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きょうは(BlogPet) 

きょうは、接したかもー。
が信州までディズニーは目的へ保存したいです。
またゆきうさぎは、肩っぽい洋装したかったの♪

きょうはフォーカスは記憶しなかったよ。

実はゆきでデザインしないです。

*このエントリは、ブログペットの「ゆきうさぎ」が書きました。




*このエントリは、ブログペットの「ゆきうさぎ」が書きました。
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タグ : MyBlogPetEntries



[ 2007/07/02 13:19 ] others | TB(0) | CM(4)

すぴこん体験談 : 佐々木梨瑛さん 

先日の日曜日に「福岡すぴこん」へ行って来ました。
事前にWebで調べてみると、いろいろと出展されてあります。
行く目的は一つでした。
たまに自分のオーラが指先から、紫っぽいのが出ていたので自分の体全体は機械がどのようにオーラやチャクラが映し出されるのか、関心がありました。
そこで、あらかじめ二ヶ所決めていました。
一つは、このブログで友人のぷりんちゃんとタコたんが体験された「辛口リーディング付のところ」でした。
そこはオーラのみ写してもらいました。
全部、真っ赤なオーラでした。(汗
貴方には赤だけではなく、緑や青色も眼で見えるのですが写真には写っていませんねぇ?・・・とか、言ってありました。

もう一つは、オーラ&チャクラ両方の写真を測定器で写してもらえるところ。
以下、そこで撮ってもらった写真です。
20070702204252.jpg

20070702203857.jpg

この写真の説明には二十数枚のレポート付です。かなり詳しく分析してありますが、レポート内容については紙面の関係上(笑)割愛させて頂きます。

他にアバター(R)のプログラム案内を聞いてきました。
アバターでは自分の「信念体系」を見直すことを教えています。
自分を束縛している様々な信念。それから開放する方法です。
非常に興味あります。 
また外気功にも興味があったので、施術を観察していました。
すぴこん会場には、いろいろな能力を持った方がいらっしゃいますね。
「これが自分の”売り”だ」って、いろいろと出展者は自分をアピールされています。 

すぴこんでは一番人気のあるといわれている「ミカエル」さんのブースを覗いたときです。
ブースといっても仕切りがありません。そのミカエルさんのタイムスケジュールを見ると始まったばかりなのに全部予定が詰まっていました。
その隣にはミカエルさんと同じブースに、お嬢さんが座ってありました。
お若いのに、その方に品性を感じました。
そして「宜しかったら、どうですか」と話しかけられました。「佐々木梨瑛」さんでした。
私は初めから、どこかのスピリチュアルカウンセリングは受けるつもりは無かったのですが何か「ふわっ」とした感触があって、「まぁ、いいかぁー。受けてみよう」と思い、タイムスケジュールでは14:00が空いていたのでその時間で予約しました。
待つこと、二時間弱。そして、佐々木さんの前に座りました。
以下、その時受けた15分間のカウンセリング内容です。

佐々木さんがお祈りをされた後に「何か聞きたいことはありますか?」と、たずねられました。
私は「特に無いです」と答えました。(笑)・・・じゃなんで、予約したんだ!!爆
「では気になることは、ありますか?」と聞かれます。
初めからそのつもりは無かったので、何を聞くか一瞬、迷いましたが「今後の仕事の見通し」をお願いしました。

「何か新しいことを始められるのですか?」
「メッセージとしては、『広げる』と出てきます・・・。」
「自信がないといって、自分を過小評価しています・・・。」
「あなたを待っている人がいるので、もっと知らせた方がいいようですね・・・。」
「これまで、あなたは過去世で多くインプットされてきました。今世はアウトプットするときです」
これらの言葉を最初に並べられました。

(自信がない・・・。少し思い当たることがあったので・・・、というか悩みです。それで・・・)
「えっ??」「???仕事に関してですか?」とたずねると、佐々木さんは目を閉じて合掌をし、自問自答みたいな形で誰かに喋りかけながら確認されていかれます。
「それって、仕事のことではなく自分の精神的な内面に付いてのことでしょうか?」
私がたずねると再度、佐々木さんは目を閉じて合掌をし、自問自答みたいな形で、誰かに喋りかけながら確認されていかれます。
こちらから質問をする度に、間をおいてそのような所作での確認の繰り返しでした。
どうも仕事面ではなく、後になって分かったのですが、自分の精神活動の目的を伝えられているようです。

「やはり、ご自分を過小評価している、と出てきます。」
私はしつこく(笑)「内面にですか?」と、またたずねると「そうです。」と答えられます。
「仕事のことではなく、精神的な内面を広げなさい、と伝わってきます。」
「あなたを待っている人がいます。もっと告知する方が良いです。」

そして佐々木さんは、「今、やる時です。」
「ご自分のこれまで、過去世で積んだ体験を分ち合うときが来ています。」
「『鞍馬山』と聞いて何か心当たりとか、感じることはないですか?」と聞かれます。私は、
「鞍馬山って義経が修行していた山、としか思い浮かびません。」
するといつの間にか、私の右肩のずっと上あたりの何もない空間を凝視されています。
「あなたには過去で鞍馬山付近において、山を走りながら修行していた修行僧が見えています。」
「その方が私のそばにいるんですか?」
「はい。」
「この方は少し強い語気で語られます。」そして・・・
「あなたは過去世または宇宙で本を書いています。分厚い本が見えます。それが上から降りてきて田中さんの胸に納まっているように見えます。」
「過去、あなたは何度も道を求め、自分の中で、何度も極められています。」
「現在、あなたの中では道を求めていますが、もう持っているから求めなくてよい、と後ろの人は話されています。」
(修行僧には、すこしびっくりでしたが、それよりも現実的な「道を求めている」という自分の内面を指摘されたのには全くその通りであり、とても驚きました。それは精神的な面での私のライフワークなんだと常に、随分以前から思っています)
「過去ではどちらかというと自分の体験を積むことが多く、自分の体験を他の人に分かちあって共有することが少ないようです。」
「今世は、それをアウトプットするために田中さんは出ているようですよ。」
「それについて思い当たることはありませんか?」
「・・・私はある団体から、精神修養のためのグループを預かっているのですが、それにも関連するのでしょうか?」
「はい。そのようですね。」
「人とのコミュニケーションにはどのような方を相手にしても、そんなにストレスを感じることはありませんが、しかし・・・、貴方(佐々木さんのこと)が持ってあるような肝心な、そういう能力(通力)は私にはありませんから自信がないです。」
「では、そのことに付いて聞いてみます。」
「後ろの人は、今持っている過去からの体験を他の皆さんと分かち合うために出てきたのです、といってあります。」
「そして、『自信がない』と言っているが、その能力を気にするんだったら、いつ、どの程度の力を持ったときに始めるというのですか?とも言ってあります。」
「待っていては遅すぎます。やりながら、自然とそれは出てきます・・・。と、いうことのようです。」と、佐々木さんは言われます。

ちょうど、その頃に佐々木さんの携帯電話から15分経ったことを示すアラームの反応がありました。
「時間ですが、これくらいで宜しいですか?」 
あっという間に時間が過ぎました。
「はい。もう充分です。」と答えて、佐々木さんへの感謝の念と共に席を立ちました。
そのとき名刺を頂きました。裏には、Mixi アンドリュー!!!と書いて頂きました。
翌日、佐々木さんへメールにて、すぴこんでのアドバイスを私のブログに書かせていただく許可をもらいました。

こんなことがあったものですから、最初に受けた「オーラの辛口リーディング」のことは、すっかり私の記憶からなくなっていました。覚えていません。(汗
しかし佐々木さんとのやり取りの中で、自分としては今後どうあるべきか、活動方針と目的が少し見えてきました。
自信がない、というのは、後で自分の内面に気付いたのですが、動きたくないための自分の中での「いい訳」も含まれていました。
これからは「自然と出てくる」という言葉を信じて、「まずは始めないと、何にも始まらない」という極当たり前のことですが、確認できました。

非現実的にみえるスピリチュアルカウンセリング、受けた内容を信じる、信じないは人それぞれですが、私は佐々木さんのアドバイスにより、ちょっとした勇気と活力を頂きました。
短い時間でしたが、会話の中に感情移入していました。
佐々木さんとは初面識なのに、自分の中で常日頃思っていること、またブログで知り合った方から以前に頂いたメッセージとまったく似通っていて、同じことを複数の方から指摘されていました。話を伺いながら、貴方はなぜ、そんなに人の内面が分かるんですか?と思いながら聞いていました。
そう思えてくると、佐々木さんのアドバイスに何か意味を感じてきます。

>過去ではどちらかというと自分の体験を積むことが多く、自分の体験を他の人に分かちあって共有することが少ないようです。

ハッとしました。このことば・・・裏に返すと、「独占欲だった」とも言えます。
自分だけの満足に徹していた・・・ということです。
恥ずかしいことですが、今思い出すと過去数年前の一時期、そのような自分がいました。遡ると、それがもっと出てくるでしょう。
それが自分のカルマの一つであることが認識できました。

世の中には不思議なモノを持っている人がいます。
佐々木さんとのご縁に感謝しながら、すぴこん体験談を終わります。
いつも通り、だらだらと長文になりましたが、ご覧頂きましてありがとうございました。


タグ : スピなこと



[ 2007/07/03 15:44 ] others | TB(1) | CM(25)

「道について」 高橋信次講演 

高橋信次先生の講演をあげました。
かなり長文ですが、少しでも皆様の何か参考になれば・・・と思います。
読み逃げ、スルーは大歓迎!(≧m≦)ぷっ

先月からの続きです。
今回、追加した文章は色を変えて下の方と〈続きを読む〉に up しています。
なお今回で、この演題は最終回になります。


以下、GLA関西本部発行の月刊誌より転載。2006.11月号~2007.7月号

――――――――――――――――――――――――――――――――

この稿は、昭和47年12月10日、関西本部定例講演会での内容をテープより書き起こしたもので、一部加筆・訂正を加えてあります。

演題 「道について」

本日の講演は「道」という題で説明したいと思います。
私たちが生活する環境の中においても、道というものにはいろいろとあります。
まず、自動車をみますと、これには道路交通法というのがありまして、ルールをちゃんと作ってあります。
一方において、空の方にもルールがありますが、最近は航空機事故が非常に多くなっております。
鉄道もまた同じです。
これにもルールがちゃんと存在しております。
かつて私が(戦時中)飛行機に乗っていたときは、航法というのがありまして、気流とかいろいろな気象条件というものを規準として、飛行機の通る道をちゃんと明示してあります。
それにもそれぞれの厳しいルールがあります。
しかし、私たちの人生におけるところの心というものに対する道というものが、いつの間にかわからなくなってきております。
それが「末法」という時代です。
人間の心の内というものは、人間の知恵によって変えることが出来ません。
道路交通法にしても、あるいは空を飛ぶ航法にしても、この法というものはある程度自然というものを規準にしますが、人間の知恵が作り出すものです。
しかし、私たちがこの地球上に生まれてきて成すべき道というものは、人間の知恵が作り出すものではありません。
先ほどもT弁護士が説明しておりましたように、調和された大自然が人間の在り方を教えているんです。
しからば、人間の道とはいったい何でしょう。
インドの時代に、ゴーダマ・シッタルダー(お釈迦様)は「生老病死」という、人間の生まれてきたこと、病気をする、年をとる、死ぬ、というこの四つの問題は苦しみである。
その苦しみを除く道、それにはどうしたらいいのだろうかと追求し、三十六年間かかって悟り得た道が「八正道」という道だったのです。
それが先ほどもT弁護士が言われた、調和への道なのです。
そもそも、今から二千五百有余年前におけるところの仏教というものは、プターストラーと言いまして、「悟りへの道」ということです。
しかし、二千五百有余年後の現代におけるところの日本の宗教というもは、全てが他力本願です。
正しい人の道というものは、他力によって得られるものではありません。
人間の心と行いというものがどういうものであるか、あくまでも人生におけるところの苦しみというものは、自分自身の思うことと行うことが、正しいルールに適っていないときに苦しみが起こるのです。
プターストラー悟りへの道というものは、即ち、我々自身が、この地上界に生まれてきたところの目的と使命というものが、どういうものであるかということを悟る道なのです。
しかし、我々はこの地上界に生まれてしまいますと、本来100パーセントの心というものが90パーセントは潜在してしまいます。
そのため、次元を超えた世界、あの世という本当の世界、実在の世界を忘れてしまいがちなのです。
心が曇れば曇るほど、次元を超えた世界というものが曇ってしまいます。
あたかも人類の作り出した物質文明が、公害を作って太陽を阻止しているのと同じです。
我々はまず、間違った道というものは人間自身の知恵が、人間の「我」が作り出してしまったということを知らなくてはいけません。
仏教も二千五百有余年の間に、いつの間にか一生懸命お経をあげれば救われると、あるいはまた、神社仏閣にお参りすれば救われる。
病気になるとつい頼りたくなるとなってしまいました。
まずこのような不調和な結果に対しては、必ず原因があるはずです。
その原因がどこにあるかということを悟ることなく、結果だけで目先真っ暗なのが現代社会の人々です。
現代社会におけるところのあらゆる精神的な面を通しての混乱も、物質的な文明というものの奴隷になりさがっているところに原因があるのです。
私たちは、この地上界に生まれてきた時は全く裸です。
どんなに経済的に恵まれている場所に生まれようとも、その方は決してお金や財産を持ってきていないのです。
また、この地上界を去るときにも、いかに皆さんに財産があり地位があろうとも、それを持って帰ることは出来ません。
そこで、我々自身にとっては次元の違った世界、あの世という世界こそ実在の世界であり、我々は、あの世とこの世、即ち、色即是空、実在と現象の世界を輪廻転生しているということです。
我々はその「道」を歩んでいるのです。
そして今もまた、皆さんは自分自身のあらゆる環境を通して、人生の新しい学習を続けているのです。
人間の心というものが調和されてまいりますと、やがて我々は次元を超えた世界を、自由に見ること、聞くこと、話すことが出来るようになってきます。
それは、般若心経の中にあります「パニャー・パラ・ミター」と言って、内在された偉大な智慧に到達することなのです。
この境地に到達した人をラカンと言っていますが、インドのゴーダマシッタルダーの時代は、当時の言葉ではアラハン(阿羅漢)と言っております。
人間は本来、そのようなアラハンの境地になることができるのです。
生まれてきた時は、皆さんは本来、豊かな丸い心だったのです。
その心の中には、神から与えられているところの本能という領域、感情という領域、さらに知性という領域、理性という領域、さらにその中心には想念という領域があり、皆さん自身の五感五体を通して感じ得るいっさいの諸現象は、心を通して現象化されていくのです。
それは、皆さんの目で見ることは非常に難しいことです。
しかし、あの世という次元の違った世界は厳然として存在し、それぞれがみな肉体を持っているのです。
それは、現代のようなこの地上界に適応したところの物質的な原子細胞によって構成されてはおりません。
あの世からでてくる時には、それぞれが長い転生輪廻の中で、自分自身の魂をより調和した豊かな丸い広い心を持っていたのです。
私たちは、神の体であるこの地上界という場所にまず出てまいります。
先に、次元の違った世界でお互いに親になる人、子どもになる人と、それぞれが約束して登録されます。
両親になる人が先に出ていき、一定の年頃になり結婚をして結ばれていきます。
そのことは次元を超えた世界から皆さんはすべて承知の上で出てきているのです。
あの世では、金持ち貧乏人というものは関係ありません。
あの世から見ていると、その人がいかに人生を豊かに広く丸い心で生きているかということがわかるのです。
あたかも、皆さんが二次元のX軸Y軸を結んだところの映像を眺めて、それぞれの状態を支配し干渉するように、次元の違った世界からは、この三次元のすべて見通す能力を持っています。
そういう世界から、実は皆さんの誰もが出てきているのです。
それだけに、この末法の世の中、厳しい人生を皆さんは自覚して出てきているのです。
子どもになる約束をした人は、お母さんのお腹の中に入ります。
約三ヶ月目ぐらいになりますと、次元を超えた世界から支配にかかりますから、お母さんの意識と自分(子ども)の意識との間にずれが出てきます。
しばらくすると完全に調和されます。
その結果がある人にとっては「つわり」の現象となり、食べ物の好みが変わってしまうのです。
それは、子どもの意識の影響によりなされているからです。
子どもは、十月十日経って空気(出産)にふれます。
皆さん、水の中に氷を入れてみてください。
上から落としますと、瞬間は百パーセント沈んでしまいますが、徐々にまた上に上がってきます。
氷というものの密度は約九十二パーセント程度ですので、計算して水を百としますと、だいたい十パーセントしか表面に出ません。
それと同じように、神の体であるところのこの地上界という場に出てしまうと、皆さんの魂自身も、自然界の万象万物と同じ現象(法則)が起こってくるのです。
そのために、空気にふれて「オギャー」と泣くと同時に、十パーセントしか表に出てきません。
残り全部が潜在してしまいます。
そして、徐々に本能の領域というものが芽生えてきます。
その結果、黙っていても(教えなくとも)母親のオッパイ(母乳)を吸うようになります。
一週間経ち、二週間目ぐらいになりますと、小さい子どもは、周りに誰もいないのに「ニコニコ」と一人で笑っていることがあります。
それは次元の違った世界の魂の兄弟たちが、そばに来ていろいろと話をしているからなのです。
「お前、今度はしっかりやれよ」
「わかっております。がんばります」
彼らは祝福されているのです。
心の眼で見える人たちには、光の天使、あるいはその魂の兄弟たちが、その子どものそばにいるところをはっきりと確認することが出来ます。
こうして成長し、だんだんと自我が芽生えるようになってきます。
自己保存が強くなるにしたがって、生まれた環境、教育、思想、習慣、こういうものを通して子ども自身の性格は形成されていきます。
同時に、その子どもは、転生輪廻の過程において潜在されているところの九十パーセントの意識にも徐々に影響されて性格が生まれてきます。
こうして、五歳、六歳、・・・・、大きくなるにしたがって、少しずつ子どもの人格というものは形成されていくのです。
我々は、習慣からくるところの肉体先祖というものが、絶対だという間違った考え方をいつもの間にか身につけてしまいました。
親は子どものためと思って一生懸命に教育もし、自分の出来なかったことを託そうとする。
その心は良いが、期待が大きすぎて、いつの間にか子どもは親の言うことを聞かなくなってしまいます。
実は、地上界(この世)に生まれ出てくるために肉体の舟の約束はしても、魂までは親子ではないということを知らなくてはいけません。
しかし、我々はこの地上界(この世)に生まれてきた以上、自然というこの環境の中にあって、万象万物相互の関係によってこそ肉体を保存し、子孫を保存することが出来るのです。
太陽の熱、光は、金持ち貧しい人、地位、名誉等に全く関係なく、皆さんに平等にそそがれています。
神の光(エネルギー)もまた、すべてに平等に与えられているのです。
が、心の中で思うこと、行うこと、これが神の道である中道とは違う片寄った道を歩んだときに、その人の心の中に歪みが出来、自らして心の中にスモッグを作り出し、神の光(エネルギー)をさえぎってしまうのです。
そこに苦しみが出来てきます。
人間の心というものは、一念三千、三百六十度の丸には、始めもなければ終りもないように、心の針というものは、その人の心の状態によって違ってきます。
その心の状態が、すべてその人の苦楽というものを形成しているのです。
我々は、すべて自然の恵まれた環境の中に育っています。
その自然の恵みに対する感謝の心を行為として、人々に尽くす道を、また自然は教えてくれているのです。
同時に、両親は私たちを産んで育ててくれました。
それに対する感謝の心は、神の子として、お互いに親孝行するということは人間として当然の道なのですが、それがわからなくなってしまったのが現在です。
自然界は、すべて人間の在り方を教えているにもかかわらず、ただ祈れば救われると、人間の脳細胞まで狂わせてしまった。
宗教はアヘンと化してしまったのです。
思想というものは恐ろしいものです。
あの世(実在界)では、決して曼荼羅や仏像などは祀ってはおりません。
初期のイエス・キリストの時代においても、あるいはその前のゴーダマ・シッタルダー(釈迦)が神理を説いた当時にも、依然として旧来からの古い一つの宗教環境がありました。
ゴーダマ・シッタルダーの当時には、ヴェダーやウパニッシャド、すなわち、バラモンを中心として多くの宗派が乱立しています。
そして、バフラマン(梵天)、インドラー(帝釈天)など、そのようなものを神とあがめ、偶像崇拝が非常に盛んでした。
また、ヨギ・ストラーと言いまして、山中に入り、肉体的荒行をしたり、自分の雑念を無くそうとして禅定をし、神に到達したというような間違った道を踏んだ人たちが非常に多いのです。
しかし、そんな時代においてゴーダマ・シッタルダーは、人間の生きていく上において、正しく語ること、聞くこと、そして、自分自身が正しく見ること、正しく仕事をすること、という片寄らない八正道の道を人間が実行したときに、心の曇りが晴れていくと説いたのです。
その晴れた状態で、自分自身の日々の生活を積み重ねていけば、心の中は精妙になり、自由に次元を超えた世界と交渉を持つことができます。
逆に、禅定三昧とか言って肉体行だけで煩悩を滅しようとするが、心の中では何を考えているかわからない。
こういう状態で禅定しますと心の針は一念三千ですから、どちらに向いてしまうかわかりません。
不調和な世界に通じてしまいます。
現代、問題となっているスモッグも、太陽の熱が強くなれば当然そこには光化学スモッグというような、一つの新しい現象が起こってきます。
と、同じように、禅定だけで人間は救われるものではなく、調和されるものでもありません。
一秒一秒の正しい中道に基づいた生活を行い、これが積み重ねられた時に人々の心というものの窓が開かれていくのです。
当然のことながら、アラハンの境地にもなっていきます。
そして、アボロキティ・シュバラーと言われる観自在菩薩の境地にもなっていくのです。
その観自在菩薩と称する境地も、実は永遠の転生輪廻を繰り返してきている今までの積み重ねられたところのキャパシティ(容量・受容力・能力)によって違ってくるのです。
過去において、でたらめ三昧をやって地獄に堕ち、地獄界において自分自身神の子としての自覚を得て天上界へ行きます。
その天上界で、五百年、千年、自分自身というものの心の状態を反省し、神の子としての道に到達して修行をします。
けれども、そういう状態が繰り返されている人々は、なかなかアボロキティ・シュバラーの境地になることは出来ません。
こうして我々自身は、仏教を通してもキリスト教を通しても、一番根本にあるのは偶像崇拝ではないということを知らなければなりません。
大事なのは、人間自身の肉体と共にある光子体になっているところの人生行路の乗り舟の船頭さんである、すなわち魂、その中心である心というものの在り方を教えているのです。
インド時代のゴーダマ・シッタルダーは、二十九歳の時に家庭を捨て、六年間も山中に入って苦しい修行をし、人生というものを悟っていきます。
そして、慈悲という偉大なるものを説きました。
しかし、愛ということを説かなかったのです。
その後、約二十数年遅れて、ベンシャラーという男が出まして(出生)、愛という道を説いていきます。
皆さんがよくご存知の大日如来です。
さらにそれでも足りなくて、一世紀にガレリア地方に生まれたイエス・キリストという男が、愛という道を説いていきます。
愛と慈悲は十文字です。
慈悲というものは大自然を通して大きく広がり、愛というものは横に広がるところの、調和されたものでなければならないのです。
こうして、イエスにしても釈迦にしても、人間の心と行いというものの在り方の規準、その道を説いていったのです。
しかし我々は、そういうことがいつの間にかわからなくなって、一生懸命にお経を唱えることに専念してしまったのです。
この地上界というのは、地獄と天国がミックスされた世界ですから、そうすることによって違うところから霊的な現象が出てきます。
次元を超えた世界からは自由にこの地上界を見ることも出来ますし、来ることも出来るのです。
全然わからないから、これが良いと思えば一生懸命に拝み、どこどこの神々で、霊験あらたかだといえば崇拝してしまいます。
我々の心というものが、正しい道を知っていないために盲目になり、それが、狐か狸か何かわからないにもかかわらず、そういうものが信心の対象になり現象が出てきます。
そこにまた一つの新興宗教が出来上がってきます。
動物霊であっても少しぐらいの病気なら治すことが出来ます。
しかし、本来心という問題に対することに彼らは触れることは出来ないのです。
イエスや釈迦のように、人間自身の普遍的な正しい神理という道を説いてはおりません。
自分自身の心というものはわかりませんから、一生懸命に手を合わせて拝んでいるうちに、神のお告げだと言って出てまいります。
そうすると、皆さんは盲目になっているのですから、神様が降りてきたと思うのです。
しかし、残念なことに、その人自身が神と全く同じ状態の心と行いを実践していない限り、降りてくるはずがありません。
私のところで作っているコンピュータというものは、あらゆる計算を通してデーターが出てきます。そのコンピュータ自身も、最初に与えた計算だけは確実にやります。
人間のように、勝手に自分で考えたり感情を持ったりしていませんから、スイッチさえ入れればきちんと計算してくれます。
このように、機械と人間の違いというものはそこにあるのです。
しかし、人間自身にも心の調和の状態によるレベルがあります。
皆さんは仏像を知っているでしょう。
おそらく心の眼を開いた人たちがああいう物を造っているはずです。
菩薩という仏像を見ると、たいてい頭のところに後光が出ています。
如来になりますとその後光がさらに大きくなります。
これは、その人の心の状態、調和の状態に光が比例しているのです。
皆さんの肉体の後ろに出ているところの光はそれぞれ誰からも出ているのです。
ただ、恨み、妬み、そしり、怒り、こういう心を常に持っている人たちは、その光を消してしまっています。
心が調和されてきて、常日頃、思うことと行うことが正しい神の道に適った生活をしている人たちには、ちゃんとその後光が出ています。
その光の量も、自分の心の調和された状態に応じて違っています。
当時(インドの時代)は、一週間山中に入って、自分の心というものを見定めて初めてゴーダマ・シッタルダーの前で、
あなたは、まず私を信じますか。
あなたは、私の説く法を信じますか。
そして、私の集団、すなわちサンガー(教団)に帰依しますか。
という三つの約束をして、弟子入りを許されたものです。
一人ひとりの心というものは、調和されていれば後光が出ていますから、すぐに入門する資格が与えられます。
しかし、現代社会では違います。
心が不調和でも、お金を持っているか或いは調子のいい人たちのように表面だけを飾っていてもいいのです。
ところが、GLAではそれは通りません。
相手の心の状態、光をすべて見通す人たちが、何人も何人も出ているのですから、ごまかせないのです。
口先だけで上手いことを言ったところで、これはだめです。
人間には、それぞれ魂の乗り舟である原子肉体の後ろには、ちゃんと光子体というものがついています。
この光子体は、自分の心が調和されていれば(黄金の)光が出ていますし、調和されていないと光は消えます。
現象界(この世)から実在界(あの世)へ行く時、すなわち死を迎えた時、離れていく光子体の肉体が、暗いか或いは光に満たされているかによって、地獄、極楽が決まってしまうのです。
質量が重ければ、地獄です。質量が軽ければ、天上界です。
その世界を仏教では金剛界と言っています。
それは光の世界です。こういう世界に行く人たちは、仏像に出ているのと同じように後光に満たされています。
まず、八正道という、正しい人間の心と行いというものの道を極めている人たちなのです。
そういう人たちは、生きていながら次元を超えた世界に行って見てくることができます。
それは、光子体と原子体の肉体を結んでいる霊子線というものがあるからです。
皆さんの心は、光子体の中に入っています。
ですから、夜、眠ってしまった時には、光子体が肉体(原子体)から離れている場合が多いですから、どんなに立派に鼻の穴が開いていても耳の穴が開いていても、見ることも嗅ぐことも聞くことも出来なくなってしまいます。
人生行路の乗り舟から、船頭さんが降りているからなのです。
生きている間は、この舟と皆さんの光子体の舟とは、ちゃんと霊子線でつながっています。
この霊子線の光が、あの世に帰る道なのです。
片寄らない中道の道を、心と行いを通して実践している人たちの道(霊子線)は光に包まれます。
それは、光のドームのようなところで、その中をものすごいスピードで駆け巡っていきますと、次元の違った世界へ到達いたします。
神を信じない人たち、自分自身がでたらめ三昧で、人の道を行わない人たちは、そのまま地獄界、真っ暗の中へ堕ちていきます。
この地上界というところは、そういう人たちが非常に多いのです。
その結果が、社会の混乱であり、人々の意識に悪い影響を及ぼします。
これがまた、病気という現象になってくるのです。
皆さんは、わからないでいるけれども、この地上界は、地獄と極楽がミックスされている世界なのです。
そのために、心がきれいならば、その人たちは光の保護を受けていますから、バチが当たったり、憑依されることはありません。
うらみやねたみ、そしりや、家の中が不調和で、わけもわからないものを一生懸命拝んで、違うものを拝めば邪宗だと決めつけるような人たちの心は、阿修羅界という世界に通じています。
そういう人たちには、心に安らぎがありません。
本当に信心深い人たちというのは、お経をあげたり、そのような場所へお参りするものではなく、片寄らない中道の道を、一秒一秒怠りなく生活をしている人たちのことをいうのです。
中道の道を歩んでいる人たちは、常に光明に満たされ、その時に初めて他力の力を得ることができるのです。
実在界を通して、あの世の偉大な力を皆さんは受けることができるのです。
それゆえに、正道という片寄らない中道の道を自分の心の物差しとして、間違いがあったならば素直に反省をして、それを修正してより自分自身を謙虚に、人に対して慈愛の心を持った生活行為を積み重ねてゆく、自分の欠点を修正する勇気が必要です。
自分自身の欠点は、自分にうそをつけない善なる心が一番よくわかっているのです。
皆さん自身の生命は、転生輪廻の中で、ある時にはナザレの丘においてイエス・キリストの道を学んだ人もいるのです。
あるいはまた、ゴーダマ・シッタルダー(釈迦)のラジャグリハの郊外において、その道を聞いた人たちも皆さんの心の中に潜在されている意識の中には記録されているのです。
それをひもといた時に、我々は物質文明の奴隷ではなく、物質文明は人類のためにあるんだということに気がつくのです。
そして、より平和な調和された人類の道を自らして切り開いていかなければならないのです。
我々は、このようにして平和な安らぎのある魂というものをより豊かにつくり上げていくのです。
今、皆さんは物質文明という最も厳しい社会の中で自分をしっかりと見つめる時がきているのです。
我々の作り出したコンピュータよりはるかに精度の高い巧妙な皆さんの意識は、次元を超えた世界を自由に行き来することができるのです。
イエスにしても、釈迦にしてもその能力を持っておられたのです。
今、我々の中にも、そのような体験をしたさまざまな人たちが出てきています。
人間は永遠の生命であり、生まれることも滅することもないのです。
皆さんはただ、死とか生とか言うけれども、これは肉体という舟だけを通して、その形だけを追いかけているのです。
重要なのは、その舟に乗っている船頭さんというものに、皆さんが目を、そして心を向けた時に、我々の生命の妙(たえ)なるものを知っていくのです。
我々の科学は、やがてこのような事実を多くの人々が現象化し、信じざるを得ない時が来るのです。
現代科学は、まだメッキのようなものなのです。
現代医学が最高峰だとしても、医学そのものもほんのまだ初歩的なものにしか過ぎないのです。
ノイローゼの原因一つにしても、まだ医学者たちは、人間の脳細胞はモノを記憶する装置であるということを言っているうちは遥か彼方のことです。
人間自身のすべての記憶されているところの装置は、皆さん自身の肉体の船頭さんであるところの魂が、すべて記憶しているのです。
どんなに悲しいことがあろうと、苦しいことがあろうと、眠っている時には、皆さんは全く何もわからないのです。
眠りから覚めて、肉体の全てを魂が支配した時に、また苦しみや悲しみが出てくるのです。
その全ては皆さんの心がつくり出しているのです。
その心というものをしっかりと見極め、まず自分の心のどこに歪があるのかということを見極めて、たとえ、夜寝る時に十分でも、十五分でもいいから、自分の心の中に、感情の領域がふくらんで理性を失っているか、本能の側から見て感情がふくらんで心の中に歪をつくっていないか、あるいは、学問的に自分の知性だけを過信して、自分自身の心に歪をつくっていないか、こういうものを一つひとつチェックしてみてください。
自分の心で「行い」と「思っていること」が、本当に正しい道を歩んでいるか、ということを皆さんが知っていたならば、そこからはずれた場合、必ず、間違っている分野を修正する道へと進むことが出来るのです。
反省は、我々の思ったことと、行ったことを一つひとつ心の中でチェックし、不調和な分野を修正していくところの、神から与えられている正しい道なのです。
人間の間違いは、目を開けているだけではわからないのです。
そのために、色々な不調和な諸現象を作り出します。
それは、修行の場として神から我々に対して、反省の機会を与えられているのです。
”間違いは改むるに、はばかることなかれ”です。
素直に認めて謝ればいいのです。
個人相談に来る人たちは、病院へ行っても治らない、霊的な現象に支配されている人が多いです。
私のところのビルの下は病院です。
その病院で治らない人がよく上がってきます。
この前も、浅草で、昔から楽器を売っている店があります。そこの方が、十何年も半身が全く動かないのです。
医者に診てもらっても原因がわからない。
そこで、店の従業員の紹介で、私のところへ訪ねてきました。
みたところ、その左半身のところに、ご婦人の方が ”ビタッ”と憑いているのです。
”アラッ”これはおかしいと思いました。
そこで、その憑いているご婦人に色々聞いたところ、ご主人のことを非常に恨んでいるのです。
あの世(実在界)へ行っても恨んでいるのは地獄霊です。
さしあたり、動物霊か何かは「さっそく拝んで供養し、祀りなさい」と言うでしょう。冗談ではありません。
彼らの住む世界は、この地球上ではないのです。
皆さんの肉体先祖の住むのもこの地球上ではないのです。
それを人間は、お墓に執着を持たせたり、あるいは、形を作ったものに対しても執着を持たせてしまう。
彼らの住む世界はこの地球上ではないのです。あの世なのです。
そこで私は、そのご夫人に対して
「あなた自身は、いつまでもこの者に憑いてはいけません。十数年も主人の側にいるが、あなたのすむ世界とは違うのです。なぜ、執着を持ってこのようにい苦しんでいるのか知っているのですか・・・」
こんこんと教えると、約十分ぐらいの間に、ご婦人は肉体から離れてしまいました。
その瞬間に体は治ってしまいました。
こういうものは、お医者さんではわからないものです。
注射や針、お灸をしたところで、地獄霊は熱くも痛くもないのです。死んでいるのですから。
そういうことを知らないで、我々はややもすると、次元を超えた世界をないがしろにします。
先祖に対する供養ということは、まず皆さんが健康であることです。
そうして、心がきれいで、家の中に、常に明るく平和な環境をつくることが、先祖に対する一番の供養です。
立派なお墓を造ることによって先祖は供養できるものではありません。人生航路のただの舟(肉体)の置き場です。
我々はそのようなものに執着を持ってはいけません。
お墓や石塔に執着を持っているとしたら、百パーセント地獄だということを知らなくてはならないのです。
お墓(死ぬこと)に入っても、そこから首やあるいは手を出している地獄霊たちを私たちはいっぱい知っています。
執着を持たせてしまうことが大きな間違いなのです。
それには、まず皆さんの先祖に、この地上界に執着を持たないように、こんこんと神理を説くことです。
もし、お墓やお寺、あるいは仏壇に執着を持っているとしたなら、これは間違いなく地獄です。
これらは決して祀るものではありません。
(上記の続き。7月号より)
心が不調和になれば、地獄霊たちがまた邪魔をして憑依します。
皆さんは、それが見えないから病院に通ったり、拝み屋と称される方に会いに行ったりします。
そして「あなたの家の先祖を供養しなさい。一生懸命に何日か拝みなさい。」と言われます。
しかし、地獄に堕ちるような人たちにいくら難しいお経を唱えたところで、わかるはずがありません。
「経文とは、本当はこういうものだ。」と、お経の意味をよく解説することです。
「あなたたちはいつまでも人に憑いていてはいけません。私たちはこのように健康で平和な生活をしていますから、どうぞあなたたちの住む世界へ帰ってください。」
と、こんこんと教えてやることが一番大切です。
ですから、大きな墓に入っている人が必ずしも天上界へ行っているかというと、とんでもない話です。
この地上界を占有している執着だけを残しています。
そういうことでは本来困るのです。
皆さんは、家庭の中に色々な不調和が起こった時には、まず、家庭の中のあらゆる現象を見てみることです。
私のところにいる従業員の中に、ある教団に入っていて”ヘビ”を一生懸命拝んでいる人がいます。
彼は成績優秀で学校を卒業し、就職しましたがノイローゼになってしまいました。
一生懸命拝んでいますが、心の中が不調和ですからそこに憑かれてしまいます。
憑かれてしまうとノイローゼになって当然です。
そういう人たちの側には必ずと言っていいほど大きなヘビが憑いています。
”ヘビ”が憑くとヘビの臭いまでします。
”キツネ”が憑くと顔の相がキツネ顔になってくるものなのです。
不調和になって一年近く経って私のところに来ました。
今、私のところに勤めながら、心の勉強をしています。
人間は、わからないからそういうものを信仰してしまうのです。
一時、外から見れば商売繁盛、結構うまくやっていくのですが、内に入れば、家の中がガタガタと崩れ、調和されなくなります。
ヘビだのキツネだのという動物霊は、そういうことをやるのです。
(霊が)見えて、聞こえて、話せたらよいのですが、見えず、聞こえず、話せないのに、そのような者たち(憑依霊)に近づけば、かえって災いに遭います。
「触らぬ神に祟りなし」です。
それだけに、心というものは恐ろしいもので、正しい道を自分が歩んでいなかったならば、本当に我々はとんでもない間違いを犯してしまいます。
肉体の人生行路のいわば道路交通法やあるいは航法という飛行機の飛行よりか、もっと皆さんの心の方がはるかに重大だということを知らなくてはいけません。
その方法は、偏らない中道の判断をした日々の生活がとても大切です。
そういうようにしていったならば、地獄に堕ちる人たちはいないのです。
お経を唱え、いくら一生懸命に拝んでも無駄だということをよく知ってください。
(たとえば)観音経というものは、六世紀の時代に天台智というお坊さんが、観音力の偉大なる力を褒め称えた経文に過ぎないのです。
何のためにお経を唱えなければいけないのですか・・・。
動物霊は人のマネをします。地獄霊も同じです。
正しい道は、あくまでも皆さんの自分の心にウソのつけない善なる心です。
これは、偏らない中道の道なのです。
それを実践した時に、やがて皆さんの心の窓は開かれて、今までの人生に、そして偉大なる神の光を自らが得る道を、皆さんは探し求めることができるのです。

(おわり)


次の新しい演題の講演は来月の次号発刊にあわせて up 致します。


タグ : 高橋信次:GLA誌より



[ 2007/07/05 15:31 ] 随 想 | TB(0) | CM(50)

宗 茂 氏の気功術 2 

先日の7月7日は二度目の宗 茂氏の外気功を体験してきました。
前回は1時間弱、立ちっぱなしで、時間の経過が長く感じましたが今回は違っていました。
宗 茂氏から発する気の熱さは感じませんでしたが、気の流れがこれまでより顕著に感じられ体が勝手に動き出しました。

ところで外気功は病院治療の一環として行われているようです。
外気功の申込み時に私のカルテを出されて、看護士さんから
「以前、病院でオーリングテストをして頂いた時に、念のための胃カメラ確認が済んでいないようですね。外気功を受ける前に胃カメラをのんで頂きますので診察当日と前夜の夜9時以降の食事は控えておいて下さい。」
と言われていました。
ところが、前日の夜うっかりそれを忘れていて職場からの帰宅後、夜11時過ぎから食事を取ってしまいました。
それを看護士さんに話したら、仕方ないので言われるまま病院でしばらく右側腹部を下にしてベッドで横になっていました。
それからしばらくして、初の胃カメラ!!

カメラを入れられる前、腕の筋肉注射がありその後、喉に二度ほど麻酔のスプレーをかけられました。
看護士さんが、「麻酔で唾が飲めないので、このテッシュに流してください。無理して飲み込もうとしたら器官に入るので、気をつけてください。」
それからが大変。小さい頃になった扁桃腺より、ぐるじいぃ。(汗
牛が熱射病でおかしくなり、口から唾液をだらだら流していたのを小さい頃に見たことがありましたが、そのようによだれがダラダラ。
初体験!!(爆
そして看護士さんが「これ(マウスピースみたいな)をくわえて、左腹部を下にして下さい。そして足は『くの字』にまげて体を楽にしてください。」
モニター等の準備が整った後、専門の医師が部屋に入ってこられました。
直径が一センチぐらいの黒いホースを手にしてあります。
「これ、どこまで入っていくんだろう・・・」よだれを垂れ流しながら見ていました。
いざ、進入!!
ところが、息が出来ない!!
女性の看護士さんが、「肩と首に力が入っています。楽にしてください。体に力が入ったら、カメラが入りません。」
その時、大量の鼻水で、鼻が詰まって鼻から呼吸が出来ませんでした。ぐるじいぃ。(汗
口で呼吸しようとしても「ゲヘッ」と喉奥から出てくるものがあり、口で、ぎりぎりで呼吸していました。
その時点でカメラは食道付近にあるようです。
看護士さんは、「落ち着いてください。鼻からも口からでも呼吸は出来ます。」
ぐるじぐて看護士さんにジェスチャーで鼻から呼吸が出来ないことを伝えました。必死です。(爆
目の前の黒いホースが進入するたびに違和感を感じ、呼吸が苦しくて体が硬くなります。まだまだ入るのか~!
看護士さんは「またまた肩と首に力が入っています。楽にしてください。」・・・何度、言われたことか。(爆
「息をゆっくり吸って、・・・吐いて。・・・吸って、吐いて・・・」と誘導されるんですが
そもそも自分が息を吐いているときに吸って・・・と言われ、吸っている時に吐いて・・・と言われ・・・
看護士さんのその言葉のリズムに合わせるために一旦呼吸を止めると、よけいに、ぐるじいぃ。
一瞬意識が遠のく感じで、死ぬかと思った(爆)。死んでもいいけど。(≧m≦)ぷっ
・・・結果的には胃にカメラが入りましたが昨夜の食べ物の残留物が残っており、きちんと奥まで検診できませんでした。
バタ狂うし、残留物があり検査できない・・・こんな子供みたいな私相手に悪戦苦闘していただいた看護士さん、先生には申し訳ないです。(汗
でももう、胃カメラは二度とイヤだ!!(爆

その後、しばらくして体が落ち着いたので、上の階に上がり外気功を受けに行きました。

私が部屋に入った時には、7人位受けてありました。
立って気を受けている人もいれば、イスに座って受けている人もあります。
しばらく見ていたら宗氏から呼ばれました。そのとき壁時計は10時40分でした。

私は眼を閉じて体を楽にして立っています。
以前、初めて受けたときは意識をどっかに持っていかれないように・・・と変に構えていましたが、今回は「自然になるがまま」で臨もうと思いました。

宗氏は私の後ろに立って、頭の方に気を送ってあるようでした。
別に体を支えてもらっているわけではありません。
私の髪の毛に、宗氏の手が少しだけ触れてあります。
そしたら(足はしっかり床を踏んでいる状態で)勝手に後ろに、体が引っ張られるように、少しずつ反り返っていきます。
だんだんとその状態でエビなりに体が深く反り返っています。
この姿勢をしばらく維持していました。もう、びっくり。
ひとりで普通では出来ないです。絶対に後ろにひっくり返るぐらいの反り様です。中国雑技団じゃあるまいし。

すると、だんだん自然と元の直立状態に戻りました。
後ろには宗氏がいます。次に体が足を軸に上半身がゆっくりとローリングしだします。
今度は体が深く斜め右前に傾きだしました。その姿勢はちょっと文字では説明しずらいです。腰をかなりひねった状態です。
その時、宗氏から受けた気が自分の右手に強く伝わってきました。
その姿勢で下に垂らしている右手は円を書きながら勝手に動き出します。
今までにはない位、気の放出を感じました。
たとえると、手を水の中につけて回すと水の抵抗を感じますが、まさにそんな感じです。
電気をまとった空気が手の周りに抵抗を作っている感じがします。
しかし、無理な姿勢なのか、反対の左側の腰がとても痛く感じました。
しばらくすると、今度はゆっくりと同じ角度で体の反対の左前に傾きだします。
体が勝手に同じ動作をしていきます。
すると左手にも同じように気を感じます。しかし、右手の方が反応は強いようです。
今度は右側の腰がとても痛く感じました。
しばらくたったら、また反対の右斜め前に変わります。
勝手に体が動いてくれるのは構わないのですが、無理な姿勢なのか腰がとても痛かったです。
それがちょっとイヤになって、体が勝手に傾く前に自分の意思の力で止めようとしましたが、体の動きは止まりませんでした。
思い切って体に力を入れると、動きが止まります。
しかしこれじゃ、自然体ではない・・・と思い返して、体の動くまま・・・と思っていると自然に動き出します。
体が勝手に動き、いろいろな姿勢をさせられました。(笑
外気功中だから、いいのですが、そうでなければ普通に見たら変な姿勢だと思います。
宗氏はそれぞれ数人をローテーションで回って気を送られます。
宗氏が自分から離れられても勝手に動いていました。

終始眼を閉じていましたが、終りを告げられて壁時計を見ると時刻は11時50分でした。
今回は体がよく動いてくれたので70分間は、退屈はしませんでした。(笑

私が終わった後も宗氏は次々に入ってくる人に、無言で施術されています。
体が勝手に動く理由を聞きたかったので、受付の方に聞いて見ました。
その方は、宗氏の気を受けると受けた側の体の弱いところに気が流れて行くそうです。
そのために体は、気を受け止めやすい姿勢に自然に動く・・・というようなことを話してありました。

初めの時は、ちょっと不安がありましたが、今回はお任せ気分で自然体で臨めました。
しかし自分の意識はまだまだ警戒していました。
そういうことで、自分の意識のあり様が関連するのかどうかよく分かりませんが、外気功中、気分的に空を飛んでいるような、意識が気持ち良くなることはありませんでした。
また体は外気功後、特に変化を感じることはありませんでした。
次の機会がありますので、また受けてみます。

胃カメラ初体験を書きたかったのか、外気功をメインに書きたいのか、分からない文章になりました。(≧m≦)ぷっ



[ 2007/07/09 22:25 ] 気 功 | TB(0) | CM(12)

内気功日記 13 

今日の内気功についてです。
前回と今回も気功による瞑想・反省指導については特にありませんでした。
今回の主だった練習は、身体の動作と呼吸の連動に付いて指導いただきました。
動作は基本形の「大徒」(写真が無くて姿勢の説明が出来ません。すみません)を右向きの形から左向きの形に移る時、丹田呼吸を意識した動作です。

これまでは、その動作をする場合は呼吸法については、自然と独自に行っていたのですが今回は動作と呼吸を合わせていきます。
最初、右向きの形に構えます。構えたら息を吸い始めます。息を吸いながら四秒間かけて、身体を左向きの形に持っていきます。
身体が左向きになったら、今度はすぐに息を吐きながら四秒間かけて右向きに姿勢を変えます。
四秒間、吸うか吐くかの呼吸をしながら、その呼吸に合わせて、身体をそれぞれ左右に移動します。
この繰り返しです。
四秒間に慣れたら次第に五秒、六秒と時間を延ばしていきます。
呼吸の時間が延びるほど身体の動作は、それに比例してゆっくりになります。
太極拳みたいです!
左右それぞれ片道、六秒まで出来るようになったら、それを応用して左右往復で六秒に移ります。
そして次第に往復する秒数を延ばしていきます。
私たちの場合、初心者ですから六秒でも大変ですが、金先生は逆に長い時間の方がやり易く、短い時間の方がきついそうです。
それだけ鍛錬してある証拠のようです。

・・・金先生は四秒間の動きのリズムを取るために声をかけられます。
1・2・3・4、1・2・3・4、1・2・3・4、1・2・3・4・・・・・・
ところが私の場合、練習中に四秒間の呼吸と身体の移動が、なぜかピッタリ合いませんでした。
おかしいなぁ?・・・何でずれるんだろう?と思いながら、やっていました。

そして練習が終わる頃には、数分間の瞑想指導があります。
その時も丹田呼吸です。
その時に気付きました。
吸ってそして次に吐く、また吐いて吸う・・・その吸うと吐くの境の頂点の時に私の場合、約1~2秒間無意識に息を止めています。
先生の指導では、吸うと吐くの息を止めてる合間が無い指導でした。
それで分かりました。・・・だから合わないんだ。(笑
それぐらい何で練習時に気付かなかったんだろう。(爆

そのことについて金先生に確認したかったので練習終了後に個人質問しました。

金先生は自然体に任せなさいということでした。
自分の自然な呼吸がそうなら、それに合わせて動くことが理想のようです。
そうなると、一旦静止した姿勢を保つ、ということになります。
つまり次の動作に連動に移る時に、1~2秒は呼吸も動きも止める時間を作る必要があるようです。
しかし呼吸を止める呼吸法は、特殊な場合にはあるそうですが、吸ったらすぐに吐くのが普通だそうです。

呼吸と動作に関連して、内気功が目指す究極なことを教えて頂きました。
前回に書いたこととダブりますが、内気功の達人は日常生活が常に「瞑想状態」なのだそうです。
内気功は仏教で言えば「金剛界」を目指しているそうです。
身体も強靭であり、精神もいわば「瞑想状態」=「不動心」のようです。
「不動心」・・・憧れます。
たった一つの動作にもそれが可能だそうです。
それなら、たった一つの動作でも満足なので・・・極めたい!
しかしながら今の練習量じゃ無理です。(汗
金先生からあらためて内気功の、奥の深さを感じさせて頂きました。



[ 2007/07/10 19:05 ] 気 功 | TB(0) | CM(12)

「謙 虚」 高橋信次 

月に一度、GLA関西本部の月刊誌発行に合わせて、高橋信次先生の随筆をあげています。
興味が御座いましたら、ご覧下さい。
以下、GLA関西本部発行 2007.7月号月刊誌より転載


「謙 虚」

人は、ややもすると自分を過大評価しがちである。 
それも、自分が何で在り、何を為すべきかを悟っているならまだしも、地位、名誉、知識が人より優れているという理由からそのような偏見が生まれるとすれば、その人はなかなか悟ることは出来ない。
人の一生は、普通五十年、長くて百年である。
だが、本当の一生は、そんな短いものではない。
人の一生は、何億、何十億年の年輪を重ね、現在、ここに在るのである。
何億、何十億年の過去世は、潜在意識の中に沈み、容易に外には出てこない。
人はこうした過去をもって、ここに生きているのであるが、そうした長い年輪と、その短い現象界の一生とは、比べものにならないひらきがあるのである。
その短い一生の過程なかで得た知識、地位、名誉におぼれるとすれば、これほど浅薄にして、自己を偽るものはない。
今世の一生を点とすれば、過去世の生涯は線に相当する。
線と点を比較してみて欲しい。
・・・とすれば、今世で得た知識、名誉というものが、いかに頼りないものであり、夢のようなものであるかということを知るであろう。
正法の智慧は、線のなかに内在されている。
その智慧は現象界の知識が呼び水となることはあっても、知識そのものから生まれるものではないのである。
点のその一生を、謙虚に、素直に、正道にもとづいた想念と行為を重ねていくうちに、なかば、忽然と現れてくるものである。
自己を過大に評価し、知識や地位が自分の日常生活の習慣にしてしまっていると、こうした内在された智慧をひもとくカギを、自ら閉ざしていることになるのである。
さらにもっと具体的に、率直に言うならば、人の過去世は十人が十人、正道を学び、自分の血肉になっているかというと、必ずしもそうではないのである。
正道を学ばないのに、それにもとづく智慧も出てこないのも道理ではないか。
過去世に縁があり、今世もその縁につながったことは、何よりも大事にしなければならないが、しかし過去が分からず、実在界も知識の範囲しか知り得ないとすれば、まず現在の自分自身を、正直に、素直に見直すことが何よりも大切である。
自分の心に、誰もウソは言えないはずだし、そのウソの言えない自分に立ち返り、日常生活についても、謙虚になることが、悟りを早める導因となる。
己を知るには、まず何はさておき、謙虚な心から始まり、謙虚な心を持ち続けることである。
そうしてその謙虚な心の培養は、今をおいて、永遠にそのチャンスは訪れてこないということも知ってもらいたいものである。

以上。

―――――――――――――――――――――――――――

この「謙虚」は以前から何度も読んできた文章です。
謙虚とは、言うまでもありませんが、控えめでつつましいことです。
そして、へりくだって、すなおに相手の意見などを受け入れることですね。
どういう状況下であれ、自分を偉い者と思わず、すなおに他に学ぶ気持ちを常に持っていなければなりません。
自分の心の器を、今以上に大きくするには絶対条件のようですね。

「それでは謙虚になろう」と、態ばかり整えようとしても苦しくなり、無理が生じます。自分の内面で偽りの我を作り出します。これは避けなければなりません。
謙虚さは自分の内面から、自然に行為として出て来るのが理想だと思います。
そうすると相手に対する悪感情が湧くことは、なくなるでしょう。
怒り、ののしり、グチなどなど。または、へつらうこと。
もちろん、私は謙虚な人間ではありません。傲慢と増長慢の二刀使い手です!!(汗

それが自然に出来るためには、常日頃の相手への見方というか、・・・相手の姿を見るのではなく、相手の心に敬意を払っておくべきだ、と思っています。

心の姿を断層でいうと、表面意識と潜在意識で構成されているそうです。
潜在意識は守護霊が居る世界であり、「神」(God) に通じています。そう教えて頂いています。

そうすると、そこに着目しなくては、真に謙虚になれないように思います。私見ですが。

どのような悪事を犯している人間でも、God に通じる「心」は所有しています。

ヤクザ映画では、神棚を祀ってあります。
儀式の時や出陣の時に拝んでいるのを観たことがあります。
あの悪党のヤクザさえ、God の神ではありませんが、神に敬意を払っています。
(あくまでも映画の中のことです。本物のヤクザについて、ではありません。汗!)
一般家庭のなかに神棚を置いてある方もいらっしゃると思います。
その神棚に唾を吐きかける人はいないでしょう。

ということは、どのような人に対してでも、相手が所有している心に「神」が居る・・・と思ったら、人を粗末には出来ません。
もちろん、自分にも・・・です。
・・・ただし「神」に対する概念や価値観は人それぞれ、だと思いますが。

今月号が届いて、私はこれを読み返して自分の中でそれを確認していました。
自分の中で「謙虚さ」は、どうなんだろう?
日頃そのように心がけていても、真に心から、そう思えているのか?
無理に装っていないのか?
相手に対して、そう思えるのは、心に余裕があるときだけではないのか?
自分が苦しめられている時でも、そういう中でも自分は、そう在るのか?
・・・そういうことを考えていました。

>そうしてその謙虚な心の培養は、今をおいて、永遠にそのチャンスは訪れてこないということも知ってもらいたいものである。

今日出来なかったら、「明日があるさー」と開き直ることが大事な時もあります。
しかし「今」という時間は、二度と訪れては来ません。
これからも永遠に転生輪廻をかさねていきます。
私は「今しかない」という思いで「謙虚さ」に取り組んでいきたいと願っています。
また、そう思っている今の気持ちは忘れないでおきたいです。

タグ : 高橋信次:GLA誌より



[ 2007/07/12 14:11 ] 随 想 | TB(0) | CM(21)

「今月の課題」 2007.7 

GLA関西本部の指導者である本部長が執筆された
「今月の課題」(月刊誌の中から転載したもの)を月に一度、発刊にあわせて up しています。
何か、ちょっとした気付きの一助になれば、うれしいです。
いつも長文ですが、興味ございましたら、ご一読下さい。
読み逃げ、スルーは大歓迎です!(≧m≦)ぷっ 

2007年7月 「今月の課題」  本部長 岸田 守

春の研修会では、高橋信次先生がお示しくださったカルマの修正の一環として請願を決めて頂きましたが、やって頂いておりますか。
「貴方の幸せは」とたずねられたら、貴方はどのように答えるでしょうか。
お金を儲けること、結婚すること、出世すること、名誉を得ること、家族に苦労をかけないこと等々、例え願いが叶えられたとしても、達成された瞬間に目標を追い求める幸せがなくなってしまいます。
満足と幸せはちょっと違うということです。
ということは、常に心自体も止まっているわけではありませんから、どうしたら、どうなったら幸せかということよりも、どうしていることが幸せということに、生きる生き方そのものが幸せかどうかということではないでしょうか。
辛くても苦しくても、精いっぱい努力している時は充実感があります。
誰が評価するわけでもなく、むしろ格好悪い生き方であっても、誰かの為に一生懸命に尽くします。
壁があれば壁の向こう側にあるただ一つの道を信じて、ただ「今」を生きる。
そんな姿勢が幸せなのかもしれません。
自分の持っている能力、眠っている智慧を生涯を通じて自分自身の手で引き出し続けることこそが、幸せへの道ではないかと思われます。

例えば、仕事にしても家事にしても、与えられたものを自動的にこなすだけではストレスが溜まってきます。不平不満が出ます。
主体的に仕事ができうれば必ずプラスの仕事をするようになります。
そして、プラスアルファの仕事をすれば自身が湧いてきて、日常の風合いも明るく生き生きして幸福感を味わえるのではないでしょうか。
主体的に何かに取り組もうとする時は、必ずや心の奥より湧きいずる意思、願いが立っているのではないでしょうか。
例えば、「一週間でやりなさい。」と言われたら、三日間で仕上げる。
「明日中にやってください。」と言われたら、今日中に仕上げて、明日の朝一番に見せるようにする。
表を作るように頼まれればグラフも作ってみる。
「おかずは三品でよい。」と言われたら、工夫してもう一品付け加える。
そういう進め方をしていく内に、仕事も家事もこれまでになく充実感を味わえるのではないでしょうか。
このように、仕事に対する取り組み方には、将棋に例えれば「指し手人間」「駒人間」のおおよそ二つのタイプに分かれるようです。
「指し手人間」は、自分の考え方や方針を持ち、自分の意思と判断で行動し、その行動の結果に対して責任を持ちます。
「駒人間」は、自分からは動かない将棋の駒のように全くの受け身です。
人の指示がなければ何もしない、いわゆる、指示待ち人間です。
”自分の仕事は大変だ””おもしろくもない”と不平不満ばかり言っていても何も解決しません。
それは、現状を改善しようとする本来の魂のやり方や智慧を眠らせているだけです。
やる気、意思を立てれば必ず幾つかのやり方にトライし、問題が生じても壁を乗り越えていけるのではないでしょうか。

カルマの修正にしろ伝道にせよ、何か事を為し遂げようとする時は、
「こうありたい」「こうしたい」という強い願いを持つことが出発点になるのではないでしょうか。
願いが行動を起こし、積極さを幅広くします。
願わずして事が成ることもまた、大海に乗り出すようなものと言えるのではないでしょうか。
また、志とは人から与えられるものでもありません。
自分の内側から夢や理想とともに弾け出してくるものです。
そして、一心不乱に脇目もふらず志した方向に向かってひたすら突き進んでいく道筋に、事は成就するのではないかと言われます。

ただ、時として自分の将来のことで、どうしたらよいのかわからないで気持ちが重く沈んでしまうこともあります。
会社での担当の仕事が思うように成果が上がらず、もう辞めたいと思うほどストレスに悩まされている人もあります。
リストラや定年で、経済的に生活をどう維持していったらよいのかも分からず、生きる力も絶え、暗い毎日を送っている人もあるかも知れません。
生涯の夢や希望が閉ざされる時、誰もが生ける屍のように空しい日々を送らざるを得ません。
考える力も創造しようとする力も動いてこず、時には自暴自棄になってイライラすることも多くありがちです。
そんな時こそ自分に返り、自分の心を見つめなければなりません。
そして、自分の心に問いかける祈りが必要なのではないでしょうか。
夜空を眺め、星々の輝きに心を傾けるのも良いかも知れません。
道端の草花に自然の営みを感じるのも良いかも知れません。
自分に呼吸を合わせ、自然に溶け込む気持ちがいいでしょう。
そして、神に大自然に「自分が苦しいのは、何を失いどういうことを恐れているのか」
「そうなったら本当に生きていけないのか」
「自分はどう生きたいと願っているのか」
「自分の魂は何を願って生まれてきたのか」と一人祈らざるを得ません。
自我がどんなに抵抗しようが、自我を崩さなければ道は開けてこないようになっているのかも知れません。
折角築いた富も財産も地位も、安定しているように思っていた人間関係も、周りの評価もことごとく喪失してしまうかも知れません。
落ちぶれ果て、親しかった友人も親戚の人も、そうして家族さえも自分を憐れみ相手にしなくなるかも知れません。
それでもその道を選ばざるを得なくなったら、それこそ魂の自然の道行きかも知れません。
その時、苦しくても本当に幸せを実感します。
『神、我と共にいませり。我、神と共にいませり。』

六月二十四日の高橋信次先生『感謝と誓いの式典』を機として、GLA関西本部は大きく変わっていくつもりです。
皆様、頑張ってください。

以上。
長文をご覧いただきまして、ありがとうございます。

―――――――――――――――――――――

>仕事に対する取り組み方には、将棋に例えれば「指し手人間」「駒人間」

私の仕事では、大学生がアシスタントとして働いて頂いております。
勤務前の新任研修時に、上記に関しては最初に必ず触れている内容です。
将棋に例えての話し、ではありませんが。

新任研では、まず
「仕事は楽しくあるべきです。」
「楽しいとは、仕事に対して自分の発想が生かされることでもあります。能動的に取り組みましょう。」
「仕事をさせられている、という考えは捨てましょう。」
「これまであなた方が学んできたことを自由に最大限に生かしてください。」
「しかし自己流だけではいけません。こちらにはシステムが構築されているので、それに従って仕事をします。」
「その中で自分独自の個性、色を作っていきましょう。」
・・・などなど。こういうことは、どこの職場でも同じかと思います。

ところが自分の心の内面をじっくりと見つめる作業は、仕事と違って必ずうまくいくとは限りません。
過去の出来事に対する反省(止観)一つにしても、楽しいというより、おっくうになることがあります。
これは自分自身、反省の功徳による内面的な深い、深遠な喜びを知らないためでもあります。
それを知っていたら苦もなく自ら進んで行うだろうと思います。まだまだ止観が浅い証拠です。(汗
関西本部が勧めている「生命の輝きへの道」については、最近、自分の中でちょっとした新しい気付きがありました。そういうことがあり、今まで以上にすすんで、やらせて頂いております。

>それでもその道を選ばざるを得なくなったら、それこそ魂の自然の道行きかも知れません。
>その時、苦しくても本当に幸せを実感します。

逆境に置かれた時に、自分の真価が現れてくるのでしょう。
今世の宿命として、自分がそのようにプログラムしているのであれば避けることは出来ません。
苦しくても本当に幸せを実感・・・魂修行の一環として、喜んで受けられるとすれば、とても素晴らしいことです。
それは一つのカルマを克服した、真の勇者の姿なのでしょうね。



[ 2007/07/17 21:21 ] 随 想 | TB(0) | CM(27)

「羅刹と捨て身の王」 高橋信次 

今回、引用させて頂きます文章は、月刊 「GLA」 誌の前身であります、
「ひかり」 誌(昭和45年12月1日 5号)からです。
以下その内容をご紹介いたします。

―――――――――――――――――――――――――――

【信心と信仰】
人は生命を投げ出したとき、光をみる、永遠の我にかえる――。
素直な心こそ、信心信仰への道であり、今も昔もかわらぬ宇宙の神理は、いまなお人びとの心のなかに、いつまでも、どこにいても、辛抱づよく、あなたを待ちつづけています。
高橋信次先生が過日、八起ビルで講演された羅刹(らさつ)と王の物語りは、信仰の真髄にふれ、きく者の胸をうちます。
以下は、その要旨です。

「羅刹と捨て身の王」 高橋信次

(神理のための献身)
印度の頃、あるタージャンという王と、その家族が神理正法を知ろうとして日夜、神に祈っておりました。
天上界の天使達はそのことをずっと前から知っていました。
そこで、それほど当人たちが正法を知りたいなら教えようということになり、まず、王様の心をその前にためすことになりました。
ある時、天使は羅刹(人を食う鬼)となってタージャンの前に姿を現わし
「私はお前達に法を説くことができる、お前達はいつも神理をききたいといっていた。希望があるなら話してきかせる・・・・・・」
「しかし、話をきかせる前に、お前達の肉体の生血を吸わなければ神理を説くことはできぬ。どうだ、わしのいうことをきくか・・・・・・」
というと、スンダイという王子が、どうぞ私の肉体を食べて下さいといい、わきにいた王子の母親も
「それによって貴方が本当に、心の教えを教えて下さるのなら私の肉体はいりません」
と身を投げ出しました。
王子と王様の妻は羅刹にアッという間に食べられてしまいました。
王様のタージャンは、
「私は肉体をもって神理を知りたいのです。今貴方に肉体を供養するのはやすい。しかし供養してしまえば私は永久にその神理を知ることが出来ない。あの世に帰って神理を知っても時間がかかります。せめて肉体のあるうちに、その神理をきかせて下さい」
と真剣にたのみました。
羅刹はその鋭い目でタージャンの双眸をじいっとみていました。
牙を向けて、今にも王様に襲いかかろうとしている羅刹の形相は、それはそれはこの世のものとも思えぬ恐ろしいものでした。
ところが、どうしたわけかその羅刹がいつの間にか美しい天女にかわり、今食べたスンダイとその母を、王の前に、もとの姿で生きかえらせると慈愛に満ちたそのまなざしで、静かにいうのでした。
「お前達の命を捨てて、神理を聞こうとする心根は分かった。お前達に神理をきかせるからきくがよい。」と。
「人間は皆、神の子。肉体というものは何時の日か地上界に置いてゆかなくてはならぬ、お前達の肉体を支配しているものは、お前達の心であり、その心こそ偉大なる神、仏に通じており、心のない人間というものはあり得ないのだ。心を知ることは、神を知ることであり、己自身を知ることである。お前達は神の子であり、この地上に安らぎと調和を与えるべく努力しなさい。金があるなしによって人をわけへだてしてはいけない。お前達は一国の主だ。公平な政治と心の尊厳を人々に教えなさい」
天女は、このような意味のことを伝えると、サッと姿を消してしまいました。

(己に謙虚、人には寛容)
信仰とはこうしたものです。
神理を知るためには、己自身がどのように罵られ、迫害をうけ、刀で腕を切られようとも、魂の尊厳と心を知れば少しも苦になりません。
魂は永遠不滅であり、それは、心に死というものがないからであります。
正法神理を己のものとするには、またこれだけの覚悟と献身がなければ、本当は得ることができません。
神だ仏だと口ではいい、いかにも信仰があるようにみせても、それが私利私欲につながっているようでは問題にならないのです。
信心というものは、己自身の心の中にあるのです。
ウソのつけぬ心の中に・・・・・・。
勤行といって、朝夕場所を決めて拝んだり祈ったりする習慣があるようですが、私達の住んでいるところは神の体であり、大神殿であり、何時どこにいても、自分がその気になりさえすれば、その心は天に通ずるものです。
肉体という舟に乗りますと、人間はどうしても五官や六根に動かされます。間違いを犯します。
しかし間違いは、間違いで改めるに、はばかることなかれです。
人間だから反省をする。悩みのない人生、苦しみのない神理への到達は絶対にあり得ません。
悩み、苦しみ、己自身が探求という反省の機会があるからこそ、前進があるのです。
信心というものは、そうしたなかにあって神だ、仏だ、と口でいうような、そんな生やさしいものでは決してありません。
己自身に謙虚に、人にたいしては寛容に、そうして、そうした中に、本当の人間としての価値を見出すことを知っていただきたいと思います。

以上

―――――――――――――――――――――――――――――

随分以前に初めてこの文章を眼にした時、何度も何度も繰り返し読みました。
王様そして妻子、もし自分だったら「道」を求めていても、そんな勇気があるのだろうか?などと、問いながら。

ただの物語ですが、この物語と信次先生の解説には、含蓄が多くあり、何度読んでも冒頭に書かれてありますように心は震えます。
妖怪が出てきて命を犠牲にしてまで、というのは現実的な話ではありませんが、そうまでして「道」を求める姿に感服いたしました。
何も実行できていない私(汗)ですが、今世は簡単に本を通して、知識として神理を知ることが出来ました。

ところが「神理は行為しなければ、ただの知識だけでは何の役にも立たない」と聞いています。
死後に持ち帰るのは今世、生きていた時の想念や行ったことのみであり、それが魂に刻まれるようです。

次の転生時には、前世からの魂に記録されたものが、良いも悪い含めてカルマとして、ある意味では持って生まれた自分の性格としても湧出するようです。
前世で知り得た神理の知識(神理以外の知識も)は、多くは奥に潜在されたままのようです。
そう簡単には湧出しないようです。
勇気ある実践と努力の結果、智慧として心の内面から出て来るとは聞いています。
もし、90%の潜在意識が多く湧現(大悟)できるのであれば、今世で何も学ばなくても知識は溢れ、この世で起きる心的事象のほとんどが理解・解明できると思います!

この物語では王様家族が神理を求めています。
今、深く心がそれを求めているということは、王様家族の前世では、やはりそれを求め、神理の素晴らしさを知識と共に体得しているから・・・のはずです。

しかし王様家族の今世では、命に代えても価値あるものと熱望されていますが、知識として王様達の心の中から神理が湧出していません。
天使から知識として、それを教えられています。

・・・・・・おこがましいことですが、では、これを自分に当てはめると、今の私から、その知り得た知識を差し引いたら何が残るんだろう?
それを考えると自分の魂修行の少なさにちょっと、ぞっとします。

というのも、ずっと先のことですが(笑)自分が死んだ後、地獄の住民にならない限りは(爆)、時間をおいて、いずれ何処かの土地に、何処かの時代に転生をしていきます。
その時代がもし、末法(釈迦とかイエス・キリスト、モーゼの生まれ変わり、或いは高橋信次先生のように大悟した者がいない時代)であれば、こんな私が「道」を求めても、教えて頂かない限り、自分の内面から湧く神理の会得は無理でしょう。

この物語りは私にとっては、知識のみではなく少しでも行為として刻み込まなくてはいけないんだ、と常々思わせて頂く、発憤材料!を今回取り上げさせて頂きました。

長文をご覧いただきまして、ありがとうございました。

タグ : 高橋信次:GLA誌より



[ 2007/07/20 20:09 ] 随 想 | TB(0) | CM(30)

お盆の起源 

来月は、お盆を迎えます。
私の家の宗派は浄土宗です。家系は代々続いており、毎年のお盆には、今となっては少ない家族でお坊さんを呼んで、ささやかな、お盆を迎えています。

ちょっとしたお盆の思い出です。
私が小さい頃は提灯を飾り、線香とソウロク、精進料理を仏壇にあげ、そして親戚たちが大勢集って、派手にワイワイ言いながら皆で酒、食事をとっていました。
その頃は親、親戚、お坊さんの話により、死んだ後は魂が三つに分かれて仏壇とお墓、また檀家のお寺に住することになる、と教えられていました。(汗
納骨堂や檀家寺は、とても陰気です。
その話を聞くたびに嫌な気分でした。(笑

ところで毎年のお盆とか、年忌供養になると必ず訪ねて来る、祖父の姉だけは、とても怖かったです。
明治時代生まれの人は頑固というか、気骨者で厳しいですね。
物心ついた頃から中学生になった頃まで、例えば、ちょとした食事の仕方のマナーの悪さなどでも、いつも兄弟の中で、私だけ叱られていました。(爆
子の躾がなっていない、ということで、ついでに親まで皆の前で一緒に叱られていました。(汗
その時は、座敷全体が一瞬シーンとした嫌な空気に変わります。
程なくして、また親戚中でワイワイ・ガヤガヤです。(笑
長男なので、家を継ぐ私に対して、しっかりしてもらいたい、末永く実家が安泰であることを願ってのことでした。

13日の初日の夕方には毎年、お盆の準備がありました。
その準備で忙しいのに、まとわりついて邪魔な小学生の私に、父親は、
「そこにあるリヤカーを引いて、納骨堂まで先祖を迎えに行ってこい!
先祖が何人も乗って、重くなるけん気をつけんば!」
と、いわれていました。 (汗

リヤカーを引くのは慣れているからいいけど、ただでさえ気色悪い納骨堂に夕方、一人で行くなんて・・・。グズグズしていると、
「すぐに暗くなって、がばい、えすかぞ(とても怖いぞ)!早ぅ、行かんかい!」 

もちろん、冗談で父親が言っていたことです。(爆
その父親は既に鬼籍に入っています。私が父親を納骨堂へ迎えに行くことはありませんが。(笑 

家族、親戚が集まって先祖の仏壇、お墓にお参りするのが慣わしなので、お盆は、ただそういう形で供養するものだと思っていました。
今ではキリスト教会でも、お盆の時には特別にミサをしているようです。

ここからは、お盆の起源を紹介いたします。
いつも通りに長くなるので読み逃げ、スルーは大歓迎です!(≧m≦)ぷっ 

以下、高橋信次先生の著書から読んでみます。

子孫と先祖のつながり、これを大事にするために、現在の私達が、一定の季節を定め、先祖への感謝を表現する行為。それもよいことであろう。
しかし、本当のお盆の意味はこうなのである。
今を去る二千五百有余年前、ゴーダマ・ブッタが三十八歳のときのできごとであった。

――――――――――――――――――――

※注)
当時の小国、マガダ国(インドでも、現バングラデシュの西に近いあたり)のガンジス川の支流、ネランジャラ川付近にあったベル・ベナー(竹林精舎)に、ゴーダマ・ブッタ(お釈迦様)が住している時、ウパテッサ(舎利佛)とコリータ(大目蓮)が同時にブッタに帰依しました。そのコリータに関するお話です。
コリータは、ブッタの法をしっかりと心に受けとめ、生まれた時から現在までの、思ってきたことと行ってきたことの一つひとつを思い出して、法に重ねて反省を続けて、これまでの心の曇りを除いていきました。結果、コリータはその後、帰依して一週間目にして心の窓(霊道)を開き、アラハン(阿羅漢)の境地を得ることができました。
その通力は天上界と地獄界をも見通す能力を持つことができ「天眼」の第一人者となりました。

最初に天眼を使ったのは母親に対してでした。その時のできごとです。
著書に戻ります。

――――――――――――――――――――

コリータは、ふと今は亡き母のことを思い出した。
人情の常として、他界した母親は、現在どんな世界で生活しているのだろうと、彼もまた思うのだった。
彼は、眼を閉じ、母を念じた。
すると、母の生前の顔が、くっきりと眼前に浮かんできた。
「おや・・・・・・母がいる。一人寂しそうにして、こちらを見ている。何を欲しがっているのだろう」
コリータは自分の目を疑いながら、しかし、薄暗いところに立っている母をみつめていた。
場所は、コリータの家の近くのような感じだった。
母は明らかに水を欲しがっている様子だった。
そこで、コリータは、その場を立って、托鉢の鉢の中に水を入れ、母親に差し出した。
ところがどうだろう、水のいっぱい入った鉢を母親の口元まで持っていくと、どういうわけか、水が火になってしまうのだった。
コリータは何度も繰り返した。
そしてなんとか母に水を与えたいと思ったが、どうしても火に包まれてしまった。
コリータは、この疑問が解けなかった。
そこで彼は、ブッタに自分の体験を話し、そのわけをたずねた。

するとブッタは、
「コリータよ、心眼が開かれておめでとう、よく精進を続けてくれた。
ところで、そなたの母は、生前、バラモン種(カースト制度)の出身で多くの信者から布施をいただきながら、他人に対して奉仕の心も行為もなく、自我が強く、虚栄心に満ちていた。
母親の世界は火炎地獄である」
と、コリータの目を見つめながら静かに言った。

コリータは愕然となった。
しばらくは驚きと形状しがたい気持ちにおそわれ、言葉がなかった。
ややあって、ブッタに聞いた。
「では母を救うにはどうしたらよいのでしょう。
肉体をいただいた母です。
せめて、そのご恩返しに、母を火炎地獄から救ってあげたいと思います。
母を救うためには私はどんな苦しみにも耐えます。お教え下さい」

コリータの母は性格が強く、死をいやがり、阿修羅(アスラー)のような形相で死んでいった。
このことはコリータ自身、いちばんよく知っているだけに、余計に母親の不幸を感じた。
今ではブッタの弟子となり、親子の縁は前世の約束によって結ばれていると聞いているので、救えるものなら救ってやりたいと、思うのだった。

「コリータよ、母は母の生命であり、お前の生命はお前自身のものだ。
お前は母から肉体をいただいたが、しかし、魂は別であることを知ることが大事だ。
ガンガー(ガンジス川)には舟が浮かんでいる。しかし舟の持ち主は皆ちがう。
それと同じように、船頭である心は別々なのだ」

「肉体はもらっても魂は別だというのですか」

「その通りだ。肉体は人生を渡る舟にしかすぎない。
魂は永遠不滅、変わることのないもの。
その魂は人生の一切の体験を持って肉体舟から降り、体験の内容に応じた世界に帰って行くというのが、法の掟というものだ」

母が地獄に堕ちた原因は、ほかならぬ母の心と行いが間違っていたからだと、コリータは理解した。
「ブッタ、ではどのように供養したらよいのでしょうか」

「そなたの母は、この現象界で罪をつくり、その罪に応じた世界に行き、償うことになる。
そうして罪の償いが終わるまでその場所にとどまり、心の曇りが晴れた時、光明の世界に昇天することになろう」

「一切の責任は自分自身にあるということですね」

「その通りだ。肉体をいただいた母への恩返しは、母がやらなかった人びとへの布施(奉仕)を一年を通して、三日ぐらいはやってあげなさい。
そして、母が何故、地獄に堕ちたか、よく教えてやることが大事なことだ。
自分の心と行いについて、正しい基準を忘れ、五官のみに心がとらわれ、煩悩のままに人生を送った者は、その者達の心に合った世界に住することになる。
因縁因果、すべて自分自身がつくり出すものだ。
この世を縁としてつくり出した罪であるから、残った者達が、よく正しい法を得、実践してから道を説き聞かせたならば、地獄の者達はその理解を早めることになろう。
コリータよ、法を依りどころとして、精進するがよかろう」

コリータは、自己の確立をなくして、母親を救う道のないことを心に銘記するのだった。
そればかりか、こうしてブッタにお会いできたのも、もとはといえば母から肉体をいただいたからであり、母に対する供養こそ、地上における最大の恩返しと思った。

「コリータよ、亡き母の供養は、心を正した生活をし、体を健康にして、一日一日を明るく生活することである。
さらに、ブッタの法を供養することは、地獄に堕ち苦悩する者達の心の糧ともなるものだ」

ブッタの説法を、コリータ以外の弟子達もいつの間にか集まって来て聴いていた。
そして、自己の確立こそ、先祖への最大の供養であるということを悟って行くのであった。

ところで、今日、我が国で盂蘭盆会(うらぼんえ)といって、七月十三日から十五日の三日間、いわゆる、お盆の日と定め、地獄、餓鬼界に堕ちた近親者を供養する風習が残っている。
そのいわれ因縁は、この時のコリータの母親の供養の話が根拠になっている。
しかし今日のお盆供養は、仏壇に供え物を上げ、経をあげる形式と化し、ブッタが説いた先祖供養の精神は形骸化されてしまった。
本当の先祖供養は、既述のように、残された者達が健康で明るく、正道に照らした生活にあるわけである。
その意味は、意識界における地獄界は苦悩に満ち、その苦悩から逃れるため、絶えず現象界の近親者に救いを求めている。
誰しも見ず知らずの者に金の無心や苦痛をやわらげて欲しいという人は少ないだろう。
身近の人に寄ってくるものだ。
また、彼等の心は現象界でつくり出した暗黒の世界だから、どうしても現象界に眼を向けることになる。
地獄は四次元の世界である。
現象界の三次元の世界からは四次元は見えないが、四次元からは三次元が見えてしまう。
家庭が明るい時は、その明るさに自分の暗さが理解され、反省の大きな材料になってくる。
ところが、家庭が暗く、憎しみや愚痴、怒りでおおわれていると、その家庭に安住することが出来、人びとの意識に入りこみ、地獄界の苦痛をやわらげようとする。
憑依をうけた家庭は混乱した魂の数が増えるのだから、ますます混乱の波紋を広げて行く。
人に憑依した地獄霊は生前の罪ばかりか、憑依して現象界の人の心を混乱させるのだから、二重の罪を背負うことになる。
地獄霊はこうしてますます救い難い状況となり、現象界もまた混乱を重ねて行く。
この世とあの世の関係は、人の心を通して常に同通し、この世が混乱すればあの世が騒がしくなり、この世が平和になればあの世も静まってくる。
つまり、先祖を本当に供養するにはまず家庭内が明るくなり、先祖の霊に反省の光を送ることにある。
また、家庭が明るくなることによって地獄界の霊人達の数も減り、現象界に影響を及ぼす度合いも少なくなってくる。
現象界の仏国土・ユートピアは、こうして実現の駒を進めることが出来るが、現象界の人びとが五官六根の煩悩にふり回され、自己保存(自分さえ良ければいい、という想い)に流されている間は、先祖供養どころではないわけである。
仏壇に食べ物を供えても、地獄霊は食べることは出来ない。
むずかしい経文を読誦(どくじゅ)しても、これを理解することも出来ない。出来ないから地獄に堕ちているわけである。
先祖供養は地獄霊を昇天させることにあるのだから、それには子孫である家庭が、ブッタの説かれる正道に適った生活を送り、彼等に反省の光を与えることにある。
お盆の三日間の供養のいわれは、人びとは、仕事や家庭や雑務に追われ、真に人に奉仕するという時が少ないので、一年を通じて、せめて三日間だけでも恵まれぬ人びとに奉仕をしなさい、というのである。

以上

かなりの長文をご覧いただきまして、お疲れ様でした!
そして、ありがとうございました。

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[ 2007/07/26 21:23 ] 随 想 | TB(0) | CM(20)

ゆき(BlogPet) 

きょうは、ふみえママは牽制された!
それでゆきうさぎがマンゴプリンと日常生活とか反応した?
それで質量が守護するはずだったの。

*このエントリは、ブログペットの「ゆきうさぎ」が書きました。

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[ 2007/07/27 14:35 ] others | TB(0) | CM(23)
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