祇園精舎でのハンドクのお話 

GLA関西本部発行月刊誌の2月号には、ハンドクの話が載せてありました。それを紹介(転載)させていただきます。

いつだったか、ある方から頂いた高橋信次先生の個人録音講演テープの中に、高橋一栄先生(信次先生の奥さま)が語られる祇園精舎で修行していたハンドクのお話がありました。公に頒布されていた当時の信次先生ご講演全41巻カセットブックの中の、ある一巻にも研修会時での一栄先生が語られるハンドクについてのお話がありますが、それよりも、もっと詳しい内容だったと記憶しております。
今月号の月刊誌を見て、それも思い出したので詳しいハンドクの話の、そのカセットテープを探すために自分の書庫と自作カセットテープ目録を確認していますが、その録音テープが見つかりません。処分は一切していないので、見つかったら改めてその講演録を紹介させていただきます。

ハンドクは理屈抜きで、生半可な反省ではなく、とてもシンプルなハンドクによる反省の成功事例です。結果、ハンドクは他の兄弟子を抜いて阿羅漢(アラハン)の境地にまでたどり着きました。


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(以下転載)

祇園精舎の近くに、シュリ・ハンドクという男がいました。
近くを通りかかったお釈迦様が「ワアワア・・・」辺り構わず大声で泣くハンドクを見て、
「何故そんな大声で泣くのか。」と聞きますと、
「私には兄がおります。色々と教えてくれるのですが、何一つ覚えることが出来ません。どうすれば覚えることができるのでしょうか。」
と、必死に頼みました。
辺り構わず大声で泣くくらいですから、あまり利口とは言えませんが、彼は正直で勤勉だと見抜いたお釈迦様は、「私のそばにいれば一緒に力になってやろう。」
と言って、ハンドクを連れて帰りました。
精舎では弟子たちが色々と教えましたが、全然覚えません。
日が経つにつれ弟子たちは、これではたまらん。と、みんなお手上げの様子でした。
その様子を見ていたお釈迦様は、ある日ハンドクに、
”塵(ちり)を払い、垢(あか)を除く”
”垢を除き、塵を払う”
「お前はこの言葉を覚えられるか? 言ってごらん。」と言うと、
ハンドクはもう、しどろもどろで、何日経っても覚えられませんでした。そこでお釈迦様は、
「お前は掃除はできるか。人の履いていたものをきれいにすることが出来るか。」
と聞くと、ハンドクは、
「はい、それなら私は何時でも出来ます。」
と喜んで、みんなの履物をきれいにし始めました。
そこで、お釈迦様は精舎のみんなに頼んで、履物の整理はすべてハンドクに任せることになりました。
ハンドクが履き物を揃えたり、きれいにした時に、感謝を込めて弟子たちは、
”塵を払い、垢を除く”
”塵を払い、垢を除く”
と言っているうちに、塵を払い、垢を除くということは、物をきれいにすることだと言うことがハンドクにも解ってきました。
そうして、塵とはどんな物だろう。垢とはどんな物だろうかと、一つひとつ考えていきました。
「そうだ、塵とは精舎の内や周りに溜まっているゴミだ。垢とは服や身体の回りに付く汚い物だ。除くとは、その塵や垢をすべて取ることだ。それが取れたらどうなるのだろう。」 「私はみんなの物をきれいにしてきた。その時にとても気持ちが良かった。そして、心の中までスッキリとしていた。」
ハンドクはこのように毎日毎日実行しながら、心の中の汚れについても考えていきました。
「みんなの履き物の汚れを取ったらきれいになった。それでは自分の心の執着を取ったらどうなるだろう。引っかかりを取った時には、どういうことになるだろう。欲を取った時にはどんなふうになるだろう。」 「欲を取れば特に悩む人はなくなるだろう。引っかかりの中の怒るということは、塵だろうか。垢だろうか。怒るということは自分が傷つくばかりではなく、他人をも傷つけてしまう。この塵はまず取り除くことだ。」 「また、思慮が足りないということは、自分自身にブレーキがかからないことだ。自分がシマッタと思ったら、すぐに直せる心の余裕のない人のやることだ。これでは他人に迷惑をかけてしまう。これではいけない。」
このように、ハンドクは履き物をきれいにし、水を汲み足に注ぐという毎日の仕事の中から
”塵を払い、垢を除く”
という言葉の意味を考えて実践してきたのです。
そうすることによって、自分の心の中と言葉の意味がしっかりとつながってきました。
やがて、自分の心が自分に引っかかりがなくなってきました。
「ああ、この気持ちは素晴らしい。それは塵を払い、垢を除いた結果ではないだろうか。」
ということが、身体中の隅々にしみ渡ってきました。
さっそくお釈迦様の所へ行き、「お釈迦様、私は言われたことを実行してきました。これが、塵や垢を除いた心ではないでしょうか。」
とお聞きしますと、お釈迦様はハンドクに向かって、
「よくやった。一つ覚えの言葉にも神理があるものだ。その単純な言葉が解るということは、お前は馬鹿ではない。利口なのだ。己の馬鹿さを知っている者は利口なのだ。己の馬鹿さを知らない者こそ哀れな人間である。」
と言われたのでした。
ハンドクのように、自分たちの身の回りを清浄にし、心の角(かど)を取り、引っかかりのない生活に高めていくことが、私たちの悟りへの道と言えましょう。
ハンドクは悟ったその後も、
”塵を払い、垢を除く”
を続け、偉ぶる心もなく、後から入ってきた弟子たちの履き物や濯(すす)ぎの世話を続けたということです。

(転載以上)
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高橋信次先生は、心にスモッグを作っている過去の誤りを修正(=心を浄化)するには「反省」が、もっとも近道であると話されます。しかもそれは10%の表面意識(逆に90%が心に深く潜在しているために、あの世の実相を知らないまま)で盲目の人生を歩む人間への、神の慈悲である。とも言われました。
反省が深くなれば誰しも、過去、それまでに自分で自分が気づかなかった誤りとか、その時点の(対人関係であれば)、相手に対する自分の足りなかった思いやりや間違った行動を知ることになります。
普通は(正法を知る前の過去の私の場合ですが)反省というのは、自分が、あるいは他から指摘されて(こちらの方が断然多い!)始めるのですが、能動的には思い出したくも無いような過去の封印しておきたい辛い出来事の、事の原因を(少しずつ心の負担に無理なく)見つけることだったり、または気づけなかった過ちなどを自分から探してみる、ということです。

過去にも書いていたと思いますが、以前に私の職場のすぐそばにある吉本伊信氏流の「反省道場」で24時間の寝食を除く丸一日間の反省三昧を経験しました。私にとって、ここで体験してみての大きな収穫。それは、意識して過去の自分の姿(思っていたことや行動など)を思い出しているときに、『それを客観的に見ようとしないこと』ということでした。客観的に見ようと意識するときに、もうその時点では、頭のてっぺんで考えようとしています。
思考は外して、過去の自分をただ眺めるだけ。
人間としてこの世に生を持っているのであれば誰しも(仮に大悪党でも)慈悲や愛の片鱗は神の子の証として心に内在して持っております。
「ただ、ただ、あの時は申し訳なかった。」 「許してもらえるのものなら許してもらいたい。」 「こんなバカなことは絶対に、もうしたくない。」 自然に流れる熱い涙とともに、素直に、そう思える心境になれば、ここで初めて意識することもなく結果的に自分中心ではなく客観的に自分を見ていることになります。そして過去のその出来事に決別となります。そしてそれを忘れないために、たとえば小さなことでも良いので(たとえば期間を決めての一日一善とか・・・)、またその過去の出来事にまったく関係の無い人、誰でも構わないので、定期的に自分が出来る(ほんの小さなことでもいいので)ことの何かを決めます。 
人それぞれ自分に合った反省方法があると思います。
高橋信次先生が講演で話されていたことです。
先の大戦の一番の首謀者は、獄中にて戦争責任において処刑されます。その方は阿修羅だった自分を、死する直前には、自分が日本の国を挙げて取り返しのつかない多大な国民の犠牲者を出した戦争責任について短い期間に深く、深く反省されました。そして処刑後は戦争責任者としては珍しく、地獄に行くことなく天上界に行けたそうです。その方にとっては反省なんて方法論というものは、その獄中では、なかったはずです。

とっても普通なことなのですが、「反省」を考えると人間ですから、いつのまにかそれに真剣になればなるほど、私の場合、方法論を考えて(思考の渦に呑まれて)いわば、「熱い血が通わない」ようになってしまうことに自分は気づいたのをハンドクの話を読みながら思い出しました。
信次先生は常に「反省」の重視を述べてありましたが、反省に対する方法論の型はありませんでした。きっと方法を形作ったら人はその形にこだわり(このようにあるべきだ・・・など)、こだわると本来の慈愛を感じる心が抜けて肝心の自然と湧出する感情体験ができなくなるから、という理由もあったのかもしれません。瞑想だってそうです。
祈りにしても、私はそうだと思います。生かされていることを実感できて、ほんの小さなことでも、それに関して心から感謝できる自分を、長い道のりですが少しずつ作り上げたい・・・


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タグ : 高橋信次:GLA誌より



[ 2009/02/05 21:33 ] 随 想 | TB(0) | CM(14)

母を憶う 

今、私の手元には装丁が本来の水色が少しばかり私の手垢で汚れた冊子があります。タイトルが「母を憶(おも)う」というB6版サイズの本です。これは前田久吉氏が記念に書かれたのを、後に園頭広周先生が編集されたものです。
この冊子は、随分以前に親交があった国際正法協会の東京事務局に居られたK氏から善意で贈られてきました。

昨年末に開業50周年を迎えた東京タワーのイベントをチラッとラジオで聞いて、この冊子のことを思い出しました。すぐに探しましたが見つかりませんでした。
しかし最近、自分の書斎としている職場奥の本棚を全部整理していて見つかり、十数年ぶりにページを開きました。その頃、贈ってもらったその冊子を初めて読んでみると少しばかり、ジ~ンとくるものがあって、時間をおいて何度か繰り返し読んでいたのも思い出しました。

ご興味ございましたら、どうぞご覧下さい。何回かに文章を分けてUPいたします。

もちろん、読み逃げ・スルー・斜め読みは大歓迎♪ (≧m≦)ぷっ

なお、園頭広周先生の正法協会に関係された方であれば、すでにご存知の冊子かと思います。


・・・私は3月いっぱいまでは個人的なことも含めて今年は例年にないくらい忙しいのですが、隙間時間を利用してブログにこの冊子を少しずつ紹介のための転載をいたします。

しかし仲良くさせて頂いているリンク先の皆さま。皆さまのブログを訪ねて一つひとつゆっくりと読んでコメントを書かせて頂きたいのですが、今はゆっくりと訪問する時間がどうしても持てません。
すみません。少しばかり、ご無沙汰になるかもしれません。
どうか、お見捨てないよう宜しくお願いします。 m(_ _)m ペコリ



では、まずは冊子のまえがきから転載いたします。(この冊子の園頭広周先生のまえがきはかなり長いです。)
そして次のUPでは本文の「母を憶う」に入ります。

以下、転載です。


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「母を憶う」

前田久吉著
園頭広周編
1988年12月20日 正法出版社発行


(まえがき) 前田久吉氏と私

私が前田久吉氏の名を知ったのは、昭和28年、前田久吉氏が参議院議員に全国区から立候補された時、生長の家が応援したからであった。その時私は生長の家の講師をしていたから、立候補の挨拶に生長の家本部に見えられた時に初めてお会いした。

生長の家が教団を挙げて前田久吉氏を応援したのは、前田久吉氏が愛国者であったからである。

終戦直後の事情を知っている者は老齢となり大半が死去しまって全く少なくなってしまった。アメリカ占領軍の政策が日本弱体化政策であって、日本の将来に大きな禍根を残すのであることに気づき、生長の家教団全体をして愛国運動をするようにしたのは私の献策によるものであった。生長の家教団が愛国運動に起ち上がったことによって、それまでアメリカ占領軍の摘発を恐れて鳴りをひそめていた在郷軍人会、遺族会、諸団体なども一斉に愛国運動に起ち上がったのであった。

《中略》

このパンフレットは前田久吉氏が、東京タワーの竣工式に配られたものである。

「私が今日あるのは親の恩を始めとして、たくさんの方々のご恩のお陰であります。今も私のポケットの中には両親の写真がありますが、今日の式に当たり、ただ一つだけ残念なことがあります。私は、菊菜(きくな)を全部買って下さった鍛冶屋のおばさんを探しましたが、恩人のほとんどすべての方々をお招きできましたのに、そのおばさん一人だけは杳(よう)としてわかりませんでした」
といって、ポケットから白いハンカチを取り出されて目頭を拭かれた時のことを未だに鮮やかに憶えている。

生長の家教団が、小・中・高・大学生の研修を始めたのは昭和32年だった。昭和33年から私が指導するようになって、生長の家教団では全国的に研修会をするようになり、現在に至っているのであるが、私はいつも、昭和33年発行のこのパンフレットをテキストにして「親孝行」の大事さを説いてきた。事情あって昭和47年、生長の家教団をやめ、昭和53年に正法会を設立し、また中・高校生の研修を始めた。昭和62年に国際正法協会と改称して、昭和63年8月、岐阜で小・中学生を中心とした研修をした。その時もこの「母を憶う」のパンフレットを使わせていただいた。

中曽根首相の時代になって臨時教育審議会が出来、教育改革をしなければならないという気運が盛り上がってきた。それは中学生が親を殺すという事件や、浮浪者を殴ったり蹴ったりして殺すというような、まことに恐ろしい事件が起こってきて、終戦後の教育はこれでよいのかという、アメリカ占領政策による教育改革に疑問が持たれるようになってきたからである。

恐らくこの「母を憶う」は、私が持っているこの一冊だけが残っているのではないかと思う。
前田久吉氏が東京タワーを作ることを決心されたのも、テレビが普及してくるという時代の要請もあったことであろうが、昭和30年の初期は、日本はまだ敗戦のショックからぬけ切れず、昭和25年の朝鮮戦争による特需景気はあったものの、まだまだ日本人の志気は沈滞していた。それで、世界一高い鉄塔を建てて、日本人でもやろうと思えば出来るのだということを示して、日本人全体の志気を鼓舞(こぶ)しようということもあって計画されたと聞いた。

当時の日本の建築学者にテレビ塔の計画を相談されたら、地震と台風の多い日本では鉄骨だけの塔は立てられないと反対された。それで前田久吉氏はアメリカからヨーロッパを廻られて、主な世界の建築学者の意見も聞かれて「出来る」という自信を持って帰られた。そういうことであったということを生長の家本部で私は聞いた。

私がひそかに尊敬申し上げてきた前田久吉氏のこの親孝行の精神を、一人でも多くの人に知ってもらう方がよいと思い、岐阜の研修会から帰ってきてすぐ、発行所の旭屋書店にこの「母を憶う」の出版権を譲っていただけないでしょうかと手紙を出していたら、旭屋書店の社長早嶋健氏から「出版権は私の所にはありません。前田久吉氏のご子息にお返ししました。あなたの心を伝えてありますから、いずれ何らかの返事があると思います」という返事をいただいた。

9月9日朝、東京タワーの専務である石井田康勝氏から「自由にお使い下さってよろしいです」との電話があり、続いて前田久吉氏夫人の前田ひさ氏より「亡夫前田久吉の『母を憶う』の小誌を、青少年育成のための教材としてお使い下さるとの事、大変有り難くうれしく思っています」というご懇篤なお手紙をいただいた。「親孝行」は人倫の根本である。釈尊もキリストも親孝行の大事さを説かれている。

日本人は親孝行を最高の道徳としてきた。その正しくよい伝統がアメリカの占領政策でダメにされ、今日では親孝行することを罪悪であるかのように思っている若者さえいる。残念なのは学校の教師がそのように教えていることである。

この本は子供に読ませるだけでなく、親自身が読んで親自身がまず親孝行の模範を示すのにはよい本であると思っている。

子は親を見て育つ(子は親の背中を見て育つ)、言った通りにはしない、した通りにする。

昔からそういわれてるように、これが子育ての鉄則である。自分はそうせずにいて、子どもに対してだけやらせようとしても、子供はするものではない。この「母を憶う」を読んで私が最初に思ったのは、このお母さんのえらさであった。

子供のためには、自分の一番大事なものを金に替えてでも子供の望みを叶えてやろうとされた子供に対する愛情の深さ。

菊菜を売った金であって、盗んだ金ではないということがわかった時の素直にわが子に侘びられたその謙虚さ。

わが子を思うことは親として当然の至情である。しかし度が過ぎて、いわゆる教育ママになって、子供をよい学校へやって、やがて一流社会へ、医者へなどと、子供を出世させることによって自分の名誉欲などを満足させ、なんらかの金銭的経済的な見返りを期待しようとする欲望は、かえって子供を害(そこ)なうであろう。昔は「渇(かつ)しても盗泉(とうせん)の水は呑まず」
(※たとえ、どんなにのどがかわいても、黙って人の家の泉の水を呑むことはしない。かならず、そこの人に”ください”とことわってから呑め)
と教えられたものであるが、最近は資本主義思想の影響で拝金主義になり、どんな方法であろうと金さえ手に入れればよいというような風潮になってしまったようで、まことに嘆かわしいことである。

子育ての基本は子供の人格を尊重し親がしてみせることである。子供を一人前の人格者として見ることである。一人前の人格者として見ているから素直に子供に侘びることが出来るし、子供が間違った時に叱ることが出来るのである。

最近、学校では子供が悪いことをしても叱らないようになった。親も叱ることは愛ではないと思うようになった。子供が悪いことをして教師から叩かれたのに,なぜ叩かれたかということは問題にせずに、単に叩いたのが悪い、暴力を振るったといって、愛をもって叩く教師をも攻撃する父兄がふえてきた。昔の親は「いうことを聞かなかったら、叩いてでも聞くようにして下さい」と頼んだものである。

悪いことをしても、叱ることも叩くこともせず、ただ子供の欲望をのさばらせて甘やかせることが愛だと考える人が多くなってきたようである。

こうなってきたのも、アメリカの占領政策の民主化、自由化の影響である。日本人が考えているように、民主主義、自由主義の教育がすばらしいものだとしたら、アメリカでは教育問題など起こらず、非行、暴力を振るう子供もいない筈である。しかし、今アメリカは、子供が親を殺す、教室で先生を殺す、女の先生を強姦しようとする、小学校の高学年では性行為をするなどの事件が頻発してきて、今までの教育は失敗だったというので教育改革をしようとしているのである。

中曽根内閣の時の臨時教育審議会の教育改革案は中途半端になってしまったが、日本でも生徒が先生を殺す、子供が親を殺すなどという事件がもっとたくさん起こって、教師や親の側がたまらなくなってきて、教育改革をと叫ぶようになるまで待っていなければならないのであろうか。

東京で中学生が、祖母と両親を殺した事件があった時、子供が悪いと書いた新聞、週刊誌は一つもなかった。みな「社会が悪い、大人が悪い」と書き立てた。だからなおのこと、殺した少年は悪いことをしたという意識はなく、ケロリとしているというのである。

最近の学校では、社会秩序を維持するための最低限度の道徳的基準すらも教えていない。だから文部省は道徳教育をしなければならないといっているのであるが、しかし学校の教師が反対している。反対する理由には、教師自身が道徳教育をどのようにすればよいのか、その方法がわからないし、手っ取り早くいうと、道徳教育をするようになれば、まず教師自身が道徳的に立派な人間にならなければならないし、そういう立派な人間になるのは困るといっているのである。

アメリカで教育改革をしようとして教育委員会が動き出したが、教育委員会の意見に真向から反対しているのが教員組合である。日本も日教組が反対しているからなかなか教育改革が出来ないのである。

日教組がよくなるまで、子供の教育を待っているわけにはいかない。子供は日々に成長していくのである。であればなおのこと、家庭で親がしっかり教育をしていかないと、子供は大きくなったが親の心配はふえるということになる。

小さい時の子育ての如何(いかん)が、大きくなって結婚生活にも影響してくる。親である人たちにも、もっとよく考えてもらいたいと思ってこの「母を憶う」を読んでもらうことにしたいと思った。

「これはよいことだ」といって、子供にだけ読ませるということにならないように、まず親が実践してみせてほしい。

園頭広周



目次

○前田久吉氏と私

「母を憶う」

○思い出の中より
○生 家
○大学へ行かずとも
○一つの転換


○金持ちの子、貧乏人の子
○野菜車の後押し
○菊菜売り


○桶屋の小僧や丁稚奉公
○新聞との機縁
○新聞配達から経営へ
○人生は日々勝負の場
○最後の一日
○形はみられずとも
○産経ビル竣工の日
○再出発その後


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[次回につづく]


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[ 2009/02/13 18:47 ] 随 想 | TB(0) | CM(10)

母を憶う 2 

前回の まえがき の続きです。

「母を憶(おも)う」の本文にはいります。

以下、転載です。


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「母を憶う」


思い出の中より

年がいくほど回想的になるという。私なども、夜中にふと目がさめ、あれこれと越し方【※編者註:今まで過ごしてきた人生】を思い出し感慨にふけることもしばしばである。今日につづく道は山あり谷ありで、決して平坦ではなかった。その長い道程の間に、常に私から離れず、陰の形によりそうように現われてくるのは両親の姿、特に母の姿である。私が母の可愛い子であり、ひどく心配をかけたせいかも知れない。母が逝(ゆ)いてすでに24年、今なお母は私の中に生きていると、常にその感を深くするのである。

母は昭和10年、68歳で世を去った。私もいつの間にか母の年齢に近くなって、母の折々の心持ちがよくわかる。母について何か書いておきたいと思ったことも再々だったが、多忙のため意にまかせず、それでも時折は思いつくままを書きとめておいた。人に読んでもらおうとは思っていなかったが、すすめられるままにまとめてみた。これは私の追憶に生きるその時々の母と子の姿を、私の手でほりあげた母子像でもある。今、私はこれを母の位牌の前に捧げ、心ばかりの手向草(たむけぐさ)【編者註:昔の旅人が行く路の安全を祈って神さまに供えた品のこと、ここでは心から母に感謝して供える品ということになる】としたい。


生 家 (せいか)

私は明治26年、当時大阪の南の郊外だった天下茶屋に生まれた。旧紀州街道にそう宿場駅で、昔、太閤秀吉が堺の政所を訪れる往き帰りに茶を喫したという休息所があり、殿下茶屋といったのが、天下茶屋の名になったとも伝えられていた。今と違って淋しい田舎村だった。細長い家並みを外れると丘や森に木立が深く、田や畑に囲まれて農家が点在していた。

私の生家も農家だった。村では旧家の部に数えられ、以前は相当羽振りをきかせたものだったそうだが、私の生まれた時分はすでに昔の面影はなく、すっかり逼塞(ひっそく=落ちぶれて忍びかくれること)していた。

まもなく一家は、四天王寺に近い茶臼山に引っ越ししていった。私は幼年期から少年期をこの茶臼山周辺で過ごしたわけだ。

その頃の茶臼山周辺は人家も少なく、今の繁盛ぶりなんか夢想だに出来なかった時代である。藪(やぶ)があって藁葺(わらぶ)きの小さな家に、父と母と大勢の子供たちが寝起きした。門口を出ると、向こうの空に四天王寺の五重塔が見え、日暮れ時には、つい目の先の茶臼山の森に白鷺の群れが戻ってきて、黒い森が白く動いているようだった。夜はしんとして暗く、人の足音も聞こえなかった。

父も母も朝早くから田畑に出た。
父は音吉(おときち)といい、母はシゲノといった。父は正直で真向ただ働くのが取り柄の人間で、人との応対事は不得手であった。それだけ母の苦労も多かったわけで、畑仕事から家事の一切、私を含む九人の兄弟の世話、近所つきあいなど、女手一つに切って廻した。

母は何とか家運を盛り返したいと、一所懸命になっていたようである。住みなれた天下茶屋から茶臼山に移ったのも、ここで新しい再起の道を切り拓こうとの決心から、父にもすすめて、転居したもののように私には思われる。父も働いたが母はそれ以上だった。のちに聞いた話だが、母が私をお腹に持ってもう産み月というのに、いつものように畑仕事へ出かけようとするから、近所の人が心配して引きとめると、動ける間に少しでも片付けておきたいと、そのまま出かけてしまったそうだ。畑仕事から帰るのは夕方だ。腹を空かして待ちかねていた子供たちに食事させ、後片付けをすませ、やがて子供たちが枕を並べて寝ると、その枕元にすわって、賃仕事の縫物を取り上げる。

今でも憶えているが、夜中にふと目をさますと、台の上に置いた豆ランプの細い灯の陰に、母はまだ針を動かし続けていた。二度三度、目をさましても母の姿はそのままだった。壁に映った母の影が私には今でも目の前に見えるようである。


大学へ行かずとも

私は生まれつきからだが弱いうえに、トラホームでひどく苦しめられ、小学校へ入っても休みの日が多かった。従って学業が遅れ、なまじ組長をつとめさせられていただけに負け惜しみも出て、学校へ行くのがおっくうになった。母はそれを非常に心配して、学問の大切なことを繰り返し、学校にだけは行っておくものだという。

大学まで出したいのが母の希望だった。近頃では大学も多くなり、駅弁大学などと陰口もいわれているが、その頃は大学の数も少なく、大学生といえば羽振りのきいたものだった。もちろん、私も大学まで行きたかった。しかし家の貧乏なことも知っているし、このうえ両親に苦労はかけたくはなかった。”大学に行かずとも”というのが私の決心だった。小学校を出てからは、家の仕事を手伝う合間に、夜学に通ったり講義録を読んだりして勉学をつづけた。

母は私が勉強しているのを見ると、一方ではからだの弱いのを気づかいながら、一方ではまた安心している様子だった。夜がふけて、私がひとり本を読んでいると、母は芋の煮えたのや、取って置きの菓子をそっと机のへりに置き、邪魔にならぬように気をつけて、どんなに遅くとも私が寝るまでは寝なかった。


一つの転換

世に出た人の伝記を読むと、よく発憤の動機というものが書かれてある。私など取り立ててこれというほどのものもないが、次の一事などは、私の気持ちに一つの変化を与えたといえるであろう。

日露戦争の始まる前年と憶えているから、明治36年、私が11歳の時だった。茶臼山に近い広大な地域に内国勧業博覧会が開かれた。この会場の跡を受けて大阪市で公園にしたのが今の天王寺公園なのだが、何しろ当時は珍しかったので大変な人気だった。私たちも行きたかったが、母の許しが出ないので家でじっとしてはいるものの、心は博覧会に飛んでいた。

数日たって母の許しが出た。私たちは仕立て直しの着物に着物に着替えて、大喜びで出かけた。

何もかも珍しく、思わず時が過ぎて夕方帰ってきたら、母の姿が見えない。私が母を捜して裏口へ出ると、向こうの木の陰にこっちへ背を見せて立っていた。小脇に小さな包みを抱えて、何だか泣いている様子に私が声をかけてのぞきこむと、急にそむけたその顔に私は母の涙を見た。一層心配になったので、お使いなら僕が行くと前に廻ると、
「おうちにいなさい」と、いつになくきびしい調子でいい、振り切るように行ってしまった。ぼんやり後を見送っているうち、自分でもわけのわからない悲しさがこみあげてきた。

それからまもなくのこと、私は使いの帰りに、かねて顔見知りのお婆さんに出会った。このお婆さんは高利でお金を貸し付けているとかで、あまり評判はよくなかった。私を呼び止めていうことには、
「お前ンとこのおっ母さんは感心だよ。約束の日にきちっとお金を返しにくるのは、シゲノさんくらいのもんだ。婆(ばあ)がほめていたといっとくれ」
そしてスタスタとどこかへ消えていった。

どうしてあんなお婆さんにお金を借りたんだろうと、子供心にも怒りにも似たものを感じ、急いで帰って母にいうと、母は何にもいわずに話にまぎらしてしまったが、やがて子どもの私にも、だんだんと前後の事情がわかってきた。

母は、博覧会に行きたがる子供たちに、粗末でも新しい着物を着せてやりたかったのだ。貧乏なのに肩身の狭い思いをさせてはと、それが常に母の苦心であった。せめて近所の子供たち並にはしてやりたかった。着物が買えなければ、肌着の一つでも新しくと、父とも相談し、足りない金を例の金貸しのお婆さんから借りていたのだ。そんなことには気がつかず、私たちは大喜びで博覧会に出かけていったのだが――。

しかもその今日明日に、返す金の日限が迫っていた。畑のものを売っても、手内職の金を集めても返すべき金はなお不足である。几帳面な父と母は、家の物を売ってでも返済しようと、母がいくらかの品物を風呂敷に包んで裏口まで出たものの、さすがに辛かったのであろう。隠れるように泣いていたのを、博覧会から帰ってきた私が見つけたのであった。

そういえば母の使いで、このお婆さんの所へ行ったことがある。その時は何の気もつかなかったが、困った場合はこのお婆さんから融通を受けていたらしく、どうしても返済の都合がつかない時には、利子だけを私に持たせて届けさせていたのだった。

そうわかってみると、子供心にも母が気の毒でたまらない。とにかくそれ以来、一つの決心が私の胸に固まった。私はその時分から急に大人になったような気がした。


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[次回につづく]



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タグ : 母を憶う



[ 2009/02/17 17:44 ] 随 想 | TB(0) | CM(6)

母を憶う 3 

前記事 に続き、紹介のために転載しております。


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金持ちの子、貧乏人の子

貧乏な中にも、母は子供の養育についてよほど気をつかっていたらしい。幼少の頃、夏祭りに近所の子供が誘いに来たので、ちょうど手近にあった一銭五厘(りん)の金を握って外へ飛び出し、飴玉(あめだま)を買って一緒に食べた。当時の一銭五厘はいくつかの飴玉や菓子を買うことが出来た。

【編者註:明治37、8年、日露戦争当時はまだ一厘が通用していた。大正時代に入るとだんだん物価が高くなって一厘銭は通用しなくなった。今は一円で買えるものはなにもないが、この頃の商店の使い走りの小僧さんの一年の給料が五円、昔は女中といっていたが家事手伝いの家政婦が三円くらいで、教師の月給が十円くらいであった。一厘が10枚で1銭。1銭が百枚で一円である。一厘で大きな飴玉が一個買えたから一銭だと10個買える。昔の飴玉は今の飴玉の三個分くらいあって大きかった。今は小さな飴玉が10個くらいが一包みになっていて三百円である。昔は三百円あると家が一軒建てられた。久吉少年の時代の一銭五厘は今の千円よりももっと値打ちがあった】

それが後で母にわかって、黙ってお金を持ち出したりして使ってはいけないと、ひどく叱られた。「もし悪い飴玉だったらどうします」とひどく叱られた。これは母が子供の習慣性を考え、悪習慣は徹底的に矯(た)めようとする反面、私のからだの弱いのを常に心配していた慈愛の現われだと思う。現に私の病気の時など、寒夜(さむよ)の神詣(かみもう)でをそっと繰り返していたという。

教育教養方面には関心を持っていて、必要な本はどんな無理しても買ってくれ、ひまがあると自分の乏しい知識の中にある昔の智者・英雄の話など、おもしろく聞かせてくれた。どんな苦労をしても、子供だけは立派に育てあげたいというのが、母の唯一の念願だった。

こんなことがあった。小学校の一年か二年の時分だ。母が急に寝込んだので、私が朝飯を炊く番になった。暗いうちに起きて、かまどに薪(まき)を入れ、さて火をつけようとすると、あれはなかなかコツのあるもので、くすぶるばかりでなかなか火がつかない。煙にむせて困っていると母が無理して起きてきて火をたきつけてくれた。やっとご飯が出来たので、自分で弁当をつめ、大急ぎで学校へ駆けつけたら、ちょうど授業の始まるぎりぎりの時間で、先生から「遅れてくるような子はえらくなれん」と叱られ、まさかご飯がたけなかったともいえず、明日の朝はもっと早く起きてやろうと考え直したことを憶えている。

私の同級生に金持ちの息子がいた。父親は有名な大実業家で、いつも上等の着物に上等の袴(はかま)をつけ、当時の高級乗用車だった自家用人力車で学校に乗りつけたりしていた。先生も顔をしかめたが、親を憚(はばか)って、いうべきこともいえなかった。彼は貧乏人の子である私たちの前に、貴公子然(きこうしぜん)と、そして暴君の如く君臨した。彼は友だちを広大な自分の屋敷につれてゆくのが自慢であった。私は別に行きたくもなかったが、たびたびいわれるので一緒に行ったことがある。

なるほど大きな屋敷だ。庭には築山(つきやま)があり、泉水があり、苔むした石灯籠(いしとうろう)がすわり、子供の目には、まるで大名屋敷に見えた。
そこで彼は、大勢の召使いを顎(あご)で使い、暴君のように振舞った。あたかもそれを私たちに誇示するかのように――。

私はびっくりしたが、別にうらやましいとは思わなかった。自分だっていつまでも今のままでいるもんか、と子供心に負けじ魂が出て、そこそこに帰ってきた。これには後日物語がある。

小学校を終わってから私はすぐ実社会に出たし、彼はだんだん上級の学校に進んでついに慶応大学を卒業したとは聞いていたが、詳しい消息は聞こえず、それなりになって春秋四十余年、一身の繁忙にとりまぎれ、幼き日の交遊など思い出す折もなかった。ところが私は偶然、途上でこの幼き日の彼にめぐり会ったのである。永い間会わないうちにお互いに年をとり、身なりも違って、初めは思い出せなかったが、名乗りあってみると昔の幼友達であった。

頭髪にも白いものが目立ち、声にも姿にも元気がなく、見たところあまりよい境遇にいるとも思われなかった。彼はそれからちょいちょい私を訪ねてきた。問わず語りの話によると、土地も屋敷もとっくに人手に渡って、随分苦労したらしく、戦争でもひどい目に会い、今は職を探しているのだが、思わしい先も見つからぬ。どこか外交員でも働き口はないものだろうか、とのことだった。

零落(れいらく)の淋しさが身辺にまつわっていた。金持ちの息子の身の果て、といったようなものが考えられ、自分が貧乏人の子に生まれてかえってよかったと、感慨を久(ひさ)しゅうしたことであった。


野菜車(やさいぐるま)の後押し

子供の私が、両親を手伝える仕事の一つは、田畑のものを手車(てぐるま)に積んで、その後押しをして市場に行くことだった。それも朝、暗いうちのことである。冬の朝などぐっすり寝込んでいるのを起こされるのは辛かった。目をこすりこすり外へ出ると、まっ黒な茶臼山の森から吹きつけてくる風が身を切るようだった。空には星が光っている。昨夜遅くまで洗ってたばねた野菜の数々、葱、大根、人参などをつぎつぎに車に積み込む。その間にも「おはよう、おはよう」と挨拶しあっている父や近所の人たちの声が、暗い中から聞こえてくる。勝手口にはチロチロ火の色が動き、母が朝の支度をしているのである。

野菜を積み終えてから、そこそこに麦飯をかっ込み、父の声にせき立てられて兄と二人外へ出る。末の弟や妹たちはまだ寝ている。外はなかなか明るくならない。暗い中に車の音がカラカラと遠ざかってゆく。私たちと同じように市場へ野菜を売りにゆく近所の人たちだ。母はランプを持って門口に立つ。父は梶棒(かじぼう)に提灯(ちょうちん)をブラ下げて前に廻る。私と兄が後ろから押してゆくのだ。自動車もない時代だから、遠い市場まで手車に積んで、足で運んでゆくより仕方がなかった。振り返るともう母の姿は見えない。暗い大地に霜柱が立って、冷たさが爪先から染みとおってくる。凍った地面にすべってころびそうになると、父の握った梶棒が思わぬ方角にそれ、「気をつけろ」と、振り返って叱る父もよろけていた。まだ12か13の時である。車の後ろを兄と弟が、こごえた手先きに全力を込め、からだごと押してゆく。

そうしてやっと市場へつく時分にぼつぼつ夜が明け出す。運んできたものを金に替え、今度は軽くなった空車(からぐるま)を引いて帰ってくる私たちの真向(まむこ)うから、朝日が鮮やかにさしてきた。母に迎えられ、足を洗い、そのまま教科書の包みを抱えて学校へ飛んでゆく。

もちろん苦しかった。辛いとも思った。だが今になってみると、その時がたまらなくなつかしい。母が炊いてくれた朝飯の味はいまだに舌に残り、ランプを持って門口に立った母の姿が、つい昨日のことのように思われる。


菊菜売り

子供にとって母は全部である。子供の生活にはどの断面にも母の姿が浮き彫りにされている。私に現われる母は、いつもやさしく慈愛に満ちていた。しかしその反面にきびしさもあった。滅多に叱らないだけに、叱られる時は恐いとさえ思った。

やはり12の時だった。
父が風邪をこじらせて寝ついてしまった。かんじんの働き手に寝込まれ、大勢の子供を抱えて母が一人苦しんでいた。医者も思うように呼べず、父の枕元には、空(から)の薬瓶が幾日も置かれ、金に困っている様子が子供の私にもよくわかった。

お彼岸が近づくと、四天王寺詣での人出が賑わってくる。その頃には父もやっと床の上に起きられるまでになっていたが、ある日、母は頼まれものの賃仕事で朝早くから出てゆき、私たち兄妹が父のそばについていた。すると父が私に、学校が大切だからこれから行ってきなさいという。私がためらっていると、「兄もいる、妹もいる、わたしは大丈夫だから」と、さらに促す。私はとっさに思いつくことがあって、「それでは行ってくる」と、学校へ行くふりをして裏口へ廻り、天秤(てんびん)棒と籠(かご)を抱えてすぐ畑の方に飛んでいった。畑にはちょうど菊菜が頃合(ころあい)に伸びていた。その菊菜を町へ売りにゆくことを考えたのであった。

私は大急ぎで菊菜を籠に取り入れた。畑に出ていた近所の人たちも手伝ってくれたので、籠はすぐいっぱいになった。さてそれをかつぐのだが、天秤棒を肩にかけると私は背が低いので、前後の籠が地面から上がらない。見ていた人たちが籠の綱をたばねてくれたのでやっと歩けるようになった。これから四天王寺を右にいって寺町から上町辺(かみまちへん)を廻るつもりなのだ。

天秤棒を肩に、右手で前籠の下げ綱を、左手で後籠の下げ綱を堅く握っているのだが、なれないので腰がきまらず、自然、籠が前後に踊ることになり思うように歩けない。

その格好がおかしいのか、天王寺詣りの人たちが振り返って笑う。笑われてもそれどころではなく、籠の中のものをこぼすまいと気をとられるので呼び声など、もちろん出ない。出そうとしてもどう呼んでいいのかわからない。黙って、これと思った門口に立ち、「菊菜はいりませんか」とおずおず聞いて、「いらんよ」と、邪魔くさそうな声が返ってくるともう何もいえない。

菊菜は香りも高く、さっと湯掻(ゆが)いて、春先の食膳にはちょっといいものだが,漬物にはならないし、売れるにしても一軒にわずかだ。それに朝の間に売ってしまわないと、午後はしおれれてくる。その日は思わしく売れなかった。陽は西へ廻って腹は空くし、足はくたびれる。がっかりして上町の曲がり角まできた時、そこに鍛冶(かじ)屋さんがあって、トンカントンカン音がしていた。私は菊菜をかついだまま、うす暗い中に散る火花を見ていたら、ちょうど奥から出て来たおかみさんが、ふと私を見て近寄ってきた。

「菊菜を売るのかい、まだ小さいのに、年はいくつ?」
と聞く。私が12だと答えると、
「12? そうかい。ちょいとあんた。」
と、仕事場の主人を見返り、
「12だとさ。死んだあの子が生きていたら、ちょうどこの年頃だよね。可哀そうに――」
と、涙ぐんで、
「お待ち、今、おばさんが買ったげる。近所の人もつれてきてあげるから」
と、行きかかる後ろから仕事場の主人も、
「そうだ、近所を狩り出して買いしめてやれ。死んだ子の供養にならァ。」
と、気前よくいう。

おかみさんはすぐ近所のおかみさん連中を引っ張ってきて無理矢理に押しつけ、籠の中は、たちまち空になってしまった。おかみさんは集めた金を包んで私の手に握らせ、
「落とすんじゃないよ。さぁ、早く帰らないと、お父(とっ)つぁんや、おっ母(か)さんが心配するよ」
と、いってくれる。

私は空籠をかつぎながら幾度も振り返ってお辞儀をして、今度は大元気で帰ってきた。

私の姿を見ると心配していた母が一番に呼びつけ、「今までどこで何をしていたのか」と、きびしく聞く。とっさのことで、私はおろおろと返事も出来ないでいた。
「学校へ行ってたんじゃなかったのか」と、その時母の後ろで父の声がした。
「学校へ行くほどなら、本を忘れるもんですか」と、母がいう。
なるほど出がけにあわてて本を忘れた。うつむいた拍子にふところから金の包みがころげ出て、結び目がとけた。すると母の顔色が見る見る変わった。

「そのお金どうしたんです? まさかお前は? 」
私は一瞬母を見た。その時の母の顔は一生忘れられない。
憤(いきどお)りと悲しみを込めて、いっぱい涙をためた母の目が、射るように私を見つめている。

「お前たちにヒケをとらすまいばっかりに、おっ母さんはどんな苦労でもしています。その気も知らないで、お前、さもしい気を起こして・・・・・・」

私はびっくりした、が悪いことをしたのではない。子供心に反発した。そういわれた、疑われたくやしさと悲しさが胸先にじっと突っかけてきた。私はわっと泣いた。恐い中にも一所懸命で、お父つぁんに薬を買ってのませたかったこと、それで学校を休んで菊菜を売りに出たこと、親切な鍛冶屋のおばさんのこと、お金は菊菜を売った代金であること、決して悪いことをした覚えはないこと、すべてを、しゃくりあげながら話してしまった。

「わしに働きがないからだ」
と、父は寝たまま向こうをむいて、頭から蒲団をひっかぶってしまった。

不意に私は母の膝に抱き寄せられた。その背に母が、ぐいぐい押しつけてきた。
「おっ母さんが悪かった、悪かった・・・・・・」
泣き声が、涙と共に、私の背中に染みとおってきた。

親切な鍛冶屋のおばさんには、その後とうとう会えなかった。お礼にゆかねばゆかねばと思い思い、まもなく小僧奉公に出たのでその折がなくなった。もっとも小僧奉公中、二度、三度、使いの途中にその前までいったが、待ってもおばさんは出てこず、仕事場の主人に声をかけるのもきまりが悪く、ついそのままになってしまった。二、三年たってまた行ってみたら、もうどこかへ引っ越した後だった。そのうちに長い歳月が過ぎた。先年、天王寺辺にいった際、急になつかしく思い出されて、上町のそれらしい場所に行ってみたが、様子がすっかり変わっていて商店が並び、道の曲折でわずかにここかとうなずかれるばかりで、いたずらに歳月の流れを思わせられた。

だが私の目には、遠い昔、子供が菊菜をかついで売る歩く姿や、今でも憶えているが、小鼻のわきに黒子(ほくろ)のあったおばさんの顔が、まざまざと見えてきて、しばらくは立ち去れなかった。

もう亡くなったのかも知れない。それともどこかに生きていられるかもしれない。生きていられたら会って昔の物語などしたいものである。


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[次回につづく]


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タグ : 母を憶う



[ 2009/02/18 13:21 ] 随 想 | TB(0) | CM(6)

母を憶う 4 

前回 からの続きです。

今回も転載の記事が長くなってすみません。
お時間の許される時に、ゆっくりご覧いただけたなら嬉しいです。


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桶屋(おけや)の小僧や丁稚奉公(でっちぼうこう)

私は小学校を出ると漬物桶製造の店へ奉公に出た。13の時だった。日露戦争の最中で、出征(しゅっせい)兵士の食糧として梅干など漬物類の需要が増大し、それを戦地へ輸送する漬物桶の製造がまた多忙を極めた。からだの弱い私には決して楽ではなかったが、重宝がられたのは事実である。

しかし漬物桶製造の活況も長くはつづかず、戦争が二年目に日本大勝利で終わる頃には、だんだんと下火になった。戦後の不景気で、店でも職人の数が日に日に減った。私も漬物屋では心細くなり、主人は引き止めてくれたが、無理にひまをとって茶臼山の家に帰った。

帰ったがじっとしているわけにはゆかない。つてを求めて今度は本町の相当大きな呉服問屋に丁稚奉公に住み込んだ。当時大阪の商家は封建色が強く、待遇などは論外だった。私は木綿着に角帯の丁稚姿で、呉服類を積んだ車を引き、番頭さんのお供をして街を歩いた。

日露戦争の勝利は、日本を世界の列強に押し上げた。同時に時代は大きく転換した。農本主義から商工業立国家が唱えられ、資本主義が台頭、すべてが近代化され、いわゆる日本の産業革命が出現したのである。昔の面影は刻々に消えていった。この時代的な刺激が少なからず私に影響したらしい。

今でも憶えているが、番頭さんのお供で北浜の高麗橋(こうらいばし)辺に行ったとき、改装された三越呉服店の近代的な商法を見てアッと驚いたのであるが、その持ち主だった天下の三井家が、三越をあっさり手放して新時代的な大企業に乗出したと聞いて、一層呉服屋の奉公に希望が持てなくなり、新時代新時代という声が耳に聞こえ、番頭さんの、のんびりした姿がひどく時代遅れに見え、考え考え、主家(しゅか=主人の家)に戻ったが、それからまもなく私は正式にひまをとって実家へ帰った。

ちょうどその前後だと憶えているが、母が大病でどっと寝ついてしまった。日頃の疲れで風邪をひきこんだのがこじれたのである。枕もあがらぬ始末であった。一家がみな心配した。見ていても苦しそうだった。その母がふと、スイカを食べたいともらしたのを私が聞きつけた。何とかして食べさせたいと思ったが、もう秋半ば過ぎなので普通では手に入らない。兄と二人で手分けして、足を棒に大阪中をたずね廻っても、時季はずれだからどこへ行っても見つからない。それでも母に食べさせてやりたい一心で大阪の南のはてから北の外れまで歩いて、とうとう天満(てんま)の市場で待望のスイカをたずねあて、財布をはたいて買って帰り、さっそく母に食べさせたのだが、母は枕にすがって、かんじんのスイカよりも私と兄の手をとって涙を流した。母の喜ぶのが自分が食べるよりも嬉しく、兄と二人、大手柄でもしたように鼻高々であった。

その頃、父も母も、私が奉公先で長つづきしないのをひどく心配している様子だった。しかし何も叱言(こごと)はいわなかった。むしろ母は私を励ますようにし、それよりも、からだのことをやかましくもいった。

さて、帰ってきたものの、べつに当てがあったわけではなく、遊んでいられる家の状態でもないので、ちょうど母が、からだの空いている時の内職に、呉服の背負い商いをしていたのを手伝うことにした。呉服を背負って商いに廻るのだが、こんなことをしていてどうなるのかと、しきりに気がせく。

私も少年期から青年期に入ろうとしていた。自分が一生をかける仕事が、何かありそうでいて、しかもそれが見つからないもどかしさ。今から考えると、将来、何によって身を立てようか、そのことで昼も夜も悩んでいたのだった。もちろん父も母も心配していた。わが子を何とか立派に仕上げたいというのが、親の強い願いであるから――。


新聞との機縁

明治から大正に変わった頃、私たち一家は、茶臼山から墳墓の地、天下茶屋に帰ってきた。

もう昔の村ではなかった。南海電車が走り、その沿線一帯が発展し、人口が増え、新しい建物が並び、しだいに街の体裁を整えつつあった。西も東もわからぬうちに離れた私は、ここが生まれた土地かと懐かしく、すべてがもの珍しかった。しかし依然として将来の方針はつかない。考えあぐねた末、いっそのことアメリカへ渡って、独立独歩でやってみようかとさえ考えた。ちょうどその時分、天下茶屋の表通りに、父の母方に当たる祖母が新聞の販売店をやっていた。

ここでちょっと昔の新聞販売についていえば、新聞は文化に寄与する高級な仕事として、もと庄屋などをした家柄の旧家が、名誉職と心得て、自ら進んで販売を引き受け、男衆などを使って配達させていたものだが、それがだんだん発達して、新聞販売店の形態を整えてきたのである。

祖母の家も相当の家柄で、数人の配達人を使い、かなりの成績をあげていた。私は考え疲れると、この祖母の店へ来て、新聞配達を手伝ったりしていた。

大正2年、私も21歳になった。国民の義務だった徴兵検査を受けたら、身体が弱いので不合格になった。その前後から私のアメリカ熱が一層高くなった。何としてでも行きたい。考えるほど功名心が湧き、アメリカで働いて名をあげたいと強く思うようになり、その準備を始めたのである。

ある日、例の如く、表通りの祖母の店に行き、新聞の配達を手伝っていると、祖母に呼ばれた。かたわらに祖父もいた。
「アメリカに行くなんて、わたしたちは大反対だ。お前、お父っちゃんや、おっ母さんの心配が目につかないのか」
と祖父は、私のアメリカ行きに真向から反対した。それよりも両親の膝元にいて安心させろ、という。

その傍から祖母も、言葉をつくして私の翻意(ほんい)を迫るのである。
「そんな考えは捨てて、一つこの店をやってみたらどうなんだい。新聞の販売は、むつかしいには違いないけれど、それだけ働き甲斐のある仕事だよ」

突然だったが、祖母のこの提言には、私も少々考えさせられた。祖母はさらに言葉を進めて、天下茶屋もだんだん発展してきて新聞の販売も広まったが、それだけ競争も激しくなったこと、自分も女の身で年もゆき、激務が体にこたえてきたこと。それかといって長い間苦労してきたこの店を手放す気にもなれないこと、だから私に店を引き継いでやって貰いたいことなど、じゅんじゅんと説いた。

これは祖母が、前から考えていたらしい。私は祖母の気持ちに納得がゆくし、そういってくれる心遣いを有難いと思うし、それに今まで手伝ってきたお陰で、新聞の仕事を全然知らないというわけでもないし、いよいよ迷って、ともかく考えて返事をすると、その日は帰ってきた。その晩は眠れなかった。

夜ふけに気がつくと父が咳きこんでいる。母が背中でもさすっている気配だ。私は考えさせられた。年ごとに老い衰えてゆく両親のことを思うと、さすがに決心もにぶるのであった。一番鶏をきくまで、私は枕を抱えて転々とした。

しかし私は遂に考え直してアメリカ行きを断念、祖母のすすめに従ってその新聞販売店を引き受けることにした。それをいうと、父も母も生き返ったように喜んだ。もちろん、祖母も祖父も喜んでくれた。

これが、後年、私が新聞をやるようになった機縁でもあるが、その時はまだ、新聞が一生の仕事になろうなどとは思いつきもしなかった。思えばその時、私は一生の岐路に立っていたのだった。


新聞配達から経営へ

21歳で祖母の新聞販売店を引き受け、27歳までの七年間、私はこれをやった。元来、物事をいい加減にすまされない性分だから全精力を注ぎ込んだ。その間、新聞配達もやって、つぶさにその実際を知った。この体験が、後年、大いに役に立った。母はほかのことはいわなかったが、健康だけはやかましくいった。今から思うと有難いのだが、当時はうるさいと思うほどだった。心配のあまり、そうでもいわなければ気がすまなかったのであろう。

お陰で私は、弱そうに見えても病気しなかった。忙しくて病気するひまがないと、私は冗談口をたたいた。店はだんだん発展して売上げ部数もふえてゆく。苦しい中にも楽しみがあり、私には新聞が面白くなった。自分自身のためばかりではなく、社会公共性につながるものだと思うと愉快だった。これは漬物桶店の小僧や呉服屋の丁稚では、とうてい味わえない感激だった。私は新聞を自分の手でやりたいと思った。一生、新聞から離れまいと決心した。あれほど迷った自分の将来に、今や明確な方針を掴んだのである。有難いと思った。

私は他日を期して一銭の金も無駄には使わなかった。誰の力も借りず自分の力でやりとげる決心だった。

私の新聞販売店業は27歳で終止符をうつ。
大正9年、忘れもしない28歳の時、天下茶屋を中心とする町の新聞「南大阪新聞」を創刊した。資金は私の血と汗で貯えた金の全部をあてた。わずかの金で始めたのだから、苦しむことはもちろん苦しんだ。だが、この町の新聞がうまく育った。まもなく「夕刊大阪新聞」と改題。大阪の真ん中へ乗り出したのが、大正13年3月、私が32歳の時で、今日(こんにち)の「大阪新聞」の前身である。

当時は、朝日、毎日の両紙が新聞界の王座を占め、この独占的勢力のほかにいくつもの地方紙が群立し、なかなか競争も烈しく、大阪で新しい新聞は育たないとうのが定義になっていたほどであった。その中へ飛びこんでいったのだから、私ごとき資本のない者としては、随分苦しい目にも会い、辛い思いもした。

昭和6年になると満州事変が起こって、時局はとみに重大化した。私は重工業の促進、生産の増強に寄与すべく、反対もあったが、押し切って翌々年の昭和8年6月、「日本工業新聞」を発刊した。

これも最初は欠損続きで、廃刊か続刊かと議論の中心に立たされ、迫害さえ受けたが、苦心惨憺(くしんさんたん)、つづけてゆくうちに次第に好転、基礎が固まってきた。これが、今日東西二百万の読者を持つ全国紙「産経新聞」にまで発展してきたのである。


人生は日々勝負の場

好きで始めたのだが、私も新聞事業では、随分と長い間、苦労を重ねてきた。
だいたい新聞の仕事は、始めから採算が採れるように出来ていない。目前の採算に固執すれば消極的となり、結果として伸びない。算盤(そろばん)を捨てて算盤を持つ。そのつもりはしていても、実際はそうはゆかない。新聞を始めてからの私には困難が相次いだ。それを刎(は)ね返したものは、私の粘りと「日々が勝負だ」という決意だった。大阪人の粘りといわれるが、私も大阪に生まれ、大阪に育ち、粘りにかけては人に負けないつもりでいる。人間は日々が勝負だと、ふと頭にひらめいた考え方が、苦難にぶつかるたびに私を激励した。

人間社会に「万象相克」(ばんしょうそうこく)の相(そう)が消えないかぎり、どうせ人生は日々が勝負の場である。勝負が免(まぬが)れ難い人間の宿命とすれば、勝たざるものは負けるに決まっている。
【編者註:万象相克・・・世の中のすべてのもの、すべてのことは、すべて人と人との関係、人と物との関係によって成り立つ】

勝たねばならない。日々を勝負の場に臨む気構えで、一難来るごとに闘争心を燃やし、私は苦しい新聞経営と取り組んだ。痩躯(そうく)十二貫(じゅうにかん=約46kg)、事に堪え得たのは、この満身のやる気だった。


最後の一日(いちじつ)

新聞をやるようになってから、母は私のすることに、なんにもいわなかった。わが子を信じ、あやまちのないことを念じ、陰から見守っているといった様子だった。ただ、からだに気をつけることだけは、やかましくいった。私も新聞では苦しんだが、それについては何も話さなかったし、母もまた訊(き)くのを遠慮する風(ふう)だった。しかし訊かないだけに、私を案じる母の心配は、あるいは私以上だったのかも知れない。

この以前から、私は父と母のために、自宅とは別に、南海電車天下茶屋駅に近い所へ隠居所をもうけ、母はそこで父と二人、老後を静かに暮らしていたのだった。私が夜、家に帰ると、隠居所から母が来ていて、おおかた母が自分で買い出しに行って味付けをしたのであろう、子供の時分から私の好物が、味加減も私の好みに合わせて膳の上に並んでいた。私が喜べば、それが何よりも嬉しいらしく、目を細めてじっと私を見ている。もっと話していたいのを、私が疲れると思って早々に切り上げ、残り惜しそうに隠居所へ帰っていった。こうした、ほんのわずかなことにも母の心づかいは現われて、今、思い出しても有難いと思う。

私は新聞が多忙なので、両親とゆっくり話し合う機会がなかった。たまに隠居所を訪れても、無事な顔を見せ、また見るだけでそのまま帰ってくることが多かった。静かな隠居所の明け暮れにも、人から私のうわさを聞いては、
「どうやら苦労の仕甲斐(しがい)がありました――」
と、父と二人、陽当たりのよい縁先に、ほほえみかわしていたそうな。

昭和10年8月、私が43歳の時、年来の無理がたたって、小さい時分からの胃下垂症がぶり返し、どうにも我慢が出来なくなった。

ちょうど、上半期の決算が終わったし、この機会に根本的な建直しをしようと、断食療法をするため、大阪と奈良の分水嶺(ぶんすいれい)、生駒(いこま)山の山腹にあった断食道場にこもった。

断食療法は23日間を要した。もちろん精神的、肉体的に苦しかったが、効き目はたしかにあった。永年の胃下垂症も忘れたように心気爽快。8月末、下山して家で静養することになった。

私が山を降りると、一番に母が隠居所から駆けつけてきた。私は今日こそ、何もかも忘れて母と一日を話して過ごそうと思った。こんなにゆっくりしたのは、後にも先にもないことであった。

みんながうち寄って、日が暮れても話はつきなかった。母も嬉しかったに違いない。私の傍を離れず、六十余年の皺(しわ)を伸ばしてよく笑い、よく話した。私の小さい時の話も出た。苦労の多かった母の生涯に私の幼少年期を織り込んで、その折々の情景が、私の追憶の中に浮かんできた。茶臼山時代、包みを抱えて裏口で泣いていた母を私が見つけた時のこと、菊菜売りから帰ってきて叱られた時のこと、思い出すままに、それとなくいってみたら、
「そんなことも、あったかねぇ――」
と母は目を閉じて、遠い昔を思い出している風だった。

夜がややふけて、遠くもない隠居所へ帰ってゆく母を、私は道の半ばまで送ることにした。母と子が幾年かぶりで肩を並べた。
「からだに気をつけておくれ」と、母がひとこといった。「おっ母さんも」と、私が答えた。それっきりで黙って歩いた。夜風が毒だからと母が無理に断るので、私は送るのを途中でやめ、母のうしろ姿を見送った。これが母のこの世に残す、私に見せた最後の姿であった。八日後にせまる母の死を、私はもとより、母自身も知るよしもなかったのである。


***************************************************

[次回につづく]


若き日の久吉少年は職を不安をおぼえて、いくつか転々とします。
でも与えられた仕事には全力で努力をし、自分にとって必要な精進を一つひとつ積み重ねていきます。
しかし両親のことを想い、アメリカ行きの夢をあきらめましたが、新しく好きなことが見つかります。
夢というものは叶わなかったからそれでお終いではなく、形を変えて、また現われてくるものなんですね。

私には、だんだんと年老いてゆく母親がいますが、前田久吉氏が自分の母親と向かわれてきた姿と、これまでの私が接してきた自分の母親への対応を比べると恥ずかしいばかりです。

さて、次回でこのシリーズ(転載)は終わります。

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[ 2009/02/20 21:26 ] 随 想 | TB(0) | CM(8)
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