般若心経のまとめ 完 

これまで何度かに亘って「高橋信次先生による般若心経のまとめ」 編集者 田口恒勇氏がまとめられた冊子(非売品)の転載は、今回で残りの全部を紹介させて頂きますので、これが終了となります。般若心経では一番重要な箇所でもある「色即是空 空即是色」の色心不二(しきしんふじ)については前回紹介させて頂きましたので、今回はこれまでよりも、ますます長文ですが一気にその続きを載せております。

読み逃げ・スルー・斜め読みは大歓迎♪ (≧m≦)ぷっ

以下、転載です。

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受想行識(じゅそうぎょうしき) 亦復如是(やくぶにょぜ) 舎利子(しゃりし)

これを直訳すると「行為は心の反映であり、心は行為に影響される。つまり、色即是空、空即是色と同じ意義を持っている。舎利子よ」ということになる。

心の世界である意識界は次元の異なる四次以降の世であり、総てのものの根本である空(くう)の世界、実在界である。
一方、現象界である色(しき)の世界は、実在界の投映にはちがいない。しかし現象界の動きは、実在界に影響を与えるのである。
実在界の地獄は、既述したように、現象界の人々の想念と行為がつくり出したものである。この様に、心と行為、意識と肉体というものは、常に相関関係にあって、個々バラバラに独立したものではない。
また私達の肉体は現象界に適応した心の乗り舟であり、それは子孫を保存させるために、神が人間に代々にわたって本能という機能を与えたものである。その本能は、人間が肉体を持った時に、付与されるのである。
私達は、意識と肉体を持って生活している。いうなれば、あの世とこの世、実在界と現象界を合わせ持って生活していることになる。
仏教でいう色心不二とは、この実相を悟った状態をいうのである。調和された姿を色心不二という。ここでの項は、心と肉体というものは、相互に関係し合っているのだ、といっているのである。

是諸法空相(ぜしょほうくうそう) 不生不滅(ふしょうふめつ) 
不垢不浄(ふくふじょう) 不増不減(ふぞうふげん)

是諸法空相の諸法をそのままうけとると、法は沢山の数を成していると考えがちである。
そうして、その場合の法とはなにを意味するか、と思うでしょう。
法は本来一つしかない。それは中道(ちゅうどう)という調和の心である。
ただ、この地上世界は動、植、鉱の三種の形態から成っており、また天台宗をひらいた天台智(てんだいちぎ)は地・水・火・風・空から出来ているともいっており、姿、形がさまざまである。
そのさまざまの物質は、それぞれの体質にしたがって転生輪廻しているため、個々の体質をみていると、法はいくつもあるとみえてくる。だから、諸法は・・・・・となったのである。
しかし、さまざまの物質がその体質にしたがって維持されているにしても、転生輪廻という法の体質と、その法を支えている中道の心は少しも変わってはいない。
生命も物質も、中道の調和から外れると、バランスを失い、不調和を来たす。破壊である。 
したがってここでいう空相とは、諸法の中にかくされている中道の神理(タルマー)をいっているのであり、諸法は空相によって支えられると解釈する。

次の不生不滅―― のくだりについては、その中道(ちゅうどう)の心は、「生れず滅せず、垢(あか)つかず、浄(きよ)らかでなく、増えることも、減ることもない」と、なってくる。
さあ、こうなると、中道の意味が解らなくなってくる。中道とは大自然の心である。

人間の魂は、この世を終えれば、あの世に帰る。生死の境を、さまようこともない。
本来、そのように出来ている。
物質についても、その物質が分裂しても、粒子エネルギーは、この大宇宙に存在し、形はなくとも、無になることはない。いわんや、増えたり、減ったりすることも、もちろんない。
このように、あらゆる生命、エネルギーは、生き通しのものである。垢もつかない。不浄でもない。
地上世界をみていると、死んだり、生きたりで大変いそがしい。
親子兄弟でも、性格も考えもちがっている。同じ精子と卵子の結合物であるのだから、親に似ていい筈だが、ちがう。なぜだろう。
それは生き通しの、魂がちがうからである。懐妊すると、食べ物が変ってくる。今まで甘いものが好きだった人が、すっぱいものを口にする。そうかと思うと、妊婦の性格までちがってくる。気持が荒々しくなったから、お腹の子は、さぞ男の子だろうと思っていたら、案の定、男子が生れたなど。こうした現象は、お腹の子の魂がちがうから妊婦の趣向や性格まで複雑にしてくる。懐妊すると二重人格者にしてしまう。一つの躰に、二つの魂が同居するから、いたしかたがない。
腹を痛めた我が子と思うと、親は、自分の思う通りに子が動いてくれないと面白くない。
たとえば、白といえば黒という場合すら出てくる。
しかし、魂がちがうのだから、いくら腹を痛めても、子は自由にならない。自由思想が氾濫(はんらん)する現代では親子の断絶、相剋がいっそう激しさを加えている。
当り前といえば当り前だが、しかし、親子の約束、人間としての条理を外した末法の考え方がそうさせるもので、魂がちがっても、そういうものではないのである。
ただ、ここでは、親子といえども、魂はちがう。いわんや兄弟姉妹においては、なお更ちがうということを知って欲しい。
魂はちがっても、肉体遺伝はある。たとえば胃腸が弱い、胸が悪い、心臓病にかかりやすい、という体質をうけたとすると、そうした病気に、その子がかかりやすい。もちろん、心の調和をはかっていれば、肉体遺伝は克服して行く。

メンデルの遺伝の法則は、魂については全然無関係である。肉体的には避けられぬ因子のあることは前に述べた通りであり、細胞学の面でもその事実が発見されつつある。現代人もそうであるように、多くの人々は遠い昔から、肉体先祖と魂を、いっしょくたに見てきた習慣からなかなか抜け切れない。その理由は、死後が不明なことと、生れてくる前の状況が皆目見当がつかないからである。進化論が幅をきかすのも、無理はないのである。
しかし、さきにもふれた通り、親子の魂の相違というものは、昔も今も変らない。自由放任の現代思想がそうさせたものでは決してないのである。
もっとも、遺伝学的に、学者の家系は学者が多く、浮浪者や酒のみの家系は犯罪者、自殺者が出る、という傾向はたしかにあろう。しかしこれらは体質遺伝というより、魂の転生輪廻における業が、そうさせてしまう場合が多いのである。

まず、人間の出生について述べていこう。             
親子は、現象界に出生する前に実在界(あの世)で約束を交す。親になる者は、子よりも二十年も三十年も前にこの世に出生してくる。この世に出た親となる魂は、幼少から少年、青年に進むにしたがって、自我が芽生え、環境に流される。もちろん環境に負けない魂もある。やがて、結婚し、子をもうける。
その時、親となる魂が環境に負けて、実在界で学んだ目的と役目を忘れたとする。約束を交した子の魂は、四次元以降多次元の世界から親の行動を見て知っているが、一旦約束をした親子の交わりを破約し、他の子になるというわけにはゆかない。混乱が起こるから
だ。親となるその人が、約束通りの行動をしている場合はいいが、そうでない時には、その子となる魂は苦痛そのものである。俗に、親の罪は子にない、ということがあるが、本当に子に罪はないのである。
親が環境に負けたのは、過去世の業にひかれたためである。過去世で酒に失敗し、あの世で酒に負けない自分をつくり、その自分を試すために現象界で修行をする。修行のあり方は酒がのめるような環境が本人が知らぬ間につくられてくるのである。本人が知ってしまっては修行にならないからだ。
子の方も、過去世で酒で失敗している。そこであの世で、親と子になる魂同士が、たがいに、それに負けない自分を磨き、今度はしっかりやってこようといって、まず親が出、次いで、子が出生してくる。ところが、前述の通り、親は再び酒で失敗し、子となる魂がそれを出生する前にあの世でこれを見て、困ったと思っているが、しかし、親子の約束を交わした以上、他にくらがえするわけにはゆかない。失敗している親の下に出生し、再び、自分もその渦中におぼれていく場合が非常に多いのである。
この例は、親子の一つの型を示したにすぎない。
現象界は性が混乱し、産児制限が流行しており、親となる魂の安定性が非常に困難になってきている。そこで親子の約束は、時間的にも、実際的にも、果たさずじまいに終る場合も多い。
また、子となる魂があの世でまだ修行中であるが、親となる魂の無節操な行動によって、現象界に引きづられて出生してくる。こういう場合は、犯罪や混乱を起こしやすい。
実際的な面では、当然生れて来たにもかかわらず、さまざまな理由をつけて、あの世にトンボ返りさせてしまう。つまり、受胎した子をおろす。
こうしたことで、親子の約束がその通りに行く例は、限られてくる。夫婦の約束にしてもそうなのだから、現象界での魂の修行は、見様によっては容易ではないといえよう。
しかし人は縁によって、縁を通じて自らを修行する者であるし、その縁も、自らが求めてつくられて来たものであるから、与えられた環境、境遇に負けない自分をつくってゆかなければならない。
さて、話は前に戻して、肉体遺伝はさけられないが、魂については、こういうことで、親子であっても全然異なるし、親が酒のみだから、子も酒のみというのは、類似の業がそれをさせるのである。
魂と肉体を、いっしょくたに見ることは皮相も甚だしいといわざるを得ない。
しかし、現象界の人達は、あの世が解らないし、過去世も忘れている。そうした中で生活しているのであるから、世襲(せしゅう)が社会組織の中核を為してきたのも、いたしかたがない。
しかし、世襲が社会制度的に矛盾を含み、混乱のモトをつくってきたので、こうした矛盾は、時代が進むにしたがって訂正されつつあることは喜ばしい。
ともかく、魂こそ、生れることもないし、滅することもない。魂の内面は、神の子としての光で輝き、そこは垢もつかず、浄らかであるということもないのだ。ましてや増えたり、減ったりすることもない。全(まっとう)なる自分があるだけである。

是故空中無色(ぜこくうちゅうむしき) 無受想行識(むじゅそうぎょうしき) 
無眼耳鼻舌身意(むげんじびぜっしんい) 無色声香昧触法(むしきしょうこうみしょくほう) 
無眼界(むげんかい) 乃至無意識界(ないしむいしきかい)

これは、「これの故に空(実在界)の世界は、色もなし、想行識を受けることもない。眼耳鼻舌身意もない。色も声も香も味も感触も、肉体的現象の法もない。眼で見える境界もない」と、いうことになる。
空中の電波、空気、紫外線、赤外線などは目で確めることが出来ない。ただ、碧(あお)い空のみが映る。
が、大気中にはあらゆる物質を構成するところの分子、元素が分散されている。そしてすべての物質は仕事をなし得る能力、エネルギーを含んでいるのだが、これとて見ることができない。
五官で感知する範囲は大したことでないことを知るべきだ。
五官に意を加えたものを六根という。
通常その意は、五官を通して働いているが、五官を離して働くようになると、五官で感知出来ない世界を覗くことができる。これを心眼という。
心眼が開くと、次元の異なる空の実在界を見ることが出来、現象界と形態がちがうことを知る。

たとえば、この世は平面的だ。あの世は段階的にできている。
段階的とは心に応じた世界をつくっているのである。自分より意識の低いところは見えても高い世界を見ることが出来ない。この世は、意識が高い低いにかかわらず、誰とでも会える。それ故、平面的なのだ。
この点をもう少しみていくと、あの世は、ビルの生活と思えばよい。一階、二階、三階、四階と、それぞれの階層をつくり、一階から二階に行くには階段を上らないと上には行けない。エレベーターは全然ないのである。階段の一段一段は、修行を意味する。心のひろがりが広がることによって上に進むのである。
各階層は、それぞれに応じた地域社会をつくっている。丁度この地上の下町、山の手というように、いわば類をもって集まっているのである。
このようにあの世は、それぞれの心の世界をつくっている。眼耳鼻舌身の五官と、それにもとづく意が働く、この世とはまるでちがう。そうした意味で「是故空中無色」という言葉になってくる。
「・・・・・無意識界」というのは、五官の働く意識を越えているということで、意識界が無いということではない。
現代人は多忙である。その多忙さは物質的過剰欲求によって生じているが、これは肉体が絶対という考え方が強いからである。世の混乱は、不変的な魂、そうしてその魂の中心である心を忘れることによってつくり出される。

無無明(むむみょう) 亦無無明尽(やくむむみょうじん) 
乃至無老死(ないしむりょうし) 亦無老死尽(やくむろうしじん)
無苦集滅道(むくしゅうめつどう) 無智亦無得(みちやくむとく) 
以無所得故(いむしょとくこ) 菩提薩埵(ぼだいさった)
依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ) 
心無罣礙(しんむけいげ) 無罣礙故(むけいげこ) 無有恐怖(むうくふ)
遠離一切転倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう) 究竟浬槃(くぎょうねはん)

無無明とは、無明がないということで、迷いのない世界。
亦無無明尽は、無明のない光に満ちた、そうしてその光が尽きることのない世界を、ここでは強調している。
あの世は波動の細かい世界である。この世のように荒くない。
この世は、人間の意識を含めて、10%の波動で成り立っている。動物も鉱物も植物も、すべて10%の波動で現象界が出来上がっている。だから、回転が遅い。思うこと、考えることの結果が、一定の時間をかけないと出てこない。それがまた現象界の救いになっている。
しかし人はそのために、心を見失う原因にもなっている。この世は一見して、悪が栄え、善が日陰にちぢこまっているようにみえる。正直者がバカを見、悪徳がのさばっている。
悪とは人のモノを盗む、人を殺める、人が困っていても見て見ぬふりをするなどであるが、その根本は、自己保存、自我我欲から生じてくる。悪の根源は自己保存である。人のことを構っていれば食べていけない、ということから、人は次第に、欲望の渦中にはまりこんでゆく。
労使の闘争、物質至上の思想が幅をきかし、不安と競争が生活をエンジョイすると錯覚してしまう。
こうして自己保存の悪は、人々の心をむしばみ、自己保存が文明の支柱のように見えてくるから不思議である。しかし、こうした人々が、この世では栄えているように見えても、あの世に行けば地獄である。
この世は波動が荒いため、自己保存の悪はスグにはハネ返ってこないからだ。怒りや、ねたみ、心配事が重なると、血の循環を悪くし、食欲が減退する。感情が肉体に及ぼす影響は極めて早いが、知的な悪の反作用には時間がかかる。
男より、女に病人が多いのは、感情に心が奪われるからといってもいいが、知的な悪は、十年、二十年の長期を経て、ジワジワと自分に返ってくる。だから、こうした例は在世中に結果を見ずに終る場合が多いので、悪人志願が後を絶たないといってもいいかも知れない。

秀吉という男は草履(ぞうり)取りから、位人身を極めた。今日、秀吉の魅力は大分半減したようだが、それでも出世主義は男の生甲斐になっている。
秀吉は謀略(ぼうりゃく)の名人で、敵対する者は、ことごとく殺し、我が世の春を謳歌(おうか)する。しかし、その反動は死の数年前から現われ、彼は自分の悪を清算できず、あの世に帰った。
人のうらみ、ねたみもあって、彼は地獄で、今でも苦しみ、暗い世界でまだ号令をかけている。ところが号令をかけると、在世中、憎しみをいだいて死んでいった多くの人々の呪いの顔が彼の眼前に現われ、彼を苦しめる。
彼の謀略は、地獄では通じないのである。謀略の想念がスグ様自分にハネ返って来て、謀略で倒された人々の怨念が、彼の身と心を八つ裂きにするからだ。八つ裂きにされても、彼は死ぬことは出来ない。息をふきかえし、我にかえると、また彼は号令をかける。また八つ裂きに合う。こうした繰り返しの中で、身も心も細る生活を続けている。
現象界では謀略によって、天下人になっても、あの世に帰れば、一転して地獄である。その地獄も、自分の想念と行為の清算のみでなく、人々の怨念がプラスされる。

一方、歴史の上では悪の代名詞のようにみられてきた明智光秀は、神界にあって、自適の生活を送っている。
殺された信長も秀吉同様、今以って地獄にあるのに、殺した光秀が神界に在るとは、誰しもげ解せぬであろう。
殺された信長は権力の盲者であり、殺戮(さつりく)に快感を覚える精神異常者であった。
殺した光秀は平和主義者であり、このため信長を討つことに随分と迷う。
しかし世の混乱のモトは信長にあり、逆臣(ぎゃくしん)の汚名を着せられても信長打倒に意を決し、本能寺を襲う。
勿論、こう決心するには、秀吉の奸計(かんけい)が裏で働いていた。彼は、信長に光秀謀反(むほん)を伝え、光秀には信長打倒を促(うな)がしている。
光秀はこれに感づいてはいたが、敢えて信長打倒に踏み切ったのである。
本能寺の変を知った時の秀吉の喜びようは大変であった。彼はこの時、天下人の夢を我がものにしたのである。
謀略によって、戦国の覇者になっても、落ち行く先が地獄では間尺に合うまい。栄誉栄華の期間は短かく、地獄が何百年も続いては、どう転(ころ)んでも計算が合わないからである。
このように、この世に悪が栄えても、そうした悪は続くものではないし、悪を犯した人々の行き先は、この世で結果をみなくてもあの世で清算させられることを知って欲しいものである。

執着を離れたあの世の世界は、光明のつきることのない平和な楽土である。田園の緑は太陽の光を浴びて生々と育ち、人々の生活は、自由に、明るく、伸び伸びとしている。食生活に心をわずらわされることもなく、仕事に追いまくられることもない。信頼と友情によって人々は結ばれ、科学者は科学を、絵画きは絵を、建築家は建築の仕事に、一心を傾ける。
人によっては守護霊となって、現世に修行する魂の兄弟を守り導く者もいる。また守護霊になって、そうした魂の努力に応援をする人もある。
あの世にあって、あの世の諸霊を、より向上させるため、正法にもとづいた政治、経済、教育、科学などを教える人もいるが、安らぎと慈愛の生活は、そのまま光明となって、いつまでも続いていく。光明の毎日が、尽きることがないのである。
こういうと、人によっては、喜怒哀楽(きどあいらく)、善悪混合の変化のない世界はつまらぬ、という人がいるかも知れない。
ところが、こうした世界でも、ちゃんと感情があり、変化があるのだ。感情や状況の変化は、地上のそれとはちがった次元で存在し、あきたり、退屈するなど全然ないのである。
もっとも、あきたり、退屈するような人々は、こうした世界に住することはできないが。

さて次に無老死とは、年老いて死ぬことがない、亦無老死尽とは、老いることも、死ぬこともない、ということである。
秀吉が死ぬことが出来ないのは、あの世というものは、実在の世界であり、心の世界でもあるので、苦しみの責めをうけても、死ぬことが出来ないのである。
思うこと、考えることがスグ様現われ、そのことが何時までも続くのである。だから地獄に堕ちると大変だ。謀略策士(ぼうりゃくさくし)の心が変らぬ限り、そうして、人々を泣かせた怨念(おんねん)が晴れるまで、秀吉の苦しみは続く。苦しみの連続だから反省ができない。誰しもそうであろう。
ひどい腹痛や頭痛の際に、どうしてこうなったかと、反省できるだろうか。反省できる心の持主なら、そうした事態に見舞われることは、まず少ないだろうが・・・。
天上界の無老死、亦無老死尽も、これと同じで、調和された世界では、そうした状況の中で、老いることも、死ぬこともないのである。働きやすい年齢が、半永久的に続き、仕事も、能率も上がるのである。

無老死、亦無老死尽は、主に天上界についていっているが、しかし前にも触れたように、地獄に堕ちた魂についても、その苦しみは果しなく続く。これはあの世の世界が、実在の世界であり、思うこと、行なうことが、そのままスグ様現われ、しかもこの世とちがって、すべてが消えて無くならないように出来ているからである。
この世は、肉体的に苦痛であれば、麻酔によって、その苦痛からのがれることも出来るが、あの世は、心のままの世界をつくっているので、その心を変えない限り、苦痛から解放されることがない。
老いた気持が心を支配していれば、何百年経っても老人である。光子体の肉体は若さをとり戻すことは出来ない。
ともかく、あの世は「心のまま」の世界をつくっているが、この世は、心と肉体の三次元の世界であり、無老死、亦無老死尽は、あの世の姿を端的に述べていることを知って欲しい。
無苦集滅道は、文字通り、あの世の天上界は、生死の苦しみから解脱する正しい道を悟っているため、常に神の意識と通じ、調和されていて、迷いは無いのである。迷いのあるのは、あの世の地獄と現世の肉体を持った人間である。よくよく心しなければならない。

無智亦無得(むちやくむとく) 以無所得故(いむしょとくこ)

天上界にあっては、才能によって得る所得、つまりは、地位や名誉や財産というものは、一切無い。神の子としての自覚と責任しかない。その自覚や責任も、無理無理そうするのではなく、当然のこととして現われてくるのである。
自然法爾(じねんほうに)という言葉がある。この意味は、法のままに生きる、ということであり、神の意識が、その、心に同通されて、無理なく行える心と行為を指すのである。
あの世、天上界もこれと同じであり、すべてが自然にそって生かされ、生きている。
あの世の経済について大分類すると、大体、三段階ぐらいにわけられよう。
第一段階は、純然たるバーター制である。欲しいものがあれば、自分の持物を相手に渡し、その相手方から求めるものを得る。
第二段階は、この世の流通機構と、やや似ており、物々交換の媒体として貨幣(この世とは異なるが)が使われている。第一段階より、経済組織が複雑であり、この世的にいう文明は、現世より進んでいる。
第三段階は、物々交換も、貨幣も使われず、必要なものは何時でも得られる世界である。この世界は、いうなれば天使が住んでいる階層であり、心と物とが忽然と溶け合っている。

無智亦無得という世界は、この中の第三段階を指し、したがって、智による所得を必要としないのである。地上でも、衣、食、住が十分であり、満たされておれば、金銭の欲望は起きてこないだろう。
それと同じという意味ではないが、必要なものは何時でも得られるので、金銭的媒体物、あるいは物々交換の必要に迫られることがないのである。
ここで、第一、第二の世界が、それぞれ物や金を対象としているので、この世の金が使えないだろうか、と思う向きもあろうが、次元がちがうのでもちろん役立たない。
「冥土の沙汰も金次第」というが、これはもともと貧に対する苦悩から出た言葉なので、問題にならない。
実在界は、すべて心の調和度にかかっている。調和度とは、神の心に適った心の状態をいうのである。
神が地上の人類に望まれることは、右のような第三段階の世界の心に、人々の心が同通されることであり、五官六根に左右されない、正道に適った生活である。

菩提薩埵(ぼだいさった) 依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ) 
心無罣礙(しんむけいげ) 無罣礙故(むけいげこ) 無有恐怖(むうくふ) 
遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう) 究竟浬槃(くぎょうねはん)

無罣礙とは、心にとらわれがない、ひっかかりがない、わだかまりがない、ということだ。だから恐怖の念がない。正道に反した、さかさまの物の見方、考え方がないから、神の心に通じ、もっとも偉大なる悟りに達している。それを菩提薩埵という。
一切の諸現象は心から生ずる。丸く大きな豊かな心を有しておれば、恐れも、慢心も起きない。とらわれが多く、肉体の自分が自分であると思うから、苦しみ、悲しみがついてまわる。夢をみていてはいけないのだ。我々は白昼夢を見ている。腕をツネれば痛いし蚊にさされればかゆいので、つい肉体の全部が自分であると思ってしまう。しかし、本当は、肉体の自分以外に、もう一人の自分がいて、その自分が肉体と一緒に生活しているのである。無情の現世をみると、誰しもが薄々感じられるのではあるまいか。
無罣礙の心は、何も人間だけではない。導体に電気を流すと、その導体に抵抗が多いと電気のエネルギーは熱エネルギーに変わってしまう。電気の役を果たすことが出来ない。
血管にコレステロールがたまると、血行が思うようにゆかず、血管が破裂したり、血液の流通をとめてしまう。
万事がそのように出来ているのだ。自然は、私達人間に、神理を教えている。その神理を一つ一つ悟る必要があろう。
究竟涅槃とは、表面的な解釈は釈迦の入滅を指している。つまり、不生不滅の状況を「涅槃」といっている。
現世からみると、入滅(実在界に帰る)は、永遠への回帰にちがいはないが、本当は肉体を持ちながら私達の魂は永遠の中にあるのである。ただ現世は、肉体と共に魂があるために、極めて不安定な、そうして有限の迷いの多い、それのように思ってしまうだけである。
釈迦は三十六歳で「宇宙即我」を悟った。悟ったとは人間の魂は不生不滅であり、死ぬことも、生きることも区別できない、そして、大宇宙と倶にあるということを知った。この時点で、釈迦は、涅槃の境涯をつかんでいたのである。四十余年後の肉体的な死が涅槃というのではない。
ただし、三十六歳で大いなる悟りに達し、その後、その悟りの内容が次第に幅広く、深く、濃密になって、入滅の瞬間に人間としての全きを得たといえる。
したがって、この意味からすれば、釈迦の入滅は、人類が待ち望みながらも、容易に果し得なかった最高の悟りに達したといえなくはない。
しかし普通の解釈は、肉体の迷いから、永遠の生命に帰られ、二度とこの世に生れることがないと考えられている。生命の転生輪廻を黙殺する。解らないためである。同時に、不安定な現世に対する人々の希望が、そう解釈し、そう解釈させて欲しい、と願うからでもあろう。
何れにしても涅槃の解釈は、頭では割り切れない。物理的現象のみでは誤った方向にゆきやすい。心の問題は、心を本当に理解しないと間違いを犯そう。
話しは変るが、大抵の人はもう二度とこの世に生れたくないと思っているだろう。あるいはそう思うことがあるだろう。これは、あの世の生活とこの世の生活に大きなズレがあるためであるし、10%の表面意識の自我にもとづく我侭な心がそうした想念を生み出しているからである。したがって、魂の転生輪廻と聞いて、人によってはウンザりしている者もあろう。ところがあの世にいる魂のグループ、つまり魂の兄弟達は、そうは思っていないのだ。むしろ自分のためとして、現世におるその兄弟を守り、無事に修行を終える事を願っている。魂の前進は、現世に出て、はじめて可能だからである。あの世の修行は、先が見通せるだけ修行にならない。原因と結果が解ってしまうからだ。現世はそれが解らない。解らないから価値があり、魂の前進は人間である以上、さけることの出来ない天命といってもいい。

三世諸仏(さんぜしょぶつ) 依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ) 
得阿耨多羅三藐三菩提(とくあぬくたらさんみゃくさんぼだい) 
故知般若波羅蜜多(こちはんにゃはらみった) 
是大神呪(ぜだいしんじゅ) 是大明呪(ぜだいみょうじゅ) 
是無上呪(ぜむじょうじゅ) 是無等等呪(ぜむとうとうじゅ)
能除一切苦真実不虚(のうじょいっさいしんじつふこ) 
故説般若波羅蜜多呪(そせつはんにゃはらみったじゅ) 即説呪曰(そくせつじゅわく)
掲諦掲諦(ぎゃていぎゃてい) 波羅掲諦(はらぎゃてい) 波羅僧掲諦(はらそうぎゃてい) 
菩提薩婆呵(ぼうじそわか) 般若心経(はんにゃしんぎょう)

読者はこれまでの解説で、大体おわかり戴いたと思う。あとは、これを生活の上に生かして行くかどうかによって、本当に理解されるか、頭の遊戯に終るかの分れ目になろう。
さて、最後の解説に入るが、これを直訳すると次のようになる。
「三世の諸仏は、般若波羅蜜多に依るが故(ゆえ)に阿耨多羅三藐三菩提を得ることができた。それ故、般若波羅蜜多は是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。よく一切の苦しみを除き、うつろなることのない真実のもの般若心経の神理を説くことにしよう。
即ち呪を説いて曰く。掲諦掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆呵 般若心経」

まず三世の諸仏だが、これは過去、現在、未来を通して悟られた、あるいは悟られる人びと、仏を指している。
阿耨多羅三藐三菩提を古代インド語でアーヌクターラーサンミャクサンボディーと発音する。漢字はこの発音に当て字したものである。
この意味は、光明に満ちた金剛界あるいは無色界という光一色の世界、色のない世界、欲望のない世界、慈悲と愛の世界、如来の住する大天使の心の境地をいっているのである。
ボディーとは悟りの意で、ゴーダマが背にし瞑想に耽ったピパラの大木をとって「悟りの樹」、つまり悟り、菩提ということになる。
サンミヤクサンボディーの三は、三という数はどこまていっても割り切れない数、無限大を意味する。三千世界、一念三千という言葉もある通り、昔の中国では三を取って、その大きさを表わした。三菩提とは、それゆえに「大きな悟り」「偉大なる悟り」ということになる。

その偉大なる悟りを、是れ大神呪 是れ大明呪 是れ無上呪 是れ無等等呪 と賛美している。中国の表現は、みようによってはオーバーだが、しかし釈迦の悟りはそれほど大きなものといっているのである。
大明呪とは、偉大な智慧をいっている。仏智である。
                             
ここで知識と智慧について考えてみよう。
ふつうはこの両者を混同しがちである。ところが、中身がちがう。どう違うかというと、平たくいえば、知識とは今世で学んだものだが、智慧とは、過去世に蓄積された人生経験である。    
学者は智慧者かというと、そうではない。
学者に政治や実業をやらせたら、おそらく失敗するだろう。大きな組織の中で動いている時はいいが、一朝コトがあると判断を誤まる。政治や実業というものは、理屈通りにゆかない場合が多いからだ。
知識は私達の狭い日常生活における経験をある程度補ってはくれる。が、役立たぬことの方が多い。大学で学んだ知識、新聞や本で得たことを実生活に応用しようとすると、間違いや人との意志の疎通を欠くことがしばしばだ。
私達の個人個人の一生における生活経験というものは非常に狭い。サラリーマンは、家と会社の間を往復し、商人は商売の筋道は解っても、人の商売の善し悪し、苦労は解らない。家庭の主婦は、家の中のことは解るが、外で働く夫のさまざまな経験は、想像は出来てもその範囲を越えることが出来ない。
しかし何れにしても、実生活で私達がアテに出来て頼りになるものといえば、狭いながらも人生で経験した事柄であろう。経験ほどたしかなものはないし間違いも少ない。智慧というのは、そうした経験して得たもの、過去世で蓄積したものが、私達の心の中に内在されているものである。そうして、その内在された生きた経験が心の窓を開くと、流れ出てくるのである。
智慧は知識の範囲を超越している。私達の過去世は、王であったり、医者であったり、武士であったり、坊主であったり、農夫であったり、科学者であったり、文学者であったり、政治家であったりしたこともある。そうした人生の生々流転の経験が、心の窓をひらくことによって、現世における狭い経験を補ってくれる。

問題にぶつかった時、何をどうずれば良いか。
それは智識では得られない示唆に富んだ指示が得られる。その人の過去世がバラエティであればある程、あらゆる諸問題に対して、解決を与えてくれる。今世の経験が、仮りに商人であったとする。商売はあきずに商いすることだといった、ついこの間までのやり方では、今日では落伍するかも知れない。目先きをきかし、政治や全体の問題に常に関心を払ってゆかなければ損をする。
そうした時に、その人の過去世が政治や経済家として生きた経験があれば、その経験が、その人を導いてくれるだろう。
要するに智慧というものは知識ではない。生きた経験の集積なのだ。そうした経験が、折りにふれ、縁に触れ、ひらめいてくるのである。人によってはもっと具体的に流れてこよう。
では過去世で未経験の者はどうか。経験のない者は、いつの世でも泣いて暮さなければならないかというと、そうではない。経験のない場合は、経験のある人が、その人を指導してくれる。つまり、指導霊がその人の背後にいて指示を与えてくれるのだ。
指導霊がつくには、それだけの努力と一念が必要だ。何もしないで、天から湧いてくることを願っていては、何も教えてはくれない。与えられた環境、立場に対して、精一杯努力するところから教えられる。

また心の窓を開く、開かないについても、開いたから何んでもわかる、開かないから不明というものでもない。問題は、現実を怠たらず、努めるところに、智慧の泉をひもとくきっかけをつくるのである。                   
よく悪知慧が働くというのがある。秀吉なぞはその最たる者だ。こういう場合は、悪魔が背後にいて、それを教える。蛇とか悪魔というのは、自分のことしか考えない。しかし才覚は働く。蛇にもいろいろあり、悪魔もさまざまである。病気をさせあの世に引き取るもの。殺人を犯すもの。人をおどし喜ぶもの、人を拝(おがま)せ得々(とくとく)とするもの。才覚を働かし、威張りたがるもの。その種類は千差万別だ。
本来の智慧はこうではない。正道に適った智慧なのである。人の心を豊にし、周囲を明るくし、たがいに扶け合い、笑い合って、調和という神の意思に励むなかから生れる。したがって暗さがない。明朗そのものだ。
仏智の智慧は、過去世の経験された調和の集積であり、神の心に同通した全能の智慧である。

(※ここからは以前に紹介しました、「般若心経のまとめ」の最初の記事と重複します)
釈迦は、三十六才で悟った。
悟ることによって、現象の奥にかくされた一切の道理を知った。そうして、よどみなくあふれる智慧によって、多くの衆生を導いていった。三十六年間の経験だけではこうはいかない。偉大なる悟りを得、心の窓をひらき、過去世の集積された経験と全能の智慧が、正法流布の大事業を完成させたのである。


*******************************************************

転載以上。

高橋信次先生は、有名な歴史上の人物が生前に行ってきた事に対して死後、その方々がどのような世界に帰られてあるのか、という話は講演などでは数多く事例を語ってあります。今回書かれてあるのは戦国の人物ですが、二人の武将の死後は無間に引き適する最たる厳しい修行の世界に身を落としております。
もし信長が、イエズス会の宣教師サビエルが伝えるデウスの神の福音を静かに耳傾け、人間は永遠の生命が存在することを心から少しでも察知していたならば、死後の自分をそのような境地に立たせるようなことは、自らそうしなかったことでしょう。


ところで私の手元には簡易冊子にした、「正法の三本柱」というものがあります。
これは高橋信次先生監修による、いわば教材です。高橋信次先生の著書、講演のエキスのみを集められたものになっています。
その三本柱は、「神の意義」 「循環の法則」 「慈悲と愛」となっており、各項目は幾つかに細分されています。
いずれか機会がありましたならば、抜粋して紹介させて頂きます。


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[ 2009/01/20 16:31 ] 随 想 | TB(0) | CM(10)
  1. ..
(^。^)/こんにちはー。久しぶりの更新ですねー。楽しみにしていました。

そうですね。「知識と智慧」の部分が興味深いですね。
私の職場は女性がとても多いので、女性との人間関係が良好であることが大切なんですね。患者さんとの関係も大事なので、人間関係がすべてみたいな職場ですね。

仕事を始める前にいつも「今日もみんなと楽しく一日をすごしています」と自己暗示をするのが私の習慣です。

そうするとアラ不思議! その日一日、女性職員たちや患者さんたちと楽しくすごせちゃうんですねー。
その場の状況で、どう振舞ったらいいか、そのつど、いい考えがふっとひらめく感じです。

私、ぼんやりしているときなど、時々、明るい太陽のもと、巫女さんのかっこうした女性が、私を見てにこにこしている夢を見ます。守護霊様かな?
[ 2009/01/21 00:12 ] #y6LFAiUE [ 編集 ]
楽しみにして頂いて、コメントありがとうございます!
そして、なかなか更新できなくてすみません。
3月いっぱいまでは、いろいろと多忙が続くために更新頻度がこの程度しか出来ないと思いますが、どうかよろしくお願い致します。

ぽんたさんと私とは職場環境が似ていますね! 似ているので、ちょっと嬉しいです。
実は私も、以前の職場も女性に囲まれていました。現在の学習塾の職場でもアルバイトをしてもらっている大学生は、男性よりも女子大生の方がなぜか多いのです。私の好み(爆)で選んでいるのではなく、職場へのアルバイトの問い合わせ自体が女性が多いので必然とそうなります。生徒も、いつの年度も男子よりも女子が多いです。
私のところも人間関係がすべてです。私はスタッフに指示を出して、教えるという仕事をお願いするわけですが、お互いに私と人間関係がうまくいかないと(機械などのモノ相手であれば機嫌が悪いときには、一時的に機械へ壊れない程度にうっぷんを晴らしてもいいでしょうが。笑)スタッフが相手するのは人間。生徒に多分の影響を及ぼします。私とスタッフがうまく連携できると、そのスタッフも丁寧に生徒へ対応できます。

そういう自己暗示も良いですね! 患者さんたちは、ぽんたさんに思いっきり甘えられますね!!

もしかして守護霊様かな! おそらく誰だってそうかと思いますが、忘れるな!と言わんばかりに絶対に記憶から、ずっと離れられない夢ってありますもんね。私も随分と昔にとても親しい人、魂の兄弟?と夢の中で私と2人、楽しい会話をしていた夢は今も不思議なくらい、まざまざと思い出せます。
巫女さんの守護霊様が夢に出てくるということは、ぽんたさんの六親眷族は男性と女性が混じってあるんですね。
私の六親眷族は野郎ばかりです!
きっとその方がいつも、ぽんたさんを優しく守ってあるんだね。
[ 2009/01/21 15:17 ] #LvECUUZU [ 編集 ]
ああ、おもしろかった。

高橋先生のお話を読むと、死というものの観念が変わりますね。
進級する前に実力テストがあるように、死んだからといって、そのまま呑気に次へは行けない。生活態度によっては、落第だってジャンジャンするんですね。

明智光秀も戦国の人だから、戦で人を殺したこともあるでしょうけれど、殺したか、殺さなかったかということよりも、「どういう心持でそうしたか」に意義があるということでしょうか?

人を貶めて、自分の財産を増やしたい、人の上に立ちたい、権力を強固にしたい、という気持ちで殺すのと、親類家族を守りたくて殺すのとでは、違ってくるのでしょうか?

私は車の信号待ちの時や、電車に乗ったときなど、行き交う人達を眺めて、この人たち一人一人に守護霊様や、天使たちが付いていてくれるんだなあーと思うことがあります。

4人乗った乗用車の中など、合計20近い人(?)がギュウギュウに寿司詰めだな、なんてね。

誰もが尊い存在だからこそ、そうして守ったり導いたりしてくれているわけで、どんな苦しい境遇にあったとしても、自分のことを価値がないなんて思ったら、その方たちに申し訳ない。
価値がないものを何十年も守ってゆくなんて。

私の守護霊様は、たぶん、お年を召したおじいさんのような方だと思っています。
ここぞ、というときに、夢に現れます。

顔はわからないけれど、おじいさんだということは何となくわかります。
予言のようなことを教えてくれたり、辛いことがあって、いつまでもやさぐれていた時など、懇々とお説教をしてくれたり・・
中身は覚えてないんですがね(たぶん潜在意識では覚えているんでしょう・・・と思いたい)

起きた時、寝る前に、神様と天使たちと守護霊様に、生かしてくれたことを感謝するようにしています。生きているということは、チャンスがあるということですもんね。

誰かにどんな仕打ちを受けても、それは相手の問題なのだということも、最近ようやく少しだけ理解できるようになったかな。
されたヒドイことをずっと引きずっていたり、誰かを責めたりしているには、人生はあまりにも短い。

ゆきさん、いつも深いきづきをありがとうございます。
[ 2009/01/21 16:09 ] #- [ 編集 ]
シエラさーん♪
たくさんのコメントありがとう!!

シエラさんの洞察力はすごいです。高橋信次先生は(他に以前にご紹介しましたスウェーデンボルグとかアラン・カルディックもそうですが)、あの世の実相を見てきてあるので、凡人とはそういう意味で語られる死生観が違います。しかもあの世が本当の永く住む世界であり、この世はテストしに来ているのだとも仰っています。幸せな価値ある一生を人がこの世で過ごすには、ユートピアである、あの世で広く支配している規準を行うことなんでしょうね。

戦国であっても先の大戦であっても、思想などの大きな時代の渦に呑み込まれ、当時は戦争が当然だという認識の世の中です。仰るとおり、動機にかかってくるのでしょうね。欲が優先しているのか、助けんがためなのか。阿修羅の仮面をかぶって人を殺めるのであれば地獄でしょうが・・・
ちょっと話が違いますが、現代は誰だって人殺しというものは、いかなる理由でも悪だとは承知していますが、経済力如何では人の幸せを乗っ取ってしまって人の命を奪うことがあります。それでも悪だとは決め付けることはありません。たとえば今の世の中によくあることですが銀行にお金を借りて、一所懸命仕事をしても思うような成果が上がらなかったら銀行などに財産を差し押さえられて自ら命を捨てざるを得ない境地にお金を貸したほうがその方向へ落とし込むことだってあります。そこには、お金が全てで人の情けの入る隙がありません。それって間接的な殺人のはずが銀行に責任はありません。法の下に銀行がやったまでのことです。容赦なく、そういう法律を行使することばかりになるのは絶対におかしいことだと思います。

>「どういう心持でそうしたか」

悪を能動的に行わなければならない避け難いことは、その時代の風潮で致し方ないこともあると思いますが、善を能動的に行う場合も、それはいえるようです。天界で行き渡っている本来の愛からくる純粋な「無償」とか「布施心」ではなく、何か良く見せようなど、少しでも自分の欲が善なる行為に混じっていたら偽物であり、天界から見たらその人を愚か者や泥棒とみなされるそうです。汗!


>4人乗った乗用車の中など、合計20近い人(?)がギュウギュウに寿司詰めだな、なんてね。

うん、うん。息ぐるぢぃぃ。。。  ってか、おそらく物理的空間からするとそうなりますが、あの世の住民は物理的空間にとらわれないし、時間と距離は存在しないので、もし車に乗っていて瞬時に避けられない危機が発生しても物理的な距離が遠くであっても、目の前で超スローモーションで、あの世の霊には見えて、必要があったら手助けができるのかもね!


>どんな苦しい境遇にあったとしても、自分のことを価値がないなんて思ったら、その方たちに申し訳ない

ズシンと来る言葉です。
もし自分が守護している人間が道を外してしまうと悪に囲まれてしまい、その為に守れずにこの先どう展開するのかヒヤヒヤして何も手出しが出来ずに心配して見ているそうです。ヒヤヒヤしてしまうこと事態、それって、あの世は先を見通せる世界なのですが、人の宿命は変えられなくても、一寸先の運命はいつでも変えることができる、といわれる所以かもですね。


>顔はわからないけれど、おじいさんだということは何となくわかります。
>予言のようなことを教えてくれたり、

わぁー同じです!! 私の場合は年配者ではなかったのですが、私も夢では、顔は覚えていませんでした。瞑想のときに守護霊さんの色白で細長の顔が、目を閉じた状態で目の前にでっかく、一瞬ですが、バッと見えたことがありますが、白い服で肩までの長い髪と顔の輪郭だけでした。残念。
私も先のことを教えてもらったときには一瞬で記憶から外れましたが、私も潜在意識では覚えているし、それが成就すると思っています。


そして同感です。天に感謝の心を捧げることは、自分がたくさんのものから守られ、生かされていることを知る早道にもなります。

こうやって、私は良いものだと自分の中で確信して、転載して、少しでも何かの気付きにされたことがあったとは、本当に嬉しい限りです。

シエラさん。いつも丁寧に読んで下さり、ありがとう。
[ 2009/01/21 18:11 ] #LvECUUZU [ 編集 ]
あんにょんはせよゞ(⌒o⌒ゝ)

行為まで辿り着くんが難しい
お人に優しくしてあげようやらぁ
お人を幸せにしたげたいやらぁ
頭の中でぇ思うことゎ度々あるけどぉ
それを行うのゎメッチャ難しい('c_';艸

ちょいと不謹慎なぁたとえなんですけどぉ
女性ゎ性欲に貪欲や思うんどす
ある程度制御でける生きもんなんどす
それに比べ男性ゎ我慢できなくてぇ
爆発しはる場合あるでしょ?(*⌒艸⌒)
エスカレートしたらぁ最悪レイプやら痴漢やら
犯罪とゆうリスク背負うてまで
欲望を達成してしまう。。。
それも所謂本能とゆうもんでしょうかぁ?

高橋先生ゎ男性やからぁ
男性の立場からお話してるんかなぁ
それをいっぺんたんねてみたかったんどす

>生死の境を、さまようこともない
…ってことわぁ
死んだお人ゎ必ず成仏してるってことやろかぁ?
うちゎ幽霊の存在信じないけどぉ
もし居たとしたらぁ
成仏できひんお人がぁ
生死の境をさまようってうようゆうてるでしょ
その辺よう分からないんどす

…と途中までしか読まれへんかったぁ (*´ー^`)ゞ
お時間なんでぇまた来ますねぇ
[ 2009/01/23 16:20 ] #- [ 編集 ]
れぃこはーん。訪問ありがとう!

そうなんです。行うことが難しい。私も同じです。汗! 
私は頭でっかちのまま。爆!


>女性ゎ性欲に貪欲や思うんどす

そうなんですか! ふむふむ。 φ(°ρ°*)メモメモ  爆!


>爆発しはる場合あるでしょ?(*⌒艸⌒)

エスカレートこそありませんが、爆発はありました、ありました。若い頃は。
爆発しっぱなしで溶岩たれ流し。爆×10!
私は29歳ですが、今は、すっかり鎮火してしまい、もう爆発も何もありません。爆!

>エスカレートしたらぁ最悪レイプやら痴漢やら
>犯罪とゆうリスク背負うてまで
>欲望を達成してしまう。。。
>それも所謂本能とゆうもんでしょうかぁ?

それは純粋な本能だけではなく、感情や知性が混じっちゃっているんですね。分けると判りやすいかも。
それに基本的に、男は女より力があるから。それとは逆で、もし女が男よりも、そもそも力があったら、綺麗で美男な私はレイプされていたかも。爆爆!

って冗談はおいといて、私が聞いている話では、本能は大きく二つあって、真性本能と仮性本能です。真性本能には二つ。食本能と性本能です。あと付け加えるなら母性本能。
真性本能は人間にも、ペットや野生の動物も同じように持っています。というか生き永らえるために神から与えられております。
動物は、ある程度、食でも性でも満たしたら、生存のために動物の命が欲するまでは、一旦それ以上は欲しがりません。保存するために倉も作らないし、性もだいたい発情期というのがあります。人間は暑い時期でも寒くても万年発情できますが。笑!
動物はおよそ、真性本能のみです。
ところが人間には仮性本能がそれにプラスして与えられています。ここが万物の霊長との違いかもしれません。その仮性本能には、食と性を元にして例えば闘争・好奇・服従・建設・誇示などなどにつながり発展します。
もちろんその中には、動物も持ち合わせていますが限界があり、人間ほど発展しません。もしそれが人間ほど発展したら人間VS人間だけではなく、人間VS動物の戦争までがおこるかも! それは万物の霊長である人間は動物以上に無限の感情や知性を持っています。また、それらが過度に行き過ぎる前にはブレーキでもある理性を持っています。やっぱし節制が大事ですね。
もしブレーキが利かずに本能を元にした感情と知性のバランスを崩して過ちを犯してしまったら、その罪を戻す、反省・悔い改めというチャンスを神より与えられています。
人間は良いも悪いも、欲を軸にして色々と考えて行動を起こすものです。その思いや考え、行動の正しい規準を知ってそれに近づくよう日常生活することが最も大事なのでしょうね。


>男性の立場からお話してるんかなぁ

それは男女の立場を超えていることだと思います。


>生死の境を、さまようこともない

死んだら、人は必ず成仏するとは限らないそうです。
これは、ここで言ってあるのは、心が綺麗なまま(自分が出てきた段階のあの世で広く支配している規準)で死んだなら、この世とあの世の垣根が無いということだと思います。死んですぐにさまようことなく迷わずに、この世に生まれてくる前に居た世界に帰れるということだと思います。
その天界へ行くのか、または自分の存在を感じることが出来ない無意識状態か、地獄の世界などとか。汗!


>成仏できひんお人がぁ  生死の境をさまようってうようゆうてるでしょ

私も以前に瞑想中、ちょっとだけ幽霊を見て、それを私の先生に状況を報告したところ、浮幽霊(ふゆうれい)でしたけれど、確かに成仏できないと生死の境をさまよっています。つまり死んでしまうと本来は天界に帰らなければいけないのに光の世界に帰ることが出来ずに地上で自縛霊(死んで持ち帰られない土地やモノ。また、思い残しなどから離れられない執着の状態)となって、生前と似たような心持ちの人がいたら憑依しちゃいます。
すると、憑かれたその人は、普通の正当な人間でなくなります。汗!


紹介しました記事に、いつも興味を持ってくださり嬉しいばかりです。
いつも長々としたことですみません。途中で転載記事を切ってしまうと前回内容からは、つながりにくいと勝手に判断したものですから。
勤務前にありがとう。ぜひ、ゆっくりお時間が持てたときにお願いしまーす。

れぃこはん。いつもコメントありがとう!!
[ 2009/01/23 18:49 ] #LvECUUZU [ 編集 ]
こんばんは!(。・▽・)ノ

ご無沙汰しています・・・

久しぶりに読ませて頂きましたよ・

中道~本当に中道ですね・・
付かず離れず~真中ですよね・・・
これがまた~難しいですね・・

すぐに偏りそうですね・・

興味深く読ませて頂きました~(人'▽`)ありがとう☆です
[ 2009/01/24 22:55 ] #mQop/nM. [ 編集 ]
歴史好きなので、信長・秀吉・三成のところは
興味深く読ませていただきました^^
歴史は見る側の観点から、善悪がまるっきり逆転してしまうので、
ここで書いてあることは『そうだったのかぁ』と
改めて思わされてしまったです^^;;
まだまだ私の見識は浅いなぁ っと反省!
[ 2009/01/25 11:55 ] #- [ 編集 ]
こんにちはー
私こそお久しぶりです。
訪問とコメントありがとう♪

私も難しく思います!
中道=調和=バランス感覚でもありますよね。
写真や絵画にしても美しさのバランスを保つために黄金比があるし。
(黄金比に固守すると奇抜性などが無く、面白くも何ともありませんが!)

でも、偏っても(行き過ぎても)偏りに自ずと後で気づけることが、それだけでも一歩前進できた貴重な体験でもあると思います。

畑ちゃんは信次先生の著書を読まれた経験があるから、感じるところもいろいろとあったのかと思います!

かなりの長文でしたが、ご覧頂きありがとうございました。

あとで時間があるときに、久しぶりに畑ちゃんの写真を楽しみにのぞきにきますね。
[ 2009/01/26 12:21 ] #LvECUUZU [ 編集 ]
興味を持たれて読んで頂き、嬉しいです!!
見識が浅いだなんて、そんなことは絶対にありません。

歴史の事実は一つですが、歴史番組のNHK大河ドラマにしても民放の正月特番の歴史ドラマにしても、同じ歴史上の有名な人物が取り上げられても、番組それぞれが脚本により、いろいろな見解、解釈の違いで人間性が描かれています。それも面白いものですよね♪

歴史が好きなももさんに読んで頂いて、何か新たに感じることが発見できたなら嬉しいです!!
[ 2009/01/26 12:35 ] #LvECUUZU [ 編集 ]
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