母を憶う 2 

前回の まえがき の続きです。

「母を憶(おも)う」の本文にはいります。

以下、転載です。


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「母を憶う」


思い出の中より

年がいくほど回想的になるという。私なども、夜中にふと目がさめ、あれこれと越し方【※編者註:今まで過ごしてきた人生】を思い出し感慨にふけることもしばしばである。今日につづく道は山あり谷ありで、決して平坦ではなかった。その長い道程の間に、常に私から離れず、陰の形によりそうように現われてくるのは両親の姿、特に母の姿である。私が母の可愛い子であり、ひどく心配をかけたせいかも知れない。母が逝(ゆ)いてすでに24年、今なお母は私の中に生きていると、常にその感を深くするのである。

母は昭和10年、68歳で世を去った。私もいつの間にか母の年齢に近くなって、母の折々の心持ちがよくわかる。母について何か書いておきたいと思ったことも再々だったが、多忙のため意にまかせず、それでも時折は思いつくままを書きとめておいた。人に読んでもらおうとは思っていなかったが、すすめられるままにまとめてみた。これは私の追憶に生きるその時々の母と子の姿を、私の手でほりあげた母子像でもある。今、私はこれを母の位牌の前に捧げ、心ばかりの手向草(たむけぐさ)【編者註:昔の旅人が行く路の安全を祈って神さまに供えた品のこと、ここでは心から母に感謝して供える品ということになる】としたい。


生 家 (せいか)

私は明治26年、当時大阪の南の郊外だった天下茶屋に生まれた。旧紀州街道にそう宿場駅で、昔、太閤秀吉が堺の政所を訪れる往き帰りに茶を喫したという休息所があり、殿下茶屋といったのが、天下茶屋の名になったとも伝えられていた。今と違って淋しい田舎村だった。細長い家並みを外れると丘や森に木立が深く、田や畑に囲まれて農家が点在していた。

私の生家も農家だった。村では旧家の部に数えられ、以前は相当羽振りをきかせたものだったそうだが、私の生まれた時分はすでに昔の面影はなく、すっかり逼塞(ひっそく=落ちぶれて忍びかくれること)していた。

まもなく一家は、四天王寺に近い茶臼山に引っ越ししていった。私は幼年期から少年期をこの茶臼山周辺で過ごしたわけだ。

その頃の茶臼山周辺は人家も少なく、今の繁盛ぶりなんか夢想だに出来なかった時代である。藪(やぶ)があって藁葺(わらぶ)きの小さな家に、父と母と大勢の子供たちが寝起きした。門口を出ると、向こうの空に四天王寺の五重塔が見え、日暮れ時には、つい目の先の茶臼山の森に白鷺の群れが戻ってきて、黒い森が白く動いているようだった。夜はしんとして暗く、人の足音も聞こえなかった。

父も母も朝早くから田畑に出た。
父は音吉(おときち)といい、母はシゲノといった。父は正直で真向ただ働くのが取り柄の人間で、人との応対事は不得手であった。それだけ母の苦労も多かったわけで、畑仕事から家事の一切、私を含む九人の兄弟の世話、近所つきあいなど、女手一つに切って廻した。

母は何とか家運を盛り返したいと、一所懸命になっていたようである。住みなれた天下茶屋から茶臼山に移ったのも、ここで新しい再起の道を切り拓こうとの決心から、父にもすすめて、転居したもののように私には思われる。父も働いたが母はそれ以上だった。のちに聞いた話だが、母が私をお腹に持ってもう産み月というのに、いつものように畑仕事へ出かけようとするから、近所の人が心配して引きとめると、動ける間に少しでも片付けておきたいと、そのまま出かけてしまったそうだ。畑仕事から帰るのは夕方だ。腹を空かして待ちかねていた子供たちに食事させ、後片付けをすませ、やがて子供たちが枕を並べて寝ると、その枕元にすわって、賃仕事の縫物を取り上げる。

今でも憶えているが、夜中にふと目をさますと、台の上に置いた豆ランプの細い灯の陰に、母はまだ針を動かし続けていた。二度三度、目をさましても母の姿はそのままだった。壁に映った母の影が私には今でも目の前に見えるようである。


大学へ行かずとも

私は生まれつきからだが弱いうえに、トラホームでひどく苦しめられ、小学校へ入っても休みの日が多かった。従って学業が遅れ、なまじ組長をつとめさせられていただけに負け惜しみも出て、学校へ行くのがおっくうになった。母はそれを非常に心配して、学問の大切なことを繰り返し、学校にだけは行っておくものだという。

大学まで出したいのが母の希望だった。近頃では大学も多くなり、駅弁大学などと陰口もいわれているが、その頃は大学の数も少なく、大学生といえば羽振りのきいたものだった。もちろん、私も大学まで行きたかった。しかし家の貧乏なことも知っているし、このうえ両親に苦労はかけたくはなかった。”大学に行かずとも”というのが私の決心だった。小学校を出てからは、家の仕事を手伝う合間に、夜学に通ったり講義録を読んだりして勉学をつづけた。

母は私が勉強しているのを見ると、一方ではからだの弱いのを気づかいながら、一方ではまた安心している様子だった。夜がふけて、私がひとり本を読んでいると、母は芋の煮えたのや、取って置きの菓子をそっと机のへりに置き、邪魔にならぬように気をつけて、どんなに遅くとも私が寝るまでは寝なかった。


一つの転換

世に出た人の伝記を読むと、よく発憤の動機というものが書かれてある。私など取り立ててこれというほどのものもないが、次の一事などは、私の気持ちに一つの変化を与えたといえるであろう。

日露戦争の始まる前年と憶えているから、明治36年、私が11歳の時だった。茶臼山に近い広大な地域に内国勧業博覧会が開かれた。この会場の跡を受けて大阪市で公園にしたのが今の天王寺公園なのだが、何しろ当時は珍しかったので大変な人気だった。私たちも行きたかったが、母の許しが出ないので家でじっとしてはいるものの、心は博覧会に飛んでいた。

数日たって母の許しが出た。私たちは仕立て直しの着物に着物に着替えて、大喜びで出かけた。

何もかも珍しく、思わず時が過ぎて夕方帰ってきたら、母の姿が見えない。私が母を捜して裏口へ出ると、向こうの木の陰にこっちへ背を見せて立っていた。小脇に小さな包みを抱えて、何だか泣いている様子に私が声をかけてのぞきこむと、急にそむけたその顔に私は母の涙を見た。一層心配になったので、お使いなら僕が行くと前に廻ると、
「おうちにいなさい」と、いつになくきびしい調子でいい、振り切るように行ってしまった。ぼんやり後を見送っているうち、自分でもわけのわからない悲しさがこみあげてきた。

それからまもなくのこと、私は使いの帰りに、かねて顔見知りのお婆さんに出会った。このお婆さんは高利でお金を貸し付けているとかで、あまり評判はよくなかった。私を呼び止めていうことには、
「お前ンとこのおっ母さんは感心だよ。約束の日にきちっとお金を返しにくるのは、シゲノさんくらいのもんだ。婆(ばあ)がほめていたといっとくれ」
そしてスタスタとどこかへ消えていった。

どうしてあんなお婆さんにお金を借りたんだろうと、子供心にも怒りにも似たものを感じ、急いで帰って母にいうと、母は何にもいわずに話にまぎらしてしまったが、やがて子どもの私にも、だんだんと前後の事情がわかってきた。

母は、博覧会に行きたがる子供たちに、粗末でも新しい着物を着せてやりたかったのだ。貧乏なのに肩身の狭い思いをさせてはと、それが常に母の苦心であった。せめて近所の子供たち並にはしてやりたかった。着物が買えなければ、肌着の一つでも新しくと、父とも相談し、足りない金を例の金貸しのお婆さんから借りていたのだ。そんなことには気がつかず、私たちは大喜びで博覧会に出かけていったのだが――。

しかもその今日明日に、返す金の日限が迫っていた。畑のものを売っても、手内職の金を集めても返すべき金はなお不足である。几帳面な父と母は、家の物を売ってでも返済しようと、母がいくらかの品物を風呂敷に包んで裏口まで出たものの、さすがに辛かったのであろう。隠れるように泣いていたのを、博覧会から帰ってきた私が見つけたのであった。

そういえば母の使いで、このお婆さんの所へ行ったことがある。その時は何の気もつかなかったが、困った場合はこのお婆さんから融通を受けていたらしく、どうしても返済の都合がつかない時には、利子だけを私に持たせて届けさせていたのだった。

そうわかってみると、子供心にも母が気の毒でたまらない。とにかくそれ以来、一つの決心が私の胸に固まった。私はその時分から急に大人になったような気がした。


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[次回につづく]



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[ 2009/02/17 17:44 ] 随 想 | TB(0) | CM(6)
  1. ..
いやー、大阪はちがいますねー。
明治時代から消費者金融(高利貸し)があったんですね。
また、すでに博覧会が開かれたとはすごいです。

そのころ、ぽんた地方ではまだリンゴの栽培もまだ試験的な段階だったんじゃないかな?
アメリカから西洋リンゴが伝わったのは明治になってからですので。

明治時代の大卒者は国家のエリートですよね。
当時、子供を大学までいかせたいと考える母親は少なかったかったと思いますね。

(^。^)続きをたのしみにしています。
[ 2009/02/17 22:16 ] #y6LFAiUE [ 編集 ]
親心というのは切ないものですね。
無私の人生ですよね、まず家族、生活。

貧しさの中にあっても、自分の心も子供の心も、貧しさに折れない。私などには想像もつかない。
「がばいばあちゃん」の、ばあちゃんは、1度も著者に貧乏であることについて謝ったり、卑屈になったりしたことがなかったそうですが、ばあちゃんの本当の心の内はどうであったろうと思うと、また、シゲノさんの流した涙を思うと、胸が痛くなります。



[ 2009/02/18 09:12 ] #- [ 編集 ]
頑張って下さい!!
応援、ポチ、ポチ。
また来ますね!!!
[ 2009/02/18 11:17 ] #- [ 編集 ]
そうですね。さすが大阪です。
大阪の上空を飛行機で眺めると大阪の街は緑が全く少ないです。
ビルばっかし。笑!
昔は、藪と藁葺屋根なんて想像もつかない。

リンゴって明治以降だったんですか。知りませんでした。

いつも楽しみにして頂いて、ありがとうございます!
[ 2009/02/18 12:43 ] #LvECUUZU [ 編集 ]
シエラさーん。いつもコメントありがとう!!

>無私の人生ですよね、まず家族、生活。

おっしゃるとおりです。
子供が親心をくみとって、ありがたく思う気持ち・・・
また、親が愛情をもって子供にやさしく、また厳しく接する姿・・・
これって当たり前なのですが、最近のニュースでは子が親を、あるいは親が子を殺める事件の多さ。
どんな事情があったにせよ、その不幸をテレビで見るたびにすっごく胸が痛くなるばかりです。
そんな人には無私な人生を歩んできた人たちを、もっと知ってもらいたいものです。

そうですね。がばいばあちゃんの内面はどうだったんでしょう。
昔の人は貧しさの中だからこそ、自分の信念をしっかり守って、どんな障害でも屈服しないような強い意気が育ったのかもしれませんね。
でも、貧困と上流階級のギャップある苦しみは、とても辛かったことでしょう。

母親の流した涙の無私の心は、ありがたいばかりです。

[ 2009/02/18 13:14 ] #LvECUUZU [ 編集 ]
はじめまして。

同じ塾関係の方なんですね。
拙い私のブログですが、お時間が許される時に、またお出でくださると嬉しいです。
訪問とコメントをのこしていただき、ありがとうございました。
[ 2009/02/18 13:19 ] #LvECUUZU [ 編集 ]
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