18 years (Nine cycles of year) 

私事なのですが、学習塾を開設して今年で、もう18年。
9年周期でいうと今年は、私にとって大きな節目の年でもあります。
18年は長いようですがその開設当時を思い起こせば、つきなみな言葉ですが昨日のことのようです。
平成2年の中ほどから開設準備を初めて、平成3年の3月にオープン。
それまでの仕事とは全く畑違いの、今の仕事でした。
学習塾を初めた当初は、開設資金のために私の持ち家の実家を抵当に入れて一千万円を超すくらいの借金から始まりました。
その頃は、自分にとってはそれだけの借金でも不安をあまり感じることはなく、それよりも、「きっと絶対に、うまくいく!。」という変な(笑)自信ばかりがありました。
結果、好調な滑り出しで始まりました。しかし、すごく苦しい針のむしろにじっと座らせられているような時期も一時ありましたが、オタスケマンが現われていただき、それらを乗り越えられて、お蔭様で家族諸共、生活して来れました。とてもありがたいことです。

現在の授業料納入は銀行口座振替が多いのですが、その当時は月謝袋で親御様から現金納入してもらっていました。
私の学習塾に対し、信用して生徒を任せていただき、おそらく生活費をやり繰りしながら捻出されたお金・・・。
それまでのサラリーマンの時とは違い、月謝袋を開けるたびに手に取る一万円札には、お金を頂くことのありがたさを改めて知り、またそれとは別に、「信用」に対する「責任」という重さを痛感しました。18年間、それにしっかり報いるだけのことを自分は果たしてやってきたのだろうか。

18年間でのお世話してきた生徒の延べ人数は千八百数十名ほど。それを18で割る年間平均では百名ほどの生徒との関わりになります。これまで新しい生徒との出会いや別れが数多くありました。
生徒の在塾期間もいろいろです。わずか一週間でやめていく生徒。(涙
また、小学校1年生から大学受験までの12年間通塾した生徒。
そして高校1年生にして突然、冥土に旅立った生徒・・・。これだけは辛い別れでした。

生徒だけではなく、親御様とも生徒の数だけ、年に何度かの面談でも関わってきました。
また講師であるアルバイトのスタッフ人数は、実数としてこれまで採用してきたのは331人。たった一回の勤務だけで辞めていく人もいれば、8年間もアルバイト勤務してくれた人もいます。
また、春・夏・冬の季節毎の大学休校にあわせて勤務してくださる方。
その中でも一番心強いスタッフ講師というのは、私の塾で勉強して大学受験で合格。その後に私のもとで講師としてアルバイトに来てくれること。他の方以上に教えることへの責任と情熱感が強く、私の懐刀! としても活躍してくれます。

いろいろな性格とか能力を持っている生徒。そして、そして! 多種多様それぞれの人格を持たれる親御様とアルバイトスタッフ。
その対人関係では、一言では言い尽せないほどの楽しかったことや嬉しかったこと。反面、辛酸を味わったこと。いろいろと深く勉強させていただきました。その経験を考えると、今の職に就くことが出来て、とても良かったと思います。

ちょっとした雑感でした!


夫婦木



ここからは前回からの高橋信次先生による 「般若心経のまとめ」 のなかの 『色即是空 空即是色』 の続きです。
いつものとおり、読み逃げ・スルー・斜め読みは大歓迎♪ (≧m≦)ぷっ
ご覧頂いた方の中で少しでも何かの気付きがあったとしたならば、それだけで私としては、ただ嬉しいだけです。以下、紹介させて頂きます。転載です。

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ところで私たちの生きている世界は一応三次元の世界である。
一次元とは、A点からB点を結ぶ線、つまり、海面と思えばよい。
二次元とは、海面を航行する船である。船は前後、左右に動くので、一次元より自由である。
三次元とは、空中に浮かぶ飛行機と思えばいいし、飛行機は、二次元、一次元の姿を自由に見ることができる。つまり三次元は立体の世界であり、大宇宙の空間と明滅する星の姿は、そのまま三次元の世界を形成している。
物質の世界は、三次元までを限度とし、それ以上については、認識ができない。
ところでアインシュタインは、三次元の空間のほかに、時間という一次元を加えた。そうして、そうすることによって三次元の実相をとらえることができると考えた。
アインシュタインは、時間を四次元に位置づけしている。
つまり、物の実態というものは、時の流れを把握することによって、はじめて、意味づけが出来るというのだ。三次元の立体像を単に主観的にとらえるだけでは、実在性は伴ってこない。実在性は客観的把握を前提とするというわけである。
空中に飛行機が飛んでいる。つまり三次元のみの思考ではその飛行機が、いったい何の目的でどこへ、どう飛んで行くのか、また離陸した飛行場はどこなのかについての認識がむずかしい。
しかし、こうした状況を、時間という運動の経過を通して調べることによって、空中を飛んでいる飛行機の目的なり、動機がはっきりしてくるというのだ。
この世の一切の物は、一刻の休みもなく運動している。運動のない物体というものはあり得ない。とすると、三次元の認識だけでは、これをとらえようとしても、とらえることはできない。つまり、物の価値づけ、実在性は把握できない。
人間の心は、生まれながらにして、四次元の働きを内在している。現れの世界は三次元だが、心は四次元にあるいは多次元に通じている。だから、文明も文化も進んできたのである。動物にはこうした機能は与えられていない。だからこの世に在る動物達の生活は百万年前も今もそう変わらない。
もっとも人間社会は、栄えては滅び、滅びてはまた発展し、そうしたくりかえしを続けてきているが、こうした悪循環を絶とうと思えば、何時でも絶つことが出来るのである。そこが動物と人間の本質的な相違である。
アインシュタインの四次元は、時間に焦点を合わせているが、四次元の世界は、実は、あの世の世界を意味している。物理的な次元論からいえば、四次元は、三次元を越えた自由自在の意識のそれであり、物質を貫通して、ものを見る超能力の世界である。あの世の人たちは、四次元以降多次元の住者である。あの世の霊は壁をつき抜け、あるいは壁の向こう側からこちらが見えるのである。
人間は、生まれながらにして、こうした能力を内在させて生活している。そうしてその一形態が創造活動であり、私たちの文化でもある。芸術にしろ科学にしろ、知識だけでは生まれてはこない。大学を出れば、誰も彼もが発明家になり、偉大な政治家になり、芸術家になれるかというと、そうはいかない。見えざる努力と、求める心が、筆を走らせ、絵を描かせ、生活を豊かにするよう科学させ、発明させてきたのである。マルクスのあの膨大な資本論は、今日、いろいろと問題はあるが、あの時代には、あの理論が必要だったのである。だから彼は書かされた。求めつつ、書かされた。資本論を知識だけで書けといっても書けるものではない。
こうした創造活動は、絶えざる求める心が内在意識をひらかせ、四次元以降、多次元の心と同通することによって起こるものなのである。偶然とか知識とか、その場限りの発見からこうしたものが生まれることは絶無といってよい。
何れにせよ、人間は、こうした多次元の心を持って生活している。三次元しか通常は認識できないが、しかし人間の意識は常に四次元以降多次元に同通しており、人間はそうした中で生活し呼吸しているのである。

ここで四次元以降多次元の意識の自由さについて述べると次のようになる。

四次元の自由さは、三次元を貫通し、物質にさまたげられることなく、ものを見ることができる。
五次元は、四次元世界はもちろん見ることができると同時に、地上界と地獄界の比較が容易に出来る。四次元の自由さは、ある限られた物質的障害を乗り越えられるのにたいして、五次元は、幾層もの物質を貫通して見ることができる。
六次元は、四次元、五次元の世界は勿論のこと、地球の隅々まで見ることができる。
善悪の判断が正確となり、人を導く自由さを持つようになる。
七次元は、六次元は勿論、他の天体にまで瞬時にみてくることができる。物質の成り立ち、天体の動き、人間の生い立ちが、七次元の意識が進むにしたがって、明らかとなってくる。したがって、物質のなかを覗き、生命普遍の認識を深めることができる。
八次元は、宇宙全体を認識できる自由さを持つ。万生万物の生命の根源が神の意識によって動いていることを知り、神の意思をうけついで、慈悲と愛の広く高い心のひろがりを持つ。過去、現在、未来を見通す心は八次元の頂点にある。
九次元は、神の意識であり、全(まっとう)なる心である。

さて私たちの住む世界は三次元の世界であるが、四次元以降多次元の世界が、感覚的に解らないとしても、前述の説明で概略理解されたと思う。
そうして、四次元以降の意識界の働きが、どのようなものであり、そうしてその意識が、私たちの生活にどう働いているかも、ほぼ納得出来たと思われる。
ところが人によっては、それでも四次元以降の世界はない、三次元で十分だ、四次元は飛躍だという人もいる。
しかし飛躍であるかないか経験がないのに、どうしてないといえるだろう。経験のない人が多くいて、経験がある人が少ないから否定する、というのはおかしい。
私たちの眼で見える範囲は、約7~4オングストログまでである。赤外線、紫外線、X線、γ線、電波については確認することができない。
しかし確認できなくとも、実在していることには間違いないのである。

色即是空、空即是色――。
つまり私たちの魂(意識)は、現象界に肉体をまとって生きている間は、主に三次元的感覚(10%の意識)で生活しているが、肉体が滅びれば、魂だけが肉体から抜けて、あの世で生活する。四次元以降多次元の意識を持って・・・・・・。
そうして再び、この現象界に現れ、生活する。
この事実は、否定しようがしまいが、あることに変わりないものだ。
万生万物はすべて、転生輪廻の法から逸脱できない。なぜかというと、生命と物質は、そのように作られているからである。
地球が太陽の周囲を循環することによって、春夏秋冬の季節をつくり、生命がすこやかに育つように出来上がっている。原子の世界も、核の周囲を陰外電子が循環することによって、原子全体を維持している。この理法を崩せといっても崩せない。
この点については、また順を追って説明するが、色即是空、空即是色は、転生輪廻の実相をいっていることを理解して欲しい。

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転載、以上。
続きは別の機会にご紹介させて頂きます。


ガーベラ 1


高橋信次先生作の「人生の羅針盤 Life's compass 」の使用説明書に記されている原理では、大宇宙には自然が織り成す春夏秋冬の様なリズムが存在し、また私たちの生存に必要なあらゆるエネルギーを供給しており、さらに私たちにも大自然の四季同様に自分自身に四季があり、一生を大自然の春夏秋冬と共に自分の春夏秋冬を時間と空間のある現世で過ごして行くとあります。
簡単に言えば、人間も小宇宙を形成していて、大自然より与えられた自分自身特有(※生まれた年月日が絶対数)の春・夏(大自然の良いリズムに乗り躍動する機会)・秋(波動がだんだんと弱くなってくる時期)・冬(飛躍の時期ではなく、自ら作り出した原因によっては苦難が訪れる厳しい時期)があります。それは9の倍数(例外として、10)により、それぞれ年も月も一巡してきます。

人生の羅針盤によると、私の場合・・・
年のリズムでいうと、塾を始めた1991(平成3年)は、計らずも強い波動に向かう前年であり、新しいことを始めるには自然なリズムに乗れる「転換の年」でした。
今年の2009年も、それと同じく強い波動に向かう前の「転換の年」です。
別に、占いみたいなものに凝りすぎてのことではありませんが。笑!

そういえば以前に、まはるださんから頂いた最初のメッセージ・・・
私はこれは、きっと成就すると思う。
そして岸田先生から初めて私に光を入れていただいた翌日の夜。自宅で入浴中に自分の身体に入ってきた数本の光。今でもその時の感慨は心に焼きついていて忘れられません。
今年は、その中の言葉の一つが実現する一歩の年なのだろうか・・・
・・・なんだか最後は以前の古い話。しかも意味不明・謎! で、すみません。


やっと来週あたりぐらいからリンク先の皆さまのところへもボチボチと遊びに行けそうです!

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タグ : GLA誌に連載:般若心経解説



[ 2009/01/07 16:40 ] 随 想 | TB(0) | CM(24)

般若心経のまとめ 完 

これまで何度かに亘って「高橋信次先生による般若心経のまとめ」 編集者 田口恒勇氏がまとめられた冊子(非売品)の転載は、今回で残りの全部を紹介させて頂きますので、これが終了となります。般若心経では一番重要な箇所でもある「色即是空 空即是色」の色心不二(しきしんふじ)については前回紹介させて頂きましたので、今回はこれまでよりも、ますます長文ですが一気にその続きを載せております。

読み逃げ・スルー・斜め読みは大歓迎♪ (≧m≦)ぷっ

以下、転載です。

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受想行識(じゅそうぎょうしき) 亦復如是(やくぶにょぜ) 舎利子(しゃりし)

これを直訳すると「行為は心の反映であり、心は行為に影響される。つまり、色即是空、空即是色と同じ意義を持っている。舎利子よ」ということになる。

心の世界である意識界は次元の異なる四次以降の世であり、総てのものの根本である空(くう)の世界、実在界である。
一方、現象界である色(しき)の世界は、実在界の投映にはちがいない。しかし現象界の動きは、実在界に影響を与えるのである。
実在界の地獄は、既述したように、現象界の人々の想念と行為がつくり出したものである。この様に、心と行為、意識と肉体というものは、常に相関関係にあって、個々バラバラに独立したものではない。
また私達の肉体は現象界に適応した心の乗り舟であり、それは子孫を保存させるために、神が人間に代々にわたって本能という機能を与えたものである。その本能は、人間が肉体を持った時に、付与されるのである。
私達は、意識と肉体を持って生活している。いうなれば、あの世とこの世、実在界と現象界を合わせ持って生活していることになる。
仏教でいう色心不二とは、この実相を悟った状態をいうのである。調和された姿を色心不二という。ここでの項は、心と肉体というものは、相互に関係し合っているのだ、といっているのである。

是諸法空相(ぜしょほうくうそう) 不生不滅(ふしょうふめつ) 
不垢不浄(ふくふじょう) 不増不減(ふぞうふげん)

是諸法空相の諸法をそのままうけとると、法は沢山の数を成していると考えがちである。
そうして、その場合の法とはなにを意味するか、と思うでしょう。
法は本来一つしかない。それは中道(ちゅうどう)という調和の心である。
ただ、この地上世界は動、植、鉱の三種の形態から成っており、また天台宗をひらいた天台智(てんだいちぎ)は地・水・火・風・空から出来ているともいっており、姿、形がさまざまである。
そのさまざまの物質は、それぞれの体質にしたがって転生輪廻しているため、個々の体質をみていると、法はいくつもあるとみえてくる。だから、諸法は・・・・・となったのである。
しかし、さまざまの物質がその体質にしたがって維持されているにしても、転生輪廻という法の体質と、その法を支えている中道の心は少しも変わってはいない。
生命も物質も、中道の調和から外れると、バランスを失い、不調和を来たす。破壊である。 
したがってここでいう空相とは、諸法の中にかくされている中道の神理(タルマー)をいっているのであり、諸法は空相によって支えられると解釈する。

次の不生不滅―― のくだりについては、その中道(ちゅうどう)の心は、「生れず滅せず、垢(あか)つかず、浄(きよ)らかでなく、増えることも、減ることもない」と、なってくる。
さあ、こうなると、中道の意味が解らなくなってくる。中道とは大自然の心である。

人間の魂は、この世を終えれば、あの世に帰る。生死の境を、さまようこともない。
本来、そのように出来ている。
物質についても、その物質が分裂しても、粒子エネルギーは、この大宇宙に存在し、形はなくとも、無になることはない。いわんや、増えたり、減ったりすることも、もちろんない。
このように、あらゆる生命、エネルギーは、生き通しのものである。垢もつかない。不浄でもない。
地上世界をみていると、死んだり、生きたりで大変いそがしい。
親子兄弟でも、性格も考えもちがっている。同じ精子と卵子の結合物であるのだから、親に似ていい筈だが、ちがう。なぜだろう。
それは生き通しの、魂がちがうからである。懐妊すると、食べ物が変ってくる。今まで甘いものが好きだった人が、すっぱいものを口にする。そうかと思うと、妊婦の性格までちがってくる。気持が荒々しくなったから、お腹の子は、さぞ男の子だろうと思っていたら、案の定、男子が生れたなど。こうした現象は、お腹の子の魂がちがうから妊婦の趣向や性格まで複雑にしてくる。懐妊すると二重人格者にしてしまう。一つの躰に、二つの魂が同居するから、いたしかたがない。
腹を痛めた我が子と思うと、親は、自分の思う通りに子が動いてくれないと面白くない。
たとえば、白といえば黒という場合すら出てくる。
しかし、魂がちがうのだから、いくら腹を痛めても、子は自由にならない。自由思想が氾濫(はんらん)する現代では親子の断絶、相剋がいっそう激しさを加えている。
当り前といえば当り前だが、しかし、親子の約束、人間としての条理を外した末法の考え方がそうさせるもので、魂がちがっても、そういうものではないのである。
ただ、ここでは、親子といえども、魂はちがう。いわんや兄弟姉妹においては、なお更ちがうということを知って欲しい。
魂はちがっても、肉体遺伝はある。たとえば胃腸が弱い、胸が悪い、心臓病にかかりやすい、という体質をうけたとすると、そうした病気に、その子がかかりやすい。もちろん、心の調和をはかっていれば、肉体遺伝は克服して行く。

メンデルの遺伝の法則は、魂については全然無関係である。肉体的には避けられぬ因子のあることは前に述べた通りであり、細胞学の面でもその事実が発見されつつある。現代人もそうであるように、多くの人々は遠い昔から、肉体先祖と魂を、いっしょくたに見てきた習慣からなかなか抜け切れない。その理由は、死後が不明なことと、生れてくる前の状況が皆目見当がつかないからである。進化論が幅をきかすのも、無理はないのである。
しかし、さきにもふれた通り、親子の魂の相違というものは、昔も今も変らない。自由放任の現代思想がそうさせたものでは決してないのである。
もっとも、遺伝学的に、学者の家系は学者が多く、浮浪者や酒のみの家系は犯罪者、自殺者が出る、という傾向はたしかにあろう。しかしこれらは体質遺伝というより、魂の転生輪廻における業が、そうさせてしまう場合が多いのである。

まず、人間の出生について述べていこう。             
親子は、現象界に出生する前に実在界(あの世)で約束を交す。親になる者は、子よりも二十年も三十年も前にこの世に出生してくる。この世に出た親となる魂は、幼少から少年、青年に進むにしたがって、自我が芽生え、環境に流される。もちろん環境に負けない魂もある。やがて、結婚し、子をもうける。
その時、親となる魂が環境に負けて、実在界で学んだ目的と役目を忘れたとする。約束を交した子の魂は、四次元以降多次元の世界から親の行動を見て知っているが、一旦約束をした親子の交わりを破約し、他の子になるというわけにはゆかない。混乱が起こるから
だ。親となるその人が、約束通りの行動をしている場合はいいが、そうでない時には、その子となる魂は苦痛そのものである。俗に、親の罪は子にない、ということがあるが、本当に子に罪はないのである。
親が環境に負けたのは、過去世の業にひかれたためである。過去世で酒に失敗し、あの世で酒に負けない自分をつくり、その自分を試すために現象界で修行をする。修行のあり方は酒がのめるような環境が本人が知らぬ間につくられてくるのである。本人が知ってしまっては修行にならないからだ。
子の方も、過去世で酒で失敗している。そこであの世で、親と子になる魂同士が、たがいに、それに負けない自分を磨き、今度はしっかりやってこようといって、まず親が出、次いで、子が出生してくる。ところが、前述の通り、親は再び酒で失敗し、子となる魂がそれを出生する前にあの世でこれを見て、困ったと思っているが、しかし、親子の約束を交わした以上、他にくらがえするわけにはゆかない。失敗している親の下に出生し、再び、自分もその渦中におぼれていく場合が非常に多いのである。
この例は、親子の一つの型を示したにすぎない。
現象界は性が混乱し、産児制限が流行しており、親となる魂の安定性が非常に困難になってきている。そこで親子の約束は、時間的にも、実際的にも、果たさずじまいに終る場合も多い。
また、子となる魂があの世でまだ修行中であるが、親となる魂の無節操な行動によって、現象界に引きづられて出生してくる。こういう場合は、犯罪や混乱を起こしやすい。
実際的な面では、当然生れて来たにもかかわらず、さまざまな理由をつけて、あの世にトンボ返りさせてしまう。つまり、受胎した子をおろす。
こうしたことで、親子の約束がその通りに行く例は、限られてくる。夫婦の約束にしてもそうなのだから、現象界での魂の修行は、見様によっては容易ではないといえよう。
しかし人は縁によって、縁を通じて自らを修行する者であるし、その縁も、自らが求めてつくられて来たものであるから、与えられた環境、境遇に負けない自分をつくってゆかなければならない。
さて、話は前に戻して、肉体遺伝はさけられないが、魂については、こういうことで、親子であっても全然異なるし、親が酒のみだから、子も酒のみというのは、類似の業がそれをさせるのである。
魂と肉体を、いっしょくたに見ることは皮相も甚だしいといわざるを得ない。
しかし、現象界の人達は、あの世が解らないし、過去世も忘れている。そうした中で生活しているのであるから、世襲(せしゅう)が社会組織の中核を為してきたのも、いたしかたがない。
しかし、世襲が社会制度的に矛盾を含み、混乱のモトをつくってきたので、こうした矛盾は、時代が進むにしたがって訂正されつつあることは喜ばしい。
ともかく、魂こそ、生れることもないし、滅することもない。魂の内面は、神の子としての光で輝き、そこは垢もつかず、浄らかであるということもないのだ。ましてや増えたり、減ったりすることもない。全(まっとう)なる自分があるだけである。

是故空中無色(ぜこくうちゅうむしき) 無受想行識(むじゅそうぎょうしき) 
無眼耳鼻舌身意(むげんじびぜっしんい) 無色声香昧触法(むしきしょうこうみしょくほう) 
無眼界(むげんかい) 乃至無意識界(ないしむいしきかい)

これは、「これの故に空(実在界)の世界は、色もなし、想行識を受けることもない。眼耳鼻舌身意もない。色も声も香も味も感触も、肉体的現象の法もない。眼で見える境界もない」と、いうことになる。
空中の電波、空気、紫外線、赤外線などは目で確めることが出来ない。ただ、碧(あお)い空のみが映る。
が、大気中にはあらゆる物質を構成するところの分子、元素が分散されている。そしてすべての物質は仕事をなし得る能力、エネルギーを含んでいるのだが、これとて見ることができない。
五官で感知する範囲は大したことでないことを知るべきだ。
五官に意を加えたものを六根という。
通常その意は、五官を通して働いているが、五官を離して働くようになると、五官で感知出来ない世界を覗くことができる。これを心眼という。
心眼が開くと、次元の異なる空の実在界を見ることが出来、現象界と形態がちがうことを知る。

たとえば、この世は平面的だ。あの世は段階的にできている。
段階的とは心に応じた世界をつくっているのである。自分より意識の低いところは見えても高い世界を見ることが出来ない。この世は、意識が高い低いにかかわらず、誰とでも会える。それ故、平面的なのだ。
この点をもう少しみていくと、あの世は、ビルの生活と思えばよい。一階、二階、三階、四階と、それぞれの階層をつくり、一階から二階に行くには階段を上らないと上には行けない。エレベーターは全然ないのである。階段の一段一段は、修行を意味する。心のひろがりが広がることによって上に進むのである。
各階層は、それぞれに応じた地域社会をつくっている。丁度この地上の下町、山の手というように、いわば類をもって集まっているのである。
このようにあの世は、それぞれの心の世界をつくっている。眼耳鼻舌身の五官と、それにもとづく意が働く、この世とはまるでちがう。そうした意味で「是故空中無色」という言葉になってくる。
「・・・・・無意識界」というのは、五官の働く意識を越えているということで、意識界が無いということではない。
現代人は多忙である。その多忙さは物質的過剰欲求によって生じているが、これは肉体が絶対という考え方が強いからである。世の混乱は、不変的な魂、そうしてその魂の中心である心を忘れることによってつくり出される。

無無明(むむみょう) 亦無無明尽(やくむむみょうじん) 
乃至無老死(ないしむりょうし) 亦無老死尽(やくむろうしじん)
無苦集滅道(むくしゅうめつどう) 無智亦無得(みちやくむとく) 
以無所得故(いむしょとくこ) 菩提薩埵(ぼだいさった)
依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ) 
心無罣礙(しんむけいげ) 無罣礙故(むけいげこ) 無有恐怖(むうくふ)
遠離一切転倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう) 究竟浬槃(くぎょうねはん)

無無明とは、無明がないということで、迷いのない世界。
亦無無明尽は、無明のない光に満ちた、そうしてその光が尽きることのない世界を、ここでは強調している。
あの世は波動の細かい世界である。この世のように荒くない。
この世は、人間の意識を含めて、10%の波動で成り立っている。動物も鉱物も植物も、すべて10%の波動で現象界が出来上がっている。だから、回転が遅い。思うこと、考えることの結果が、一定の時間をかけないと出てこない。それがまた現象界の救いになっている。
しかし人はそのために、心を見失う原因にもなっている。この世は一見して、悪が栄え、善が日陰にちぢこまっているようにみえる。正直者がバカを見、悪徳がのさばっている。
悪とは人のモノを盗む、人を殺める、人が困っていても見て見ぬふりをするなどであるが、その根本は、自己保存、自我我欲から生じてくる。悪の根源は自己保存である。人のことを構っていれば食べていけない、ということから、人は次第に、欲望の渦中にはまりこんでゆく。
労使の闘争、物質至上の思想が幅をきかし、不安と競争が生活をエンジョイすると錯覚してしまう。
こうして自己保存の悪は、人々の心をむしばみ、自己保存が文明の支柱のように見えてくるから不思議である。しかし、こうした人々が、この世では栄えているように見えても、あの世に行けば地獄である。
この世は波動が荒いため、自己保存の悪はスグにはハネ返ってこないからだ。怒りや、ねたみ、心配事が重なると、血の循環を悪くし、食欲が減退する。感情が肉体に及ぼす影響は極めて早いが、知的な悪の反作用には時間がかかる。
男より、女に病人が多いのは、感情に心が奪われるからといってもいいが、知的な悪は、十年、二十年の長期を経て、ジワジワと自分に返ってくる。だから、こうした例は在世中に結果を見ずに終る場合が多いので、悪人志願が後を絶たないといってもいいかも知れない。

秀吉という男は草履(ぞうり)取りから、位人身を極めた。今日、秀吉の魅力は大分半減したようだが、それでも出世主義は男の生甲斐になっている。
秀吉は謀略(ぼうりゃく)の名人で、敵対する者は、ことごとく殺し、我が世の春を謳歌(おうか)する。しかし、その反動は死の数年前から現われ、彼は自分の悪を清算できず、あの世に帰った。
人のうらみ、ねたみもあって、彼は地獄で、今でも苦しみ、暗い世界でまだ号令をかけている。ところが号令をかけると、在世中、憎しみをいだいて死んでいった多くの人々の呪いの顔が彼の眼前に現われ、彼を苦しめる。
彼の謀略は、地獄では通じないのである。謀略の想念がスグ様自分にハネ返って来て、謀略で倒された人々の怨念が、彼の身と心を八つ裂きにするからだ。八つ裂きにされても、彼は死ぬことは出来ない。息をふきかえし、我にかえると、また彼は号令をかける。また八つ裂きに合う。こうした繰り返しの中で、身も心も細る生活を続けている。
現象界では謀略によって、天下人になっても、あの世に帰れば、一転して地獄である。その地獄も、自分の想念と行為の清算のみでなく、人々の怨念がプラスされる。

一方、歴史の上では悪の代名詞のようにみられてきた明智光秀は、神界にあって、自適の生活を送っている。
殺された信長も秀吉同様、今以って地獄にあるのに、殺した光秀が神界に在るとは、誰しもげ解せぬであろう。
殺された信長は権力の盲者であり、殺戮(さつりく)に快感を覚える精神異常者であった。
殺した光秀は平和主義者であり、このため信長を討つことに随分と迷う。
しかし世の混乱のモトは信長にあり、逆臣(ぎゃくしん)の汚名を着せられても信長打倒に意を決し、本能寺を襲う。
勿論、こう決心するには、秀吉の奸計(かんけい)が裏で働いていた。彼は、信長に光秀謀反(むほん)を伝え、光秀には信長打倒を促(うな)がしている。
光秀はこれに感づいてはいたが、敢えて信長打倒に踏み切ったのである。
本能寺の変を知った時の秀吉の喜びようは大変であった。彼はこの時、天下人の夢を我がものにしたのである。
謀略によって、戦国の覇者になっても、落ち行く先が地獄では間尺に合うまい。栄誉栄華の期間は短かく、地獄が何百年も続いては、どう転(ころ)んでも計算が合わないからである。
このように、この世に悪が栄えても、そうした悪は続くものではないし、悪を犯した人々の行き先は、この世で結果をみなくてもあの世で清算させられることを知って欲しいものである。

執着を離れたあの世の世界は、光明のつきることのない平和な楽土である。田園の緑は太陽の光を浴びて生々と育ち、人々の生活は、自由に、明るく、伸び伸びとしている。食生活に心をわずらわされることもなく、仕事に追いまくられることもない。信頼と友情によって人々は結ばれ、科学者は科学を、絵画きは絵を、建築家は建築の仕事に、一心を傾ける。
人によっては守護霊となって、現世に修行する魂の兄弟を守り導く者もいる。また守護霊になって、そうした魂の努力に応援をする人もある。
あの世にあって、あの世の諸霊を、より向上させるため、正法にもとづいた政治、経済、教育、科学などを教える人もいるが、安らぎと慈愛の生活は、そのまま光明となって、いつまでも続いていく。光明の毎日が、尽きることがないのである。
こういうと、人によっては、喜怒哀楽(きどあいらく)、善悪混合の変化のない世界はつまらぬ、という人がいるかも知れない。
ところが、こうした世界でも、ちゃんと感情があり、変化があるのだ。感情や状況の変化は、地上のそれとはちがった次元で存在し、あきたり、退屈するなど全然ないのである。
もっとも、あきたり、退屈するような人々は、こうした世界に住することはできないが。

さて次に無老死とは、年老いて死ぬことがない、亦無老死尽とは、老いることも、死ぬこともない、ということである。
秀吉が死ぬことが出来ないのは、あの世というものは、実在の世界であり、心の世界でもあるので、苦しみの責めをうけても、死ぬことが出来ないのである。
思うこと、考えることがスグ様現われ、そのことが何時までも続くのである。だから地獄に堕ちると大変だ。謀略策士(ぼうりゃくさくし)の心が変らぬ限り、そうして、人々を泣かせた怨念(おんねん)が晴れるまで、秀吉の苦しみは続く。苦しみの連続だから反省ができない。誰しもそうであろう。
ひどい腹痛や頭痛の際に、どうしてこうなったかと、反省できるだろうか。反省できる心の持主なら、そうした事態に見舞われることは、まず少ないだろうが・・・。
天上界の無老死、亦無老死尽も、これと同じで、調和された世界では、そうした状況の中で、老いることも、死ぬこともないのである。働きやすい年齢が、半永久的に続き、仕事も、能率も上がるのである。

無老死、亦無老死尽は、主に天上界についていっているが、しかし前にも触れたように、地獄に堕ちた魂についても、その苦しみは果しなく続く。これはあの世の世界が、実在の世界であり、思うこと、行なうことが、そのままスグ様現われ、しかもこの世とちがって、すべてが消えて無くならないように出来ているからである。
この世は、肉体的に苦痛であれば、麻酔によって、その苦痛からのがれることも出来るが、あの世は、心のままの世界をつくっているので、その心を変えない限り、苦痛から解放されることがない。
老いた気持が心を支配していれば、何百年経っても老人である。光子体の肉体は若さをとり戻すことは出来ない。
ともかく、あの世は「心のまま」の世界をつくっているが、この世は、心と肉体の三次元の世界であり、無老死、亦無老死尽は、あの世の姿を端的に述べていることを知って欲しい。
無苦集滅道は、文字通り、あの世の天上界は、生死の苦しみから解脱する正しい道を悟っているため、常に神の意識と通じ、調和されていて、迷いは無いのである。迷いのあるのは、あの世の地獄と現世の肉体を持った人間である。よくよく心しなければならない。

無智亦無得(むちやくむとく) 以無所得故(いむしょとくこ)

天上界にあっては、才能によって得る所得、つまりは、地位や名誉や財産というものは、一切無い。神の子としての自覚と責任しかない。その自覚や責任も、無理無理そうするのではなく、当然のこととして現われてくるのである。
自然法爾(じねんほうに)という言葉がある。この意味は、法のままに生きる、ということであり、神の意識が、その、心に同通されて、無理なく行える心と行為を指すのである。
あの世、天上界もこれと同じであり、すべてが自然にそって生かされ、生きている。
あの世の経済について大分類すると、大体、三段階ぐらいにわけられよう。
第一段階は、純然たるバーター制である。欲しいものがあれば、自分の持物を相手に渡し、その相手方から求めるものを得る。
第二段階は、この世の流通機構と、やや似ており、物々交換の媒体として貨幣(この世とは異なるが)が使われている。第一段階より、経済組織が複雑であり、この世的にいう文明は、現世より進んでいる。
第三段階は、物々交換も、貨幣も使われず、必要なものは何時でも得られる世界である。この世界は、いうなれば天使が住んでいる階層であり、心と物とが忽然と溶け合っている。

無智亦無得という世界は、この中の第三段階を指し、したがって、智による所得を必要としないのである。地上でも、衣、食、住が十分であり、満たされておれば、金銭の欲望は起きてこないだろう。
それと同じという意味ではないが、必要なものは何時でも得られるので、金銭的媒体物、あるいは物々交換の必要に迫られることがないのである。
ここで、第一、第二の世界が、それぞれ物や金を対象としているので、この世の金が使えないだろうか、と思う向きもあろうが、次元がちがうのでもちろん役立たない。
「冥土の沙汰も金次第」というが、これはもともと貧に対する苦悩から出た言葉なので、問題にならない。
実在界は、すべて心の調和度にかかっている。調和度とは、神の心に適った心の状態をいうのである。
神が地上の人類に望まれることは、右のような第三段階の世界の心に、人々の心が同通されることであり、五官六根に左右されない、正道に適った生活である。

菩提薩埵(ぼだいさった) 依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ) 
心無罣礙(しんむけいげ) 無罣礙故(むけいげこ) 無有恐怖(むうくふ) 
遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう) 究竟浬槃(くぎょうねはん)

無罣礙とは、心にとらわれがない、ひっかかりがない、わだかまりがない、ということだ。だから恐怖の念がない。正道に反した、さかさまの物の見方、考え方がないから、神の心に通じ、もっとも偉大なる悟りに達している。それを菩提薩埵という。
一切の諸現象は心から生ずる。丸く大きな豊かな心を有しておれば、恐れも、慢心も起きない。とらわれが多く、肉体の自分が自分であると思うから、苦しみ、悲しみがついてまわる。夢をみていてはいけないのだ。我々は白昼夢を見ている。腕をツネれば痛いし蚊にさされればかゆいので、つい肉体の全部が自分であると思ってしまう。しかし、本当は、肉体の自分以外に、もう一人の自分がいて、その自分が肉体と一緒に生活しているのである。無情の現世をみると、誰しもが薄々感じられるのではあるまいか。
無罣礙の心は、何も人間だけではない。導体に電気を流すと、その導体に抵抗が多いと電気のエネルギーは熱エネルギーに変わってしまう。電気の役を果たすことが出来ない。
血管にコレステロールがたまると、血行が思うようにゆかず、血管が破裂したり、血液の流通をとめてしまう。
万事がそのように出来ているのだ。自然は、私達人間に、神理を教えている。その神理を一つ一つ悟る必要があろう。
究竟涅槃とは、表面的な解釈は釈迦の入滅を指している。つまり、不生不滅の状況を「涅槃」といっている。
現世からみると、入滅(実在界に帰る)は、永遠への回帰にちがいはないが、本当は肉体を持ちながら私達の魂は永遠の中にあるのである。ただ現世は、肉体と共に魂があるために、極めて不安定な、そうして有限の迷いの多い、それのように思ってしまうだけである。
釈迦は三十六歳で「宇宙即我」を悟った。悟ったとは人間の魂は不生不滅であり、死ぬことも、生きることも区別できない、そして、大宇宙と倶にあるということを知った。この時点で、釈迦は、涅槃の境涯をつかんでいたのである。四十余年後の肉体的な死が涅槃というのではない。
ただし、三十六歳で大いなる悟りに達し、その後、その悟りの内容が次第に幅広く、深く、濃密になって、入滅の瞬間に人間としての全きを得たといえる。
したがって、この意味からすれば、釈迦の入滅は、人類が待ち望みながらも、容易に果し得なかった最高の悟りに達したといえなくはない。
しかし普通の解釈は、肉体の迷いから、永遠の生命に帰られ、二度とこの世に生れることがないと考えられている。生命の転生輪廻を黙殺する。解らないためである。同時に、不安定な現世に対する人々の希望が、そう解釈し、そう解釈させて欲しい、と願うからでもあろう。
何れにしても涅槃の解釈は、頭では割り切れない。物理的現象のみでは誤った方向にゆきやすい。心の問題は、心を本当に理解しないと間違いを犯そう。
話しは変るが、大抵の人はもう二度とこの世に生れたくないと思っているだろう。あるいはそう思うことがあるだろう。これは、あの世の生活とこの世の生活に大きなズレがあるためであるし、10%の表面意識の自我にもとづく我侭な心がそうした想念を生み出しているからである。したがって、魂の転生輪廻と聞いて、人によってはウンザりしている者もあろう。ところがあの世にいる魂のグループ、つまり魂の兄弟達は、そうは思っていないのだ。むしろ自分のためとして、現世におるその兄弟を守り、無事に修行を終える事を願っている。魂の前進は、現世に出て、はじめて可能だからである。あの世の修行は、先が見通せるだけ修行にならない。原因と結果が解ってしまうからだ。現世はそれが解らない。解らないから価値があり、魂の前進は人間である以上、さけることの出来ない天命といってもいい。

三世諸仏(さんぜしょぶつ) 依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ) 
得阿耨多羅三藐三菩提(とくあぬくたらさんみゃくさんぼだい) 
故知般若波羅蜜多(こちはんにゃはらみった) 
是大神呪(ぜだいしんじゅ) 是大明呪(ぜだいみょうじゅ) 
是無上呪(ぜむじょうじゅ) 是無等等呪(ぜむとうとうじゅ)
能除一切苦真実不虚(のうじょいっさいしんじつふこ) 
故説般若波羅蜜多呪(そせつはんにゃはらみったじゅ) 即説呪曰(そくせつじゅわく)
掲諦掲諦(ぎゃていぎゃてい) 波羅掲諦(はらぎゃてい) 波羅僧掲諦(はらそうぎゃてい) 
菩提薩婆呵(ぼうじそわか) 般若心経(はんにゃしんぎょう)

読者はこれまでの解説で、大体おわかり戴いたと思う。あとは、これを生活の上に生かして行くかどうかによって、本当に理解されるか、頭の遊戯に終るかの分れ目になろう。
さて、最後の解説に入るが、これを直訳すると次のようになる。
「三世の諸仏は、般若波羅蜜多に依るが故(ゆえ)に阿耨多羅三藐三菩提を得ることができた。それ故、般若波羅蜜多は是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。よく一切の苦しみを除き、うつろなることのない真実のもの般若心経の神理を説くことにしよう。
即ち呪を説いて曰く。掲諦掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆呵 般若心経」

まず三世の諸仏だが、これは過去、現在、未来を通して悟られた、あるいは悟られる人びと、仏を指している。
阿耨多羅三藐三菩提を古代インド語でアーヌクターラーサンミャクサンボディーと発音する。漢字はこの発音に当て字したものである。
この意味は、光明に満ちた金剛界あるいは無色界という光一色の世界、色のない世界、欲望のない世界、慈悲と愛の世界、如来の住する大天使の心の境地をいっているのである。
ボディーとは悟りの意で、ゴーダマが背にし瞑想に耽ったピパラの大木をとって「悟りの樹」、つまり悟り、菩提ということになる。
サンミヤクサンボディーの三は、三という数はどこまていっても割り切れない数、無限大を意味する。三千世界、一念三千という言葉もある通り、昔の中国では三を取って、その大きさを表わした。三菩提とは、それゆえに「大きな悟り」「偉大なる悟り」ということになる。

その偉大なる悟りを、是れ大神呪 是れ大明呪 是れ無上呪 是れ無等等呪 と賛美している。中国の表現は、みようによってはオーバーだが、しかし釈迦の悟りはそれほど大きなものといっているのである。
大明呪とは、偉大な智慧をいっている。仏智である。
                             
ここで知識と智慧について考えてみよう。
ふつうはこの両者を混同しがちである。ところが、中身がちがう。どう違うかというと、平たくいえば、知識とは今世で学んだものだが、智慧とは、過去世に蓄積された人生経験である。    
学者は智慧者かというと、そうではない。
学者に政治や実業をやらせたら、おそらく失敗するだろう。大きな組織の中で動いている時はいいが、一朝コトがあると判断を誤まる。政治や実業というものは、理屈通りにゆかない場合が多いからだ。
知識は私達の狭い日常生活における経験をある程度補ってはくれる。が、役立たぬことの方が多い。大学で学んだ知識、新聞や本で得たことを実生活に応用しようとすると、間違いや人との意志の疎通を欠くことがしばしばだ。
私達の個人個人の一生における生活経験というものは非常に狭い。サラリーマンは、家と会社の間を往復し、商人は商売の筋道は解っても、人の商売の善し悪し、苦労は解らない。家庭の主婦は、家の中のことは解るが、外で働く夫のさまざまな経験は、想像は出来てもその範囲を越えることが出来ない。
しかし何れにしても、実生活で私達がアテに出来て頼りになるものといえば、狭いながらも人生で経験した事柄であろう。経験ほどたしかなものはないし間違いも少ない。智慧というのは、そうした経験して得たもの、過去世で蓄積したものが、私達の心の中に内在されているものである。そうして、その内在された生きた経験が心の窓を開くと、流れ出てくるのである。
智慧は知識の範囲を超越している。私達の過去世は、王であったり、医者であったり、武士であったり、坊主であったり、農夫であったり、科学者であったり、文学者であったり、政治家であったりしたこともある。そうした人生の生々流転の経験が、心の窓をひらくことによって、現世における狭い経験を補ってくれる。

問題にぶつかった時、何をどうずれば良いか。
それは智識では得られない示唆に富んだ指示が得られる。その人の過去世がバラエティであればある程、あらゆる諸問題に対して、解決を与えてくれる。今世の経験が、仮りに商人であったとする。商売はあきずに商いすることだといった、ついこの間までのやり方では、今日では落伍するかも知れない。目先きをきかし、政治や全体の問題に常に関心を払ってゆかなければ損をする。
そうした時に、その人の過去世が政治や経済家として生きた経験があれば、その経験が、その人を導いてくれるだろう。
要するに智慧というものは知識ではない。生きた経験の集積なのだ。そうした経験が、折りにふれ、縁に触れ、ひらめいてくるのである。人によってはもっと具体的に流れてこよう。
では過去世で未経験の者はどうか。経験のない者は、いつの世でも泣いて暮さなければならないかというと、そうではない。経験のない場合は、経験のある人が、その人を指導してくれる。つまり、指導霊がその人の背後にいて指示を与えてくれるのだ。
指導霊がつくには、それだけの努力と一念が必要だ。何もしないで、天から湧いてくることを願っていては、何も教えてはくれない。与えられた環境、立場に対して、精一杯努力するところから教えられる。

また心の窓を開く、開かないについても、開いたから何んでもわかる、開かないから不明というものでもない。問題は、現実を怠たらず、努めるところに、智慧の泉をひもとくきっかけをつくるのである。                   
よく悪知慧が働くというのがある。秀吉なぞはその最たる者だ。こういう場合は、悪魔が背後にいて、それを教える。蛇とか悪魔というのは、自分のことしか考えない。しかし才覚は働く。蛇にもいろいろあり、悪魔もさまざまである。病気をさせあの世に引き取るもの。殺人を犯すもの。人をおどし喜ぶもの、人を拝(おがま)せ得々(とくとく)とするもの。才覚を働かし、威張りたがるもの。その種類は千差万別だ。
本来の智慧はこうではない。正道に適った智慧なのである。人の心を豊にし、周囲を明るくし、たがいに扶け合い、笑い合って、調和という神の意思に励むなかから生れる。したがって暗さがない。明朗そのものだ。
仏智の智慧は、過去世の経験された調和の集積であり、神の心に同通した全能の智慧である。

(※ここからは以前に紹介しました、「般若心経のまとめ」の最初の記事と重複します)
釈迦は、三十六才で悟った。
悟ることによって、現象の奥にかくされた一切の道理を知った。そうして、よどみなくあふれる智慧によって、多くの衆生を導いていった。三十六年間の経験だけではこうはいかない。偉大なる悟りを得、心の窓をひらき、過去世の集積された経験と全能の智慧が、正法流布の大事業を完成させたのである。


*******************************************************

転載以上。

高橋信次先生は、有名な歴史上の人物が生前に行ってきた事に対して死後、その方々がどのような世界に帰られてあるのか、という話は講演などでは数多く事例を語ってあります。今回書かれてあるのは戦国の人物ですが、二人の武将の死後は無間に引き適する最たる厳しい修行の世界に身を落としております。
もし信長が、イエズス会の宣教師サビエルが伝えるデウスの神の福音を静かに耳傾け、人間は永遠の生命が存在することを心から少しでも察知していたならば、死後の自分をそのような境地に立たせるようなことは、自らそうしなかったことでしょう。


ところで私の手元には簡易冊子にした、「正法の三本柱」というものがあります。
これは高橋信次先生監修による、いわば教材です。高橋信次先生の著書、講演のエキスのみを集められたものになっています。
その三本柱は、「神の意義」 「循環の法則」 「慈悲と愛」となっており、各項目は幾つかに細分されています。
いずれか機会がありましたならば、抜粋して紹介させて頂きます。


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タグ : GLA誌に連載:般若心経解説



[ 2009/01/20 16:31 ] 随 想 | TB(0) | CM(10)

まじ! で、当たってるぅ 

先日、職場に一本の電話。


ゆき)  はい。○○塾でございます。

福の神)  もしもし、そちらは○○さんの息子さんの職場でしょうか?

ゆき)  はい。そうです。私です。どちら様でしょうか?

福の神)  実は私は、あなた様のお母さまと以前に同じ○○病院で入院していた時に知り合いまして年賀状を送っていました。

ゆき)  そうでしたか。母親がお世話になりました。

福の神)  私は○○という者ですが、私の年賀状は見ましたか? その年賀状が一等に当選ですよ!

ゆき)  えっ。そうなんですか。ありがとうございます。確認していないので、まだ分かりません。

福の神)  ちゃんと当たっています! お母さまはご存知ではないのですか?

ゆき)  何も聞いていないので、おそらく確認していないと思います。

福の神)  では、お母さまに報告と確認をされてください。私からも直接電話してみたいので、ご自宅の電話番号を教えていただけますか。

ゆき)  はい。実家の電話番号は○○-○○○○です。でも、どうして私の職場が分かったのですか。

福の神)  入院している時に、息子さんのことは伺っておりました。 

ゆき)  そうでしたか。では私も確認してみます。お電話ありがとうございました。


というやりとりで、電話をおきました。

しかし・・・自分が出した年賀状の番号をしっかりと控えている方もあるんですね。
今年の年末年始、そしてこれからも春まで例年に無くバタバタしますので、年賀状の当選番号確認なんて考えもしていませんでした。
そしてまさか、一等なんて先方の控え間違いとばかり思っていました。
母親に電話で、「○○さんという方から職場に電話があったばい。その人が出しんしゃった年賀状が一等当選げなばい。知っとったかい。」
母親は、「そぎゃんげなね。○○さんから電話があったばい。今年の年賀状、見た後に、どこに置いたか分からん。」と言っていました。
それから数日後。半信半疑でしたが、実家によって年賀状を探して見つかりました。
母親は、「そいが当たっとるなら景品は、あんたが使わんね。」ということだったんで、職場のPCのインターネットで確認してみると・・・345898 まじで一等が当たってます。
こんなこと初めて。当たっても、これまでは、せいぜい切手シートぐらい。しかも母親に届いている今年の年賀状の枚数は6枚だけ。爆!

すぐ、職場から家内に報告の電話。と同時に一等景品が何かを調べていました。

ゆき)  おい。お袋がもろうた年賀状、まじで当たっとるばい。

家内)  当たっとー?  (だいたいが半信半疑だったので家内には何にも話していませんでした)

ゆき)  年賀状の一等当選! 

家内)  えっ、本当?

ゆき)  お袋は景品は、いらん、てげなばい。

家内)  一等って、何ば貰えると? (家内もまだ、自分たちに届いた年賀状の当選番号は確認していません)

ゆき)  今、調べてみよるところ。 わぁー。AQUOS 32型デジタルハイビジョン液晶テレビ&ブルーレイディスクレコーダーって、あるばい!

家内)  うん。それだけ? 他には? 

ゆき)  全部で6つ。えーっと・・・ ・・・ (他の景品を見ながら、のどから手が出るほど欲しいものがありました!) 

家内)  私が何にするか、自分で好きなもの選んでいいやろー? 

ゆき)   (ここで、「この景品は俺が選んで俺が貰う。」とは、言いきれない自分です。)
(すぐに、)
うん。良かばい。。。(涙をこらえて・・・爆!)  

家内)  ゆっくり考えて選ぶけん、商品がついとるのをコピーして持って帰ってきてよね。


見ると、6つの景品の中に デジタル一眼レフカメラ EOS DIGITAL&プリンター PIXUS、三脚セット が、あるぅ。
以前から、デジ一のEOSがすっごく欲しかったんです。。。
家内は自分用の一眼(子供の学校行事などの撮影用)を持っているので、絶対にカメラは選ばないはず。

いまさら、「自分が選ぶ。」と言っちゃうと、必ず夫婦喧嘩(鉄のカーテン・冷戦)になるので、やめときます。。。

福の神様からの電話が無かったら、母親はもらった年賀状を置き忘れたまま。私もそれを確認などしていなかったと思います。
福の神様。ありがとう!!


※会話が方言丸出しで、意味不明なところばかりだと思います。汗!


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[ 2009/01/28 13:32 ] 随 想 | TB(0) | CM(21)
  1. ..
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