母を憶う 3 

前記事 に続き、紹介のために転載しております。


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金持ちの子、貧乏人の子

貧乏な中にも、母は子供の養育についてよほど気をつかっていたらしい。幼少の頃、夏祭りに近所の子供が誘いに来たので、ちょうど手近にあった一銭五厘(りん)の金を握って外へ飛び出し、飴玉(あめだま)を買って一緒に食べた。当時の一銭五厘はいくつかの飴玉や菓子を買うことが出来た。

【編者註:明治37、8年、日露戦争当時はまだ一厘が通用していた。大正時代に入るとだんだん物価が高くなって一厘銭は通用しなくなった。今は一円で買えるものはなにもないが、この頃の商店の使い走りの小僧さんの一年の給料が五円、昔は女中といっていたが家事手伝いの家政婦が三円くらいで、教師の月給が十円くらいであった。一厘が10枚で1銭。1銭が百枚で一円である。一厘で大きな飴玉が一個買えたから一銭だと10個買える。昔の飴玉は今の飴玉の三個分くらいあって大きかった。今は小さな飴玉が10個くらいが一包みになっていて三百円である。昔は三百円あると家が一軒建てられた。久吉少年の時代の一銭五厘は今の千円よりももっと値打ちがあった】

それが後で母にわかって、黙ってお金を持ち出したりして使ってはいけないと、ひどく叱られた。「もし悪い飴玉だったらどうします」とひどく叱られた。これは母が子供の習慣性を考え、悪習慣は徹底的に矯(た)めようとする反面、私のからだの弱いのを常に心配していた慈愛の現われだと思う。現に私の病気の時など、寒夜(さむよ)の神詣(かみもう)でをそっと繰り返していたという。

教育教養方面には関心を持っていて、必要な本はどんな無理しても買ってくれ、ひまがあると自分の乏しい知識の中にある昔の智者・英雄の話など、おもしろく聞かせてくれた。どんな苦労をしても、子供だけは立派に育てあげたいというのが、母の唯一の念願だった。

こんなことがあった。小学校の一年か二年の時分だ。母が急に寝込んだので、私が朝飯を炊く番になった。暗いうちに起きて、かまどに薪(まき)を入れ、さて火をつけようとすると、あれはなかなかコツのあるもので、くすぶるばかりでなかなか火がつかない。煙にむせて困っていると母が無理して起きてきて火をたきつけてくれた。やっとご飯が出来たので、自分で弁当をつめ、大急ぎで学校へ駆けつけたら、ちょうど授業の始まるぎりぎりの時間で、先生から「遅れてくるような子はえらくなれん」と叱られ、まさかご飯がたけなかったともいえず、明日の朝はもっと早く起きてやろうと考え直したことを憶えている。

私の同級生に金持ちの息子がいた。父親は有名な大実業家で、いつも上等の着物に上等の袴(はかま)をつけ、当時の高級乗用車だった自家用人力車で学校に乗りつけたりしていた。先生も顔をしかめたが、親を憚(はばか)って、いうべきこともいえなかった。彼は貧乏人の子である私たちの前に、貴公子然(きこうしぜん)と、そして暴君の如く君臨した。彼は友だちを広大な自分の屋敷につれてゆくのが自慢であった。私は別に行きたくもなかったが、たびたびいわれるので一緒に行ったことがある。

なるほど大きな屋敷だ。庭には築山(つきやま)があり、泉水があり、苔むした石灯籠(いしとうろう)がすわり、子供の目には、まるで大名屋敷に見えた。
そこで彼は、大勢の召使いを顎(あご)で使い、暴君のように振舞った。あたかもそれを私たちに誇示するかのように――。

私はびっくりしたが、別にうらやましいとは思わなかった。自分だっていつまでも今のままでいるもんか、と子供心に負けじ魂が出て、そこそこに帰ってきた。これには後日物語がある。

小学校を終わってから私はすぐ実社会に出たし、彼はだんだん上級の学校に進んでついに慶応大学を卒業したとは聞いていたが、詳しい消息は聞こえず、それなりになって春秋四十余年、一身の繁忙にとりまぎれ、幼き日の交遊など思い出す折もなかった。ところが私は偶然、途上でこの幼き日の彼にめぐり会ったのである。永い間会わないうちにお互いに年をとり、身なりも違って、初めは思い出せなかったが、名乗りあってみると昔の幼友達であった。

頭髪にも白いものが目立ち、声にも姿にも元気がなく、見たところあまりよい境遇にいるとも思われなかった。彼はそれからちょいちょい私を訪ねてきた。問わず語りの話によると、土地も屋敷もとっくに人手に渡って、随分苦労したらしく、戦争でもひどい目に会い、今は職を探しているのだが、思わしい先も見つからぬ。どこか外交員でも働き口はないものだろうか、とのことだった。

零落(れいらく)の淋しさが身辺にまつわっていた。金持ちの息子の身の果て、といったようなものが考えられ、自分が貧乏人の子に生まれてかえってよかったと、感慨を久(ひさ)しゅうしたことであった。


野菜車(やさいぐるま)の後押し

子供の私が、両親を手伝える仕事の一つは、田畑のものを手車(てぐるま)に積んで、その後押しをして市場に行くことだった。それも朝、暗いうちのことである。冬の朝などぐっすり寝込んでいるのを起こされるのは辛かった。目をこすりこすり外へ出ると、まっ黒な茶臼山の森から吹きつけてくる風が身を切るようだった。空には星が光っている。昨夜遅くまで洗ってたばねた野菜の数々、葱、大根、人参などをつぎつぎに車に積み込む。その間にも「おはよう、おはよう」と挨拶しあっている父や近所の人たちの声が、暗い中から聞こえてくる。勝手口にはチロチロ火の色が動き、母が朝の支度をしているのである。

野菜を積み終えてから、そこそこに麦飯をかっ込み、父の声にせき立てられて兄と二人外へ出る。末の弟や妹たちはまだ寝ている。外はなかなか明るくならない。暗い中に車の音がカラカラと遠ざかってゆく。私たちと同じように市場へ野菜を売りにゆく近所の人たちだ。母はランプを持って門口に立つ。父は梶棒(かじぼう)に提灯(ちょうちん)をブラ下げて前に廻る。私と兄が後ろから押してゆくのだ。自動車もない時代だから、遠い市場まで手車に積んで、足で運んでゆくより仕方がなかった。振り返るともう母の姿は見えない。暗い大地に霜柱が立って、冷たさが爪先から染みとおってくる。凍った地面にすべってころびそうになると、父の握った梶棒が思わぬ方角にそれ、「気をつけろ」と、振り返って叱る父もよろけていた。まだ12か13の時である。車の後ろを兄と弟が、こごえた手先きに全力を込め、からだごと押してゆく。

そうしてやっと市場へつく時分にぼつぼつ夜が明け出す。運んできたものを金に替え、今度は軽くなった空車(からぐるま)を引いて帰ってくる私たちの真向(まむこ)うから、朝日が鮮やかにさしてきた。母に迎えられ、足を洗い、そのまま教科書の包みを抱えて学校へ飛んでゆく。

もちろん苦しかった。辛いとも思った。だが今になってみると、その時がたまらなくなつかしい。母が炊いてくれた朝飯の味はいまだに舌に残り、ランプを持って門口に立った母の姿が、つい昨日のことのように思われる。


菊菜売り

子供にとって母は全部である。子供の生活にはどの断面にも母の姿が浮き彫りにされている。私に現われる母は、いつもやさしく慈愛に満ちていた。しかしその反面にきびしさもあった。滅多に叱らないだけに、叱られる時は恐いとさえ思った。

やはり12の時だった。
父が風邪をこじらせて寝ついてしまった。かんじんの働き手に寝込まれ、大勢の子供を抱えて母が一人苦しんでいた。医者も思うように呼べず、父の枕元には、空(から)の薬瓶が幾日も置かれ、金に困っている様子が子供の私にもよくわかった。

お彼岸が近づくと、四天王寺詣での人出が賑わってくる。その頃には父もやっと床の上に起きられるまでになっていたが、ある日、母は頼まれものの賃仕事で朝早くから出てゆき、私たち兄妹が父のそばについていた。すると父が私に、学校が大切だからこれから行ってきなさいという。私がためらっていると、「兄もいる、妹もいる、わたしは大丈夫だから」と、さらに促す。私はとっさに思いつくことがあって、「それでは行ってくる」と、学校へ行くふりをして裏口へ廻り、天秤(てんびん)棒と籠(かご)を抱えてすぐ畑の方に飛んでいった。畑にはちょうど菊菜が頃合(ころあい)に伸びていた。その菊菜を町へ売りにゆくことを考えたのであった。

私は大急ぎで菊菜を籠に取り入れた。畑に出ていた近所の人たちも手伝ってくれたので、籠はすぐいっぱいになった。さてそれをかつぐのだが、天秤棒を肩にかけると私は背が低いので、前後の籠が地面から上がらない。見ていた人たちが籠の綱をたばねてくれたのでやっと歩けるようになった。これから四天王寺を右にいって寺町から上町辺(かみまちへん)を廻るつもりなのだ。

天秤棒を肩に、右手で前籠の下げ綱を、左手で後籠の下げ綱を堅く握っているのだが、なれないので腰がきまらず、自然、籠が前後に踊ることになり思うように歩けない。

その格好がおかしいのか、天王寺詣りの人たちが振り返って笑う。笑われてもそれどころではなく、籠の中のものをこぼすまいと気をとられるので呼び声など、もちろん出ない。出そうとしてもどう呼んでいいのかわからない。黙って、これと思った門口に立ち、「菊菜はいりませんか」とおずおず聞いて、「いらんよ」と、邪魔くさそうな声が返ってくるともう何もいえない。

菊菜は香りも高く、さっと湯掻(ゆが)いて、春先の食膳にはちょっといいものだが,漬物にはならないし、売れるにしても一軒にわずかだ。それに朝の間に売ってしまわないと、午後はしおれれてくる。その日は思わしく売れなかった。陽は西へ廻って腹は空くし、足はくたびれる。がっかりして上町の曲がり角まできた時、そこに鍛冶(かじ)屋さんがあって、トンカントンカン音がしていた。私は菊菜をかついだまま、うす暗い中に散る火花を見ていたら、ちょうど奥から出て来たおかみさんが、ふと私を見て近寄ってきた。

「菊菜を売るのかい、まだ小さいのに、年はいくつ?」
と聞く。私が12だと答えると、
「12? そうかい。ちょいとあんた。」
と、仕事場の主人を見返り、
「12だとさ。死んだあの子が生きていたら、ちょうどこの年頃だよね。可哀そうに――」
と、涙ぐんで、
「お待ち、今、おばさんが買ったげる。近所の人もつれてきてあげるから」
と、行きかかる後ろから仕事場の主人も、
「そうだ、近所を狩り出して買いしめてやれ。死んだ子の供養にならァ。」
と、気前よくいう。

おかみさんはすぐ近所のおかみさん連中を引っ張ってきて無理矢理に押しつけ、籠の中は、たちまち空になってしまった。おかみさんは集めた金を包んで私の手に握らせ、
「落とすんじゃないよ。さぁ、早く帰らないと、お父(とっ)つぁんや、おっ母(か)さんが心配するよ」
と、いってくれる。

私は空籠をかつぎながら幾度も振り返ってお辞儀をして、今度は大元気で帰ってきた。

私の姿を見ると心配していた母が一番に呼びつけ、「今までどこで何をしていたのか」と、きびしく聞く。とっさのことで、私はおろおろと返事も出来ないでいた。
「学校へ行ってたんじゃなかったのか」と、その時母の後ろで父の声がした。
「学校へ行くほどなら、本を忘れるもんですか」と、母がいう。
なるほど出がけにあわてて本を忘れた。うつむいた拍子にふところから金の包みがころげ出て、結び目がとけた。すると母の顔色が見る見る変わった。

「そのお金どうしたんです? まさかお前は? 」
私は一瞬母を見た。その時の母の顔は一生忘れられない。
憤(いきどお)りと悲しみを込めて、いっぱい涙をためた母の目が、射るように私を見つめている。

「お前たちにヒケをとらすまいばっかりに、おっ母さんはどんな苦労でもしています。その気も知らないで、お前、さもしい気を起こして・・・・・・」

私はびっくりした、が悪いことをしたのではない。子供心に反発した。そういわれた、疑われたくやしさと悲しさが胸先にじっと突っかけてきた。私はわっと泣いた。恐い中にも一所懸命で、お父つぁんに薬を買ってのませたかったこと、それで学校を休んで菊菜を売りに出たこと、親切な鍛冶屋のおばさんのこと、お金は菊菜を売った代金であること、決して悪いことをした覚えはないこと、すべてを、しゃくりあげながら話してしまった。

「わしに働きがないからだ」
と、父は寝たまま向こうをむいて、頭から蒲団をひっかぶってしまった。

不意に私は母の膝に抱き寄せられた。その背に母が、ぐいぐい押しつけてきた。
「おっ母さんが悪かった、悪かった・・・・・・」
泣き声が、涙と共に、私の背中に染みとおってきた。

親切な鍛冶屋のおばさんには、その後とうとう会えなかった。お礼にゆかねばゆかねばと思い思い、まもなく小僧奉公に出たのでその折がなくなった。もっとも小僧奉公中、二度、三度、使いの途中にその前までいったが、待ってもおばさんは出てこず、仕事場の主人に声をかけるのもきまりが悪く、ついそのままになってしまった。二、三年たってまた行ってみたら、もうどこかへ引っ越した後だった。そのうちに長い歳月が過ぎた。先年、天王寺辺にいった際、急になつかしく思い出されて、上町のそれらしい場所に行ってみたが、様子がすっかり変わっていて商店が並び、道の曲折でわずかにここかとうなずかれるばかりで、いたずらに歳月の流れを思わせられた。

だが私の目には、遠い昔、子供が菊菜をかついで売る歩く姿や、今でも憶えているが、小鼻のわきに黒子(ほくろ)のあったおばさんの顔が、まざまざと見えてきて、しばらくは立ち去れなかった。

もう亡くなったのかも知れない。それともどこかに生きていられるかもしれない。生きていられたら会って昔の物語などしたいものである。


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[次回につづく]


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[ 2009/02/18 13:21 ] 随 想 | TB(0) | CM(6)
  1. ..
心が洗われるようです。
年齢は子供でも、子供のままではいられなかった時代でもあり、境遇だったのでしょうね。

金持ちの同級生の、その後のみじめな人生、
親切にしてくれた見知らぬ大人たち、
実話だけに、心に迫るものがあります。

特に、物質的なものに執着し、物を持つことが人の価値や上下を決めてしまうような心は、昔も今も、その人をけして幸せにはしないのですね。

裕福な親は、子供にしっかりとそういう心になれるように育てることが大事なのかも。

私は1度だけ母にぶたれたことがあります。
今でもチクリという痛みとともに思い出すことがあります。
そういうことは生涯忘れないものですね。







[ 2009/02/18 16:07 ] #- [ 編集 ]
シエラさーん。
いつも丁寧に読んでくださって、ありがとう♪

小さい子供であるからこそ、貧しさゆえの苦労話には少しばかり心がふるえてきます。
人間は人との関わりのなかで生きていくものですから、人の幸せって、人と人との関わりの中で感じる温かさをどれだけ多く感じることができるか・・・ということでもあるかもしれませんね。物にだけ価値を求めたり、対人関係で自分の中で上下の差別意識をガチッと持っちゃうと、そのような温かさは得られませんもんね。

たったの一度だけだったのですか。
私は母親には何度も叩かれました。親不孝な私です。汗!

[ 2009/02/18 19:15 ] #LvECUUZU [ 編集 ]
素晴らしいお話ありがとうございますv-22
子を思う母、母を思う子
どちらの心にも暖かさをかんじます

今は者はあふれて裕福だけれど、こういう心が育つ環境が
減っているのでしょうね
[ 2009/02/18 19:30 ] #HIn9vuQ2 [ 編集 ]
裕福な家庭の同級生が大人になって落ちぶれる話は栄枯盛衰は世の常であると感じさせますなー。
前田氏の家も昔は羽振りがよかったわけですからね。
貧しい家に生まれると上を目指すハングリー精神が身につくのかも。

菊菜が売れなくてもがんばっていると鍛冶屋のおばさんのような人が現れることがあるんですね。

ちなみに私の親は叱るけどぶたない親でした。むしろ学校の先生にぶたれました。今だと大問題になるかもしれませんが、昔は問題になりませんでしたね(笑)。
[ 2009/02/18 19:33 ] #y6LFAiUE [ 編集 ]
タコた~ん♪

ハッ! 紫色の文字! 
ぷりんちゃんかと思いました!!

親子の絆の一端をこうやって読んでみると父親とは違い、母親の方が子に対する愛情がより深いと思いました。
そうだよね。いまどき、このお話のような、ちょっとした美談は少なくなってきているのでしょうね。

訪問とコメントありがとう:*:・°`☆、。・:*:・°`★
[ 2009/02/19 13:17 ] #LvECUUZU [ 編集 ]
>裕福な家庭の同級生が大人になって落ちぶれる話は栄枯盛衰は世の常であると感じさせますなー。

高橋信次先生のことばを思い出しました。
”金持ち三代続かず”は、あの世から出てくるときに、そのようになるよう仕組んで出てくることが多い。と、そのようなことを言ってありました。

鍛冶屋のご夫婦の協力により菊菜が売れたのは、久吉少年が持っていた人徳でもあるかもしれませんね。

そうそう、昔の先生の体罰は、ごく当たり前でしたよね。
小学校で廊下を走っているのが先生に見つかったら、その場で始業のチャイムが鳴るまで、その場で正座させられたり、二階から一階へと階段の手すりをスベリ台代わりに遊んでいるのが見つかって、ほっぺたの平手打ちを何度も受けていました。爆!
[ 2009/02/19 13:33 ] #LvECUUZU [ 編集 ]
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