天の御国 1 

人は誰しも「目的と使命」を持って、物質界という不安定なこの世に生まれてきている、と高橋信次先生は仰ってあります。
生まれてきた「目的」。それは天界では確認できない修行、盲目の人生の中での自己の確立。心の調和。過去世で作り出したカルマが天界の修行で本当に修正できているかどうか、をこの世で確認するためだそうです。
そのカルマを知るには己自身を知らなくては発見できません。その鍵は自分の日頃の想念と行為の中に現われてきます。
そしてもう一つ、「使命」とは仏国土ユートピアの建設と仰ってあります。
ユートピアについて参考になる、と私が思っている本の内容を今回少しばかり紹介いたします。

ユートピア建設が人間の課せられた使命。これは高橋信次先生だけが初めて仰った言葉ではないような気がします。主観ですがイエス・キリストもはっきりと、そのことにふれてあると思います。それはイエス様が弟子に教えた「主の祈り」に表われています。
「天にまします我らの父よ 願わくは 御名(みな)の尊まれんことを 御国(みくに)の来たらんことを 御旨(みむね)の天に行わるる如く 地にも行われんことを・・・ 」
おそらく神学上の本来!の解説とは違い、自己流の解説ですが・・・
祈祷文冒頭は天地に満つ神の栄光を祈り、次に神の力により神が支配する御国(ユートピア)到来を自分のなかに、そしてこの地上にもその到来を待ち望んでいる、ということを示されているように思えてきます。

ユートピアとは、どんな世界なのだろう。おそらく生まれてくる前の世界、あの世の環境がそうだと思います。各人の「使命」として、全人類が物質中心の世界を精神世界にもどす・・・ということなのでしょうか。
では、どのようにしたらそれが実現可能になるのだろう。それを想像すると途方もないことのような気もします。
しかし、まずは一人ひとりが自分の中にユートピア建設を目指さないと何も進みません。
自分の中でユートピア建設に一歩ふみだすには、どうしたらいいのだろう。
神に対する感謝の祈りは大切だと思います。私は瞑想前にはかならず祈ります。しかし祈りのみで建設できるものではないでしょう。自分をもっと成長させるために自分の内面に対し、今までにない新たなモノを取り入れなくてはならないこと。あるいは自然な形で内から排斥すべきもの。もちろん、カルマの修正がそれに一つ歩を進める、ということは分かります。
では、目指すユートピアとはどのような世界なのでしょう。
私は自分のなかに、とっても小さくても構わないのでその礎を築きたい。
私たちがこの地上に生まれてくる前のあの世の世界(死後、帰るべき世界)について、高橋信次先生の著書や講演にはいろいろと出てきます。

ここではスウェーデンボルグが書いたものをブルース・ヘンダーソンが紹介している「死後世界」をあげてみました。他に死後の世界について書いてある本はいろいろあります。過去、いくつか読みました。しかし抽象的でもあり信憑性に欠いているものばかりでした。教訓となるものが探せずに自分としては納得いくものがありませんでした。スウェーデンボルグならびに二冊のアラン・カルディックの著書は特に価値を感じます。
あの世の実相を知らない私が信憑性がない、というのもおかしなものです。ただ私の中の規準は高橋信次先生の講演にある説明をもとにして、そう考えているだけです。この本は高橋信次先生が説明されてあることに非常に似通って共通しているところがあります。高橋信次先生とは少しばかり違う切り口ですが読むたびに新鮮な気持ちになれます。

規準は高橋信次先生・・・こんなことを書いているということは、私は高橋信次先生を疑わずに信じきっています。
以前は違いました。幽霊なんて見たことも感じたこともないですから。唯一経験したことは、ずいぶん昔の若い頃、寝ているときの金縛り。笑! 人の怖い気配を強く感じましたが、それは錯覚!と自分に言い聞かせ納得していました。ですから「あの世」とか高橋信次先生の「現象」は半分信じて半分疑い。笑!
ところが岸田先生とご縁をいただいて以降、守護霊様を感じたときには驚きでした。以前にも書いた、ちょっとしたことなのですが、守護霊様が自分に入ってこられた時の自分の身体が宙に浮きそうな軽さには感動しました。その軽さは、あの世の人は「執着」による重さがない、という証です。そのとき、そう教えて頂いたように思えました。その体験は忘れもしません。そのあたりからやはり「あの世」は存在する、と自分の中で実感としての確証をもてました。そうなると自分を常に軽くしておきたい!と思います。まだまだ重いものを引きずっていますが。汗!

以下、かなり長いのですが省略することなくユートピアとはどういう世界なのか、ということが少しかいま見られて参考になった一つの章をそのままとりあげました。
興味ございましたらご覧下さい。

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ブルース・ヘンダーソン著 「スウェーデンボルグの死後世界」より第五章全文

どんなとき、私たちはあるものを「天の」と形容するのでしょうか? たいてい、平和・喜び・満足・美・愛といった天界を思わせるものをとらえた特別な瞬間です。私たちが生き甲斐を感じるのはこのような瞬間であり、この一瞬を決して忘れません。このようなとき、私たちは天界に住みたいと思います。
けれども、この世の旅を終え安堵の胸をなでおろそうとするすべての人にとって、天界は漠然とした怖さを感じさせます。そこは実際にはどんなところなんだろう? 本当にそこが気に入るのかなあ、いつまでも? それとも、印象がうすれてきていつか飽きるんじゃないの? 天界ってどれくらい大きいんだろう? いつか人でいっぱいになってしまうのかな? そして、いつか閉ざされてしまうのだろうか? 天使たち(※定義として、天使とは特別な大天使ではなく、あの世の天界の人のこと)は眠り、働き、食べ、夫婦として一緒に暮らしているのだろうか? 来世への疑問でいっぱいです。しかも、この疑問にはたいてい答えが見つかりません。
ところが、スウェーデンボルグの著作の中に答えがあります。しかもさらに、その答えは一貫しており安心できるものです。天界はこれを本当に求めるだれにでも開かれている、と彼(※スウェーデンボルグ)は言います。そこはいっぱいになることもなければ、決して閉ざされることもありません。また退屈になることもありません。ともかく、天界は愛の国なのです。あなたの愛する人たちと、またその人たちに、あなたが本当にしたいことをしているとき、あなたはこの上もなく幸せであり、決して退屈とは思いません。これが天界の生活です。
スウェーデンボルグの描く天界は、この世で私たちが「天の」と呼ぶ状況とそれほど異なったものではありません。なぜ天界はそうなのでしょうか? あなたの愛があなたを天界へと導くなら、そこは見知らぬ外国ではなく、故郷のように思え、故郷のように見えてきます。
スウェーデンボルグは、「そこには、雲・雨・風があり、引力やまたその他の力が働いていて、見たところ自然界のものと同じである。緑の芝地、楽園、花園や野原や休閑地、山や渓流、それに海岸すらある」と述べています。
天界では太陽がつねに輝いており、その太陽の中に神が見られます。その明るさは神の真理から輝き、その熱は神の愛です。スウェーデンボルグによれば、その太陽は私たちの昼間の太陽の明るさよりも明るいのですが、少しも目にきついことはありません。
その光はどこまでも貫いており、それから隠れることができるものは何もないほどです。この光の中では、あなたの正体そのものが見られてしまいます。けれどものこのとは、天使たちにとってびくびくするようなことではありません。彼らは自分たちの性格が完全にオープンになることを歓迎しています。天使になった彼らの中には善以外の何ものもないからです。彼らには何も隠すものはなく、何も恥ずかしいことはありません。
「天界の下方にいて、善を心がけていない人々の場合はこの限りではない。このような人々は、天界の光の中で見られることをひどく恐れている。奇妙なことに、地獄にいる者たちはお互いを人間と見ているが、天界の光の中では恐ろしい顔と体つきをした怪物に見える。これが彼らの悪の形状そのものなのである。」 天界の光の中では、天使たちは、善良であるのに比例してさらに美しくなります。天使になればなるほど(※天界での段階が上がれば上がるほど)、美しくなるのです。悪人たちはその心の内に作り上げたものに比例して外見も極めて醜くなります。
スウェーデンボルグには、天界の中で天使たちが見ているものを描写するには難しいことが分かりました。多くのこの世と同じものが見られるのですが、しかし、その性質は非常にすぐれ完全であり、この世の言葉を受け付けません。
彼(※スウェーデンボルグ)は 天界について全般的な描写をして、その詳細をかいま見ることはあなたの想像力に任せています。「そこには、あらゆる種類の樹木と花にあふれた庭園や公園がある。木々は、横枝をアーチ上に組んで通り抜けられる入り口にと、またあちらこちら散歩できるようにと、美しく配置されている。すべてのものが美しく、それは言い表しようもない・・・・・・。そこにはこの世に知られていない樹木や花もある。」
こうした描写に慣れるのはそれほど難しくないでしょう。私たちの考え方の中で調整を必要とする部分は、霊界には時間と空間(この中でこの世の私たちは生活しています)の制約がないということです。天界にはこのどちらも存在しません。私たちの知っているあらゆるものは時間と空間から定まっているので、これはほとんど理解できないことかもしれません。けれどもスウェーデンボルグは、霊的な生活に移っていったとき、このことは少しも調整を必要とすることではなく、だれもがみなきわめて自然に感じることだ、といっています。例えば、空想の中では時間と空間に何ら関係なく、近くや遠くの人や場所へとさまよいます。遠く離れた友であっても、その人のことを思うとき身近に引き寄せます。何年も前の経験であっても、これをまざまざと思い出すとき、時間は消えます。このように、時間と空間の限界を超える経験は全く初めてのものではありません。
霊界は、私たちが考えられないほど異なっているものではありません。私たちの大部分はこの世を、目で見て計量できるものによって定まる実在性を持った厳密に構築された世界だと思っています。しかし、見ることや量ることができなくても本当に実在するものがたくさんあります。例えば、あなたがだれかを愛するとき、この愛は見ることも量ることもできませんが、あなたにとってこれにもまして実在するものはありません。
静かな部屋の中にも、大気を通過してくる電波や、またそのような波動するエネルギーが存在するのを知っています。このようなものは、私たちが聞くことができる波長やそうしたものに伝えられるときのみ「実在」となります。
この世で私たちは、測定できる有限な物の中に、少なくとも心の外側の物質世界の中に閉じ込められています。しかし、スウェーデンボルグは、「天界をこのように考える人は、まったく違っている。天界の広がりはこの世の広がりと違う。この世の広がりは有限であり計測できるが、天界の広がりは、限りがなく計測もできない」と言っています。
もちろん、天界にも「距離」、少なくとも距離のように見えるものがあります。物や人は、価値の大小の順に応じて配列されます。しかし、その距離は、この世で普通に行われているように、一定のもので計られるものではありません。それに代わって、その距離は天使の心の状態の変化によって定まります。あなたがだれかに距離を感じるなら、あなたは霊界でも実際にその人から遠くはなれています。身近に感じるときには、霊界では出会っているでしょう。これは、心が霊的世界に属するものであって、物質世界に属するものではないからです。けれども、時間と空間にきっちりと締め付けられた世界に住む私たちと同じように、霊界あるどんな些細なことも、天使たちにとってそれは現実のものです。
私たちのたいていのことは、この世を定める特殊な関係によって決まってきますが、天界にはそのような制限はありません。この世ではある場所から他の場所へ行こうとするとき、まず計測できる距離と、移動に要する時間を考えなくてはなりません。けれどもスウェーデンボルグは、天使たちがある場所へ、本当に行きたいと望んでいるときには素早く、気の進まない時には遅く到着するのを何度も見ています。それで、かつてはこの世で時間と空間の制限の中で生活を経験し、今でもやはり外見上では距離と時の進行という環境中で生活しているにもかかわらず天使たちには「時間」「空間」という言葉を考えることができない、と述べています。
天界はこの世よりもリアルである、とスウェーデンボルグは言っています。それは周囲の環境の現実性に加えて、愛がはっきりと見られるからです。私たちの世界を現実に作り上げているものはこの愛です。心の中のすべてのものは、心の精神世界にあるものでもこの世や天界の中にあるものでも、すべてのものはこの現実の一部なのです。
このこととうまく折り合いをつけることのできるただ一つの方法は、時間と空間の錨をあげて、あなたの心の中を漂うといった自己の思考の自由な漂流を通してでしょう。考えてみたいものは何でも、その場面や人物が物理的にどれほど遠く離れていようとも、あなたの心の中にまさに存在します。自分の存在を忘れて夢を見ているとき、時間は関係ありませんし、空間は妨げとなりません。しかも、あなたの「見る」もの、感じるものはリアルです。
夢や、心の静まった状態を別にして、時間はこの世であなたの生活を支配しています。そこであなたは、時間と空間をふまえて、あらゆるものを(死後の生活ですら)推し進めざるをえません。このことは、永遠に生きるという理想に少しばかり落胆することになるかもしれません。なぜならそれは終りのない時間の推移なのですから。しかし、終りのない時間という考えから始めたのでは、永遠というものが理解できないでしょう。あなたの夢のことを、または時を忘れるほど何かに夢中になっていたときのことを振り返ってみてください。最高に幸福だったときのことを考えてみてください。そのとき時間は存在せず、その時が終わってほしくなかったはずです。あなたはその瞬間だけ生きていました。そしてこれがあなたの期待する「永遠」(時の経過や将来の時といった時間の概念なしに、喜ばしい生活にすっかり夢中になっている状態)なのです。
この世の生活はおもに時の流れの中で考えられています。地球は、昼と夜、時と季節を作り出しながら太陽の周りを回転しています。けれども天界の太陽は不動であって、どんなものもその周りを軌道を描いて回っていないので、天界にははっきりした時の進行というものはありません。けれどもこれは、天界はいつも昼間と同じような「時」である、ということではありません。そこには朝・昼・夕方があり、働き・気晴らし・祈り・休憩の「時」があります。ただ心の状態が変化するのであって、時計で計ることのできる絶対的で物質的な変化があるのではありません。
スウェーデンボルグは、天使たちはすみやかに時間の概念をすべて忘れてしまい、霊界が心の変化を反映する(この心の変化から相応する環境が作り出されます)のをまったく当然のこととしている、と言っています。「彼らは、年・月・週・日・時・昨日・今日・明日といった時間に関する言葉が何を意味するかを知らない。」それで、この世で日々時間に追われてあくせくしているとき、あなたはこんなことが天界を天界らしくすると思えますか?
私たちの世界の大部分を定めている固定した時間と空間を欠いているので、天界は物体と霊たちが混じり合って浮遊しているように思えるかもしれません。しかしスウェーデンボルグは、まったく違う状況のもとですが、天界を完全な秩序の世界として描いています。
天界は、天的、霊的、自然的の三段階に分けられます。それぞれは、そこの天使たちの間に行き渡っている愛の種類により区別されます。天的な天界、すなわち最高位の天界では、神への愛があまねく行き渡っています。霊的な天界、すなわち中位の天界では、隣人への愛、他人を助ける愛が支配的です。そして自然的な天界、すなわち低位の天界には、十戒など神の律法に従おうとする愛があります。どの段階の天界も、天使たちの間の「愛と信仰」の違いに従って、無数の社会に分かれています。
この世で私たちは、おもに興味や価値を共有する人たちと友達になったり交際したりします。天使たちも同じく、共通のきずなで彼らの社会を作ります。彼らは各社会の間を好きなときに自由に訪問しますが、最も気楽で最も自由に感じられるのは自分の社会にいるときです。
これらの社会は、大きさも、またその環境も田舎から都会までさまざまですが、それぞれが独自の共同社会です。「大きな社会は数万人、小さな社会は数千人、最も小さいのは数百人である。家や家族単位で離れて住んでいることもある。」
天界では、あなたは見知らぬ環境に置かれることはありません。もし田舎に住むのを好むなら、あなたの天界の家は田舎にあるでしょう。都会や町のほうに親しみを持つ人は、やはりそのような天界の環境が与えられ、それに満足するでしょう。
それぞれの社会の天使たちは共通の趣味を持っているので、どの社会でも大部分の天使たちは歴史の中の同時代に生き、同じ国からやって来ている、と言われても驚くことはありませんし、異なった時代と地域からやってきた天使が同じ趣味を土台にして一緒に住むことも当然可能なことです。慣れ親しんだ文化の中で暮らしますが、心の状態はさらに高揚しています。そして各社会間の実際の相違は、この世から持ち込まれた人種・階級・民族主義などではなく、若者たちを教えたり、新来者を導いたりする、天使たち果たす役立ちにあります。
スウェーデンボルグは数回、古代ギリシャの哲学者が当時のままに暮らしているアテネと名付けられた天界の共同社会を描いています。そこは大きな都で、図書館・博物館・大学・法廷などがあり、またいろいろな商業活動もなされています。そこの、スポーツや試合、女性によってなされる刺繍、それに「霊的な方法による芸術的腕前を持った」職人のことも述べています。
個人の住まいは、そこに住む人の性格を反映します。あなたの住まいも、あなたが何に気を使い、何を大事にしているかといったあなたの性格をかなり物語っています。天界では、もっとそうなります。各人の家は神からの贈り物であり、どの天使の性格や個性にも完全に似合ったものです。
事実、あなたの永遠の家は、天界にあろうと地獄にあろうと、すぐに自分のものだと分かるほど自分の一部なのです。これは、この世の生活を通して設計し建築したものだからです。この家が永遠にあなたの住まいとなります。
この住まいは、完全で平和な秩序を持った国にあります。スウェーデンボルグは、神から広がり出た相互愛のスフィア(霊気)が天使たちの社会に行き渡っている天界の統治形態も描いています。これは多くの人がこの世に望む統治です。
論争やエゴがなく、支配より仕えることに専心する人々の統治を想像するのは難しいかもしれませんが、このことが統治を天界のものにします。そこで天使たちは、ただお互いにとって最善なことだけを望みます。それで天界での統治は私たちのものと非常に異なっています。そこの統治者たちをスウェーデンボルグは次のように描いています。

・・・・・・他のだれよりも愛と知恵にすぐれ、だれにでも愛から善を願い、知恵から善をどのように与えたらよいかを知っている。このような人は、支配したり命令したりしないで、奉仕し、仕える・・・・・・。自分を他人より偉い者としないで、劣る者とし、社会と隣人の善を優先し、自分のことを後回しにする・・・・・・。それでも統治者たちにも名誉と栄光がある。彼らは共同社会の中心に、他の者よりも高いところにある壮麗な邸宅に住んでいる。けれども、この名誉と栄光を受けているのは、自分のためではなく、従順のためである。この名誉と栄光はじつに主から与えられたものであり、それゆえ従わなければならないものである、とそこのだれもが知っている。

スウェーデンボルグは地獄の統治も描いていますが、天界と地獄を対比させてみれば、その正反対の性質を知ることができるでしょう。地獄でも統治は欠くことはできません。「なぜなら、統治がなくては、そこの人々を拘束できないからである。しかし、地獄の統治は天界の統治と正反対のものである。だれもが他人を支配し、頂点に立とうとする。自分の側に来ない者を憎み、復讐し、暴力による危害を加える。自己愛とはこうしたものである。こうして、最も悪い者が支配し、他の者は恐怖から服従するのである。」

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>天界では太陽がつねに輝いており、その太陽の中に神が見られます。その明るさは神の真理から輝き、その熱は神の愛です。スウェーデンボルグによれば、その太陽は私たちの昼間の太陽の明るさよりも明るいのですが、少しも目にきついことはありません。
その光はどこまでも貫いており、それから隠れることができるものは何もないほどです。

ここに書かれている霊太陽は高橋信次先生が言及されている「神の姿」とまったく同じことを述べてあります。
スウェーデンボルグは太陽を天上界のどの段階で見たのだろうか。
高橋信次先生は霊太陽の中に人と同じ姿をした神が存在しており、霊太陽は地上でみる太陽より一回り大きい。地球上の太陽の光は直視することはできないが、あの世の太陽は違う。しかも柔らかい「ふくらみ」のある黄金色の光を発し、その光は慈悲と愛からできており、天上界はもちろん下は地上界、また地獄界までその光はあまねく宇宙全体を照らし、上々段階の光の大指導霊はその光をあおぐ・・・。とあります。

あの世には「時間と空間」という地上界で通じる概念がない。という説明も分かりやすい内容です。統治者の壮麗な邸宅は従順のためであり、しかも名誉と栄光は主から与えられたものであり、それゆえ従わなければならないものである、とそこのだれもが知っている。・・・とあります。妬みなど発する元さえない素晴らしい世界です。

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かなり長くなってしまいました。
続きは後日UPいたします。
長文をご覧いただき、ありがとうございました。


P1000266.jpg

職場途中の田園から。
ずっと遠くまで黄金色に輝く自然の恵み。



タグ : 天の御国



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[ 2008/05/19 21:00 ] 随 想 | TB(0) | コメント(-)
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