cat & rails 

ある陸上競技場事務所の入り口。
コンデジを買ったばかりでしたのでネコちゃんは、すべてオート撮影です。
カメラを試すために、気持ちよく昼寝していたネコちゃんをカシャカシャと!
しかし・・・そこに寝ていられると受付のジャマですがっ。
っつうか、ネコちゃんにとっては私が昼寝のジャマのようでした。

cat5.jpg





わっ、逃げられた! 追跡っ。
 
cat6.jpg

ネコは走る。私も追っかけて走る。
カメラを持って走りながら、走る物体!を写すのは難しいです。失敗写真。
胴しか写っていないので、どうしようか迷いましたが・・・





追っかけて、追いついた先は水たまり。

cat2.jpg

何か用か にゃ~ん。 あんたもしつこい にゃ~ん。





なんと、水を舐めはじめちゃいました。汗

cat.jpg

のどが渇いていたんだね。





それで満足したのか、毛づくろいのなめなめ。

cat4.jpg

しつこく私はネコちゃんの動作をカメラでカシャカシャ。





しまいには、こんな顔されちゃいました。

cat3.jpg

わかりました。もう撮りません。。。
そこで私はネコちゃんとは、bye bye 。


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前回の お彼岸 にある、 「高橋信次先生による般若心経のまとめ」  編集 田口恒勇 
の続きです。
ここからは長くなります。
関心ございましたら、ご覧ください。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


しかし仏教とは釈迦の説いた教えであり、それはまた自然の成り立ち、理法をいっているのであり、求める心さえあればどんな人でも理解できるものである。
肉体人間は欲が深く、つい目先のことにとらわれるために、本来自分のためにある仏教、正法を理解しようとせず、これから離れていってしまう。
喜怒哀楽は人間だから当たり前、人間だから病気もする、人間だから悪いこともする、聖人ばかりになったらこの世は味も素っ気もない、という見方をする人がいるが、いったい人間とは何か、である。
こういう考えでは動物になってしまう。動物は本能のままに生かされているので、それなりの生き方が与えられ、コントロールされているが、人間は考える能力を持ち、自由意志が与えられているために、こうした生き方をすると、ズルズルと動物以下になり下がってしまう。
一つの家庭で悩みがない、という人は比較的少ないのではあるまいか。経済的に恵まれている家庭は子どもがいないとか、夫婦間がバラバラとか、子供がグレて手を焼くとか・・・・・・。一見平和に見える家庭でも、ひと度その家の中に入ると、いうにいわれぬ問題をかかえているようだ。
しかしそれも人生、あれも人生ということで、その場その場でツギハギし、みて見ぬふりをしてその日、その日を送っているのが大半の人びとのようである。
人間は生活の歯車が曲りなりにも回転している時は、なかなか正法に入りずらく、縁にふれてもおざなりになってくるようだ。
しかしひと度、生活の歯車が土台から揺れ動くと、こんどは血眼になって慌てふためく。
なぜだろう。欲が深いのだ。もともと・・・・・・。
欲の深さは、何でも手にいれたいというのもあれば、現状に甘んじ、自己陶酔に陥るのも同じことである。
自己陶酔、自己満足、現状に甘んじるというのは、偽我が強いからそうなるのである。
偽我とは、本来の自分でない自分である。

本来の自分は善我であり、それは神の子の自分である。
神の子の自分に立ち帰れば、正法の絶対性と中道の神理については、否も応もなく、これを生かした生活をしなければ、その反した分量だけ苦しみを味わう、ということを知るはずである。
悟りの彼岸は誰のためでもないのだ。みんな自分のためである。
自分を悟れば、この地上界は慈悲と愛によって成り立っており、調和の要は神の姿でもあるので、愛、慈悲の行為を顕現(けんげん)してゆかねばならないということが自覚されてくる。
そうして、己の幸せを他に及ぼして行くというのが正法なのだ。
ゴーダマ・シタルダー(釈迦)は、それを説いた。

当時のブッダは、主に慈悲を説いた。
慈悲とは仏の心だ。
慈悲は至高の大宇宙の心である。
本当の慈悲の心を理解できる者は、ホンの小数の限られた人達だったようである。
ただし当時は、心の中はともかくとして、形の上にそれを表わそうとすれば比較的容易に行えたようである。
インドの人たちは布施心も強く、野や山は食べ物が豊富にあったので、サロモンとしての修行も容易であったし、欲望に打ち克ち、人びとに救いの手を差しのべることもできた。
しかし、自己を宇宙に拡大し、神の心となって、人々の心の中に仏を呼び起こすことのできた人はブッタしかいなかった。

ブッタは、今まさに涅槃(ねはん)に入らんとする時、弟子の阿難(あなん)に答えてこう言った。
「私がこの世を去ったとしても、私を思えば、私はその人の心の中で生きている」と・・・・・・。

神と仏は、この大宇宙に、そして人びとの心の中に、生き通しの大光明であり、絶対にして唯一つの大生命であり、言葉を変えれば、それは慈悲そのものであったのである。
慈悲は、法であり、大自然であり、万生万物に調和を与える神の大生命であった。

釈迦滅後、五百年の後に、イスラエルにイエス・キリストが愛を説いた。
人びとは釈迦が説いた慈悲の心を本当に理解することが出来なかったからといえよう。
これを理解できる者は、釈迦在世の時代でも僅かだったし、時が経つにしたがって、次第に形骸化されてきたからでもあった。
イエスは愛を説いた。
イスラエルという地は愛を説かねばならぬ土地柄でもあった。
インドと違い、砂漠が多く、緑が少ない。支配者と被支配者が雑居し、被支配民族は、その日暮しの生活であった。貧しい多くの人たちは、明日に希望もなく、救世主を待ち望んでいたのである。
そうした環境の中で人々を救うには、相互扶助の愛を説かねばならなかった。
地上に人類が増え、限られた土地と多くに人間が生きていくには、相互に扶け合う、人類はみな兄弟という愛の行為しかないのである。
愛の教えは今日、全世界に伝わり「聖書」は、かくれた永遠のベスト・セラーになっているのも、もとはといえば愛の行為は人間的行為に帰着するからである。

愛の心、愛の行為ならば、誰でもできよう。
この地上界は、いろいろな魂を持った集団社会である。
男女の別、能力の別、体力の別・・・・・・。すべてが相対的であり、さまざまである。
そうしたさまざまな魂が共に同じ場で修行し、調和という神の意思を顕現してゆくには扶け合い、補い合う強調協力の相互関係を欠くことはできない。
自分さえ良ければよいとするエゴイズムは地上界の人間を含めた、与えられた慈悲の環境を破壊するものであるからだ。

釈迦が遺した仏教が今日、東洋の限られた人々にしか伝わらず、イエスが説いたキリスト教が全世界に広まったのも、慈悲の心は神に直結し、近寄り難いし、愛はもともと地上の光であり、横に広がる性質を持っているからである。
慈悲も愛も、ともに神の光であることには変わりない。
しかし肉体をまとった人間にとって、どちらが親近感を覚えるかといえば、愛であろう。
慈悲といい、愛といっても、その本質を知って、その通りに生きている人は少ないといえよう。
人がこれを実行しようとすれば、恵みを与えることの出来る自分を、まずつくらなければなるまい。
慈悲は神仏の心だとして、盲目的にこれを為そうとすると、自分が苦しくなり、周囲に波紋を起こすことさえ出てくる。
さきにもふれたように、年老いた巨象は多くの小動物を天変地異による洪水から救うために、自らその巨体を岩の裂け目にすべらし、橋代わりとなって小動物を対岸に渡らせる。渡り終えると巨象は力尽き、裂け目深く沈んでいった。
巨象のこうした行為は慈悲の心を知り、自分を悟っていたから出来たのである。巨象以外の他の小動物がこうしたことをしたいと思えば、あたらその生命を裂け目に落とし、その悲鳴にかえって混乱を巻き起こしたに違いない。
この地上界は、相互作用の働きによって成り立っている。植物は動物のために、動物は植物に。草食動物は肉食動物に身を供養し、肉食動物は植物が枯れないように、絶えず死と隣り合わせに生きている
人間だけが植物や動物、あるいは鉱物資源を勝手放題に使ったり、食べ散らかしていいというものではない。
自然界の循環は、すべてに渡って適用され、それは他を生かすことによって成り立っている。
しかし動物、植物の自然界は、巨象のように法を悟って為されているわけではない。このため、相互作用のバランスを、しばしば失い、植物も動物も絶滅寸前に追い込まれることすらあるのである。

人間は万物の霊長なので、こうした不調和な状態にならないよう、慈悲の心、そして愛を持って、調和の範を示してゆかなければならないのである。
それには神理を知った想念と、自覚された行為が自然に出来るように、反省と中道の生活を送るようにつとめなければなるまい。
こうすることによって、やがて巨象のような慈悲の心が広がり、多くの人々を生かす自分に到達できるのだ。

愛の本質も慈悲の心と変らない。愛も人々を生かす行為であるからだ。
助け合い、補い合い、許し合う寛容の心は神の心だ。
自分にあるものを他に与え、人びとの喜びを喜びとする調和にある。
仏の慈悲、神の愛を求める人は少なくない。仏教は経文をあげ、キリスト教は祈りがすべてと考えられている。
ところが仏教もキリスト教も、自ら助ける者に与えられるのだ。
今日、あらゆる宗教が他力に変貌し、偶像崇拝という神仏と人間を切り離した信仰が広まったがために、神仏は人々に救いの『めぐみ』も『心の安らぎ』も与えることが出来ないでいる。
他力信仰が勢力を張り出してくると、偽りの神が人々に憑き、ますます混乱した信仰形態をつくり出してゆく。

仏教もキリスト教も、もともと一つなのだが、全世界に分布されている仏教、キリスト教の教え(分派)は何千何万に及んでいよう。
新興宗教といわれる宗団の経典は、たいていは仏教、キリスト教の教えを食いちぎり、他のものと混ぜ合わせ、もっともらしくつくり変える。
それでは真の安らぎも、救いも与えられようがない。
神理は自力である。神の子の自力に生きている者に、神仏は慈悲と愛を与えて下さる。
自分が中道に適ってくると、神仏はその者に智慧を与え、霊力を与え、奇蹟を与えてくれよう。そうして他の縁遠き者をも救える慈悲、愛の行為が自然に行えるようにして下さるのだ。
般若の境涯は、五体の人間では考えられないような、想像を超えた悦びの世界である。
巨象の行為が自然に行えたのも、その魂は三次元を超えて、安らぎの境地に常に住していたから出来たのであった。
転生輪廻の繋縛(けいばく)から解脱し、大宇宙に行き通しの自分を発見し、人びとに慈悲と愛の光を与えることのできた人を仏といい、如来ともいい、神の使者ともいうのである。
般若心経は、それを語り、仏智の偉大さ、悦びを述べている。

本稿で般若心経の解説を一応終えることにする。



[あとがき]


さまざまな角度から解説を試みて来たが、般若心経は全文二百七十六文字から成り、経文の中でも短い方に属していよう。
しかし、その書かれている内容は、悟りの中身であり、悟りとはこういうものだと説明している。
その説明の仕方はそれこそ、これでもか、これでもかと、くどいように説明している。
これは漢文の性質上そうならざるを得ないであろう。
たとえば・・・色即是空(しきそくぜくう) 空即是色(くうそくぜしき) 受想行識(じゅそうぎょうしき) 亦復如是(やくぶにょぜ) 舎利子(しゃりし) 是諸法空相(ぜしょほうくうそう)と書いて、そのあと不生不滅(ふしょううめつ)からはじまって、以無所得故(いむしょとくこ)まで。
ここは是諸法空相(ぜしょほうくうそう)の説明といっていい。
したがって、是諸法空相で終わってもこれらの説明は導き出せるものだ。

もっとも諸法空相(しょほうくうそう)については主観的体験なり、あの世の説明ができない場合は、空相を「無」と見てしまい、すべては無いと考えてしまう。そうでなくとも、不生不滅などの説明があっても色即是空の空を「無い」としてしまう人もあるのだから、人の『意』が加わると、とんでもない方向に解釈が進んでしまう。

同じ中国から伝わった仏教用語でも「諸法無我」(しょほうむが) 「諸行無常」(しょぎょうむじょう) 「寂滅為楽」(じゃくめついらく) は、僅か十二文字にすぎないが、これらの言葉は深遠な神理を端的に表現しており、漢文でなければ、こううまくは、まとまらないと思われる。
私は仏教のことは全くの素人であり、解釈の仕方も仏教哲学を学ばれた方々とは違うかもしれない。
しかし文字も知らない当時の人たちに説いたブッタ・ストラー(神理)は、主に方便をもってしたが、衆生が理解できないようなものは一つもなかった。
そうした意味で、私は私なりに、解説を進めてきたわけである。もし私の解釈に異議のおありの方があれば、そのお説をおきかせ願いたいものである。

般若心経は「般若波羅蜜多」の内容、つまり悟りの中身を述べているが、ではどうすればそれに到達できるのか、ということについては触れていない。
書かれた動機が般若の内容にあったようだが、やはり目的に至る手段も書いて欲しかった。そうすれば般若心経の中身は一段と光彩を放ち、解釈も在来のものとはだいぶ違ってきたと思う。
在来のものは、文字にとらわれ、解説者の意によって進められる。
心の問題は、頭では理解できないものだ。
なぜかといえば、心は次元の異なる世界に属し、その世界を体験し、心と肉体の相関関係を理解しなければわからないからである。

解説はそうした意味で、悟りの中身以外に、手段についても折に触れ加筆してきたが、般若心経の文面だけでは、こうした解釈は出てこないであろう。

日本に到来した経文の数は非常に多いと思うが、何れまた機会をみて、これ以外の経文についても解説をしてみたいと考えている。(終り)


:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


前回の記事でこの冊子の「彼岸」にあたる解説の部分を紹介させて頂きましたが、メールにて問い合わせがありました。
「高橋信次先生による般若心経のまとめ」は、いつどこから発表されたのか? 
初めから読んでみたいので、その冊子が余分にあるならば譲って頂きたい。
とありました。私は編集した方に、そのところは聞いておりませんでした。
また私の手元に、この冊子が余分に無いので、お譲りさせて頂くにはまいりません。
このままでは全文からすると中途半端です。
この冊子はずいぶん以前に全容をPCに入力していましたので、高橋信次先生をご紹介させて頂く意味でも、今後引き続き冒頭から少しずつ記事としてアップ致します。


最後まで長文をご覧頂き、ありがとうございました。



_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_






自宅付近の西鉄沿線の踏み切りでは、大きなカーブか直線だけ。
はるか遠くから、くねくね曲がって見える線路を写したい。


rails_20080919183513.jpg

でもコンデジじゃ望遠はムリだね。(≧m≦)ぷっ




タグ : GLA誌に連載:般若心経解説



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[ 2008/09/19 19:14 ] 随 想 | TB(0) | CM(13)
  1. ..
こんばんはー♪

cat & rails の、レールって何だったんだろう~ っと
思って読んでいたら、最後にありました!(≧m≦)うぷぷぷ

ネコちゃんかわいい~♪
しまいには、「いい加減にせんかぃ~」(爆) みたいな表情がナイス。>и)

線路はかなり低いアングルから撮られていますね~。
どこまでも続く道、人生ともだぶりますね。

慈悲と愛・・・ 確かに、愛 と言うほうが本能的に理解できる範囲が多いような気がします。
慈悲と愛とが直結していること…ふとマザーテレサなど思い浮かべました。



[ 2008/09/19 20:52 ] #sC8s1XYA [ 編集 ]
そうなんです。笑!

ネコと線路は、何にも繋がりがないのですが・・・

変な顔でしょ。笑!
べつにネコちゃんのしっぽを踏んだり、さわったりもしていません。

というか、さわれない。
私の長男がね、ネコ・アレルギーなんですぅ。
ネコの毛を触りでもしたら呼吸困難に陥ってしまいます。汗!
病院へ連れて行ったら、すぐに良くなりますが。
長男が幼稚園の頃は、実家にネコを飼っていて触ってみても何ともなかったのですが・・・
おそらく、前世でネコをいじめたんだね。爆!


線路はね、しゃがみこんで撮りました。
そうだね。長い長い人生とダブります。
同じ距離を進むなら、あせらず、ムリせずゆっくりと歩んでいきたいものです。


以前にも、マザーテレサの話題をしたね!
私もこれまでいろいろな本とか映画で紹介されて知りましたが、そこまで自分の身を献身できる人は類稀ですね。
その生き方は真似できませんが、すごく刺激になります。

ぷりんちゃんのコメントで、以前に観たマザーテレサの映画(レンタルビデオ)が、また観たくなりました。
今度、時間に余裕があったときに、もう一度借りてこよ~♪

訪問とコメント、いつもありがとう。
(≧∇≦)

[ 2008/09/19 21:26 ] #LvECUUZU [ 編集 ]
「胴しか写っていないので、どうしようか迷いましたが・・・」→さりげないダジャレですね。ぱちぱち(^。^)。

猫が走って逃げるところをゆきさんがデジカメを構えて追いかけるところを思わず想像してしまいますね。

実は私は、デジカメを持っていないのです。持っているのはフイルムを使う旧式のバカチョンカメラのみ。いつも撮ったフイルムは私が小学生の頃からお世話になっている近所の写真屋さんに現像を頼んでいます。かれこれ35年くらいお世話になってます。

この写真屋さんのご主人はだいぶ前に亡くなって、奥さんが切り盛りしていたのが、奥さんも高齢になって脳梗塞になり、今は娘さんが店を守っています。娘さんといっても私より10歳ぐらい年上ですが。

デジカメは便利なのは知っていますし、欲しい気持ちもあるのですが、デジカメを買ってしまうと長年お世話になった、この写真屋さんに行かなくなってしまいますよね。

なんかそれもねえ、、、。と思うこのごろです。
[ 2008/09/19 22:28 ] #y6LFAiUE [ 編集 ]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
[ 2008/09/20 03:29 ] # [ 編集 ]
>→さりげないダジャレですね。ぱちぱち(^。^)。

ダジャレにお付き合い、ありがとうございまーす。


いい大人が(^^; ちょっと、恥ずかしい気もします。(笑)


長い間のお付き合いなんですね。
すごいです。
それに、ぽんたさんは義理も大事にされる方なんですね。

ぽんたさんの手もとで長年愛用されてきたカメラは幸せでしょうね。
大切にされてくださーい。


>かれこれ35年くらいお世話になってます。

歳が分かっちゃいます!
私より6つ上なんですね。(爆×10


コメントありがとうございました。

[ 2008/09/20 15:06 ] #- [ 編集 ]
>ブッタは、今まさに涅槃(ねはん)に入らんとする時、弟子の阿難(あなん)に答えてこう言った。
>「私がこの世を去ったとしても、私を思えば、私はその人の心の中で生きている」と・・・・・・。

( ̄◎ ̄*(_ _*( ̄◎ ̄*(_ _* ) ウンウン

命は死んで終わりではないのですよね・・
人としての形をなさなくってもその存在が
消える事はないのだと私も思います

猫ちゃん・・全力疾走して咽が渇いたんですねぇ♪

ゆきさん、お若いのは分かっていますが
無理されませんように(*◎)ウフフフフ
[ 2008/09/20 15:19 ] #HIn9vuQ2 [ 編集 ]
こんばんは~~~^^
ご無沙汰しておりました^^;;

ネコちゃんのドラマ仕立ての写真かわいいですねぇ♪
ホント、ゆきさんが代わりに台詞を言っているみたいで、
思わずニヤニヤしてしまいました^^

動物と子供には勝てないってよく言いますけど、
本当にそうですよねっ^^
ゆきさんの動物目線に合わせた写真が、とっても好きです♪
[ 2008/09/20 23:15 ] #- [ 編集 ]
こんちゃ♪

ぷぷw
猫を追っかけてるゆきさんの図が
欲しいなと思った私・・・w

線路、田舎ならではの写真ですね。
都会だと轢かれてる(爆!

>ネコちゃんにとっては私が昼寝のジャマのようでした。

この視点って大事ですよね。
ちゃんと相手のことを思い遣ることができる
ゆきさんらしい視点です^^

人は一方的な物の見方をしてしまいがちですものね。
私も今一度心に刻んでおこうっと♪

ポチ☆
[ 2008/09/21 16:24 ] #- [ 編集 ]
長文をご覧頂いて、ありがとうございます。

そうだよね。
死んでしまって、それで全てが終わりということを考えると、つじつまが合わない部分があります。
全ては魂の中に思い出となって刻まれているようですね。
表面に出るか出ないかの違いはあるようですが。

自分を高めるには自分以上の器の大きい人との縁も大事かと思います。
釈尊のように偉大な方が、滅後その人の心の中にいつも内在している。
そのように話しかけられた人は幸いですね。
イエス・キリストも弟子達に同じような意味のことを言ってあります。

は~い!
体力だけはまだまだ、十分にありますので。笑!
でもムリしないように気をつけまーす。

[ 2008/09/22 11:14 ] #LvECUUZU [ 編集 ]
お元気していましたか。
写真、ありがとうございます。
なかなか動物の表情って、うまく撮るのが難しいと思いました。
かなりの枚数を撮った中の数枚です。笑!
楽しんでもらって良かったです!!
これからも小動物はチャンスがあったなら撮って行きたいと思っていまーす。
訪問、ありがとうございました。
[ 2008/09/22 11:15 ] #LvECUUZU [ 編集 ]
こんちゃー

>猫を追っかけてるゆきさんの図が

いつか、了解。爆!
っていうか、分身の術を使わない限り一人じゃムリです。笑!

線路で写真を撮るのは少しばかり抵抗がありました。
しゃがみこんで撮っているものですから、横を自転車で通ったオバはん。
視線を感じたので振り向いたら、自転車を降りて、私が何をしているんだろうと
目が合っちゃいました。まさか私がしゃがんだまま、じっと列車が来るのを待っているんだと思ったのでしょうか。
踏切の真ん中でしゃがみこむのは誤解を招くかも。笑!

そんな大したことではありません。
あおさーん。なんだか照れてしまいます。
[ 2008/09/22 11:16 ] #LvECUUZU [ 編集 ]
神(という呼び方でよかったら)は、こうして何人ものメッセンジャーを遣わしているんですね。

宗教に深入りしたことはないのですが、怖れを利用して、どうにかしたい人たちが、その真意をゆがめてしまっていることが多いような気がします。

私達人間は、元々、愛も慈悲もあふれるほどに持っているのに、それが表面に出ない、わずかな部分を指摘して、愛が足りない、慈悲がないという。

私達は、長い間に、愛も慈悲も、特別なことだと勘違いしてしまっているように思います。
だから「理解できる人はわずか」だったりする・・

どこか遠いところにあると思うから、理解しようとするけれど、
本当は私達の中に既にあるものなんだと思います。

高橋信次先生の文章は難しくて、何度も読みます。
でも読むほどに、べつの気付きがあるようで、感嘆します。


ゆきさん、
最近はネコちゃんストーカーになってるんですね・・・・

ネコちゃんの最後の顔がなんともいえないですね。うっとうしく求愛してくる相手に対し
「あぁ、もう勝手にしてチョウダイ」
と言っている美女のような。

押して押して押しまくる。
ゆきさんってそういうタイプだったんですねえ(勝手に解釈)


うちのダーリンもネコアレルギーです。でも子供の頃の写真を見ると、ネコと同じ格好で寝ていたり、結構仲良しなんですけど・・・
あれって突然そうなるんですかね?




[ 2008/09/22 14:24 ] #- [ 編集 ]
呼び方は、それでも全然OKだと思います。

シエラさん。すごく深いところを指してありますね。
慈悲にしろ愛にしても、どれも自発的なものでから、それを相手に対して
足りない、無いなんて思うことから、すでに自分の欲に気がついていない証かもしれません。
近しい相手が自分に対して、そうしてくれるのは当然だ、と、ついその気持ちを持ってしまう思いも要注意です。
あたりまえだと思うところに、感謝の表れは自分の中には生まれてきません。
遠いようで近いのが「神」の存在だと聞いています。それと同じなのでしょうね。

シエラさん、熱心に勉強されているんですね。
読まれるたびに、別の新しい気付きが生まれてくるということは、その時々に精神的な内面のレベルが高くなっていることかと思います。


>最近はネコちゃんストーカーになってるんですね

はい。そうでした。笑!
まちがっても人間をストーカーすることはありませんので!


>押して押して押しまくる。

それは、どちらかというと、「しつこい」ということなんでーす。


ダーリンもそうだったんですか!
私の職場のスタッフの中の一人もネコアレルギーがいるんです。
うちの子供もそうでしたが、そのスタッフも突然になったようです。
スタッフの場合は、小学生の頃に大分県にあるサファリパークの赤ちゃんのライオンを飼育員さんから触わらせてもらってから、 急になったようです。
でも犬は全然、大丈夫なんだよね。どう違うんだろう?

長文をご覧頂き、ありがとうございます。

[ 2008/09/22 17:11 ] #LvECUUZU [ 編集 ]
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