秋の空とトラック 

天を高く感じれる秋空は、いつ仰いでも気持ちがいいものですね!

秋の空とトラック




エノコログサ

この草たちも、ずいぶん秋色になってきています。




ここからは以前に書きました、「般若心経のまとめ」の続きです。
とても長くなりますので、ご関心がおありの方だけ、お付き合いください。
スルー、斜め読み、大歓迎!!です。

以下、紹介させて頂くために転載しております。

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仏説摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 
度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 
空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 
無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽 
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 
以無所得故 菩提薩 依般若波羅蜜多故 
心無礙 無礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 
究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 
即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 
菩提薩婆訶 般若心経 

(※以上、般若心経全文)



摩訶般若波羅蜜多心経

摩訶(まか)とは古代インド語のマーハーの音訳である。マーハーとは、偉大なとか、大いなるの尊称の意味に使われている。
仏弟子である目連(もくれん)のことをモンガラアナーといったが、天眼(てんがん)が優れていることと、同一の姓が多かったため、大目連、つまりマーハー・モンガラアナーと尊称していわれた。
またゴーダマ・シタルダーの義母を弟子たちはマーハー・パジャパティーと呼んでいた。

般若(はんにゃ)とは、仏智のことである。魂の転生輪廻の過程において体験し、学んで得たいわば智慧の極点であって、その極点が意識の中に記録されているのである。

人の一生は五十年、百年ではない。何億、何十億もの人生経験を経て、現在ある。その経験から学び取った智慧が意識のかなに収まっている。
それ故に、無為徒食(むいとしょく)した者に、そうした意識が収まるわけがない。最善をつくし、その一生を努力と奉仕のなかにあった者の善知識が記録されているのである。
医学を学ばないで医術を施すことはできないのと同じように、意識の記録は、現象界で学んだこと、経験して得た人生の正道が収められているのである。
もちろん、それだけではない。私たちの人生は、この世だけではなく、実はあの世もある。あの世でも修行があるのである。
あの世の修行は長い。千年、二千年である。ただこの現象界の利点は、玉石混淆(ぎょくせきこんこう)の世界だけに、数多くのことを、同時的に学び得ることができる。
したがってあの世の十年は、この世の一年で足りよう。
何れにせよ、そうした人生経験から得た知識、善知識が意識のなかに記録されている。
人生の記録だから正道に反した想念と行為についても記録される。それだけに、それが業(かるま)となって同じところを行きつ戻りつする魂も出てくるわけだ。
人間の意識には表面意識(ひょうめんいしき)と潜在意識(せんざいいしき)がある。過去世の記録は潜在意識のなかにかくされている。
偉大な発明発見が、最善の努力を重ねているうちに、思わぬ結果となって生まれてくる。
新しいアイデア、あるいは人生の危機を回避できた発想というものは、ほとんどが、潜在意識の作用によるものである。
般若の智慧は、こうしたものも含めて、いわば最高最智の智慧であり、その仏智は、正道を悟ることによって、潜在意識と表面意識が調和されたときに生じてくるものである。
般若の智慧については後で詳述する。

次に、波羅蜜多(はらみった)であるが、これはバラモン教典のパラミターがその原語である。
パラ(波羅)とは到着するという意味であり、ミター(蜜多)とは、この場合智慧ともいい、通常は彼岸という風に解釈している。
二千五百有余年前のインド、それも中インドでは蜂蜜は貴重品であった。蜂蜜は栄養価も高く、容易に口にすることができなかった。そのため仏陀は説法の際に、蜂蜜を例にとって、波羅蜜多の説明をしたのである。
すなわち、智慧とは蜜の一杯つまった最も栄養価の高い至上のものであり、これを得るには正道にそった生活行為しかないということを説いたのである。
このように彼岸は智慧の宝庫を指しているわけです。
「彼岸」がある以上「此岸」がある。此岸とは業生の世界であり、彼岸とは業生を解脱した悟りの境涯(きょうがい)をいう。
ところで、バラモンの経典はイグヴェダー、ウパニシャドを中心として成り立っている。
バラモン教は長い歴史を持っており、その発生は約四千余年の昔にさかのぼる。バラモンの教えはエジプトから伝わり、インドで教典化された。
一万二千年前のアトランテス時代のアガシャーより伝えられて、のちエジプトで神理が説かれたのは今から約四千二百年ほど前にさかのぼる。クレオ・パローターやアモンという人々が説いたものである。モーゼより以前である。
バラモン教典の中身はそれだけに神理が書かれており、観自在菩薩(かんじざいぼさつ)についても触れている。
本来、バラモン教は、クレオ・パローターが説いたその神理を教典としているのだから、教典そのものには過ちが少ないが、月日が経つにしたがって形骸化(けいがいか)され、階級制度がバラモン教を支配するようになってしまった。
仏教が二千五百有余年後の今日、哲学となり、学問になった。僧侶の世界はいつしか階級制度が採られ、檀家や寺院を維持するための職業と化している。しかし、仏典の中身は、この般若心経にしても仏陀の説法が説かれているのであり、間違いは少ないのである。
ただ、古代インド語が漢文になり、その漢文も音訳が多いために、漢字の意味と事実との間のかなりの隔(へだ)たりがあって、ますますその真意が解らなくなってしまったことは否定できない。
ともかく、こういうように、バラモンの教典そのものは、神理を説いているが、今日の仏教と同様な経過を辿(たど)っていったのである。

心経(しんぎょう)とは、文字通り、心の経である。経とは梵語のストラーを翻訳(ほんやく)したもの。その意味は心の核、つまり核心(かくしん)ということになろうが、心という言葉ほど掴(つか)み難く、それでいて今日、これほど簡単に使われているものも少ないようである。
吾人はよく心の調和を口にするが、それだけに現世の人間関係は不調和であり、それを願う気持ちが大きいといえる。
しかしながら、心の実体、実相というものを知らずして、それを願うことは不可能ではないだろうか。
では、いったい心とは何だろうか。心とはどういう機能を持って私たちを動かしているのだろう。心経で教える心とは何を意味するのだろう。
一口にいって、それは永遠に変わることのない魂の中心が心なのである。
結論を急げば、心とは、人間と宇宙を貫く同一の意識である。
同一の意識とは、万生万物を生かし続けているところの大自然の偉大な叡智(えいち)、慈悲、愛の意識である。
言葉をかえれば、それは私たちの心の中に内在されている仏智であり、心経は、心の極点であるその仏智を教えているものである。
こういうと、いかにもむずかしく、ますますその意味を解しかねる向きもあると思うが、要は赤子のような素直な感情と、それでいて、何もかも見通せる能力と、泉の如く湧き出でる無限の大智識を内に包んだ状態であるといえる。

魂の存在を否定する人が多くなっている。
理由は死後の生活が解らないということと、科学の発達が未知な分野を解明してきているからだ。
しかし、死後の生活が解らないから否定する、科学がナゾ解きをしてくれるから、魂がないと、どうしていえるだろう。
死者がよみがえって、生きている人と談笑した例は、枚挙にいとまがない。
私などは、霊的には、年がら年中、死者と話している。だから、死者の霊というものは存在し、あの世で生活していると、声を大にしていえるのである。しかし人は、なかなか信じてはくれない。そこで、いろいろ例を挙げて説明するが、それでも信じない人がいる。
こういう人は不幸な人である。あの世を信じられない人は、どうしても、この世の常識での枠内でしか、ものを見る目を養われないからである。
霊媒者(れいばいしゃ)は世界各地に散在している。霊媒とは、あの世の霊が霊媒者の意識と肉体を借りて、ものを語ったり、物品を移動したり、念写をしたりする人のことである。
物理的には到底考えられないことが、霊媒を通すと、それができるのである。その状況は奇術か手品に似ている。ところが奇術や手品は、チャンとした仕掛けがある。その仕掛けをおぼえれば誰にでもできる。が、霊媒現象はそうはいかないのだ。万事、あちらまかせだからである。しかし、そうした非物理的(この世から見た場合に)なことが可能であるという事実は、三次元以外の次元のちがった世界が存在し、その世界からの働きがあるからできるということがいえるのである。
霊媒者の背後には、必ず、一人ないしは数人の霊人が立っている。次元の低い霊媒者には、動物霊が姿を見せている。そうして、こうした背後の霊が、灰皿を空中に浮かしたり、本人が語れないようなことを語ったり、念写を実現させている。現実にまったく無いものを生み出す物質化現象については、霊媒者の意識が高くないとできないものだ。物質化現象は、ある意味では物品移動に相違いないが、他の天体の物質を、地球の物質に変え、現わすことだってできるのであり、こうしたことは低次元の霊にはできないことだ。物品移動は、家のなかである物を、A点からB点に移動させる、家の中から百メートル離れたある地点に移動させることである。こういうことは動物霊でもよくやるのである。
何れにしても、こうしたことは、三次元的物の見方では考えられないことであろう。しかし、こうした実験は、アメリカ、イギリス、フランス、インド、日本でも、霊媒と称する人を通して行われている。
問題は、こうしたことができても、その客観的説明になると、現在の科学ではまだそれは不可能に近く、霊媒者という特殊(本来そうではないが)な人でないとできないところにあるようだ。
しかし、だからといって、あの世に霊が存在しないといい切れるものではないのである。
アインシュタインの相対性原理以前の宇宙像は、宇宙は二つの異なった要素、つまり物質とエネルギーをいれる容器であるというものであった。
ところがアインシュタインは、質量とエネルギーは同等であり、物質はエネルギーの集中したものであるとみたのである。物質が質量を持たずに光速で走っていれば、それを幅射とか、エネルギーと呼ぶことができようし、反対にエネルギーが凝結して別の形をとれば、これを物質と呼べるようになったのである。この理論によって、光、熱、音、運動などについても同様にエネルギーと呼ばれるようになった。
物質とエネルギーはこのように同一の要素からできているが、同時に、エネルギーそのものは永遠にして不滅なのである。よく引き合いに出すが、水の性質がこれを最もよく物語っている。
氷も、水も、ともに物質であり、前者は固体として、後者は液体として人間の視覚にはっきりとらえられる。ところが熱粒子にあたためられると、氷や水はやがて、気体となって蒸発してしまう。目に見えなくなってしまう。しかし蒸発した水が無くなったかというとそうではなく、天空高く舞い上がった目に見えない水滴は、天空で冷やされ、雨や雪となって落ちてくる。つまり、地球上の水の質量は、こうした循環をくりかえしながらも、決して、減ることも、増えることもないのである。
一切の物質は、このように時にはエネルギーとして空中に存在し、そうして、さまざまな条件の組み合わせによって、動、植、鉱の物質として生まれ変わっている。
こうみてくると、物質とエネルギーは形を変えた不滅(ふめつ)の連続体としてとらえることができるであろう。連続体とはつながっていることを意味している。
アインシュタインは、天空に広がる大宇宙を、時間と空間とからなる四次元の世界として、これをながめている。
物質の実像は、四次元にあって、はじめて、実在性を伴うとしている。
たしかに、大宇宙を三次元の主観的な空間としてとらえるだけでは、明滅する星の距離も判らず、客観的な実在性も伴っては来ない。ただ、空間に、物が、在る、ということにすぎない。そこで、これに一つの次元の時間を加えることによって銀河系は、はじめて、その全貌を現わすことができよう。すなわち、秒速五万六千キロの早さで、無限の彼方に遠ざかる巨大な星雲、五億光年も離れた島宇宙のきらめきをキャッチする望遠鏡にしても、時間という測定単位が加わることによって、宇宙の生命、星雲の実体というものが認識されてこよう。
物が運動するとは、時の経過を意味している。時間のない運動はあり得ない訳である。その意味では、時間は、物体が点から点に移る連続体として、これをとらえることもできよう。
私たちの肉体と意識についても、さきほどの物質とエネルギーとしてみることができるし、人間がこの地上に存在するということは、そのこと自体、そのまま、四次元の世界を形成しているということがいえる。過去、未来という時の流れのない人間がもしあるとすれば、それは死した化石にすぎないといえるだろう。
何れにせよ、私たちが、現在、肉体を持って、地上に存在するということは、存在する以前に自分があったであろうし、肉体は死しても、エネルギーは不滅の法則通り、自分自身は、なおも存在し続けるものである。人間以外の他の物質が、エネルギーにとってかわって時間の流れにそって、永遠に生き続けるというのに、人間だけが、「死して灰(※なんにもなくなる)になる」ということはあり得ないではないか。
人の存在はそのまま四次元を形成し得ることは、実は、重大な意味を持っている。
四次元がある以上は、五次、六次元もあるわけであり、そうした連続体の中に、人は呼吸し続けている。この点については、後でまた詳述したい。
ここで述べたいことは、肉体と意識、肉体と魂が次元を異にしながらも、同時に存続し、肉体が大気に還元される(死ぬ)時には、人の魂はその肉体から抜け出し、なおも行き続けているということである。
現代の科学が、人間の死後の生活や魂の存在を認めようとしているのに、その一方では科学がこれを否定してくれると思われているところに、問題がある。科学者は科学する心を広めれば広めるほど、生命の驚異(きょうい)に畏敬(いけい)の念をいだく。これを逆にいえば科学を学ばない人ほど、生命を軽んじるようである。
魂の存在は、以上の簡単な説明でも容易に理解されると思う。
魂は、肉体舟をあやつるところの、己の意識である。個性を持った意識である。したがって、その魂は千差万別であり、成仏する魂もあれば、迷える魂も出てくるわけである。
そうして、その魂を魂として機能化させているものが心なのである。心は、魂の中心にあって、魂を永遠に生かし続けているものである。心経とは、その心の教えなのである。


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以上、転載でした。

かなり長くなり、ご迷惑おかけしました。
もし、お忙しいなかを訪問して頂いて、しかも丁寧にご覧頂いた方がありましたなら、お礼申し上げたく思います。そして、ご覧頂いた方の何かの糧、気付きになっていただいたとすれば、私としては冊子を転載、紹介できて嬉しいです。

ところで、この冊子によると、これ以降は般若心経の経文の具体的な解説に入ります。
まず具体的に、ことばを説明する前に、ここでは、重要な全文の大意を述べられてあります。そういう主旨からすると、これを何度かに分けるよりもまとめて転載しました。

信次先生は神の世界を見聞されて、神の存在から見た人間。その人間としての在り方、生きる道。この世とあの世の仕組みを講演ではよく話されます。しかも誰が聞いても解りやすいような理論と実証をともなってのお話しです。一般におられる霊能者とは、その辺からすでに大きく違います。


次回からはできるだけ分けて転載いたします。
・・・といいながら、結局長くなるんだよね。爆!

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紫色の花

実家の庭に咲いている紫色の、なんだか、ひょろひょろ(笑)している花。

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル : 心と身体

タグ : GLA誌に連載:般若心経解説



[ 2008/11/05 16:24 ] 随 想 | TB(0) | CM(10)

秋の夜桜 

夜の秋桜です。まだまだ頑張って綺麗に咲いています♪

夜のコスモス

↑↑拡大しては見ないでね。かなりピントがずれております。爆!
夜だから仕方ありません。(という、いいわけ。汗)



前記事、「般若心経のまとめ」の続きです。今回からその本文に入ります。
以下、紹介させて頂きます。転載です。


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観自在菩薩(かんじざいぼさつ) 行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはんにゃはらみったじ) 
照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう) 度一切苦厄(どいっさいくやく) 
舎利子(しゃりし) 
 

この意味は、一般の立場からみると、その行(生活行為)が深まっていくと、五蘊(ごうん=色、受、想、行、識)は皆空なり、と観ぜられ、一切の苦厄から離れることができる。即ち、波羅蜜多(はらみった=彼岸)の般若(はんにゃ=無限の智慧)、観自在菩薩の境涯に至ることができる、ということになる。
観自在(かんじざい)という言葉は、ヴェダーやウパニシャドの経典に「アポロキティ・シュバラー」として載っており、その意味は、過去、現在、未来の三世を自在に見ることのできる超能力のことである。
ところで、ここでいっている観自在菩薩は、仏陀を脳裏に描きながら、仏陀を指していっているのである。このため、その解釈は、大分ちがってくるのである。
仏陀が、般若の智慧をもって行じる(法話する)時は、五蘊(五官六根)に迷う衆生は、その迷いからさめ光明世界(皆空)に、第一歩(度一切苦厄)を印することができた、ということになるのである。

さて、行深般若波羅蜜多について考えてみよう。
いったい般若の智慧とは、どうすれば得られるか、深く行ずるといって、何をどう行ずればよいのか、と誰しも疑問をもたれるであろう。
ふつう「行」というと、厳しい肉体行を考えてしまう。二千五百余年前のインドでも、肉体をいじめることによって、悟れると考えられた。バラモンも、ヨガも、拝火教にしても、必ず、厳しい肉体行がついて回った。
釈迦の弟子のなかにも、色情の心を絶つために肉体の一部を切り落とした者もいたほどであった。
しかし、肉体の一部を切り落としても、その想念が色情に包まれていれば、意味がない。肉体は悟りの大事な因子であり、これが損なわれれば精神も不健康になってくる。
肉体と精神というものは、現象界にある間は、不可分の関係にあって、どちらも大事にしなければならない。
もちろん、正道を知って、自分の意思なり肉体を試す意味での肉体行は、決して悪いことではない。
しかし、正道を知らずして、肉体遠離(にくたいおんり)の考えだけで、悟れると思ったら、大間違いである。行者の末路が尋常でないのも、正道を知らずして空観(くうかん)のみを求めるために、魔に浸(おか)されるからである。
「行」とは、生活である。調和をめざした生活行為を「行」というのである。
大自然は調和されている。そうして永遠の調和をめざして、春夏秋冬の「行」を行じている。
正道は、こうした大自然の「行」を教典として成り立っており、生活行為を離れては「行」は存在しないのである。

弦の音は、強くしめれば糸は切れ
弦の音は、弱くては音色が悪い
弦の音は、中ほどに締めて音色がよい
弦の音に 合わせて踊れ 踊れや踊れ

この唄を耳にしたとき、ゴーダマ・シッタルダー(釈迦)は、過去六年の肉体行に決別した。
中道こそ、人の道であり、自然に即した生き方である、と悟ったのである。
この唄をきいてから、ゴーダマは生臭い牛乳も口にした。これをみた五人のクシャトリヤは、ゴーダマは「行」を捨てたといって離れてゆく。
しかしゴーダマは、その信ずるところにしたがって、その後は、栄養になるものは、何でも口にした。そうして、骨と皮とになった肉体の回復をはかっていった。

中道とは、調和であり、右にも、左にも偏らない想念と行為である。すなわち、正しい想念行為(八正道)が、弦の音色をよくすることを知ったのである。
このように中道の精神は、肉体と精神、あの世とこの世についてもいえるのであり、五官六根に執着した肉体保存のみの考え方では、人間は悟れないのである。勿論、あの世については、普通はわからない。しかし、肉体と精神というものが個々バラバラには存在していないし、両者のバランスのとれた状態が、もっとも気分を爽快にし、能率を高めるとは、誰しも経験するところであり、そうしたバランスのとれた状態を続けることによって、やがて、その奥にかくされた、あの世とこの世の関係というものが、明らかにされてくるのである。
観自在の心は、こうした正道に適った生活、反省による日常生活のバランスと執着を絶つことが大きな前提としていることを、ここではいっているのである。
ここで執着について考えてみると、大抵の人は、執着を絶てば、人間は生きていけない、と思っているようだ。
ところが、生きる、ということと、執着とは、次元の異なった想念なのである。
執着とは、とらわれであり、生きるとは、調和なのである。
とらわれるとは、これは俺のものだ、俺はこれこれのことをした、あの子は私のものだ、金がすべてだ、地位が高ければ肩身が広い、といった想念である。
こうした想念が自分を支配してしまうと、その自由な心を自分がしばってしまい、苦しみが始まる。腹を痛めた子がそばにいないと悲しいし、地位が低いと肩身が狭く感じてくる。
自分の心を大きくし、安らぎのあるものにするには、こうした執着を絶たねば、いつになっても心の重荷は取れないし、悟ることはできないのである。

では、生きるためにはどうすればいいか。この地上の目的は調和にある。万生万物を調和させるために、人間は、この世に生を得ている。大自然は、その生命を維持するために、我々人間に、必要なものを与えている。これは俺のものだ、ここからここまでは俺の地所だと肩意地を張るから、争いが生じてくる。足ることを知らないからなのである。
生きるに必要なものは、神は平等に与えているのだから、その心にしたがった生活を送れば、何の不足も、不満も生じてはこないはずである。執着を持たなくとも、人間は立派に生きて行けるのである。建設もできるのである。建設と執着は別物である。この点を混同すると、執着がないと生きてゆけない、という想念に支配されてしまう。

このように心を軽くするには、まず、その一つひとつの執着の根を外してゆくことである。とらわれをなくして行くことが大事である。そうすると、中道の心が次第に明瞭になってき、観自在心(かんじざいしん)に到達することができるのである。
照見五蘊皆空 度一切苦厄の五蘊とは、色、受、想、行、識の五つをいっているのであり、その根源は、五官六根であるところの、眼、耳、鼻、舌、身、意である。
まず色(しき)とは、現象世界のこの世であり、受とは、それを受け入れる感覚、想とは、その感覚にもとづいた想念、行とは、それの想念行為、識とは、そうした想念行為から生まれた業想念、考え方を指す。
こうした想念と行為というものは、とりもなおさず五官六根から生まれるのである。五官六根がなければ、五蘊の発生する余地がない。したがって五官六根こそ問題であり、生老病死の苦悩も、ここから出てくるわけである。
肉体は人生行路の大事な舟であり、五官がなければ現象界での生活はできない。
問題は、これに意(想念)が加わり、その意は、色、受、想、行、識というものを形作っているために、煩悩にふりまわされてしまう。

五官六根の浄化は、これまでいろいろな面から繰り返し述べているように、中道を根本とした生活、つまり想念と行為の中道化、それは八正道にもとづく実践と反省によって進められてくるわけである。

ここで「舎利子(しゃりし)」という言葉が出てくる。舎利子とは釈迦の弟子シャリー・プトラーのことである。観自在心について釈迦が、その弟子の舎利仏(しゃりほつ=シャリー・プトラー)に、五蘊を含めて、その意味を説明しているが、舎利仏が舎利子に変化したのは、舎利仏は仏弟子の代表格であり、さらにここでは「諸々の衆生よ」という意味も込めているため、舎利子となったのである。

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以上。

ご覧頂きまして、ありがとうございます。
続きは、また今度ご紹介させて頂きます。

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ところで・・・NECのPC98シリーズ。爆!

PC9801_20081106203220.jpg

今となっては化石みたいなDosパソコンです。笑!
HDを起動したらディスプレイ左下のスタートボタンなどはなくて、すべてコマンド入力です。
職場で、かつて使っていたものです。現在も職場の一角に鎮座しております。
もちろん、日常では使っていません。っつうか、使いようがない。笑!
たまに電源を入れて、動くかどうかを確かめていますが、プリンターもモニタもHDも健在。
ワープロソフトは一太郎Ver.2。爆!
当時の新機種でしたがメディアはフロッピーディスクのみ。
ダイヤルアップだったんで電話回線に接続するたびに通話料が気になっていました。
もちろん、そんな状態だから趣味でインターネットサーフィンなんて高嶺の花。爆!
というか、その当時は今みたいに、あまりHPとかは普及していなかったと思う。

これは仕事でPCがどうしても必要だったので買いました。
購入したのが平成2年でした。当時のパソコンはボッタクリみたいに高すぎ。笑!
プリンター、モデムも一式含めて価格が77万円。汗!
処分したいんだけれど、もったいなくて処分できない。貧乏性な私です。爆!



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[ 2008/11/06 21:39 ] 随 想 | TB(0) | CM(23)

ちょっと珍しい海の紅葉 シチメンソウ 

先日の11月9日(日曜日)は、東大阪市に拠点があるGLA関西本部の毎年定例行事の『慈善バザー』に参加してきました。慈善バザーの収益金は義援金等、各方面へ毎年寄付されてあります。

前日の土曜日に飛行機で大阪へ発ち、月曜日の夕方に帰ってきました。翌月曜日の仕事の関係上、福岡空港からではなく佐賀空港から大阪伊丹空港へ向かいました。
午前のわりと早い出発時間の便を予約していました。ていうか、佐賀・大阪間は一日往復二便しかありませんが。笑!
早起きして(笑)佐賀空港に着き、搭乗手続きがすんで定刻どおりの出発かと思いきや・・・

整備点検に時間がかかり、フライトは二時間の遅れになります。
というようなアナウンス。

・・・二時間。爆!
二時間も、まじっすか? ってな思いでしたが、特に急ぐ用事はないし。まぁ、いいや。笑!

空港側としては、お客様へのお詫びなのか、その間に食事をとってもらうためにその日限定で一人千円の空港内レストランでの食事券を配られました。
それって、ちょっと得した気分。爆!

遅れる理由をたずねてみたら、翼のどこかの部品を交換する必要があるとのこと。
でも、その部品が佐賀空港には無いので福岡空港から取り寄せる必要があるから二時間もかかるとか・・・。
やっぱし佐賀空港は規模が小さい。・・・というか、乗る飛行機はプロペラ機なので機種が古すぎて部品が無いんだね。笑!
飛行機が途中で落っこちてもらうと困るので、しっかりと時間かけて整備してもらって安全に運んでもらえば、それに越したことはないし。
しかし急用とか、途中での乗り継ぎのある人は二時間もの遅れは大変だね。


佐賀空港内は、福岡空港とは違って時間をつぶすようなシャレたお店などはありません。
そして、周りは何もない。爆! 田んぼと有明海だけ。
ただ、佐賀空港の一番良いところは、車を何日間止めても駐車場代がタダ♪
場末なので交通混雑は一切なし。佐賀空港に向かう途中で車が渋滞して飛行機に乗遅れた! なんて絶対あり得ない。笑!

しかたがないので時間をつぶすために、いったん車で空港を出ました。
向かった先は、空港から15分ぐらいの距離にあります有明海に面した東与賀(ひがしよが)海岸のシチメンソウ群生地です。
この時期に限り、美しく紅紫色に色づくシチメンソウを見に行きました。
佐賀空港は、たまに利用しますが空港付近の沿岸にある群生地は晩秋の風物詩として有名なのは以前から知っていたので一度は秋頃に見に行きたいと思っていました。
私としては、出発が遅れて見に行く機会ができたのでちょうど良かったです!

パンフレットによると、アカザ科の一年草で有明海干潟(ひがた)の一部に自生する珍しい塩生植物の群集地です。シチメンソウは秋になると、まるで山々の紅葉のように色づく様子は、海の紅葉と呼ばれています。幼植物の頃から部分的に淡紅紫色をしており、成長の過程で色の変化がみられ、秋季には全株が鮮やかな紅紫色となり、海岸や河口付近を彩り、美しい景観をかもしだす様が、あたかも七面鳥のように色変わりするのでシチメンソウ(七面草)の名があるそうです。
そして東与賀海岸は、昭和天皇の最後の行幸地としても有名なところだそうです。
生物学者として海洋生物や植物の研究にも詳しい昭和天皇は、このシチメンソウには大変、興味を示されたようです。



写真は到着して、堤防から見下ろしたシチメンソウ群生地の風景です。
黒い柵の手前と先に赤く写っているのが自生しているシチメンソウです。
柵の向こう側は有明海のどこまでも広い干潟になっています。
(写真をクリックして頂けると拡大します)

center.jpg




この群生地の左端から右端までの距離は1600メートルにもおよび、一直線状態です。
撮ってきた下の二枚の写真をご覧いただくと、お分かりになられると思います。およそ中間の位置に立っておりますが端から端まで写せない距離です!

left.jpg


right.jpg




堤防を降りたところに案内板が設置してありました。

annai.jpg




群生地に近寄ると、直線状の左右の幅は10メートルに渡って生えています。
もともと干潟の中に生える植物ですが、シチメンソウが生えている回りには人が歩いて間近で観察しやすいように配慮してあるのか、石とかコンクリートで囲われています。
しかし中の方の土は、ちゃんとした潟になっていました。

shichimensou10.jpg




シチメンソウの大きさは、どれも均等に30~40センチ程度の高さです。

shichimensou 2




葉っぱの感触は、ぷよぷよ感がありそうです! さわっていないので分かりません。
というか、後でさわるつもりだったんですが、さわってくるのを忘れていました。笑!

shichimensou up




お天気は悪くなく、眼前に広がる世界最大の干満の差を誇る大自然の有明干潟を望み、のんびり気分を満喫できて、ちょっと感動!! 
晩秋の佐賀に訪れる機会があったならば、ぜひ訪問していただきたい場所です♪
ちなみに佐賀は有明海苔の産地として全国でも有名です。右手に見える、この干潟の少し向こうの沖には海苔の養殖所があります。機内上空から下を見ると有明海の海苔養殖所は、さすが規模が大きいというのがうかがえます。

shichimennsou reft2




干潟の中に、ぽつんと生えているシチンメンソウもありました。
潮が満ちたら海水の中に浸かっちゃうんでしょうね。

shichimensou gatanonakani




干潟の中にいる餌を求めて、自分がいるすぐそこまで近寄ってくる小さな鳥がいました。

gatanotori.jpg


gatanotori2.jpg




それと、潟にしか生息しない珍しい生き物もいます!
トビハゼです。
眼が飛び出ていてかわいい!
トビハゼにも似ているムツゴロウを探しましたがいませんでした。
この干潟の沖にもっと出ないとムツゴロウには会えないのだろうか?
畑 正憲とは違います。

mutugorou.jpg




右端のドロの中に小さくて丸く穴が開いているのはトビハゼの巣穴です。
左手のもっと大きい穴は、写真よりも成長したトビハゼの巣穴か、もしかしてムツゴロウのものだと思います。

mutugorou2.jpg




ピョンと跳んで石の上にもあがってきます。

mutugorou3.jpg



ドロの中から出てきては、すぐに隠れ、そしてピョンピョンと目の前で跳ねている愛らしいしぐさのトビハゼとか、トコトコと干潟を歩く小鳥は見ていて飽きません。

のんびり感に浸っていたら、いつの間にか一時間もここで時間をくっちゃいました。ガーン!
早く空港に戻らないと乗り遅れちゃう。汗!
急いで空港に戻りました。

せっかくもらった食事券は、シチメンソウを見に行った後で使おうと思っていましたが使わずじまいで機内へと・・・。。。
残念。笑!

機内座席は窓際でしたが、雲の写真を写すのにプロペラがすっごくジャマ。爆!
しかも九州を出た頃から地上も見えず、表情のあまり変化がない雲ばっかりで到着。笑!

puropera.jpg


帰りも窓際でした。その席は行きのようにプロペラがジャマな位置にはありませんでした。
そして何枚か上空から見た秋の雲とか空、地上の姿を撮ってきましたので、あと2回に分けて空の写真を記事に載せたいと思っています。たいした写真ではありませんが。

ご覧いただいてありがとうございます。
長くなったので、続きは後日書きます。

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[ 2008/11/12 21:23 ] 随 想 | TB(0) | CM(10)

慈善バザー 

GLA関西本部の年間定例行事の一つ、11月9日(日曜日)に行われた、『慈善バザー』について少しばかり写真で紹介させて頂きます。

この建物は東大阪市にあるGLA関西本部の拠点となっている会館です。四階建てです。
以前の記事に紹介させていただいておりますように、高橋信次先生はこの会館の四階講堂にて東京から毎月の第二日曜日に関西講演をされた場所です。
この慈善バザーは高橋信次先生を迎える前の『瑞法会教団』の古い頃からすでに行われていたそうです。
慈善バザーが始まってからすぐのオープニングを少しばかり写真に撮ってきましたので、ご関心がございましたらご覧下さい。
この日は、一階から四階まで所狭しとバザーの品々で埋め尽くされています!
慈善バザーでお見えになる方々は会員の皆さまは勿論のこと、ご近所の方とか、また毎年遠方からもバザーを楽しみにしてお出でいただく方もあるそうです。
ほんとうはバザーで賑わっているお客様の様子や販売してある会員さんの表情とか、豊富な品々をカメラに撮りたかったのですが私もバザーの手伝いをさせていただいておりましたので、その様子を写すことができませんでした。

kaienmae.jpg




11時ちょうどに派手な爆竹が鳴らされた後に、会館入り口の階段おどり場で青年部による和太鼓の力強いオープニングです。
慈善バザーの多くの参加者(お客様)は、既に早い時間から入り口で始まるのを待ってあります。

wadaiko.jpg




次には慈善バザーを企画・運営されてこられた代表の方の挨拶。
そして、くすだま割りです。

kusudamawari.jpg




最後にテープカットです。
テープカットをされた左手の方がGLA関西本部、本部長の岸田 守先生です。

tepecut.jpg




短いオープニング行事が終わったら入場です。並んでおられた方々は階段を上がって、ドッと本部に流れ込んでこられます。そして毎年、お目当てのお気に入りの品々が並んでいる売店にまず足を運ばれる常連の方々もあります。

nyujou.jpg




本部の二階にある事務局ロビー前。
三階、四階の売り場に向かって階段を上っていかれている様子です。

nyujou2.jpg




こちらは本部会館屋外にある敷地内での売店です。
オレンジ色の法被をかけてある方は、バザーのお手伝いをされている会員の皆さまです。
私は屋外の野菜・くだもの売り場の担当をさせて頂きました。

sotouriba kaiin

11時から始まって、午後の3時にバザーは終了です。
その後、約2時間かけて会員によるバザーの後片付けで無事終了しました。



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慈善バザーが終わった翌月曜日の夕方に私は帰佐しました。
ここからの写真は、大阪伊丹空港から佐賀空港へ向けての機内からの写真です。
上空から空や雲、地上を撮ってきた写真です。帰りもプロペラ機でした。
佐賀・大阪伊丹間を一日往復二便運行しているのは、どれもプロペラ機です。笑!

写真をクリックして頂くと拡大して見ることができます。もう一度クリックしたら元に戻ります。



Cloud 3

真っ青な青空のなかで雲が三層の高さに分かれていました。
地上から見ると、これってどのように見えるんだろう?
やっぱり平面にしか見えないのかな。





Cloud 1

ここはどの辺の上空なんだろう。進行方向右手下に見える景色です。
機内では携帯のナビが使えないので分からない。





Cloud 4

この島は、もしかして瀬戸内海に面した所かも。かもです。笑!
島の形がハッキリしているので、google の航空地図で調べるとすぐに分かるかも。
飛行機は、おそらく播磨灘を通って本州と四国の間の海上にそって大分方向に飛んでいます。以前、天気がいいときに別府の市街地が見えていました。そして阿蘇山の上空付近も経由しています。





Cloud 2

この雲は縦にゆらゆらしていた感じでした。
雲って、いろいろな表情があって、おもしろいです。





Cloud6.jpg

帰りは佐賀まで約1時間半の飛行です。いつの間にやら少しずつ雲の色が変わってきます。だんだんと暗くなり、墨を流した絹のような雲と、下に見える、ごつごつした羊雲は、すごく対照的でした。





Cloud5.jpg

これは上の写真を撮った直後に、進行方向の空へ向けて撮りました。
九州に近づくと、雲が綺麗な夕日に染まり始めました。


飛行機の窓は座っている席に2ヶ所ありました。一つは自分の肩の位置。もう一つは前方座席のすぐ後ろ。
窓の外に向かって直角の方向とか、斜め後ろを撮る分には肩の位置にある窓からでもいいのですが、進行方向へ向けて撮るには肩の位置にある窓からだと、かなり窮屈で撮れませんでした。
それよりも前方座席のすぐ後ろの窓から外を覗いた方が角度的に前方をより広範囲に写せます。なので、その前方座席の窓から進行方向を撮りました。ところが小さい窓から、その窓枠が写真に入らないようにするには、機体の壁に体をベタッとくっつけて、しかも、ちょっと体をひねって撮る姿勢になっちゃいます。
そんな姿勢だと隣の座席の人には大迷惑だね。でも隣は空席だったので良かったのですが、座席通路向こうと斜め後ろの人の視線を受けて、思いっきり恥ずかしかったです。
・・・でも、カメラ魂は燃えていました。爆!


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もう少しばかり(笑)機内から見た夕焼け雲の風景写真などなど何枚かありますので、次回の記事にでも載せたいと思っています。
上手く写せていませんが、よかったら、また見てください。

記事をご覧頂いた皆さま。ありがとうございます。


テーマ : 空の写真 - ジャンル : 写真

タグ : 岸田守本部長



[ 2008/11/14 00:00 ] 随 想 | TB(0) | CM(10)

Sunset clouds  

機内から写した夕焼けです。
夕焼けはカラーエフェクトをウォーム、彩度をハイレベルに設定して撮りましたが・・・。
ついでにあと二枚(笑)。下の写真は阿蘇周辺?かな。
面白い地形だったのに、くっきりとは写っていませんでした。汗!

Sunset clouds




Geographical features2




Geographical features1


ヘタな写真をご覧頂きありがとうございます。

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前回からの「般若心経のまとめ」の続きです。
読み逃げ、スルー、斜め読みは大歓迎♪ (≧m≦)ぷっ
もし、ご覧頂いた方の中で、少しでも何かの気付きがあったとしたならば嬉しいです。
以下、紹介させて頂きます。転載です。


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色不異空(しきふいくう)  空不異色(くうふいしき) 
色即是空(しきそくぜくう) 空即是色(くうそくぜしき)

色(しき)は空(くう)に異ならず、空は色に異ならず、色はすなわち是れ空なり、空はすなわち是れ色なり、と読む。
この詩句はあまりにも有名であり、色即是空に至っては、仏教の中心テーマのように受けとられている。
さて、色とか空とはいったい何をいっているのだろう。
今日ではすでに、さまざまな解釈がなされているが、空については十人十色であり、その実相を衝いているのは甚だ少ないようである。

空の実相を知るには、正法を実践するしかない。実践とは正道に適った自らの生活行為である。そうしてそうした中から、空の実相が認識されてくる。
さきの行深般若波羅蜜多時である。深く行ずることである。
したがって仏教は自力である。神の子として、めざめた自力である。自力というと、自我を通した生活行為を連想しがちだが、そうではない。業生の自分から、神仏の子として脱皮してゆく実践行為を指すのである。

今日、仏教は他力本願になっている。だが釈尊の教えは、他力については一言も触れていない。もし他力について書いてある仏典があるとすれば、途中で書き替えられたものである。それは正道ではない、ということを改めて断言したい。

空(くう)とは何か。
空とは、物質にあってはエネルギーの世界のことであり、魂にあっては実在界を指すのである。
まず、物質についてみると、水の三態(気体、液体、固体)で述べたように、物質は熱粒子の縁によって、集中、分散をくりかえし、たえず循環している。そこで、空とは、俗にいう可視範囲外の状態であるといっていいのである。

この点について、もう少し考えてみよう。
水は熱粒子に温められると蒸発し、眼に見えなくなってしまうが、無にはならない。
エネルギーとして空中に在る。熱が冷え、水滴となる条件が満たされてくると、雲となり、雨となる。
要するに、物質についての空とは物質化(液体、固体)される前の状態であるといえる。
もっとも厳格には気体も物質であるといえるだろう。
ただここで見逃してはならない重大な問題がある。それは、気体となった水粒子は、必ずしも雨や雪となって落ちてくるとは限らない。気体となった水粒子は、水以外の鉱物、植物、動物の組成の一員として、物質界に再びよみがえってくるものもあるのである。ちなみに、あらゆる物質には、何がしかの水分を含んでいるのである。水分を含まない物質は、皆無といってもいい。
このように気体となった水粒子は、他の物質粒子と組み合わさって、いわば形を変えて現象化されている。
こうみてくると物質の空の状態とは、万生万物を生み出す素因を内在せしめているのであり、それはまた言い方を変えると、空の世界は、万生万物の投映の場になっている、ともいえるのである。
空の世界は、あらゆる物質のエネルギー粒子が集まっており、そうしてそれらは熱、電気、磁力、重力などの相互作用、つまり縁によって、さまざまな物質を創り出して行くのであるからエネルギーの世界は、そのまま、万物投映の元の世界であるといえるのである。

次に魂について考えてみよう。
魂の空の世界とは、あの世を指すのである。この世のことを現象界、ないしは物質界というが、あの世は実在界、意識界ともいう。
なぜ空の世界を実在界というかといえば、「物」が実際に存在する世界だからである。
この世、現象界は一切の「物」は、時が経つと変化してしまう。どんな立派な建物でも、発明品でも、時がくれば土になり、風化してしまう。
ところが、実在界の「物」は、時が経っても消えていかない。必要と認められた「物」は、何千年、何億年も、そのまま減ることも増えることもなく存在し続けているのである。
この世では、どんなに価値のある「物」でも、人々の願望を叶えてはくれない。時が経てば否応なしに崩れ去ってしまう。この点が大いにちがうのである。
たとえば木製の机があるとする。この現象界では木製の机は使用しておれば、どんなに大事に扱っても千年と持つまい。それを持たせるには真空に近い暗室に保存し、熱や光や湿気から守ってやらないと朽ちてしまう。
ところが実在界では、一万年でも二万年でも使いながら持たせることができるのである。
人や動物でもそうである。この世では人は百年、動物なら五十年生きるには、条件が整わないとむずかしい。だが、実在界は千年はおろか、二千年、三千年はザラである。いくらでも実在界で生き永らえることが出来る。しかし循環の法にしたがい、現象界に生まれ変わるが、魂の実在性は変わらない。
要するに、あの世は「物」が半永久的に実在するから実在界というのである。半永久とは必要がなくなれば、何時でも古いものを新しいものに変えることができ、必要なら何時でも残すことができるからである。
ではなぜ、こういうことが可能かというと、実在界は魂の世界だからである。魂とは心の世界、つまり意識の世界、意識界であるから、心のままの世界が展開されているのである。

ここで、現象界は空の世界の投映であるということについて触れると、たとえば実在界に木製の机なら机があって、その机が現象界に写し出されているからそういうのである。
では、あの世には電車や汽車、戦車や大砲、航空機、原子爆弾、ミサイルなどもあるのかと問われるだろう。
これに対する答えは、あるものもあるし、ないものもあるということになる。
どうしてこういう答えになるかというと、核ミサイルに執着を持つあの世の科学者が、そのミサイルの愚を知って、ミサイルの研究を辞めたとする。
ところが、現象界のミサイル科学者は、あの世の科学者のミサイル研究の辞める前の想念波動をうけて、それを創り上げたために、あの世になくともこの世にあるという結果になったからである。

これをもう少し詰めて説明すると、あの世の心の世界、心の世界とはどんな想像も可能な世界である。どんな想像も可能だということは、言葉をかえると何でも在る、ということになる。想像は創造につながり、創造は文字通り、「物」を作り出すことである。
万生万物は、ことごとく「心」から生まれたものであり、心を基本にして、相互作用の縁によってさまざまな物質が生産されるのである。

もし、人間に思うこと、考える能力を抜き取ったなら、どうなるか。動物と同じように、一万年、十万年経っても進歩はないだろう。歩くより早く目的地に着くためには、電車や飛行機が便利だということで、まず最初に人々の心の中で考えられ、そうして各種の材料を集めてきてつくられた。

あの世は、こうした創造が無限に広がっており、この世の想像の範囲をまったく越えている世界なのである。
だから、この世にあるものは、あの世にあり、しかし、形としてはないものもある、ということになるのである。

さて、話しを前に戻して、物質の世界は万物を生み出す素因として宇宙に存在し、魂の空の世界がこれらの素因を集め、形あるものに創造して行く能力を秘めている世界であるといえる。同時に魂の世界は、心と創造の世界なのだから、そのことはそのまま「もの」を実在せしめている世界でもあるといえるのである。
こうした意味から、空の世は、実在界、意識界というわけである。

さて次に色(しき)とは何かといえば、私たちの眼にとまる現象界、物質界のことである。物質界は色彩に富んでいる。これは平面的な生活を補い、私たちに修行しやすい環境をつくるためである。
では、空の世界は色彩がないかというと、もちろんある。ただ、「心」に応じた意識界をつくっているので、階層によっては灰色の世界もあり、霧におおわれて色彩が不鮮明なところもある。
しかし天上界は、この世の世界とまったく同じであるが、次元が高くなるのしたがって、その色彩は明るく、そうして次第に安らぎのあるものとなっている。
この世は人の心に関係なく、神は、さまざまな色彩をつくって、平面的な地上の生活を補ってくれている。つまり修行しやすい環境を与えているのである。
この点からも私共は、神に対して感謝し報恩の行為である「調和」という目的に向かって進んで行かなければならないのである。

物質界の成立は、実在界の縁によってなされている。
縁とは、交わりである。あらゆる物質は相互に関連し合い、動、植、鉱の物質をつくり、生命活動に必要な基礎的環境を形成している。
私たちの親子兄弟姉妹、夫婦、知人、友人にしても、そうした実在界の約束によってこの現象界で縁が結ばれている。偶然に縁が結ばれたのではない。
ちなみに地上の人類は現在三十七億にのぼっている。その三十七億余のなかから、一対の夫婦が選ばれ、親子が生まれ、兄弟姉妹ができ、友人、知人、そうしてそれ以上の目的を共にする同志が結ばれる。
偶然として片づけるには出来すぎているし、だいいち現象的にみて、不思議と思えない人はどうかしているといいたい。
もし、こうした現象が偶然であり、生命がアメーバーから生まれるとすれば、この世の成立は不可能だし、太陽も地球も人間も生かされ、生きることはできない。
自然界の秩序、人間界の秩序は神の意思にもとづいてつくられており、人間界の苦しみ悲しみの混乱は、人間が神の子としての能力を持ちながら、その能力を好き勝手に使っているために起こっている現象である。自分の好みで好き勝手にその能力を持て遊んでいるから、めくら千人となり、必然か偶然かの判断すらできなくなっているのである。

空の実相を知ったときには、この世の一切のものは「縁」によって生じ、「縁」によって生かされ、「縁」によって万物が調和されていることを悟るであろう。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

転載、以上。

生身の目では認識できる物質世界とあの世の知られざる意識界。
今回の解説では主に循環の法について書かれてありました。
それにしても、あの世を見聞してきて、しかも誰にでも理解できる簡単な身近な科学でその仕組みを説明されるとなると、なるほど・・・と思わざるを得なくなります。
当世によみがえったお釈迦様が説かれた教えというものが、二千六百年の年月をこえた現代科学にも通じるものだということには、あらためて驚異にさえも思えます。
その時代時代の求めに応じて、それぞれの聖者が説く方法の違いだけであり真理(神理)の根幹は永遠に変わらないものだ、ということなのでしょう。
そうなると人間というのは、神の体である大自然。その大自然が教えている定まった諸法(法則)のなかで生かされ、生きている。それを人間の恣意で変えることはできない、ということが理解できますね。

長文をご覧頂いた方、お疲れ様でした。そして、ありがとうございます。
続きは、まだまだありますので別の機会に紹介させて頂きます。


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タグ : GLA誌に連載:般若心経解説



[ 2008/11/18 18:37 ] 随 想 | TB(0) | CM(14)

稲こづみ inakodumi 

これは 『稲こ積み』 です。久しぶりに見ました。
刈り取った稲を天日干しさせてあります。

inakozumi.jpg


現在の農業は全部機械化されていますから、こんな手作りはめったにありません。
機械が入りにくい山間部なら、まだこういう方法は残っているかもしれません。
しかし、なぜ、平野部のここの田んぼだけが稲こ積み?

昭和40年代頃までは、この風景は秋の田んぼの風物詩でした。私が小学生の頃までは、どこの田んぼにも、これがずらり延々と並んでいたのが目に浮かびます。
うちも百姓でしたから、稲こ積みを作る手伝いをしていました。子どもは、もっぱら刈り取った稲を集める作業でした。
寒い風が吹く中、抱きかかえて運んでいた稲ワラの温かさを思い出します。
でもワラくずが背中の肌とシャツの間に入ったときのキリキリ感はイヤでした。笑!

稲を積むには、まず中央の積む位置に鍬(くわ)で穴を掘ってありました。
掘ったその土で四方に土の陣を作り、その陣の上に稲を四方交互にして重ねあげます。

そして稲こ積みがどんどん出来上がったら、弟と、鬼ごっこ、かくれんぼをして遊べます!
なんだか、のんびりしていた時代でした。


inakozumi2.jpg




ホトケノザです。この田んぼのわきに咲いていました。

hotokenoza1.jpg


hotokenoza2.jpg


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ところで、学習塾を長年経営しているので実感して分かるのですが、子どもたちの基礎学力の低下を長いこと感じていました。しかし来年度から、いよいよ、これまでの「ゆとり教育」を脱することになります。
2011年(平成23年)度から小学校、その翌年は中学校において新学習指導要領が施行されます。これに伴って来年度から徐々に移行措置が実施される運びとなります。

特に1992年ごろからのゆとり教育実施により、小学生と中学生は徐々に学習内容が削られてきました。
それと並行して、授業時間も徐々に削減。最初は第二土曜日だけ休校。そして第四土曜日追加。ついに完全週休二日により学校五日制になりました。
当時、官公庁などは週休二日を導入していました。公立の教員だけが土曜日の休みがないのは不公平だと日教組などの思惑もあったのでしょう。私学は土曜日休校は学力低下を懸念して実施しないところばかりです。

その削られてきた学習内容が来年度から徐々に戻ってくる、というわけです。
単元を削除(あるいは高校などへの先送り)しやすい理科・数学が、ゆとり教育の犠牲になっていました。
その当時に世間でも驚きだったのが、たとえば小学生で習う円周率の表しかたです。なんと、3.14を整数のみの3で表すことです。それだけでも当然、そのような学習では将来の子供たちの学力低下が深刻な状態になることは目にみえて分かっていたことです。
今後、学習内容が戻ってくるのは喜ばしいことですが、土曜日の半ドン登校をなくした現在では、増える学習時間をどこから捻出するのか・・・。
たとえば中学三年生の理数科でいえば、平成23年度には現行の授業時間よりも数学は35時限の増加。理科は60時限の増加。

だいたいが当時の校内暴力や学級崩壊、いじめや不登校は、詰め込み教育とか偏差値重視が原因だと叫ばれての、ゆとり教育導入でした。
が、しかし、ゆとり教育の結果、現状では一向にそれらは減りません。ますます学力低下、学級崩壊に拍車がかかっているようにさえ思えます。
ゆとりなど、どこにも結果が出ていない。そもそも暴力やいじめが急加速しているのは学力重視にばかり原因があるのではない筈です。
生きることの意味をしっかり考えさせることなく、人間のお互いの個の尊重、生命の根源に対する畏敬の念とか道徳的な価値観の教育欠如に他ならないはずです。
そんなことぐらいは当時の文部省や有識者達も判っていた筈です。

過去の愛国心や天皇崇拝が今さら極端に傾くことはないでしょう。
信教の自由、政教分離の公教育の立場はちょっと脇に置いといて、戦後に廃止された修身の公教育、あるいは宗教などから心の教育として良いところだけを抽出して、道徳的、市民的、精神的価値を育成する共通した心の教育作りを本気で検討したらどうですか! 
と、私は言いたいくらいです。他に心を育成する具体的な方法、手段はありますか? 

今後の日本を担う大事な子ども達。その知育、徳育の教育。・・・さぁ、どうする。ニッポン! 



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[ 2008/11/20 16:02 ] 随 想 | TB(0) | CM(16)

芒 susuki 

筑後川支流の、のんびりとした風景です。
小春日和な日は、この景色でも眺めながら一日中、ボーッとしていたい。笑!
こじんまりと生えているススキ。
もっと広く群生しているところもありますが、どう撮っていいのか分からない。爆!

susuki.jpg



susuki2.jpg



susuki3.jpg



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ここからは、前回からの 「般若心経のまとめ」の続きです。

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ご覧頂いた方の中で、少しでも何かの気付きがあったとしたならば、それだけで嬉しいです。以下、紹介させて頂きます。転載です。


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色不異空(しきふいくう) 空不異色(くうふいしき)

これを直訳すると、現象界は実在界の投映であり、実在界があって現象界があるのだ、ということになる。さらにもっと突っ込んでいくと物質はエネルギーであり、エネルギーは物質である、ということになってくる。

現象界と実在界は、もともと一つであり、別々ではないのである。現在の自分の想念と行為が死後の実在の自分自身を現わしていることになる。
現象界が実在界の投映という意味は、一つには人間の心は一念三千であり、天国にも地獄にも、自分が意識を向けたところにつながるのでそういうのである。
人間は天国と地獄のちょうど中間に位置している。
なぜ中間に位置しているかといえば、人間の心は天国と地獄に通ずる自由(一念三千)な心を持っているからである。
慈悲と愛の心を持てば天国に、煩悩に心を奪われれば地獄に通じ、自分自身の生活環境を通じた世界と同じような形で現わして行く。
つまり、実在界の投映という形をつくるのである。それほど心というものは、重大な要素を持っており、人間はその心の在り方によって、鬼にも天使にもなり得るのである。
実在界に鬼が住むような地獄がもともとあったかどうかである。

天地創造の初めはなかったのである。実在界はエデンの園であり、天国のみであった。
ところが人間がこの地上の生活になれ、五官に左右され、六根が生ずるようになってからは、実在界の一隅に、暗黒の世界をつくるようになった。人間は自らの想念と行為によって、そうした闇を生み出していったのである。
すなわち、実在界に、光と陰の世界が出来上がってしまった。
そうして、地上の人間は、光と陰、善と悪の混合された世界で修行するような環境をつくり出し、その中でなければ、何が善で、何が悪であるかを知ることが出来なくなってしまったのである。
もともと実在界があって現象界があるのだが、現象界の人間の心が実在界に闇の世界を創り出してきたのである。
こうみてくると、現象界と実在界の姿がはっきりしてこよう。そうして、色と空の関係が、もともと別ものではなく、同時的に成立している、という意味が釈然としてきたと思う。
色は空に異ならず、空は色に異ならずとは、こうした意味がこめられているのである。

色即是空、空即是色――。
これの解釈は通常文字にとらわれる場合が多い。あると思えばない、ないと思えばある、といってみたり、色即是空は往相(悟りに向かう)空即是色は還相(人々を救う)と説明している人もいる。

本当の意味は、転生輪廻なのである。あの世とこの世の循環を、色と空、空と色という表現で、ここでは説明し、そうしてこう表現することによって、魂の転生輪廻の永遠性をうたっているのである。
大抵の人は、人間が生まれ変わるとは信じられないようだ。まず十人が十人死んだらお終いと思って生きている。だから、生きているうちが華であり、生に執着を持ってしまう。死は不幸を意味し、葬式は概ね暗く、陽気はタブーとされている。

ところが、人間は生まれ変わり、この世よりも、生前の魂の在り方によっては、あの世の方が住み良い、ということがわかれば、死は不幸ではなく、人生の卒業式として、生まれたときと同じように、祝杯をあげてもよいということになる。
死に対する人間の根本的な誤謬(ごびゅう)は「あの世がわからない」ところにあるようだ。
人は生まれると同時に、あの世と断絶し、通信を途絶えてしまうからである。お先真っ暗の人生を、それこそ手探りで歩いているようなものだからだ。
しかし、怒ったり、ねたんだり、悲しんだりすると気分を悪くし、人にも害を与え、反対に陽気や笑い、助けあったり、はげましあうことの喜びは、どんな場合でも気持ちがいい。その事実を私たちは日常のなかで経験しながらも、自然にふりまわされてしまうものだが、しかしそうした愛に生きたときの喜びを発見し、認識するならば、あの世があろうとなかろうと、現実の自分とその周囲を光明に化することができるはず。

悲しみを取り除き、喜びをわかち与える慈悲の心、助け合う愛の心というものは、人間は、皆持っている。そうして、そうした生き方を、誰しも望んでいる。しかし、現実は、そうできない。気持ちよい生活、平和な世界を希求しながらも、それから遠のいてゆく。これは、自我がそうさせ、執着が次第に広がって行くために、本来の目的から人は離れていってしまうのだ。ウソつきが得をし、正直者はバカを見る、ということを鵜呑みにした結果ではあるまいか。
己の心にウソはつけぬ大自然の条理を知って神の心に近づこうと努力するものに対しては、神は、色即是空の生命の扉をひらいてくれよう。なぜなら、神は、自ら助ける者を、決して放っておくようなことはしないからである。
人は色即是空の認識を得る前に、大抵は根負けし、肉体世界に妥協してしまう。妥協の上にあぐらをかいて、ああでもない、こうでもないと逃げをうつ。人生はますます解からなくなり、迷路にはまりこんで行くのだ。

まず人は、怒ったり、ねたんだりすることよりも、陽気に笑い、助け合う愛の心を、しっかりと抱いて、そうして、その心を持続するならば、「あの世がわからない」という迷信に陥るようなことはあるまい。
アメリカのある新聞社が、「あなたは、あの世を信ずるか」について世論調査をした。結果は、調査の八割までが、あの世を信ずる、と答えていた。答えた人八割があの世をみたわけではない。信仰が生活のなかに溶け込み、日曜になると、教会にいって話をきかないと一日が終わらない気持ちが、そうした回答となったのであろう。聖書が教える愛の心を教会で教えられ、愛の心を持ち続けることは人間として当然であり、そうしなければならないと考えているからである。
日本人について世論調査をしたら、どんな結果がでよう。あの世があると答える人は一割あるかないかであろう。
ともあれ、私たちの住む世界は、立体の世界である。人が地上に存在することは、そのまま、あの世につながった存在者として、存在するのである。ただ、あの世がわからないために、そう思えないだけの話である。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

転載、以上。

前回からの 「色即是空 空即是色」 の続きです。
般若心経の中では一番重要な内容です。
その解説を全部一気に転載したかったのですが、あまりにも文章が長すぎてしまいますので、ここでは半分に分けて紹介させていただいております。
続きの残り半分とそれ以降の解説は、まだまだありますので、また別の機会に紹介させて頂きます。

長い文をご覧いただいて、お疲れ様でした。そして、ありがとうございます。


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タグ : GLA誌に連載:般若心経解説



[ 2008/11/23 00:00 ] 随 想 | TB(0) | CM(19)

☆ Article on Information ☆  福岡支部集会のご案内 

GLA関西本部 福岡支部からのご案内です

今般、11月30日(日曜日) 13:30~17:00 の時間帯で、福岡県福岡市南区塩原2丁目8-2の南市民センターにて支部集会を開きます。
東大阪からGLA関西本部、本部長 岸田先生他二名をお招き致します。
集会内容は高橋信次先生が説かれた神理について共に学びます。また個人的な質問、悩みなどの各種個人相談も本部長と直接マンツーマンで受けることができます。(無料です。但し事前に予約が必要です)
遠方からのご参加に付きましては、交通・宿泊先なども事前にご相談下さい。
他、不明な点に付きましてもメール連絡して頂ければ、責任者の私がお答え致します。
なお、学びの場であり、勧誘や営利を目的とした行為等は一切、行っておりません。

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↓↓待望の高橋信次先生の講演DVDが10月10日に販売されました。
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【2008年10月10日から岸田本部長と私との二人三脚で行っていた高橋信次先生のご講演DVDビデオの販売は2010年9月24日にて終了いたしました。これまでご購入頂いた皆さま、ありがとうございました。
心から感謝申し上げます。ご覧頂いた皆さまの心の糧となることを切にお祈りいたします。】



テーマ : 自己啓発 - ジャンル : 心と身体

タグ : 岸田守本部長



[ 2008/11/28 11:31 ] 随 想 | TB(0) | CM(14)

真っ赤なイロハモミジ 

ぷりんちゃんへ♪

疲れは大丈夫ですか。
ヘタですが乗り切っていけるよう願いを込めながら、先日撮りました。
ハヤブサ魂(謎! の勢いで、元気出してね♪

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[ 2008/11/28 11:45 ] 随 想 | TB(0) | コメント(-)

櫨 haze 

写真はハゼの木です。福岡県久留米市には、約250年ほど前(享保の頃)、藩の財政を潤すために灯明用のロウソクの原料として久留米藩が植樹した柳坂曽根(やなぎさかそね)のハゼ並木があります。南北約1.1kmの距離に約200本ものハゼの木がズラリと植わっています。
その場所は現代では昭和39年5月に福岡県の天然記念物に指定され、また 新・街路樹100選 にも選定されております。
写真には撮りませんでしたがハゼ並木の道路反対側には、この時期にあわせて臨時にテントを張った観光客相手の売店が並んでいます。

先日、見に行ってきました。晩秋のこの頃には燃えるような真っ赤な紅葉なのですが、ほとんどがオレンジ色っぽくて、いまひとつでした。残念。笑!

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この黒いハゼの実には、とっても嫌な思い出があります。
小学生の頃、今頃の季節・・・。
今は少なくなりましたが実家の近所の小川の土手などにはハゼの木が植わっていました。土手に植わっているハゼの木の場合は所有者とかはいません。公共物? 笑!
急に雨が降ってきた時など傘を持っていないときに、うっかりハゼの木の下を通ったら・・・『ハゼまけ』。汗! 
みなさんの中でハゼまけ(=ハゼかぶれ)をしたことがある人はいますか?
このハゼの実は、雨に濡れると黒い木の実から茶色い汁が出てきます。
その汁がくせもの。汁が皮膚に付着すると、付着した部分の顔面とか首筋、手のひらに赤い発疹ができます。その発疹には、ひどい痒みが伴います。
痒いのが我慢できずにそこを掻いちゃうと発疹が破れて、その汁がますます体中に広がっていくし、人にもうつします。汗!
小学生の頃の今頃は、1~2年に一度はハゼまけしていました。笑!
ところが皮膚が強い人は、このハゼまけにならないんだよね。イラ(毒のある毛虫)にもまけない人もいるし。
ある時、友だち数人と雨の日に傘を持たずに一緒にハゼの下を通ったことがありましたが、ほかの友だちはハゼまけにならない。私だけハゼまけ。それって絶対不公平。爆!
おまけにもう少し寒くなる頃の私の手足は・・・しもやけ。笑!
寒くなる頃の私は、痒いことばっかし。爆!

もう一つ、ハゼにまけた理由はハゼの実取りをしたからです!
自宅の近所にはロウソクの原料になるそのハゼの実を買い取る商売をしている人がいました。その人のところへハゼの実を持っていくと、お金と交換してくれます。
小学生高学年の当時、近所の友人に誘われて・・・しかたがなかったのでハゼの木に登って一緒にハゼの黒い実をちぎりました。
60kgの米が入る大きさの、カラの米袋に実を一杯つめて、たしか百円もらえました。
何本もの小川沿いにある公共物!のハゼの木に登って、せっせとハゼの実集め。笑!
たまたま、よその家の敷地奥にハゼの木が植えてあって、しかも実が密集して実っていたので、断りもなく登って取っていました。すると、その家の人が窓から、なにやら大声で自分たちに向かって叫ばれています。何と言われたのかは分かりませんでしたが叱られていることには間違いないので、その人が家の外に出てくる前に木を降りて、いそいそと逃げてきたことがありました。汗!
友人二人で一日中ちぎって、計4~5袋ためて売りに行きました。
その日は晴れていましたが、その代償が・・・またハゼまけになって。。。(涙  
私って、こりないヤツです。爆!



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こちらは同じく久留米市にある成田山の中の建造物です。
胸に子どもを抱いてある姿の慈母大観音像。高さは62mもあります。色白美人です。笑!
その前面に見える茶色い建造物は高さ38mの大仏塔です。

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周囲には高い建物などはありませんので、遠くからでも目立って見えています。
像の右肩に二つ、小さくて黒いものが見えますが、それは観光用の覗き窓だそうです。


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[ 2008/11/29 00:00 ] 随 想 | TB(0) | CM(28)
  1. ..
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