] 随 想 | TB(0) | CM(0)
  1. ..
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