月に一度、GLA関西本部の月刊誌発行に合わせて、高橋信次先生の随筆をあげています。
興味が御座いましたら、ご覧下さい。
以下、GLA関西本部発行 2007.9月号月刊誌より転載
「神と罰(バチ)」
人間は神仏の子である。自ら律し、自ら創造し、自らこの地上を調和させてゆく。
大自然が調和されているように、人間もまた調和された存在者である。
神仏の子である一つの証明は、己自身にウソが言えないことと、人間の意識は宇宙大の広がりを持つということ。
人間の肉体構造が宇宙と同様につくられてあり、星の数と人間の肉体細胞の数についても、やがて新しい発見がなされるであろう。
では、そうした存在者の集団である地上社会が何故混乱を招いているかである。
神の子ならばもう少しましな社会がつくられてもいい筈ではないかと。
まさにその通りであり、神の子の社会が不善の社会をつくる道理がないからである。
だが、ここで大事なことをおろそかにしてはならない。
神の子は自らを律し自ら創造してゆくようにつくられている。
大自然を神が創造したように、人間もまたこの地上を創造してゆくものである。
しかも人間は、神と同様に自由な意思が与えられ、言うなれば、その自由な意思でどう自分が創造しようと、それは神の子の許された権能なのである。
人間が肉体を持ち、個々の生活環境を形づくってゆくと、本来の神の子の神理から離れた創造行為に移りやすくなってゆく。
ここに肉体人間の過ちがあり、不幸の原因が生じてくる。
相対観念は、あらゆる悪を生み出し、罪を生み出してゆく。
しかし、天があり、地があり、男女の区別のある相対界であるからこそ、より進化した調和を生み出すことも可能なのである。
これまでの人類史は、調和の期間が短く、悪を創造してきた期間のほうが長かった。
罪をいろいろ重ねてきた。神の子のあるまじき罪を、不調和を生み出してきたのである。
人間は、自由な意思と自由な創造性を与えられ、それは神の子としての当然の権能として行使できるために、今日の悪をつくってきたのである。
人間の本質はこのように、神仏の子である。
神仏の子であるが故に、その罰は己が償わなければならない。
神仏が神仏を罰することはないし、神仏の子は、神仏そのものであるからである。
神を祀り、仏を崇め、手を合わせることを拒めば罰が当るとする考えや思想・掟がもしあるとすれば、それはまったく人間を知らぬために起こった、いわばその教団維持のための自己保存にすぎない。
神は人間に罰を与えるどころか、不幸な者ほど思いわずらうのが親子の情というものであり、神仏の心は人間の心と少しもかわりはないものである。
――間違っても神仏が人間に罰を与えると考えてはならない。
蒔かぬ種は生えぬ、蒔いた種は刈り取ることが神理であり、法であり、人間に課せられた天命である。
以上
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罰・・・重い言葉です。
ちょっとした思い出です。小学1年の頃です。昭和四十三年ごろですね。
私は小さい頃から何か悪いことをすると、決まって「そんなことしたらバチがたあたる」と家族や近所の方から言われていました。(汗
自宅の前に幅が三メートル位の小川があります。その頃の小川は清流でした。
今は当時の記憶にある面影は全く無く、部分的にコンクリートで固められています。
その川では夏になるとフナやハヤ、そして川ガニとかシジミ貝を遊びながら自分でとってきて、とったものが食卓に上がっていました。
小川は初夏になると夕方ぐらいから、たくさんの数のホタルが飛び交っていました。毎日のように飽きもせず天気の良い日はつかまえていました。
飛んでいるホタルを手でキャッチするのは別に何も言われませんでしたが、草むらの中で光っているホタルは手で取ってはいけない、と親から言われていました。
草むらに隠れているヘビの目がホタルに見える場合があるから、ということです。
ヘビは怖いので噛まれたくないです。それで教えられたのは、笹を取ってきて、その笹を川の水につけて笹の湿った葉で、草むらに光っているホタルをこすってつかまえていました。
♪ほー・ほー・ほーたるこいっ♪っていう歌を歌いながら。(笑
つかまえたホタルは、カゴに入れて家で眺めていました。
翌日になると、ほとんど死んでいました。(涙
それからずっと後になり、川が濁ってホタルの幼虫の餌となるカワニナが減少し、ホタルが見られなくなった頃のことでした。
親に、その頃言われていた、ヘビの目がホタルに見えることがあるから手で取ってはいけない、と言われたことを思い出して、それについて何気なく聞いてみました。
親の本心は子供がヘビに噛まれることが危ないのではなく、夢中になってつかまえようとしているので、暗い中でガラスや瓦の破片などで怪我することを心配していたそうです。
もし、ガラスや瓦があるから手で取ってはいけない、と言われても親の忠告は無視して、手で取っていたはずです。(汗
ヘビだから怖くて親の言うことを素直にきいていました。
同じくその頃のことです。学校帰りに(目の前の自宅で済ませればいいものを)決まって毎日、自宅前の川に向かって、おしっこをしていました。(爆)はずかしい。爆爆!
ところがある日、自宅前の川を挟んで、お向かいの家のおばあちゃんに、それを目撃されました。
がばい怖い、ばあちゃんです。何か悪さが見つかるたびに怒られていました。(汗
そのときは、「川で、しょんべんするぎー、水の神様のバチがあたってチンチンが、赤(あ)こうなって、もう、しょんべんが出らんごつぅなるったい!」
と、怒られました。爆!
神様のバチがあたる・・・。
それを聞いて怖くなり、それ以来、川でおしっこするのは止めました。(笑
実はその頃の川は、島田洋七さんの作品 「佐賀の がばい ばあちゃん」にあるように、川は
生活用品!の一部でもありました。
そこに、平気でおしっこをしていました。だから怒られるのは当然です。(汗
家庭の井戸が他のものでいっぱいの時には、どの家の奥さんも目の前の川で野菜を洗ったり、お米をといだり、夏はスイカを冷やすために川につけたりしてありました。
また洗濯板でゴシゴシと下着、普段着の洗濯もしてありました。
赤ちゃんがいる家は、今みたいにパンパースなどの紙おむつはありません。
全部布オムツでした。布オムツは特別に汚いので、その場合だけは、家並みの一番下流に行って、洗ってありました。
田舎ですから、今と違って、周りのどの家もほとんどが百姓で、奥さんが外に出て働くというのが、あまりなく、のんびりしていたように思います。
こんなヘソ曲がりな、当時小さかった私には、理屈で言われるよりも、バチがあたる、と言われた方が効果てきめんでした!(笑
そういう場合は「バチがあたる」と言うのは良いかと思います。
ところで、罰には天罰とか神罰、仏罰あるいは天誅などと俗にいいます。
文中にあるように自己利益の為だけに、また、人を思うように使うために恐怖だけを植えつける「バチがあたる」というのは、もってのほかですね。
>神仏の子である一つの証明は、己自身にウソが言えないこと
この言葉は、高橋信次先生の著書、講演には折に触れ、何度も目にしたり聞いたりしています。
確かに、人にウソを言えても、自分の心自体にウソをつけません。
自分のなかには、自分は一人だからです。
今回は、他の動物に無い、万物の霊長のみに与えられた自由を行使できる権能の根拠に対する大意を書かれた随筆文でした。
長文をご覧頂き、ありがとうございました。
タグ : 高橋信次:GLA誌より
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復帰されて、嬉しいです!
夏季講座、お忙しかったでしょ。
お疲れ様でございました。
また、よろしくお願い致しまーす
昭和40年代に、ゆきさんが、ホタルをとってる様子は
とってもかわいいです
私も、「そんなことするとバチがあたるよっ」は
よく言われてました。 子供心にうひゃ~もうやめよう。
と思うんですよね。(笑)
自分が蒔いた種は自分が刈り取る。
すべて自分の行いが自分に帰ってきているだけ。
江原さんの本でも読んだことがあります。
自分に与えられた自由意志で、自分をどう創造してくのか。
私たちに与えられた、特権中の特権だと思いますが・・・
改めて、もっと自由意志に責任持たなきゃ。と思わせて頂きました。
今日もケイタイから挑戦してみました。(笑)