月別アーカイブ  [ 2009年03月 ] 

母を憶う (完) 

前回の 母を憶う 4 の続きです。

今回でこのシリーズの転載は終わりとなります。
お付き合い、ご覧頂いた皆さま。ありがとうございます。


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形は見られずとも

山から降りたのが八月の末ですぐ九月になり、その六日、母は突然、脳溢血で倒れた。私はすぐ駆けつけたが、何一ついうことも聞くことも出来なかった。充分、手当てはつくしたのだが、母は昏睡状態のまま、その夜が刻々ふけて十二時を廻り、もう九月七日の午前一時十二分、この世に残す微笑を口辺(くちべ)に冷たく浮かべたのみで、私の手を握ったまま、六十八年の生涯を閉じた。母の一生は、大勢の子供たちのためにその全部を捧げつくしたといってもよい。私は母の枕辺に深く頭を垂れた。

越えて九日、阿倍野新斎場での葬儀も終わり、人々が帰ったのち、私はひとり母の霊前に立って、最後の別れを告げた。
「おっ母さん、長い間ご苦労でした。安らかにお眠り下さい――」

いつまでも生きていたもらいたかった。ああもしたい、こうもしてあげたいと思っていたのに、その半分も出来なかった。しかし、山から降りた日、たとえ一日でも母とゆっくり出来たことが、せめてもの心やりだった。

もし母の死が、断食中だったら、一生私の心残りとなっていたであろう。
その後、父も逝(ゆ)いた。父と母と二つ並んだ墓にも春秋二十余年の苔がむした。この世の形が失せて以来、一層、父と母が私の中に見えてきたのである。


産経ビル竣工の日に

年は移り、時代は大きく変わった。
昭和27年7月、大阪駅に近い桜橋の繁華街に、産経会館ビルが竣工した。これは私のかねてからの念願を実現したものであった。

終戦の直前、空襲が激化して、旧社屋の前にも後にも爆弾が落ち、一面、火の海となった時、私は耐震耐火の「堅牢(けんろう)な社屋」を持つことの緊急時を痛感したものであったが、終戦後、追放となって意にまかせず、二十五年秋、やっと追放解除となるや、私は復帰第一の仕事として、最新設備の行き届いた堅牢なビルの建設にとりかかった。

当時は、長い戦争の後の困難な時代で、あるビルの建設では、せっかく中途まで運んだ工事が、資材難のために挫折し、持て余しているといううわさもあった位だから、資材の入手にも資金のうえにも、苦労は想像以上だった。しかし幸いにも一年半あまりの突貫工事で、この大建築を完了することが出来た。その頃としては異数のものだった。自分の抱負と希望を打ち込み、苦心と努力を注ぎ込んできただけ、これの完成の日は、私にとっても感激の日だった。

二十七年七月十八日が竣工式及び開館式の当日で、朝野(ちょうや=政府と民間)の知名士三千余名を招待し、盛大な披露を行った。出来るかと危ぶんだ人もあったろう。出来てくれればよいがと祈ってくれた人もあったろう。人さまざまの思いを乗せて、その日、祝福を運ぶ車は社屋の周りに蝟集(いしゅう=一ヶ所に群がり集まることの意)した。

式場では拍手が湧き、数々の祝辞が寄せられ、激励の言葉が述べられ、その一つ一つを私は感慨深く聞いた。特に小林一三翁(いちぞうおう)が80歳の高齢でわざわざ出席され、懇切な祝辞を述べられた時、私は一滴、頬に涙が流れた。その小林翁も今はない。

私は過分の祝辞に答うべく、挨拶の壇上に立ったのであるが、その時、私の内ポケットには、亡き両親の写真が収められてあった。両親に今日の様子を見せ、両親と共に壇上に立つ、それが私の気持ちであり、またこれは、子が親に捧げる心の供養でもあった。

一生を一途に働き通した父、子供のために肌着一枚買うにも苦労した母、今日(こんにち)生きていたら、どんなにか喜んでもらえるかと思った。

「今日(こんにち)この喜びの日を迎え得たのは、内に三千余名の社員の働きがあり、外に江湖(こうこ=世の中、世間の意)各位二百万読者の支持があり、まったくそのお陰という外はない。このご支持に対し、われらは何をもって酬(むく)うべき、私は残る生涯を、ただこの一事にのみ捧げるの決意を新たにした――」
これは私の実感であった。
「産経新聞と大阪新聞は、確固たる基盤の上に大活躍の舞台を展開しようとしている。今日(きょう)の開館式に贈られた見事な綴錦緞帳(つづりにしきどんちょう)『瑞鶴群息之図』(ずいかくぐんそくのず)は、川端竜子画伯が精魂込めて描かれたもので、群鶴(ぐんかく)まさに双翼を拡げ、天に飛翔せんとするは、われらが新聞の前途を明示したものというべく、誓ってご期待を裏切らないであろう――」

謝辞を終わったが、ふと満場の拍手の中にまじって、父の声が、母の声が、どこかで聞こえるようであった。式後、小林一三翁や川口松太郎君に、「いい挨拶だったよ」と、ほめられて恐縮したが、父と母の霊にはどう聞こえたであろうか。

どこもかしこもいっぱいの人だった。冴えた析(き)の音が、三味や鼓の音を刻んで流れてきた。市川猿之助、段四郎、中村鴈次郎らによる今日の舞台開き、「壽三番叟」(ことぶきさんばんそう)の舞台が、今や幕を上げようとしていた。私は両親の写真を胸に、一階から九階まで、コツコツ階段を上っていった。父と母を案内して見せるつもりだった。
そして私は屋上に立った。大(だい)大阪を蔽(おお)う大空は果てしなく拡がる。頭上には本社機が乱舞していた。新装白亜のビルは残照を反映し、各階の窓ガラスはきらめくばかりに輝いて見えた。私は改めて父と母の声を聞こうとした。


再出発 その後

私が戦後の追放で、新聞を去ったのは昭和21年の1月だった。それから閉居4年の歳月が過ぎ、25年10月追放が解除されると、私は両親の霊に、今日(こんにち)を起点に再出発の活動に入る旨を報告し、なにとぞ今後を見守らせたまえ、と念じた。

【編者註:公職追放令は昭和21年アメリカ占領軍は日本弱体化を目途として、日本の民主化、平和化の名目の下に、戦争中、指導的な立場にあった人を公職から追放した。公職とは、国会、地方議会の議員、官庁、地方公共団体の職員ばかりではなく、特定の会社、協会、報道機関の職員も含み、愛国主義者であると占領軍がみた学者、宗教家までも追放の対象として追放該当者は二十一万二百八十九人に上った。】

私には、なすべきことがあまりにも多かった。
追放閉居のつれづれに、いろいろと考えた。これからの新聞に対する私の構想を、少しでも早く実行に移したかったのである。

私が新聞に復帰した第一の仕事は「新設備の堅牢なる社屋」の建設であった。それが前項に述べたとおり昭和27年7月に竣工した。大阪の桜橋に臨む産経会館ビルである。すでにこの時から私の胸中には、東京にも大阪に劣らぬ近代設備の新聞社屋を持つ計画が進められていた。

ところがこれと前後して私に、参議院議員選挙に出馬してはどうかという話が持ち上がってきた。これまで、新聞の主張を政治に反映させるため、誰か現役の新聞人が国会に議席を持つことの必要は感じないでもなかったが、それが私の番に廻ってこようとは予期しなかった。しかし、だんだんすすめられるし、新聞人として決して無駄ではないと考えたので、ついに意を決し、昭和28年春の参議院議員選挙に全国区より立候補し、幸いにも多数のご支援を得て当選することが出来、爾来、大蔵委員長として今日(こんにち)まで微力をいたしているのであるが、当選と同時に、私の身辺は一層多忙になった。東京新聞社屋の建設が着々、具体化してきたのである。

苦心もした。心労も重ねた。が、努力の甲斐あって突貫工事が予定どおり進捗(しんしょう)し、大阪の建築に引き続いて昭和30年3月、東京都千代田区大手町の目抜きに、延べ一万四千坪、最新設備の新聞社屋を含めた東京産経会館ビルが竣工したのだった。このビルには私の新聞理念を相当うちこんだつもりである。特に愉快だったのは、会館内に特設した新様式の国際会議場がさっそく活用され、欧米使節団にも好評だったことで、これは日本における唯一の世界的な会議場として、爾来いよいよ国際間の友好を深めるに大きな役割を果たしつつあるが、この存在が、今後一層真価を発揮するだろうと思うと一層愉快なのである。

近来、テレビの普及は実に目ざましいものであるが、私が今、東京芝公園に建設中のテレビ塔は、高さ333メートル。フランスのエッフェル塔よりも高く、今や世界一を誇る高塔で、共にわが国、科学建築の偉観を誇るに足るもの、本年の12月に完成する予定で、工事を急いでいる。

これが完成のあかつきには、このテレビ塔からテレビの送信が行われるので、関東一帯、遠隔地でもらくらくと受像が出来ることになるし、また高さ120メートルの展望台に上れば、はるかに富士山、近くは東京湾、銀座の暮色まで一望のうちに収められる。今後日本の新名所として、外国観光団も続々と集まってこようし、これも外貨獲得の一助になろうかと、私もひそかに期待しているわけである。

ここに特筆したいのは、9月26日夜半、関東地方を襲った超大型台風22号にも、この高塔はびくともしなかったことである。”風速90メートルの強風にも耐え得る”との自信は持っていたが、さすがに心配だった。がそれは杞憂に終わった。18日の21号、26日の22号、猛台風二度の洗礼を受けて、この電波塔の強風に対する耐性が、立派に立証されたのだ。これで「台風の時はどうするか」という不安がすっかり、けしとんでしまったわけで、実はわが科学建築の威力を示したものとして、私は喜びを禁じ得なかった。

ともかく、こうして仕事が一つひとつ出来あがってゆくのも、ひとえに亡き両親の加護かと、私はそのつど感謝の念を新しくするのである。


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(完)

これまでこのシリーズを続けて読んでくださり、ありがとうございました。
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『春の歌』 : Mendelssohn
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春は別れと出会いの季節。
私にも今回、ある大きな別れをすませました。
次には新たな素敵な出会いが、たくさん待っていそうです!!

ところでムービーは、二月のとある土曜日に自宅でデジカメを使って撮影しました。
小学五年生の娘は、毎週土曜日の午前中は市が運営している物づくりのイベントに参加しているので車で連れて行っています。それが終わるまでその間、併設されている図書館で私は一人読書(笑)。そして、お昼過ぎから市の施設のグランドで陸上競技の練習。私はその応援と見学。そして帰宅後の夕方の早い時間から夕食までの2~3時間ほどはピアノの練習。私は酒を飲みながら(爆)ピアノを傍で聴いています。だいたい、土曜日は一日中、娘と一緒にこんな感じで過ごしています。
でも、これからは、それは、ちょっと無理そうです。
それって、わかれるんかいっ。爆!×10000 ←冗談ですっ。(≧m≦)ぷっ
下手な演奏を聴いていただいて、ありがとうございました。

― リンク先の皆さま ―
いまだに皆さまのところへ遊びに行く時間の余裕がありません。私は、ずいぶん、ご無沙汰しているのにもかかわらず、こちらへ訪問いただき、本当にありがとうございます。
それなのにまた、今週の中ごろあたりから約半月間ぐらいはPCが手元になく、自分のブログを放置することになります。汗! なので、もし、コメントを頂けたとしても、おそらく、お返事は今月の4週目あたりになると思います。
でも、きっと、その頃になると最近までとは違って状況が落ち着きますので、ゆっくりリンク先の皆さまのところへは以前のように、ちょくちょくとブログ訪問ができます♪♪





テーマ : たいせつなひと。 - ジャンル : 心と身体

タグ : 母を憶う



[ 2009/03/03 19:12 ] 随 想 | TB(0) | CM(12)
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