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「助 力」 高橋信次 

月に一度、GLA関西本部の月刊誌発行に合わせて、高橋信次先生の随筆をあげています。
興味が御座いましたら、ご覧下さい。
以下、GLA関西本部発行 2007.6月号月刊誌より転載


「助 力」

正法は自力である。
なぜなら、人間は神の子であり、原因・結果の因縁因果は、すべて自分の想念と行為にあるからである。
因縁因果を超えるには、善念を起こし、勇気と努力を持って自分を変えていくしかない。
守護霊の助力はそうした時に働き、私たちを導いてくれる。
最近ややもすると、こうした自力の精神を忘れ、いたずらに固有の天使の名を呼び助力を求める傾向があるのは遺憾である。
もちろん、天使の名を心に思い求めれば手を貸し与えてくれることもあろうが、しかし、それによって(たとえば病気)奇跡が起こり急場をしのいだとしても、病気の原因を根本的に改めないかぎり、また同じような、あるいは違った形で病をつくり出していくだろう。
自身を省みることなく、固有の天使の助力を求めることは、それはとりもなおさず他力の所業であり、他力はやがて欲望充足の道具と化してしまう。
このことは、自身を守っている守護霊をいたずらに口にする場合も同じことである。
ただ、守護霊の場合はその人を専任で守護し指導しているので、純然たる指導霊ないしは天使とは趣が異なる。
したがって、なにかあった場合、助力を求めたいときは守護霊の名なり祈願文を唱えるなりして助力を求め、決して固有の天使の名を口にしてはならないのである。
ユダヤ教のヤハウェー(エホバとも言う)も、このことを再三注意している。
注意の趣旨は、自身を省みることなく、いたずらに助力を求める傾向が強くなると、信仰自体が他力と化してしまうからである。
また、天使も地上の人びとが求めれば、他の重要な(天上界での自分の)仕事をおいてもその声に耳をかさねばならなくなり、それが時には、より多数の(天上界の)人々を犠牲にしなければならないことも起きてくるからだ。
それだけに、自分の都合のみを願って固有の天使の名を口にしてはならないのである。
人の心は一つにつながっている。
そのつながりは自身の守護霊であり、ついでその守護霊の近しい友人、先輩なりの指導霊であり、さらにそれにつながる天使の指導霊、そうして大指導霊とつながる。
こうして人の心は、光の子として、すべて一つにたばねられている。
それゆえ、助力を求める手順は、まず自身の守護霊であり、守護霊が経験不足の場合は、守護霊から指導霊なり天使に連絡される。
そうして、本人が知らない間に(自覚している者もあろう)、指導霊なり天使の助力が行われ、それが時として奇跡となって現れたり、智慧の涌現として、その人を助けるようになる。
しかし、こうした助力というものは、日頃の本人が努力しているか、誠実、真実であるかどうかによって、大いに変わってくる。
つまり、指導霊の助力の根底にあるものは、他力ではなく自力の精神であるからだ。
他力の生き方は、本人の人間性を否定し、神の子の創造力を曇らせる。
神は、自分を愛するものを愛し、自己の神性を否定する者を拒否する。
人は神の子であり、自分を愛せない者は神を否定し、、人を愛することができないからだ。
この意味において、いたずらに現実の現象、奇跡のみに心をとらわれ、自らを省みない行為は、厳に慎んでもらいたいものである。

以上。

――――――――――――――――――――――――――――

ここでは強く、「自力」の重要性について、理由付けを含めて書かれてあります。
良いも悪いも、すべて目の前に展開する事象は自分がつくりだし、自分の力で解決しなくてはならないようです。それを避けたら原因が解決するまで、新たな学習を課せられるようです。
どうしても解決できない時に「他力」にすがるんですね。
人間誰でも自分、あるいは身内が病気にでもなると、しかも医者の力では何ともならない、となれば神様に祈願したくなります。それが普通の人情でしょう。
そして助力を求めるのに、固有名詞を使ってはならない、とあります。
仮に自分が病気になった場合、身内がいるのにアカの他人に看病を依頼することはないし、仮に依頼した相手が慈悲深い方であっても相手の都合というのもありますので、そう簡単には四六時中とお願いできないですね。
しかも、身内がいるのにそれを無視して他人に看病を依頼する、としたらその身内の方の心を思うと、自分と関係が遠い、他人に依頼する・・・。そんなことは簡単に出来ないと思います。
まずは、一番親しい守護して頂いてる方にお願いする・・・。
分かるような気がします。誰にでも身内、必ずその存在はありますから・・・。

長文をご覧頂きまして、ありがとうございました。

――――――――――――――――――――――――――――――

以下、上記にある「祈願文」全文です。
精神修養内容ですが、個人によっては当然のことながら宗教色に抵抗が生じますので、その場合は無視されてください!
紹介させて頂く、ということで参考のために掲載しています。
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タグ : 高橋信次:GLA誌より



[ 2007/06/01 21:41 ] 随 想 | TB(0) | CM(18)

例えばきのう(BlogPet) 

きょうゆきうさぎが静へ中国と経験するはずだった。
例えばきょうは、中国で事象みたいな施設しなかったー。
例えばきのう、イメージ♪


*このエントリは、ブログペットの「ゆきうさぎ」が書きました。

タグ : MyBlogPetEntries



[ 2007/06/04 13:36 ] others | TB(0) | CM(4)

花の精 2  「ウソ発見器で反応・・・」 

先月の記事 花の精 1 「蘭の花に思いを寄せて・・・」 で、花とか木には人間と何ら変わりなく、それぞれに個の意識を持った存在であることの引用文を紹介いたしました。
既にご存知のことかと思いますが、例えば Web で バックスター ウソ発見器 などの複数キーワードで検索すると HP とかブログに最近書き込まれた、バックスター氏によるウソ発見器にかけた植物たちの興味深い、様々な反応等の実験結果が出てきます。
ここでは、ずいぶん以前にその件に関して、掲載された記事を紹介させて頂きます。

以下、1971(昭和46年)9月号の月刊 「GLA」 誌から引用させて頂きます。

―――――――――――――――――――――――――――――――

「草木にも心が」 ―― ウソ発見器で、その事実をつきとめる

ニューヨークのマンハッタンにあるウソ発見技術指導学校のクライプ・バックスター校長は、ある日ふと、植物をお手のものの、ウソ発見器にかけたら、どうなるだろうかと考えた。
そこで機械の電極をサボテンの葉につなぎ、なにか生命の危険を与えたら反応があるかもしれない、というこで、サボテンの根元に火をつけてやろうと思った。
ところがそう考えただけで、何もしないうちから発見器のグラフの針が激しくゆれているではないか。
ただの感情だけでなく、人間の心を読む能力もあったのだ。
こうなると人間は、言葉がないはずの植物と会話できることになる。

これは、最近の "毎日中学生新聞"「異常世界に生きた人々」に出ていたお話であるが、このような発見をした1966年2月から、バックスター先生の毎日は植物との「対話」に明け暮れるようになった。

知人の女性からあずかった植木の心が、数時間にわたって激しく動揺したので調べたら、この植木の女主人が丁度この時刻に目的地の空港に着いたことがわかった。
とすれば、着陸する時の緊張した気持ちが、それこそ以心伝心で植物にも伝わった、ということになりだろうか。
それだけではない。バックスター氏が研究所の門をくぐると、屋内にある植物が"喜びの反応"を示す。足音で分かるのか、精神反感(テレパシー)なのか。
そのほか、これまでの実験によると、怒りやねたみの感情まであるらしい。
すべてのものに仏性が在する、と御仏は教えるが、草木に人間並みの喜怒哀楽の感情があったとは・・・。

これは毎日新聞(朝刊)6月30日付の"編集手帳"に掲載された記事である。

草木にも感情があり、心がある、という体験者はGLAには何人かおられる。
GLA4月号に、その体験が A・T さんによって語られている。
毎日新聞の記事は、ウソ発見器という客観的手段を用いて、その事実をつきとめている点が面白い。
しかしウソ発見器に頼るまでもなく、草木に心があるというのは、まぎれもない事実である。
ただ多くの人間が、その事実を知らないだけである。
人間は心をひらくと、動物、植物と自由に会話ができる。
そして彼らは、それを待ち望んでいるのである。
なぜかというと、現代人ほど独善的で、彼らの存在をおびやかしている時代は、少ないからである。

以上

タグ : 花の精



[ 2007/06/05 13:29 ] 随 想 | TB(0) | CM(13)

「今月の課題」 2007.6 

GLA関西本部の指導者である本部長が執筆された「今月の課題」(月刊誌の中から転載したもの)を月に一度、発刊にあわせて up しています。
何か、ちょっとした気付きの一助になれば、うれしいです。
いつも長文ですが、興味ございましたら、ご一読下さい。
読み逃げ、スルーは大歓迎です!(≧m≦)ぷっ

2007年6月 「今月の課題」  本部長 岸田 守

こんな話を聞いたことがあります。ある王様が家来に
「人生とは何かまとめて教えて欲しい」と指示した。
「かしこまりました」と家来は早速、国中の優秀な学者を集めてその研究をさせた。
学者たちは、ああでもない、こうでもないと議論を重ねること数十年、遂に膨大な成果をまとめることに成功した。
王様のところへ恐る恐る報告に参上すると、王様はそのあまりにも膨大な報告書に驚き
「もう少し簡単にまとめてくれないか」と要望した。
そこで学者たちはまた数十年かけて半分の量に圧縮し、王様のところへ報告に出かけた。
もう十分に年をとってしまった王様には、それでもかなりの報告書であり、とても読み切ることはできない。
再び「もっと簡略に」と要請した。
また学者は懸命に努力して、ようやく一冊の分量にまとめた。
まあこれで大丈夫だと出かけてゆくと、王様は余命いくばくもない状態になっていた。
病床にある王様には一冊の分量でも多すぎた。
それを読む気力もなくなっている王様は声も絶え絶えに
「その報告書を読みきるのに十分な時間は残されていない」そこで、
「人生とは何か一言で言えばどういうことか」と尋ねた。一人の学者が王様の耳元で
「人生とは生まれて生きて、死ぬことです」と説明した。
王様は大きくうなずいて
「そうか、わかった」と言って、息を引き取った。

まことに、人生は現在から未来へ向かう、真っ直ぐに伸びた一本道であります。
しかも、後戻りできない一本道です。
未来への道は無数に分かれていますが、どの道を進んで歩くかは、自分自身が決めなければなりません。
人は自分の意思を超えた運命の大波にもまれながら生きているのでしょうか。
自分に与えられた生き方の90パーセントは定められた運命かもしれません。
ただ、残された自らの人生の10パーセントを意思の力と努力で舵取りして、切り開くことができることを高橋信次先生より教えていただきました。
船頭さんである10パーセントでの人事の尽くし方いかんによって、90パーセントの運命の表れ方が異なり、生き方しだいで自分に与えられた90パーセントの運命を活かすことができるということです。
日々、自らを振り返り、カルマに振り回されないように努力してゆくことの大切さを思います。
そして、自分が生きていく上で何が重要であり、何を変え、何を生み出してゆく必要があるのか、何を欠けば生きる意味や満足感をなくし、生涯を通して達成したい望みや願いを見失ってしまうのか。
これらのことをよく自分の心に問い、わかりやすい「目標」を立てることが大切ではないでしょうか。

人生を生き生きと楽しくしようと思えば、
「明日のために、今日何をするか」「将来のために今、何を為すべきか」といったことを明確に心の中で捉え、そこに向かって日々努力を重ね、一歩一歩近づくことが大切です。
「請願」を立てて生きるのも、「目標」を持って生きるのもそういうことです。
伝道にしても同じことです。ただ、行き当たりばったりでは長続きはしません。
やはり、自分が心の中で納得した、わかりやすい「目標」や「請願」をしっかり立てて、前向きにプラス思考で実践することです。
「目標」や「請願」を立てて、その実現に向かって歩もうとするとき、どうしても今まで慣れ親しんだ生き方の習性が邪魔をして、途中で挫折するかもしれません。
最初から”自分流のやり方でやるんだ”などと力む必要はありません。
むしろ、私心にとらわれ、別のやり方をすればするほど往々にして失敗するようです。
世間で培われてきた経験則や伝統は、それなりに合理的なものでもあります。

つまり、何事も上達を早めようとすれば基本を身につける必要があります。
能を学ぶのに「修・破・離」という教えがあります。
「修」の段階では型を学び、「破」に至っては少し師から離れ、「離」の段階に達して、新しく創造して師の元を離れるという意味です。
自分流のやり方を確立するには、経験を積み、基本の型をしっかりと身につけておかなければ進歩は望めません。
剣道や空手、テニス等でもそうですね。
最初は徹底的に「型」を習います。
「型」が身についた正しいフォームから繰り出される技は無駄がなくスムーズで効果的で美しいです。
ですから、たとえば「目標」や「請願」を立てたなら、朝には必ず目を通し、声を出し、心に深く刻み込む。
そして、休む(就寝)前にはもう一度目を通し、振り返る。といったように、それぞれ実践の「型」をつくってみてください。
なかなか「目標」や「請願」に近づかないときは、努力の仕方を見直してください。たとえば、
「夫婦が再結し、昔のように心を開いて何でも語り合いたい」という「請願」を立てたのなら、そのために自分はどのような努力を毎日すればよいのかよく納得して、紙か何かに書いておくことも必要です。
そして、その努力ができないのなら、酒もタバコもやめる、といったくらいの決意も必要かもしれません。
頭だけで考えるのではなく、まずはやってみることです。
「型」が身に付くまでは大変だと思いますが、是非挑戦してみてください。

自分一人が努力しても、相手も世の中も変わらない。
と思うのではなく、ボウボウと燃える山火事に、バケツの水一杯ずつでもかけようとする、そんな生き方を私たちはしたいものです。

以上。
長文をご覧いただきまして、ありがとうございます。

――――――――――――――――――――――――――

岸田先生からは常に「己を知ることですよ」と教えていただいております。
自分が幸せになるためには自分を知って、長所はより伸ばして、また欠点については自分で気付いて、一つでもいいから、それを「修正」することの大事さを強調されています。
対人関係では「相手が変わってくれること」が自分にとって都合がよい、と考えるのではなく、「自分が変わること」によって相手への見方が変わり、理解が生じ、摩擦は減るようです。
後戻りできない人生は、自分の精神的な成長と幸せのために「目標」言葉を変えれば「請願」を立てる必要性を述べてあります。

そうすると、私にとって生きていく上で、上記に述べられてある「何が重要であり」「何を変えるべきか」そしてその結果「何を生み出してゆく必要があるのか」
逆に、欠かしてはいけないもの・・・。
私は、この機会にそれらを自問自答してみようと思いました。
そして、三日坊主になるには、三日坊主になる理由があるはずです。
せっかく立てた目標も、あきらめる根拠を模索していかないと継続できません。
私は、自分の意識を高めるためにも、これに挑戦しようと思っています。




[ 2007/06/07 17:17 ] 随 想 | TB(0) | CM(12)

ゆきの新譜へ指揮しなかった(BlogPet) 

ゆきうさぎは期待するはずだったの。
きょうはここまで絵みたいな演奏したかったみたい。
ゆきがここまで録画したよ♪
きのう、演奏したかったの♪
ここへ予定♪
ゆきの新譜へ指揮しなかった。


*このエントリは、ブログペットの「ゆきうさぎ」が書きました。

―――――――――――――――――――――――――――――

ゆきうさぎが

>ゆきうさぎは期待するはずだったの。

とか

>ゆきの新譜へ指揮しなかった。

などと、言ってます。
「古くて新しい第九」の前記事を引きずっているようです。(笑

注文していたバイロイトのフルトベングラー指揮、ベートーヴェンの交響曲第九番が届いたので、何度か繰り返し比較して聴いてみました。
確かに音は既存版に比べて、クリアーには聴こえますが、やはり当時の録音の音響設備と現代の音響設備からすると、録音技術は比にはならないようです。
第二次大戦後の慌しい頃の録音だから仕方ないかなぁ、とも思います。
しかしフルトベングラーの表現の力強さは、私が若干ながら聴いてきた第九の中では、一番素晴らしい名演奏です。
それが、少しでもクリアーに聴こえたのには、購入して良かったです。

これぐらい書いておけば、ゆきうさぎも納得かな?(爆爆!

タグ : MyBlogPetEntries



[ 2007/06/11 13:45 ] others | TB(0) | CM(4)

内気功日記 11 

先週の練習内容については書いていませんでしたが、新しい形の練習でした。
今日は先週に習った内容の復習と基本姿勢の練習です。
復習の内容は、とにかく足を大きく広げて姿勢を低くして、股関節を鍛える動作です。
金先生が見本で新しい動作を実演される様は、ジャッキー・チェンの初期の映画の、そのなかに出てくる動作を連想するようなカンフーのような動きです。
初心者の私が真似しても、ひどい格好です。(汗
動作が力強く、美しく見せるためには、基本動作の練習は絶対欠かせないことを、今日も強調されました。
初心者の基本動作で習っている静功は、これまで書いております通り、
「馬法」(まほう)、「大徒」(たいど)、「金鶏」(きんけい)が主な姿勢です。
今日たまたま、金先生から三つの基本静功の中の「馬法」について資料を頂きました。
やっと写真で紹介できます。(汗
写真は、金先生です。

20070612174558.jpg20070612191920.jpg20070612191930.jpg20070612191943.jpg20070612191955.jpg

資料の一番上の姿勢が「馬法」の基本ですが、私の場合は、もっと膝周りと腰あたりの筋肉を付けたいために、写真よりも、もう少し腰を低くして、お尻をもっと後ろに突き出しています。
これだけで、かなりハードになります。
「馬法の地」に近い腰の高さです。

基本姿勢に関連して「入静」(にゅうせい)という言葉を新しく教えて頂きました。
身体も心も静かに、ジッと保つことです。

写真横の説明には最初は3分間からとあります。
私の場合、最初の頃は、時計を見ながら5分間から始めましたが、身体が慣れてないので残りのたった1分が苦しくて、拷問を受けている気分でした!
「早く5分経過して欲しい」という思いで時計と、にらめっこでした。
苦しくて時間が待ち遠しい、そういう状態の心境は「静」ではありません。

一つの基本姿勢を慣らしていく訓練を重ねていくと、たとえば馬法一つにしても、じっくりと練習すれば、これを1時間、あるいは数時間も同じ姿勢を維持したまま、「瞑想の境地」に入ることができるそうです!
「入静」の奥深さを教えて頂きました。
基本のみを極める・・・というのは凄いことだと思いました。

※説明文にある呼吸とは、普通の呼吸、あるいは腹式呼吸ではなく丹田呼吸法のことです。




[ 2007/06/12 17:25 ] 気 功 | TB(0) | CM(18)

反省すること、そして己を知ること 

過去、現在、未来は一点であり、集約されて今、自分というものが存在している。 
ということを高橋信次先生の講演の中で聞いたことがあります。  
過去、数え切れないほど幾転生をしていながら、今の自分が総決算された姿だということです。

もう少しは、ましな自分(笑)でありたいのに、今の自分を考えると少しがっかりする思いもあります。(汗
もちろん今後の自分に期待をしていますが・・・。
それだけに、原罪あるいは業の深さを思い知ります。 

仮に一つ前の前世が、ある程度人間らしく神の子として、精一杯やるべき事はやって生きてきたのに、かたや今生では自分が生まれてくる前に、自分で計画したにもかかわらず、自分の置かれた新たな厳しい学習の環境などなど・・・に災いされ、そして自分の至らなさゆえに、中途半端で終えてあの世に帰る・・・。
うまくいった方が少なく、そのくり返しをやって、今の自分を作り上げてきたんでしょうね。

生活上、神の理からして、間違いがあったら、その間違いは修正しなくてはなりません。
すんだことだから・・・と考えて、ほうっておいても再度間違いをおかす可能性は高くなります。
反省して間違いの原因を突き止める、そして今度同じ状況下になったときに、原因をしっかり押さえておけば、同じ間違いはしないはずです。
しかし、腰が重いのと(笑)自分自身に甘いために、なかなか前進しないです。(汗 

何か焦っていたり、ネガティブになっている自分ではありませんが(笑)、以下、取り上げさせて頂いている文章を読みながら、己を知ること、そして反省の大事さについて、なんだかここ最近、私はあらためて感じ入っております。
今の自分の心にゆとりがあるんだろうか?

以下、1971(昭和46年)6月号の月刊 「GLA」 誌から引用、紹介致します。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

「心にゆとりを」  星 洋子

普通、私たちはあの世といいますと色々想像したりしています。
霊視のきく方、あるいは夢の中に出てくる世界をあの世と思っておられる方もございます。
私たちの生命はあの世が元でございます。
高橋信次先生がお話しておられますように、私たちの生命の元はあの世であり、この世はただ現象化された世界なのでございます。
本当はあの世の方が皆様は好きでございます。
なぜかと申しますと、この世は魂の修行所であり、この地上界を仏国土にする、調和させるという使命があって出てきているからであります。
この世は苦しい学校と思ってください。
私たちの生命は何故にこの世に生まれてくるかといいますと、人間は常に転生輪廻して魂の修行を重ねているためであるからです。
私たちがこの世に生まれてきたのは両親という縁によってであり、そうしてその両親の環境、金持ちであるかないか、その時の思想などによって人間形成に大きくひびいてくるものでございます。
人の生命はこうした転生輪廻のくりかえしの中で、自分の性格というものを作り上げて生きますが、キリスト教ではこうした人間の性格をとらえて原罪といい、仏教では過去世の業(カルマ)と申しております。
そのような性格、生命を持って、また肉体的遺伝をうけつぎ、そうした中で修行しなければならないのでございます。
やがて私たちはそうした環境の中で行為し、思惟し、そのさまざまな修行が意識の中に記録され、その記録を持ってあの世に帰るのでございます。
よく先祖の供養といって仏壇に手を合わせる、人に良いことをしてやったという自己満足、GLAにきて生命の不変や生活の心のあり方を耳で聞いても、心の中で、行為の上でどう処したかによって、あの世にゆく自分自身の姿が分かるのでございます。
五十歳の方は五十歳なりに、自分の意識に書き込まれた環境や教養、その時の思想、習慣によって自分自身がどのように生きて来たか、その生き方を決定づける判断が、果たして本当のものであったであろうか、そうではないのではなかろうかと、考えてみたことがございましょうか。
自分自身をくりかえし反省し、その中で自分の心を見つけ出し、その場で反省できるように自分の心をまず知ることによって、あの世に帰る姿も必然的に分かってくるのでございます。
いくら神理をきいて、自分は聞いているから仕合せである、人に話ができるからこれでよい、というものではないのです。
常に私たちの心の中には神が存在するのでございます。
神というのは、自分自身の心は、無限大に大きく潜在されているところの90%の意識には善しかないのでございます。
その90%の善は、常に悪に対してブレーキをかけ、悪に対しての心のあり方に、私たちは常に10%を牽制しながら生きているのでございます。
その90%の善と、10%の悪、そのような原罪というものを抱きながら私たちは人生行路を渡っておるのでございます。
すべて10%が悪いということはございませんが、私たちが目で見たもの、耳できいたもの、肌で感じたものがすべてでなく、心で感じる、意識で思う、考えることが大事なのでございます。
慣れてきますと、今話した言葉は本物かニセモノか自分で分かるのでございます。
反省ということも時間をかけねばできないと思いがちですが、人と対話しながら、即反省ができ、即懺悔ができ、即そのなかで、相手に本当のことを伝えることができるような心を持つことが必要であります。
禅定をしたり、形を整えたときだけが反省ではなく、自分達の毎日の想念行為が即、善か悪かを見わけるだけの心のゆとりを持つことでございます。
心のゆとりのない方は、いくらどのような行いをしても、進歩的な言葉を使っても、お金儲けをしても、なんの意味を持ちません。
心のゆとりが、即反省のできる大きな力となるのでございます。
自分の心の開拓は常に善であるということでございます。
日々の生活の中で、自分が経験したそれのみをもって物事を判断することは非常に危険なことなのでございます。
自分の欠点、自分の美点、自分の弱味、自分自身の心のくもり、それらの自分の心を分析して、分析することができれば、人からの少々のことをいわれようが頭にくることがなく、納得し理解できるものでございます。
「汝自身を知れ」とソクラテスがいっております。
自分を知らぬ者は、相手の心を見る力を持つことはできません。
誤解や失敗は、みなこうした心を知らぬために起こるものでございます。
自分を知ることによって、神の存在を知ることができると申されているのは、自分の90%の潜在されているところの意識をふさいでいる想念帯の幕が破れて、霊感や霊視ができ、人の心を見る力が生まれてくるのでございます。
そうすることにより、人間としての善、慈悲と愛の心と行為が生まれ、人に対して悩みや苦しみを与えず、自分自身がそのなかで、たとえ苦しみ悩んでも相手に手をさしのべるだけの余裕ある心のゆとりができ、そのような心を、あの世に持ってゆくのでございます。
そうして、その心の世界が、あの世のさまざまな世界にも通ずるのでございます。
いくら地位や名誉があろうとも、この肉体は、いつかは焼かれてしまうのでございます。
持ってゆけるものといったら、五十年、六十年のその人のなした行為と、自分自身の心の在り方であって、あの世の住む世界、段階が決まってくるのでございます。
20070614173644.jpg

以上。

星 洋子さんは高橋信次先生の妹さんです。もう、すでに帰天されてあります。
通力については、随一の能力の持ち主であった、ということを伺ったことがあります。

長文をご覧頂き、ありがとうございました。
読み逃げ、大歓迎です!(≧m≦)ぷっ

タグ : 高橋信次:GLA誌より



[ 2007/06/14 19:04 ] 随 想 | TB(0) | CM(33)

母親の病院での検査 

昨日は内気功を教えていただく練習日だったのですが、休みました。
数日前、私の元に母親のかかっている大学病院から電話がありました。
「お母様の胆のうに検査の結果、影が見えています。」
「二回ほど精密に検査します。現段階でハッキリしていませんが、腫瘍の可能性もあります。」
「・・・はい。しかし、それが腫瘍であっても、良性か悪性かは分かりません」
という、内容でした。手術する可能性もあるので入院手続きまで申し込まされました。

電話があった後、二回ほど既に検査を済ませて、昨日の午前中に CT とかエコーの検査結果を大学病院に聞きに行きました。
二回受けた検査で現段階では、胆のう内に腫瘍、または胆石のもとになる泥みたいな液体のどちらかが確認できますが、まだはっきりしない、ということでその場で、また CT とエコーの検査でした。
「先日から二度も撮影の検査をして分からないのに、今度はどうやったら分かるんですか?」
とたずねましたら、
「胆のう内の影が腫瘍か、泥かは振れば分かります。」
ということでした。
腫瘍だったら動かない。泥だったら動く。振れば分かる・・・どうやって胆のうを振るのか知りませんが、原始的?な方法というか、考え方に、妙に納得でした。(笑

結果、腫瘍ではなかったようです。しばらくは検査で通院です。

母親は二十年ほど前に職場で事故による、生死をさまよう大怪我をしました。
意識が回復する前は三途の川とか、花の園を見たり、先立った夫(私の父親)に会ったそうです。私の呼びかけで引き戻されて意識を回復したようなことを言っていました
また、その情景は、とてもリアルだったようなことも当時、話していました。
その大怪我により数年後、大量輸血の影響でC型肝炎を発病しています。
現在では肝硬変に進行しています。
オーリング診査によれば、今の肝臓は前癌状態です。
病院からは癌の進行を止めるために、濃い乳酸菌の錠剤を服用しているところです。

岸田先生からは、生命には誰しも、リズムがあり周期的におよそ、9年に一度、悪いリズムが巡って来ると聞いています。
しかも誕生日前後がよくないそうです。
母親の誕生日がちょうど2ヶ月後であり、その誕生日で歳が9の倍数に当たります。
そのことも重なって、ちょっと心配でした。
まぁ、リズムが良くない年だとしても、そんなこと心配してもどうしようもありませんが、気をつける意味で警戒する分には良いのかなぁと思います。
岸田先生から聞いている、およそ9年に一度の周期については、高橋信次先生の三体性理論に基づくものです。
いつか機会があったら、そのことにふれてみたいと思います。

タグ : 未分類



[ 2007/06/20 13:11 ] 随 想 | TB(0) | CM(20)

花の精 3  シクラメン 

これまでいくつかの植物の精をGLAの月刊誌より紹介いたしました。
今回はシクラメンです。
冬のイメージの花なので季節柄ちょっと違いますが・・・。
シクラメンの花の姿を思い出しながら、本当に花の精が見えて、会話ができたら面白いだろうなぁ・・・と、つい想像してしまいました。
寓話の「ききみみ頭巾」みたいです!
見えなくてもいいので、ききみみ頭巾で植物と会話したいなぁー。(笑

以下、1973(昭和48年)2月号の月刊 「GLA」 誌から引用、紹介させて頂きます。

花の精 シクラメン
私達はどこでも咲いています。 
家畜のエサになり、豚の饅頭とさえいわれています。
日の光と水とがあれば、私達は希望を持って子孫を残すことができます。
私達は争いがキライです。自然に適って調和し、人々に安らぎを与えています。

シクラメンは花の上で、にぎやかに舞っています。
足が細く髪の毛は長く赤い。
えり元は花の模様とそっくり。

花の精は何れも可愛い童女です。
姿も人間の形をしていますが、これは人間に対するあこがれから、そうした姿となって現れるのです。
また服装の色も花の色である意識がそうした色彩をしていますので、花の色と同じになるわけです。

さて花の心をきくと、次にように答えてくれました。

人々は耐える事を知りません。
耐えるという事は次ぎへの希望なのです。
花の本質は耐えることです。
花は友情を深め、真実を現わしています。
私達には生に対する執着はありません。
踏まれても、切られても、不服をいいません。
私達は、子孫が残ればそれでいいのです。
日本人は外国の人達に比べると、花を粗末に扱うようです。
この世での生命の火が燃え続けているのに、平気で道端に投げ捨てたり、カラカラになっても、水を与えてくれません。
しかしそれでも与えられた生命の火が消えるまで、生きるのです。
私達の目的は地上にうるおいを与えるためにあります。

以上。


タグ : 花の精



[ 2007/06/22 18:51 ] 随 想 | TB(0) | CM(12)

そしてきょうゆきの(BlogPet) 

きょうゆきうさぎはゆきと静にテープはトレーニングしたかもー。
そしてきょうゆきの、練習するはずだったの。


*このエントリは、ブログペットの「ゆきうさぎ」が書きました。

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[ 2007/06/25 14:01 ] others | TB(0) | CM(6)

内気功日記 12 

今日の内気功の練習についてです。
練習の合間の体を休める、ちょっとした休憩中の雑談で日本と韓国の異なる点、たとえば家族構成や慣習についていろいろ、習っている皆さんと金先生そして金先生の奥様と質問を交えながら面白い話しがありました。
話しが面白くて、いつもより話に時間をもっていかれました。
習っている者同士は、これまで名前の自己紹介もなく、普段は練習のみで、全体でお互いのコミュニケーションをとることもなかったので、良かったなぁ、と思いました。

練習の最後にいつも通り、来月からの練習コースを記したプリントを配られました。
そして次回の練習は、
「内気功の動作をしながら、瞑想と反省(内観)を体験してみましょう」ということでした。

初心者であるのに、それは高度なレベルにも感じますが、どんな指導があるのか楽しみです!
プリントには「内観療法の紹介」とあり、それを基に金先生は経験談も交えてお話しがありました。
資料としては、内観とは 他に フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 等をご参照下さい。
あるお医者さんで人の死に立ち会ったとき、統計的には人間は死を迎える直前の言葉は、
「あの人には感謝の言葉もなかった」とか
「あー、あの人には申し訳ないことをしてきた、誤らなくては・・・」など
後悔の言葉を残して、死する人が多いそうです。
後悔しても死が目前に迫ったその人は、どうすることもできません。
体が自由な内に、思い残す後悔は無くしたいものです。
そういうこともあり医療界でも取り上げられている、というお話でした。

また金先生は以前、内気功を韓国で学習中に、瞑想にも3年ぐらい特化して練習されていたそうです。
瞑想していると内面から湧いてくるものがあり、それを当時の先生に指導を受けられてあり、その指導を受けられた内容は特殊なもので、そのまま金先生の体験を私たちに紹介することは難しいそうです。
ところが日本には「内観療法」があり、しかもそれは金先生が生徒の頃に受けられた瞑想指導に似通っており、また体系だっているので金先生が内気功に取り入れ、紹介した旨お話しされました。

それに関連して、中国は「陰」と「陽」があり、この場合に陰は「心の内面」であり、陽は「行為」である、と仰られました。
反省(内観)により内面を変えて、そして行為に現わして、今までの自分と違う自分を作ることの大切さも話されました。
こういうお話は、自分が大好きな話しです。食い入る様に聞いていました。(笑

次回の練習では、それぞれが誰かを決めて
「していただいたこと」
「して返したこと」
「迷惑をかけたこと」
について内気功を行いながら、問うていくそうです。

やっぱり、ここでも瞑想には反省を切り離せません。
この「内観」は、高橋信次先生の反省指導と似たところがあり、詳しく書きませんが、高橋信次先生は当時、内観療法を開発した吉本伊信氏へ、好意的な内容の書簡を送られたことがある、と聞いています。



[ 2007/06/26 18:46 ] 気 功 | TB(0) | CM(14)
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