「正法と業」 高橋信次 

月に一度、GLA関西本部の月刊誌発行に合わせて、高橋信次先生のことばをあげています。
月刊誌を転載したこの記事をご覧頂いた皆様に、ほんの少しでも何かの糧になるのであれば、ただ嬉しいだけです。今回も興味がございましたら、一読されて下さい。 
読み逃げ・スルーは大歓迎でーす!!(≧m≦)ぷっ

以下、GLA関西本部発行 2008.4月号月刊誌より転載


「正法と業」

奈良の大仏、鎌倉の大仏はどうして作られたかというと、大仏の製作者が仏の姿を夢で見るとか、あの世の天使に教えられ、仏の心は宇宙大に広がっている、ということを知って、ああした仏像を手がけるようになったと言える。
人の心というものが調和されてくると、もう一人の自分、つまり、肉体という原子細胞と一緒に生活している光子体が大きくなっていく。後光(※いわゆるオーラとは異質のもの)というのは、光子体のことであり、この分野が心の調和に比例して拡大されていくのである。
正法(しょうほう)を知って生活している人々の後光は、まず頭の周辺がボーッと明るく出てくる。仏像の多くは頭部の背後に丸く円を描いた姿で作られているが、ああいうようになってくる。
さらに調和が進み、心と生活が正法に適ってくると、後光の範囲は頭部だけではなく、体全体に広がるようになる。
後光の姿はこれで終わりかというとそうではなく、過去、現在の転生輪廻を知り、その転生の過程の中で神理を知った生活をし、広い心で多くの人々を救ってきた人の後光は、もっと大きくなってくる。
さらに生命の転生輪廻の事実を知り、生と死を解脱した光の大指導霊の後光は宇宙大の大きさになっている。
光の天使、菩薩、如来の後光は、こうした心の広さが光子体に反映し、光子体が拡大されていくわけである。心の広さは、心に曇りがあるかないか、そうして転生輪廻の過程の中で正法神理を実践してきたかどうか、現在の調和度はどうか、こうしたものがミックスされて現われてくるものである。
宇宙即我(うちゅうそくわれ)の心の境地になった人を如来(にょらい)と呼んでいる。
如来というのは中国で作られた言葉である。文字通り、来るが如し、ということであり、大自然の神理、人間の心、法というものについて詳(つまび)らかにし、人間の生活の在り方を説き来る人たちをいうのである。
また「悟り」という言葉もある。これも中国から来ている。
この語は実にうまく出来ており、りっしんべんは心であり、吾は自分を指す。二つが組み合わさって悟ると読むが、悟りとは我が心を知ることである。
心を本当に理解できると、人間は不生不滅(ふしょうふめつ)、不垢不浄(ふくふじょう)を知り、生死を超えることができてくる。
さて、仏教も正法として説かれた時代は短く、僅か千年ぐらいであったろう。いろいろな言葉に訳されるにしたがって形骸化され、日本に来た時分にはいつの間にやら他力本願になってしまった。
現代宗教家の多くは、貧乏し病気をしていると「あなたの前世は業(カルマ)が深いから貧乏している」「前世で悪いことをしたから病気をする」という説明が返ってくるようだ。
そこで私はききたいのだが、生まれるときに金を持ってきたか、死ぬときに地位や財産を持っていけるか、生まれたときも裸なら、死ぬときも裸である。金が有る無しは、人間のこの世における知恵が生み出したもので、前世の業とは関係がないといえよう。
金持ちに生まれる、貧乏人に生まれるというのは、自分があの世で選んでくるのである。業が深い浅いではない。
前世の業は、あの世においてある程度修正しなければこの世に出ることは出来ない。地獄の霊がこの世に(赤ちゃんとして肉体を持って)出ようと思っても、それはできない相談である。悪事や業というものは、まずあの世でみっちりそれを修正し、そうして、その修正した事柄を現世で修正できたかどうか自らが試していくのである。
そのため、仮に前世で貧乏をして(その貧乏により)心を狭くし、それに負けた場合は再び貧乏の環境を選ぶ場合がある。反対に裕福な家庭に生まれ、わがままや増長慢に陥った者は、もう一度裕福な家庭に育ち、そうならないよう自らの心を磨いていく者もある。
これは業というより、業の修正が本当に出来たかどうかを試す意味でそうした環境を選ぶのである。また、人間の価値というものも、金持ち、貧乏ということで決められるものでもないのである。金が有る無いの条件は、己の心がそうした条件に振り回されず、調和の心を維持し、進んで自分の心をより広げていく魂修行の一手段に過ぎない。
病気の原因は前世の業というより、今世における我執や無理な体力の消耗がそうさせるもので、後天的なものである。先天的な障害者や子供の病気は両親の不調和から起きると言えよう。
意識に記憶された業はあの世で100パーセント修正されるかというと、そういうわけにはいかない。人それぞれのあの世での修正の度合いによって、ある人は60パーセント、ある人は80パーセント、95パーセント修正できた人も出てくる。したがって、修正の度合いによって、この世では過去世、前世の業に強く引かれる者と、そうでない人もあると言える。この意味では前世の業と言えるかも知れない。
しかし、前世の業がそのまま結果となって出てくれば、人類はもうとうの昔に滅び去っている。何となれば悪を犯さぬ者は一人もいないからである。
さて、このように考えてくると経済的に恵まれなくとも、心まで貧しくしてはならないし、恵まれた人は多くの病める人たちに愛の手をさしのべることが大事であると言えよう。
今日の人々の心は、足ることを知らぬ欲望に振り回され、自分を失っていると言える。人生の目的を自覚し、大自然が教える中道(ちゅうどう)の心を知るならば、足ることを知った生活、つまりは神の子の自分を自覚するならば、欲望、我執に翻弄される無意味さを悟ることができよう。
足ることは我慢ではない、あきらめでもない。神の子の己を自覚した想念と行為を意味するのだ。与えられた環境、仕事に対しては全力を挙げてこれに当たる。それは欲望に燃えてそうするのではなく、調和に役立つために当たるのである。
商人は利を求めるが、利を求めるなとは正法は決して言っていない。大事なことは求めて得た利益をどう処分するか、自分だけのことに使うか、家族や従業員に分け与えるか、不幸な人たちに愛の手を差し出すか。足ることの知らない人たちは自分が中心であり、人のことなど構わない。大気汚染や河川の汚れは企業エゴイズムがそうさせたものであり、経済の歯車はこうした企業エゴを中心に動いてきたので、今日ここから脱皮しようにも身動きできないというのが現状である。自分だけのことを考えれば、やがてその因果は自分にはね返ってくる。
足ることの生活環境は、仏国土という相互扶助、愛に満ちた世界なのだ。そうしてそうした世界に住するようになれば、人の心はさらにより広く、大きく進化させることが出来よう。
仏教の言葉に諸法無我(しょほうむが)というのがある。諸法とは、大宇宙、小宇宙(たとえば人体)を動かし、秩序を保っているところの神理のこと。一切のものはすべて循環という法の下(もと)にある。循環という秩序である。無我とは、これは意思が無いというのではなく、自分勝手の自分ではなく、公平無私な中道ということなのだ。法に欲望や自分があったら法にならない。法とは公平無私な規範であり、万物を生かす秩序である。太陽の熱・光に好き嫌いの感情があったらどうなるだろう。一切の生物は生きてはいけない。
諸法無我――つまり、森羅万象は中道に沿って生かされ生きているのである。私たちの心も諸法無我に沿って生きなければならない。中道から外れれば、外れた分だけ苦しまねばならない。五官六根(が全てだと思いそれに)に頼った生活、あるいは無我というから、自分を無くした生活をすればよいと考えたら大変である。意思のない法、秩序というものはないのである。法として存在する以上は、必ずその底には意思があり、意思が働いているから秩序正しき法が存在するのである。
その意思は中道という片寄らない神の心、公平にして無私なる心、万物を生かし、己の心を宇宙大に広げた心であるのだ。
心の安らぎは、こうした中道に向かった反省と修正した行為によって、自然に培われていくものである。

(注) この稿は、志賀高原 熊の湯での研修会における講演の要旨である。
〔1973年10月の月刊GLAに掲載分〕


以上

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長文をご覧いただいて、ありがとうございました。


ところで、こちらは
白色がまぶしく!見えた花でした。



P1000220.jpg

実家の畑に咲いていたエンドウ豆の花です。




P1000224.jpg

こちらの花は通勤途中の道路脇に咲いていました。
この花の名前は知りません。野草ではないはず。笑!
きっと誰かが植えたんだね。

タグ : 高橋信次:GLA誌より



[ 2008/04/04 18:05 ] 随 想 | TB(0) | コメント(-)

約束(BlogPet) 

きのうはプリンケン♪と天気へ反応するつもりだった。
それできょうゆきうさぎが小学生約束された!

*このエントリは、ブログペットの「ゆきうさぎ」が書きました。

タグ : MyBlogPetEntries



[ 2008/04/06 07:32 ] others | TB(0) | コメント(-)

内気功日記 17 入門式! 

今日の内気功は一年前と同じく、毎週練習している室内ではなくて久留米市営の百年公園で屋外練習でした。
練習後は昨年と同じく、お弁当を皆さんと公園で頂きました。
昨年は地元テレビ局の取材撮影があり緊張しましたが、今回は幼稚園の遠足の親御さん達から珍しいのか、練習を観察されました。またまた少しばかり緊張。笑!

いつの間にか内気功を始めて、はや一年を過ぎました。
一年という節目として今日は同じ一年の数名の方と共に「入門式」もありました。
入門式というのは内気功の門をたたいて、門の中へやっと一歩踏み入った状態、とのことでした。
まだ、入門していなかった・・・ということ。汗!
内気功の世界の段階は厳しい。笑!





金鶏


先週、いつも練習をしている室内で先生の奥様から写して頂いた、静功「金鶏」のポーズです。
それを入門式の記念に一枚、頂きました。
この写真、シャツは汗だらけ。笑!  
色あせではありません! 練習するといつもこんな感じの大量の汗。寒い真冬でも・・・。
床に汗がピタピタ落ちます。で、その都度落ちた汗をダスキンで床を拭いています。笑!
夏は半端な汗の量ではありません。

入門式のとき、この写真を他の皆さんにも見て頂いて、恥ずかしいやら嬉しいやら。
これを頂くときに先生は、「この写真には『気』を感じます!」
というようなことを言われました。まっ、それならいいけど。笑





認定証


こちらは認定証です。
なんて書いてあるんだろう?笑
見開きの一冊の台紙の左側に上の写真、右側にこの認定証を貼り付けて頂き、さらに写真の縁取りとカワイイ花の絵まで先生の奥さんが手書きされてあります。



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しばらくは、ブログでお付き合いして頂いている皆様の所へ訪問できません。m(_ _)m
ですのでコメント欄は閉じさせて頂いております。
ご覧頂いて、ありがとうございました。





P1000218.jpg


先日、飛行機から降りて、ちょっと経って空を見上げたところ、飛行機雲が綺麗で正確にクロス状に交わっていました。
珍しくも何ともありませんが。笑!
しかも完全な逆光。爆!



テーマ : 内気功 - ジャンル : 心と身体



[ 2008/04/15 19:51 ] 気 功 | TB(0) | コメント(-)

心の断面図 

P1000221.jpg

これはGLA関西本部の岸田先生から頂いたものです。
貴重なものですから、とても大事にしています。結構大きいです。
福岡支部集会を久留米地区でするときには持ち出して会場に張っています。
高橋信次先生の講演のビデオには必ずこれが映っています。
関西本部講堂の壇上正面のカーテンの奥は鏡になっています。その鏡に同じ図が描かれています。
拝む対象物の本尊がもしあるとすれば、「自分が所有している心」がそれだと思います。
一番遠くて、最も近くにあるもの。神の世界に一番近い場所が自分の心なのでしょう。
私はなぜ、もっとその心のなかに入ろうとしないんだろう。もったいない。

私が瞑想するときには必ずこれを壁に張り出しています。
瞑想に入る時は、それを時々眺めながら静かに心を鎮めます。

ところで、高橋信次先生は心の姿を物理的に、そこにあるが如く霊視することができる非常に稀な方だったようです。
それを平面図として描かれたのがこの図です。心が最も調和されている時の状態の図です。
立体的な形では、ちょうど風船玉を膨らませたような形だそうです。
その色はシャボン玉を膨らませたときに表面に浮かぶ模様があります。それを想像してください・・・。
私の記憶に間違いなければ、そのようなことを講演ビデオで言ってありました。

自分の中ではこの図は、少しばかり腑に落ちるものがあります。
以前にも書いていますが、初めて岸田先生とお会いした頃です。
ある時、ちょうど自分の胸辺りに、それと似たようなものが感覚として見えました。
あくまでも感覚です。感覚って、どう説明したらいいのだろう?
その時の感覚を感じたときを後で思い出して振り返ってみると・・・なのですが
それを思い出すときはなぜか、自分の目線ではなく、自分を斜め上の上空の角度から自分を見ています。
そして夢みたいに、あるはずの無いものが、そこにあるっていう感覚です。一瞬、夢の世界に入った感じかな。
もちろん、人と対話していたので、その時はちゃんとしっかり意識はありました。
だからその図を見ると少しばかりですが、なるほどと思えます。
私が感じたのは、色は白色でした。形はお盆みたいに平面な円形。
直径は自分の胴から少しはみ出している大きさでした。その時の自分の心は波動が精妙だったことを覚えています。

高橋信次先生は、心に関して常に講演で仰っていることがあります。
心は一念三千。自由にどこへでも向かうことが出来る心。
一秒一秒の想うこと、行うこと。自分の心が今どこを向いているかをつかんでいなくては物理的(見えませんので物理的というのは変ですが)に、心に歪ができて、その歪んだ分を自分が苦悩を抱え込んでしまうようです。
そうなると心から発する波動は荒く感じます。
それは五官(眼・耳・鼻・舌・身)が自分中心な思いに左右されてしまうとそうなるようです。

それを思うと確かに人間は地獄の心を持つことも出来るし、天の心も持つことが出来ます。
天使は地獄の心を持つことは出来ません。逆に地獄の住民は天の心を忘れています。
人間界は中間の位置にいるので、どっちにでもつけます。
ということは、その選択の自由を神様は許しているんだね。厳しい自己責任!の上で。

そして全てには波動があるそうです。
心の奥底、つまり潜在された神の世界から発する波動は、とても精妙だそうです。
それが心の物理的な構造の表面意識に伝わるにつれて荒くなります。五官の肉体に達する位置では荒くなるそうです。
つまり物質の波動は荒く出来ているからです。心が歪んでたらよけいに荒くなるそうです。

私もその波動が荒くくる体験はあります。
私の中では瞑想の目的の一つはそこにあります。
心から発する波動と体の発する波動。体から発する波動を心から発する波動に調和させる目的です。
まだまだ、つかんでいないことばかりですが瞑想を重ねるうちに気付きがあるかもしれないと、そんな自分に期待しています。

今、苦しみがあるとすれば、心の機能のどこかが膨らんでいたり、どこかが小さくなり五官にも左右されてバランスが崩れているはずです。
心の機能については、いつか時間があるときに絶版著書の「反省のかなめ」から少しばかり紹介させて頂きます。

こんなことを書いているのも、ちょっとしばらくの間、忙しさもあってか瞑想から離れていました。
これは私自身の体験ですが、瞑想を常に継続することによって、少しばかり心の平安を感じることができました。
瞑想をいつもやっていた頃は、至福感が何度となく湧くことがありました。
たとえば車を運転中に胸の辺りから温かなものが流れてきて体が熱くなり、今、生かされて生きているということ・・・一時なのですが、運転中に心が平安だということの不思議な幸福感。
そしてそのことへの感謝の想いに涙が出て来て、その感謝の想いをどこに向けたらいいんだろう?
と、考えていたことを懐かしく思います。
そんなに前のことではなく、ほんの数ヵ月前程度なのに・・・。

あることに直面して、私にとっては大事なことが思うように進まずに、ある方に対して自分の苦しい歪んだ意味不明な思いを、思いっきり当てて大きな迷惑をかけてしまいました。
自分をほんの一時、失っていました。心が、感情が、浮きだって地に足がついていませんでした。じっくりそれを振り返って、そのことを通して後で、いろいろと自分の悪いクセを気付かせて頂きました。
そして以前のように少しでも精妙な心を取り戻したい。
それがきっかけで、そんな気付き・・・を与えてくれたその友は本当に心から有難いと思いました。自分は迷惑をかけたくせに。。。
でもその結果、勝手ながら、お蔭様で精神的な面では一歩だけ階段を上がらせて頂いた感じがしています。失敗しないと分からない自分が恥ずかしい。

自分本来の進むべき方向に向かうためには、神様、守護霊様の協力がなければ・・・これは自分の力だけでは到底、進めないものがあります。
そして自分の心が精妙ではなく荒かったならば、そばに来て頂いて導いてもらえない。
神様に心から祈り、自分流の瞑想を通して、自分の進むべき道を開きたい。
そのためには自分の内面をしっかりと、これまで以上に見つめたい。
もちろん神頼みばかりではなく、現実的に自分の出来ることはやります。


最近の自分の想いでした。
これを読んで頂いた方。ごめんなさい。私のひとりごとです。



P1000147.jpg

竹のようにしっかり根を張って、真っすぐに、上に伸びたい。。。




タグ : 岸田守本部長



[ 2008/04/17 21:23 ] 随 想 | TB(0) | コメント(-)

ウォーキング大会! 

小学5年生になる娘と二人で、先日の19日、土曜日の午前中はウオーキング大会に参加してきました。
今回で二度目の参加です。

第11回久留米つつじマーチ

暑くもなく寒くもなくで、ちょうどいい天気。
歩きながら、すがすがしい春を満喫できました。

去年は娘と二人で5kmコースを歩いたので、今回は10kmコースです。
スタートからゴールまで二時間ちょっとで到着。
スタート会場に着いたのが、ちょっと遅かったので後尾列辺りに並んでスタートしました。
しばらく歩いている途中で娘は、先頭列で歩きたい!というものだから、人をかき分けて!何度か、走りまくりました。
でも結果、先頭には追いつけませんでした。汗!

コース途中の2・3ヶ所では休憩所が設けられあります。
そこでは無料振る舞いのお味噌汁をいただいて、少し疲れを飛ばして再度、ウオーキング。

ゴールに着いた頃は、二時間も歩いたり走ったり・・・で、足の裏と股関節が痛いぃ。。。
普段は歩かないので、かなり疲れました。
今朝辺りは、私の足がこわっているかも、と思っていましたが全然大丈夫。笑!

来年は20kmコースに参加したいと娘が言っています。
今回の倍の距離の20kmコース・・・
時間にしたら4~5時間は歩き通しになるかも。汗!
その次は40kmコースに挑戦してみたいと言っています。
40km・・・爆!
私はそんなには、歩けません。

娘が好きなこと。それは、ピアノとかけっこ。
学校でも同級生の女の子同士の中では、わりと足が速い方のようです。
とにかく走るのが好きな娘です。休日に娘と二人で近所の公園で遊ぶ時には必ず、かけっこの競争をさせられます。
でもまだまだ、100mから200mの距離では私の方が足が早い。( ̄ー ̄) ニヤリ
娘は、みんなより早く走りたい!ということなので、市が運営している陸上競技の練習教室に定期的に通わせています。
この日はウオーキング大会終了後、ウオーキング大会会場の隣にある陸上競技場に2時から始まる、かけっこの練習教室に娘を連れて行きました。
そこでも歩き疲れが何ともないのか、二時間の練習では、走る走る。笑!


ウオーキング大会途中、携帯で撮った数枚の写真です。


P1000222.jpg

古い神社の境内に咲いていました。



P1000234.jpg

この花は何だろう?わかりません。とってもかわいい!



P1000223.jpg

河原の野に咲いていたアザミ。



P1000232.jpg

街路樹のハナミズキ。



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P1000227.jpg

娘です!

P1000229.jpg

豪快な木の姿です。日に照らされて、まぶしいクルメツツジの赤でした。


P1000237.jpg

どれもこれも、クルメツツジがとっても綺麗でした。

下手な写真をご覧頂きまして、ありがとうございました。




テーマ : げんき&げんき情報 - ジャンル : 心と身体

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[ 2008/04/21 12:29 ] 随 想 | TB(0) | コメント(-)

反 省 

ゴーダマ・ブッダ(お釈迦様)が指導していた瞑想(禅定)に付いて、高橋信次先生の講演から聞いたり高橋信次先生の本で読んだことも含めて、自分がやっていることを書いてみます。

瞑想には、瞑想に入る深さにより段階があるそうです。
第一段階から第九段階まで。
第一段階は、反省です。
第二段階は、反省後の心を鎮める、心の統一です。
第三段階は、守護霊・指導霊との交流がはじまり、
第四段階で、守護霊・指導霊との対話になるそうです。

このような区別は、反省を重ねて、心の曇りを払い、日常生活に反省の結果、智慧と勇気と努力で改めることを行うことによって理解されてくるそうです。
その後、第五、第六、第七(結果どうなるのか詳細は知りません)と上にあがって行くそうですが第六段階まで行く人はかなり限られてくるそうです。
第八段階は如来の瞑想であり、座していながら外界の動きが手に取るように分かってくるそうです。第九段階は、お釈迦様レベルの瞑想だそうです。
この段階は過去世の修行を多く積み、神と直接交流できた人のみの境地だとか・・・。だから余人は近づけない。
過去世の修行により、また今世で徳を積むことによっては第六段階までは上がられるそうです。

以前に書いたものと重複していますが、第一段階の反省の瞑想方法です。
反省の瞑想は瞼を軽く閉じ、瞼の中の眼は真っすぐ前方を見つめます。
瞼を閉じると大抵はねむけを催し、反省が思うようにいきません。そうならないために中の眼は前方を見つめるようにします。意識をしっかり定めるためです。
どうしても反省に集中できないという場合は、瞼を軽くあけて、座している少し前方に視点を定めて反省するようにしたら、ねむけは解消できます。
で、慣れてきたら再び眼を閉じて、瞑想の反省に入っていきます。

正道にもとづいた反省をしている時は、守護・指導霊が近くに来ており、本人を守っているので魔の入る隙はないそうです。

第一段階の反省もせずに、いきなり雑念を払う瞑想の習慣が身につくと、心がゆがんだままである場合は、無念無想の心がカラッポになったときに、それに比例した霊に憑依されることがあるそうです。時には動物霊に憑依されて狐狸(やこ)禅状態になることもあるとか・・・。
心がゆがんだまま、ただ座禅をすれば悟れるということで瞑想の行を積むうちに魔に犯され、精神分裂や肉体的な欠陥に悩む者がでてくるのは、そのためだそうです。
心のゆがみは「意」である自分の意思、考え方や思い方が五官(眼・耳・鼻・舌・身)に基づいて偏りがあるからおこってしまいます。
苦しみや悲しみの原因は、すべてこうした心のひずみがつくっていきます。
心が丸く豊かであれば、心は安らぎ、不動の自分を見出すことが出来るそうです。

人格を形成する心と行為の問題も、反省を通じてつちかわれ、安らぎある自分を見つけることが出来ると思います。
反省は、必ずしも瞑想でのみばかりではなく、いつ、どこにいても、トイレとか風呂場でも散歩しながらでも可能です。
そして夜、寝る前とか朝起きた時の布団の中で・・・。仕事の合間に。
ただ、瞑想による反省というのは反省の中身をより深くし、充実したものになるとあります。
私は瞑想の姿勢で反省する、というよりも普通に事務イスに座って、腕組みしてやることが多いです。笑!
瞑想の姿勢で反省する場合は、「まとめ」 にはいる場合などです。そして反省したことに対して自問自答したり、何か判断がつかないときには自分の内面に疑問を投げかけます。

人によっては静かに瞑想して反省することより、雑踏の中の方が集中できる人もあると思います。学校に通っている頃の家庭学習と同じです。静かな一人部屋で勉強をするよりも、ヘッドフォンをつけて軽い音楽を聴きながらとか、お茶の間でテレビをつけた状態でやった方が勉強に効果がある人もいます。自分のペースが一番です。

そして反省が進み、反省の結果を行為として現していくと、瞑想の境地がさらに進んでいくそうです。そうなると守護霊との対話が可能となってくるようです。
瞑想三昧の境涯、というのは瞑想の極致を指すそうですが無念無想となって気持ちのよい状態をいうのではないそうです。無念無想は危険極まりない心の空白を意味し、いつ他界者が自分の意識に侵入してくるかわからない。
ですから瞑想中でも自分を失ってはならないと言ってあります。


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ところで、昨年の11月初旬ごろ、内観道場の一日体験をしてきました。
それについて少しばかり書いてみたいと思います。
内観道場は少しは存じていましたが、ほとんど何の前知識もなく、最初に予約のために訪ねました。そこで行われる内観(=反省のことです)は、しっかりした複雑なプログラムがあるとばかり予想していました。
ところが、とても、しっかりした!シンプルな方法です。
以下リンク先に道場で頂いた冊子を紹介しております。

悩みの解決法 「内観のすすめ」 

上記ご覧いただけると、お分かりになられると思います。
ただ、ただ、三つの観点で過去の自分と対人関係、出来事をふりかえります。ただ、それだけ。

1. していただいたこと
2. してさしあげたこと
3. 迷惑をかけたこと

最近の私が反省する場合は、この内観法で行っています。冒頭、第一段階の反省です。
というか、内観法を知る前の自分が書いた過去の反省ノートを見ると、その観点でもやっていました。しかし改めてこの内観法の実績を知ったことで、自信!をもって、その反省方法に取り組めます。

この冊子を基にして私なりの内観をすると、なのですが・・・
(注: もちろん私は内観がしっかり出来ている人間ではありません。笑!)
ここで、あえて一つ注意することは、過去をふりかえる内観では、自分とか当時の場面を思い出すときに 「意識」 して客観視しないことです。
(日常の新しい出来事に遭遇!する一瞬一瞬の自分を意識的に客観視することは大切です)
結果的に、自分は自分のことを 「客観的に観ることができた」 という自覚、思えることがここでは大事ではないのかなーと感じます。
つまり客観的に自分を見ようとするところに、すでにその時点で、頭のてっぺんで反省を考えていることにもなります。
もちろん頭を使いますが、内観法は頭で判断するものとはちょっと違います。過去の出来事を思い出した分だけを当時の自分の感情を抜いて三つの観点で、ただ眺めるだけ。何かを意識して考えることなどはありません。調べたその結果、自分で深い気付きが出てきます。
感謝の心とか、とっても申し訳ない気持ちとかが、ジーンと熱い涙と共に胸から湧いてきます。
こういう反省体験は、なにも 「瞑想による反省」 とか「内観法」という、かしこまった!態度ではなくても、誰しも経験があることかと思います。
内観(=反省)は、そういう想いを自分から能動的に取り入れる方法!でもあります。

反省は云うまでもなく心を浄化するために事の原因と結果を探り、悔い改めること。原因の根を捨てることです。それは自分のクセとか根性・・・つまり 「己を知る」 ということにつながります。また感謝の心を育むことでもあろうかと思います。

ただし、内観法では上記、瞑想の第二段階の反省後の心を鎮める、心の統一以降については教えていません。第一段階のみです。
内観法は宗教色!!抜き、です!

それにしても、相手に対して迷惑をかけたことが、どれだけ多いか改めて感じさせられます。
それは、わがままで自己中心的な自分。なかなか、これが直らない。汗!
「していただいたこと」 に対して、ありがたみを覚えなかったこと、たくさんあります。
してもらって当然だ、と思う心。それは義務だろ、という思いには、感謝の心が芽生える余地はありません。
自分が無償の気持ちで 「してさしあげたこと」 または奉仕の行為が如何に少ないか・・・。

内観道場に訪ねて来る人には、トラウマなどを抱えた、うつ病の方もあります。
過去の出来事が苦しくて精神的に病になっている人に 「反省」 させたら、ふつうは、よけいひどくなると考えてしまいます。
ところが内観法の三つの観点で過去の出来事をふりかえると、うつ病が治ってしまいます。
しかしながら、うつ病の方がこの冊子を読んで、あるいは身内の方がこの冊子だけで内観法を指導されたら非常に危険が伴います。うつ病の方は自分で独自に内観するよりも内観道場に行かれることを私は勧めます。

長文をご覧頂きまして、ありがとうございました。


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P1000242.jpg


私の職場で、かわいがっている!ハエトリ草です。
若い葉は刺激を受けたら閉じるタイミングが早い!葉が古くなると閉じるのが遅くなります。笑!
中央に小さな丸い蕾が少しだけ見えています。
去年は食虫植物とは思えない!白い可愛い花を咲かせました。
今年も花が楽しみです。
私は小学生の頃、刺激で動く草を知って不思議感で興味がありました。オジギソウとかもね。




タグ : 吉本伊信氏の内観法



[ 2008/04/23 21:33 ] 瞑 想 | TB(0) | コメント(-)
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